第10話「先に置かれた者」
朝のエデンには、まだ夜の名残が薄く残っていた。
草の先には細かな露が並び、水辺は淡い光を抱いたまま静かにひらいている。木々のあいだから落ちてくる朝の色はやわらかく、名も知らぬ花々の香りは、それぞれ違う気配を含んで風にほどけていた。
リリスは、低い枝のそばに立っていた。
差し出した指先に、小さな鳥が一羽とまっている。
胸のあたりだけ白く、背は淡い茶に近い。首をかしげるたび、丸い瞳が朝の光を細く返した。
リリスは動かない。
驚かせないよう息をひそめ、ただその軽さを受け取っていた。
爪の先ほどの足が指に触れている。羽のふるえが、かすかに伝わる。
「リリス」
呼ばれて振り向くと、アダムがこちらへ歩いてくるところだった。
その光景を見た途端、彼の顔がぱっと明るくなる。
「よかった。君もずいぶん慣れてきたんだね」
「僕が教えた通りにしていれば、獣たちもこんなふうに大人しいだろう?」
リリスは鳥を見た。
鳥は一度だけ羽を震わせると、指先からふっと飛び立ち、枝の向こうへ消えていった。
「そうかもしれないわね」
アダムは満足そうに笑った。
自分の言葉どおりに、この庭が彼女にもひらいているのだと信じている顔だった。
「今日は森を見て回ろう」
「面白い獣の住む木を見つけたんだ」
差し出された手を、リリスは一拍置いて取った。
アダムはそれを当然のことのように受け取り、木々のあいだへ歩き出す。
朝の庭は、どこも美しかった。
葉に残る露の粒。まだひらききらない花。浅い水の上を走る光。
リリスの目は次々と新しいものを見つけ、そのたびに足を止めたくなる。
そして、草むらの奥で、何かが跳ねた。
小さい。
耳が長く、土色の背がふっと動く。
「あれはなにかしら」
思わず、声が少し弾んだ。
リリスが一歩踏み出しかけたところで、アダムがその前へ手を出す。
「待って。僕が先に見てくるよ」
「急に近づいたら逃げてしまうかもしれない」
リリスはその手を見た。
小さな影は、草のあいだでまたぴくりと動いている。
「……ええ、わかったわ」
アダムは頷き、先に草を分けて進んだ。
屈み込み、呼びかけるように手を伸ばす。
けれど、小さな獣はするりと身を翻し、別の茂みへ逃げていった。
「残念だな」
立ち上がるアダムを、リリスは何も言わずに見た。
自分で追いかけたかった、その思いだけが胸の底に小さく残る。
その後、アダムは、逃げてしまったその小さな獣に名をつけたことを楽しげに話した。
──
その日の仕事は、水辺の近くに植えた若い苗の世話だった。
どう土をならし、どれほど水を与えるのかは、天使たちから教わっている。
アダムは慣れた顔で土にしゃがみ込んだ。
「君がいてくれて助かるよ」
「僕が見て回るから、君はこっちを整えて、水を撒いてくれればいい」
そう言って、手際よく仕事を分けていく。
どこへ水を撒くのか。どの苗から見るのか。どの道具を先に使うのか。
ひとつずつ、迷いなく決めていく。
「それは後でいいよ。先にこっちだ」
アダムの声はやさしい。
叱っているわけでも、押しつけているわけでもない。
ただ、自然にそうなるものとして差し出される。
リリスの手が止まった。
「……どうしてアダムが決めるの?」
アダムが顔を上げる。
「え?」
「私もそっちがやってみたいわ」
「どうして、先にアダムが決めるの?」
アダムは一瞬きょとんとした。
だがすぐに、困ったように笑う。
「だって、そういうものだろう?」
「君は僕を助けてくれればいいんだ」
「でも、私もやってみたいわ」
「どうして私は、あなたと同じではいけないの?」
アダムは土のついた手を軽く払った。
怒るでもなく、説明すれば済むと思っている顔だった。
「リリス、考えすぎだよ」
「僕の方が力は強いし、僕の方が少し先にここにいた」
「知っていることも、僕の方が多い」
「これは僕がやった方が早いよ」
それから、ごく穏やかに続ける。
「だから僕と君でできることや、役目が違っても、おかしくない」
「それは君が劣ってるって意味じゃないよ」
リリスは言い返せなかった。
ただ、また、と思った。
またアダムが決めるのね。
またあなたが先なのね。
その感覚だけが、胸の内側に細く残った。
そこへ、二つの羽音が重なった。
ミカエルとガブリエルだった。
白の式服に、それぞれ青と橙を差した二人は、朝の終わりの光の中にまっすぐ立っている。
「アダム、様子を見に来た」
ミカエルはそう言うなり、苗床へ視線を向けた。
土の湿り具合や水の量を確かめるように屈み込む。目はまず、庭がどう回っているかへ向いていた。
ガブリエルだけが、少し遅れてリリスを見た。
ほんの一瞬だった。
だがその一瞬に、顔色のわずかな沈みを見たらしかった。
「アダム」
ガブリエルが声をかける。
「ミカエルが、君に見せたいものがあるそうだ」
「少し行ってこい。私はリリスと歩いてくる」
「僕に?」
アダムは不思議そうにしたが、ミカエルに呼ばれると素直にそちらへ向かった。
ミカエルはすでに別の苗を見ていて、何か説明を始めている。
ガブリエルはリリスへ向き直った。
「少し、一緒に歩かないか」
リリスは頷いた。
ガブリエルが少し先を歩く。
リリスはそのあとに続く。
肩を並べるには、わずかに距離があった。
風が低い草を撫でていく。
二人が水辺の近くまで来た時、先日目にした小さな影が、また茂みから飛び出した。
「あ!」
今度はリリスの方が早かった。
裾を押さえることも忘れて駆け寄り、草のあいだで跳ねた小さな獣を両腕に抱き上げる。
あたたかい。
耳は長く、小さな鼻をひくひくと動かしている。
ふわりとした毛並みの奥に、小さな鼓動まで感じられた。
リリスの顔が、ぱっとほどける。
「あなたは、小さくてあたたかくて、ふわふわしている子なのね」
その声を聞いて、ガブリエルは一瞬だけ肩の力を抜いた。
心配しすぎだったのかもしれない。そう思いかける。
けれど、リリスはその小さな獣を抱いたまま、ふとガブリエルを見上げた。
困ったように、少しだけ眉を下げて笑う。
「この子、かわいいでしょう?」
「“うさぎ”って言うんですって」
「そうなのか」
「ええ。……アダムがそう名づけたんですって」
ガブリエルは頷いた。
「そうか。アダムは、神から与えられた役目を果たしているのだな」
「……そうみたいね」
「アダムは、本当になんでも教えてくれるわ」
「心強いことだ」
リリスが顔を上げる。
「……心強い?」
「そうだろう?」
「道を示してくれるアダムが傍にいて、安心できるはずだ」
「困ることも、恐れることもない」
その言葉を聞いた時、リリスの腕の中で、うさぎの耳がぴくりと動いた。
「……安心」
その音を、口の中で確かめるように繰り返す。
「なら、どうして同じではないの?」
ガブリエルの歩みがわずかに止まる。
リリスはうさぎを見下ろしたまま、言葉を続けた。
「この子のことだって……私が見つけたし、私が触れたかった」
「なのにアダムが先に触れて、先に名前をつけた」
「どうして同じ土から生まれたのに、アダムが先で、アダムが決めるの?」
ガブリエルはリリスを見た。
責める声ではなかった。泣き言にも聞こえない。ただ、本当に知りたい者の声だった。
だからこそ、ガブリエルは正しく答えようとした。
「リリス。アダムは神から役目を仰せつかっている」
「役目が違うことは、不当ではない」
「それが秩序だ」
リリスの指先が、うさぎの毛並みの上で止まる。
「君にも役目がある」
「アダムの伴侶として、彼を支える役目が」
その言葉を聞いた瞬間、別の声が胸の底で薄く重なった。
同じ土より造られた、アダムの伴侶となる者。
共にこの庭に在り、この先へ続いていく者。
彼の隣に置かれた者。
それが、彼女に与えられた役割だと。
あの朝、目を開けてすぐに聞かされた言葉だった。
リリスは何も言えない。
ただ、腕の中のうさぎを撫でる手だけが止まる。
すると、うさぎはもぞもぞと身をよじり、彼女の腕から飛び出して、草の中へ跳ねていった。
「あ……」
ガブリエルはその小さな背を見送りながら言う。
「元気なことだ」
「どこへ行くのかしら」
「きっと、帰るべきところへ戻ったんだ」
リリスはその言葉を受け取ったまま、少し黙った。
「……生きている者には、必ずそういうところがあるの?」
「ああ、そうだ」
「君がアダムと共に歩む者であるように、あの獣にも、あるべき場所や役目がある」
「あなたにも?」
リリスはガブリエルを見つめた。
「……ああ。私にもある。あるべき場所も役目も、従うべき言葉もある」
ガブリエルの瞳がわずかに和らぐ。
「……そう」
リリスの声はかすかだった。
和らいだその眼差しにどんな意味があるのか、少しだけ気になった。
だが、その感覚もすぐに薄れていく。
「じゃあ、あの子も、先にいた誰かが、どこへ行くか、なにをするかを決めて、先に教えてくれるのね」
その響きに、ガブリエルはごく細い違和感を覚えた。
けれど、掴みきれなかった。
掴めないまま、むしろ自分がきちんと導かなければならないと思った。
「そうだ。それが、神が定めた調和というものだ」
優しく言い聞かせるように。
リリスは浅く息を吐き、ゆっくりとうつむいた。
「……そう」
──
二人が戻ると、アダムが大きく手を振った。
その横でミカエルは、土のついた手を払いながら、横目でアダムの様子を見守っていた。
「リリス!」
アダムは明るい声で呼ぶ。
「どうしたの?」
「何かあった?」
「少し疲れた?」
その顔は、朝と同じだった。
心配している。気にかけている。嬉しそうですらある。
リリスはそれを見て、小さく手を振り返した。
口元には笑みも浮かべた。けれどそれは、頬の上だけで止まるような薄い笑みだった。
「いいえ」
「大丈夫よ」
アダムは安心したように笑った。
その笑顔を見ながら、リリスは思う。
この人もまた、そういうものとして受け取っているのだと。
──
夜。
ミカエルとガブリエルは去り、見回りの天使たちも、いつも通りの二人の様子を見ると安心して通り過ぎていった。
アダムが眠りについたあと、リリスはひとり水辺へ出た。
手を水に浸す。
冷たい。
昼のあいだ土に触れていたせいで、爪のあいだにはまだ薄く土が残っている。指先でそれをこすり、流れていく小さな濁りを見つめた。
同じ土から生まれたはずなのに。
その土は、私の爪にも、アダムの手にも、同じように残るはずなのに。
どうして最初から、私だけが従う側なのだろう。
どうして、あなたの隣にいるはずなのに、同じではないのだろう。
どうして、先に置かれているのは、いつもあなたなのだろう。
水から手を上げ、リリスは夜空を見上げた。
星は遠く、冷たく、美しかった。
その下で、胸の中に生まれた問いだけが、昼よりもずっとはっきりした輪郭を持ちはじめていた。




