第9話「順調という言葉」
天界の朝は、今日も白く、静かに光を帯びていた。
回廊の石床にはやわらかな光が落ち、柱の影は細くまっすぐ伸びている。庭の花々は咲く時期を違えず、風に揺れる枝先までが、どこか決められた呼吸の中にあった。遠くを行く天使たちの羽音さえ、耳に残るほど大きくはならない。
その最も高い棟の一室で、ルシフェルは神から渡された一枚の書面を開いていた。
それは、神からルシフェルへ渡された『本文』だった。
エデンから上がった見届けの記録を、神がひとつの形に整えたもの。
封を切ったばかりの紙はまだ硬く、折り目の癖をわずかに残している。
そこに並ぶ文字は少ない。
けれど、神の言葉はいつもそうだった。
短く、滑らかで、余分がない。
ルシフェルは机に肘をつくこともなく、ただ紙面へ目を滑らせていく。
定められた二人は庭に置かれ、男は先に名を与え、地にあるものを受け取った。
伴侶もまたその傍らに在り、暮らしは滞りなく巡り始めている。
庭に大きな乱れはなく、始まりは順調である。
短い『本文』だった。
過不足なく、矛盾もない。
神が世界をどう見ているかが、そのまま一枚の紙の上に置かれていた。
順調。
その二文字だけが、書面の上で妙に輪郭を持って見えた。
書面を持つ指先が、ほんのわずかに震える。
順調とは、何に対しての順調なのだろう。
そのとき、扉の向こうで気配がした。
「父上」
振り向くと、神がそこに立っていた。
いつもと変わらぬ顔だった。喜んでも怒ってもいない。けれど、その姿があるだけで、部屋の空気がわずかに整うように見えた。
神はルシフェルの手元へ目をやる。
「読んだようだね」
「読んだよ」
ルシフェルは書面を少し持ち上げた。
「この『本文』を読む限り、庭は安定し、今のところ大きな乱れもない」
神は短く頷いた。
「順調だ」
その言葉に、ルシフェルは手元の書面へ視線を落としたまま、ごく薄く間を置いた。
「……そう読めるね。少なくとも、破綻はない」
神がルシフェルを見る。
問いつめる響きはない。
ただ、万物がそうであるように、答えをあるべき場所へ収めようとするだけの、静かな確認の眼差しだった。
「何か、気になることでもあったか?」
「いや」
ルシフェルは『本文』を閉じた。
「気にかけるほどのものはないよ。文字通り、すべては整っている」
「なら、それで十分だろう」
神は窓の外の、一切の淀みなく循環する天界の庭へ目を向けた。
「名は与えられ、位置は定まった。暮らしが滞りなく巡り始めたのなら、よい始まりだ」
よい始まり。
位置は定まり、暮らしは巡る。
ルシフェルはその完璧な横顔を見つめた。
何も言えなかった。
やがて神が去ると、部屋には再び、衣擦れの音すら残らないような静けさが戻った。
ルシフェルは新しい紙を取り出し、ペン先を置いた。
天界へ共有するための、事実だけを濾した記録を作る。
定められた二人は揃い、庭での生活を始めた。
現時点で大きな乱れは見られない。
今後も観測と保全を優先し、過剰な介入は控えること。
そこまで書き記し、ルシフェルの筆が止まる。
『生活は順調である』
書けないわけではない。
誰よりも美しい文字で、その一文を置くことはできる。
――伴侶もまたその傍らに在り、暮らしは滞りなく巡り始めている。
神の『本文』にあった一文が、インクの跡ごと目の奥に残っていた。
彼は結局、その一文を書かなかった。
ペンを置き、ゆっくりと窓の外を見下ろす。
白い天は今日も寸分の狂いなく巡っている。
眼下の庭では、天使たちがそれぞれの役目を果たし、過不足のない軌跡を描いて行き交っていた。
あまりに整いすぎた景色。
ルシフェルは知らず、浅く息を吐いた。




