表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/17

第9話「順調という言葉」

天界の朝は、今日も白く、静かに光を帯びていた。


回廊の石床にはやわらかな光が落ち、柱の影は細くまっすぐ伸びている。庭の花々は咲く時期を違えず、風に揺れる枝先までが、どこか決められた呼吸の中にあった。遠くを行く天使たちの羽音さえ、耳に残るほど大きくはならない。


その最も高い棟の一室で、ルシフェルは神から渡された一枚の書面を開いていた。


それは、神からルシフェルへ渡された『本文』だった。

エデンから上がった見届けの記録を、神がひとつの形に整えたもの。


封を切ったばかりの紙はまだ硬く、折り目の癖をわずかに残している。

そこに並ぶ文字は少ない。

けれど、神の言葉はいつもそうだった。

短く、滑らかで、余分がない。


ルシフェルは机に肘をつくこともなく、ただ紙面へ目を滑らせていく。


定められた二人は庭に置かれ、男は先に名を与え、地にあるものを受け取った。

伴侶もまたその傍らに在り、暮らしは滞りなく巡り始めている。

庭に大きな乱れはなく、始まりは順調である。


短い『本文』だった。

過不足なく、矛盾もない。

神が世界をどう見ているかが、そのまま一枚の紙の上に置かれていた。


順調。


その二文字だけが、書面の上で妙に輪郭を持って見えた。


書面を持つ指先が、ほんのわずかに震える。


順調とは、何に対しての順調なのだろう。


そのとき、扉の向こうで気配がした。


「父上」


振り向くと、神がそこに立っていた。


いつもと変わらぬ顔だった。喜んでも怒ってもいない。けれど、その姿があるだけで、部屋の空気がわずかに整うように見えた。


神はルシフェルの手元へ目をやる。


「読んだようだね」


「読んだよ」


ルシフェルは書面を少し持ち上げた。


「この『本文』を読む限り、庭は安定し、今のところ大きな乱れもない」


神は短く頷いた。


「順調だ」


その言葉に、ルシフェルは手元の書面へ視線を落としたまま、ごく薄く間を置いた。


「……そう読めるね。少なくとも、破綻はない」


神がルシフェルを見る。

問いつめる響きはない。

ただ、万物がそうであるように、答えをあるべき場所へ収めようとするだけの、静かな確認の眼差しだった。


「何か、気になることでもあったか?」


「いや」


ルシフェルは『本文』を閉じた。


「気にかけるほどのものはないよ。文字通り、すべては整っている」


「なら、それで十分だろう」


神は窓の外の、一切の淀みなく循環する天界の庭へ目を向けた。


「名は与えられ、位置は定まった。暮らしが滞りなく巡り始めたのなら、よい始まりだ」


よい始まり。

位置は定まり、暮らしは巡る。


ルシフェルはその完璧な横顔を見つめた。


何も言えなかった。


 


やがて神が去ると、部屋には再び、衣擦れの音すら残らないような静けさが戻った。


ルシフェルは新しい紙を取り出し、ペン先を置いた。

天界へ共有するための、事実だけを濾した記録を作る。


定められた二人は揃い、庭での生活を始めた。

現時点で大きな乱れは見られない。

今後も観測と保全を優先し、過剰な介入は控えること。


そこまで書き記し、ルシフェルの筆が止まる。


『生活は順調である』


書けないわけではない。

誰よりも美しい文字で、その一文を置くことはできる。

 


――伴侶もまたその傍らに在り、暮らしは滞りなく巡り始めている。



 神の『本文』にあった一文が、インクの跡ごと目の奥に残っていた。


彼は結局、その一文を書かなかった。


ペンを置き、ゆっくりと窓の外を見下ろす。


白い天は今日も寸分の狂いなく巡っている。

眼下の庭では、天使たちがそれぞれの役目を果たし、過不足のない軌跡を描いて行き交っていた。


あまりに整いすぎた景色。


ルシフェルは知らず、浅く息を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ