1-1.推しとの出会い
男爵家での茶会が長引き、エリザベート・シモンはいつもより遅い時間に馬車で帰宅していた。運悪く大通りで祭が開催されていた。馬車で通り抜けるのは難しい。渋滞を回避するため、エリザベートは御者に抜け道を通るように指示した。
馬車は貧民街の路地を走った。
貧民街の路地は想像していたよりも暗かった。石畳は砕け、昨夜の雨水でできた水たまりが、どんよりと空を反射していた。馬車の車輪が水たまりの上を通るたび、泥水が小さく跳ね、刺激臭がエリザベートの鼻を刺した。
路地の幅が狭くなり、馬車は速度を落として走った。
エリザベートは窓掛けを指先でそっと持ち上げると、古びた煉瓦の家が目に入った。家の窓にはガラスの代わりに布が垂れ下がり、雨漏りを防ぐための木材が屋根に置かれていた。
その家の前、陽の光の届かない壁際から歌声が聞こえた。
一人の少年が木箱の上に立って歌っていた。少年は継ぎ接ぎだらけの上着、泥で汚れた靴を履いていた。貧しい身なりでありながら、エリザベートの視線は少年に釘付けになった。
少年の澄んだ高音は石壁に反響し、まるで聖歌隊がそこにいるかのように、路地を満たしていた。
「止めて」
エリザベートは御者に告げると、馬車を降りた。
子爵令嬢が貧民街の路地に足を踏み入れるなど、あり得ないこと。だが、エリザベートの足は自然と少年へと向かった。
少年の前には集金用の帽子が置いてあった。エリザベートが帽子の中に銅貨を入れると、少年は歌いながら会釈した。道端にいた子どもたちが一斉に視線を向けたが、エリザベートは少年の歌に夢中で気にならなかった。
少年が歌っていたのは王都で流行っている男女の恋愛歌だった。男の希望、悲しみ、女の優しさが重なり合い、エリザベートに押し寄せた。その歌声は泉から湧き出る水のように、路地に静かに流れていった。
歌い終えた少年は木箱から飛び降りると、拍手するエリザベートに深々と頭を下げた。エリザベートが一歩近づくと、少年は顔をこわばらせた。
「怖がらないで。危害を加えたりしないわ」
エリザベートは少年の目を見つめた。痩せた頬、くすんだ金髪の下から覗く瞳は、落ち着きなくあたりを見回していた。ここで歌っていたことを、咎められると恐れているようだった。
「あなたの歌、素晴らしかったわ。私はエリザベート、エリザベート・シモンよ。あなた、名前は?」
エリザベートが笑みを浮かべると、少年の硬かった表情がやわらぎ、口元に微かな笑みが浮かんだ。
「ジャン……ジャン・モレットです」
年は十五歳くらいだろうか? エリザベートが更に一歩歩み寄ると、ジャンは後ずさりながら、愛想笑いを浮かべた。
「ねえ、この国で一番の歌い手になってみない?」
ジャンは目を大きく見開いた。それが、すべての始まりだった。




