第8話「やさしさの顔で」
朝の光が庭をひらく頃には、リリスはもう目を覚ましていた。
アダムがまだ眠っているあいだに、そっと外へ出る。
草は朝露を抱き、葉先には小さな水の粒がいくつも光っていた。風はまだ薄く、鳥の声も遠い。昼になると見えなくなるものが、朝にはいくつもあるのだと、リリスは少しずつ知りはじめていた。
しゃがみ込み、露を含んだ花弁に指先で触れる。
冷たい。
けれど、その冷たさの奥には、もうすぐ陽にほどけていくやわらかさがあった。
水辺へ行けば、水は夜の名残をわずかに残した色をしている。
近くの枝には小さな鳥がいて、首を傾げるたび、光が羽の上を流れた。
リリスは息をひそめ、その動きを見ていた。
エデンには、まだ知らないものがいくつもある。
昨日と同じ場所でも、朝になれば違うものが見える。
それを自分ひとりで見てまわる時間を、リリスは少しずつ好きになっていた。
「リリス」
呼ばれて振り向くと、アダムがこちらへ来るところだった。
寝起きの髪を風に揺らしながら、見つけたこと自体が嬉しいというような顔をしている。
「こんなところにいたんだね。起きたらいなかったから、探したよ」
そう言って、彼は何でもないようにリリスの隣へしゃがみ込んだ。
「朝の水辺が気に入ったの?」
「……ええ」
「きれいだよね。でも、こっちは朝だと少し冷えるんだ。君はまだ慣れていないだろう。もう少し陽が差してからの方がいい」
言いながら、アダムは立ち上がり、当然のように手を差し出した。
リリスはその手を見た。
それから、その向こうにある水辺を見る。
一拍だけ置いてから、自分の手を重ねた。
アダムは安心したように微笑む。
「ほら、こっちへおいで。朝はあの木の下がいちばん気持ちいいんだ」
引かれて歩き出しながら、リリスは一度だけ振り返った。
水面は静かで、さっきの鳥もまだ枝にいる。
名残惜しむ気持ちを置いていくように、また前を向いた。
木々のあいだを歩いている途中、リリスは足元に落ちていた小さな実を見つけた。
丸く、赤く、朝露に濡れている。
彼女がしゃがみ込もうとした瞬間、アダムが先にそれを拾い上げた。
「ああ、これはまだ少し酸っぱいよ。こっちの枝の方が甘いんだ」
そう言って、彼は少し高いところに実っている別の実を取ってみせる。
慣れた手つきだった。
「ほら、こっち。君はたぶん、こっちの方が好きだと思う」
リリスは差し出された実を見る。
「そう」
「食べてみて」
言われるまま口にすると、たしかに甘かった。
皮は薄く、噛むとやわらかくほどける。
「……甘いわ」
「だろう?」
アダムは嬉しそうに笑った。
それからも、そんなことは何度か続いた。
リリスが木陰の小さな花を見ていれば、
「それは昼の方が大きく開くよ」とアダムが言う。
獣の毛並みに触れようとすれば、
「驚かせないように、こう」と先に手を添える。
空を横切る鳥を見上げていれば、
「あれは朝より夕方の方が地上によく降りてくるんだ」と教える。
ひとつひとつは小さなことだった。
どれも乱暴ではない。
けれど、何かを見つけるたび、その前に言葉が置かれることに、リリスは少しずつ慣れはじめている自分を感じていた。
昼に近づくころ、二人は風の通る木陰で足を止めた。
葉の影が地面にやわらかく落ちている。
遠くで獣が草を踏み、水の音が絶えず聞こえていた。
「ここは休むのにちょうどいいんだよ」
アダムが満足げに言う。
「リリス、君はあまり無理しなくていいよ。こういうところでおとなしくしていてくれれば、僕がすぐ見つけられるし」
リリスは顔を上げた。
「見つける?」
「うん」
アダムはそのまま続ける。
「君はまだこの庭に来たばかりだから。わからないことも多いだろう?だから僕が見ていれば安心だし、君も困らない」
それから少し考えて、言葉を継ぐ。
「僕が外を見て回る方が向いていると思うんだ。だから、これからは二人で安らげる場所を作って、君はそこでゆっくりと過ごしていた方がいいんじゃないかな」
声は穏やかだった。
命じているつもりなど、少しもないのだろう。
けれど、その中にはもう、そうする形ができあがっているようだった。
リリスは木漏れ日の下で、アダムの顔を見た。
アダムは本気で、そうした方がよいと思っているらしかった。
「……どうして?」
思わずこぼれた声に、アダムが瞬く。
「え?」
「どうして、そうなるの?」
アダムは少し困ったように笑った。
「どうしてって……君は僕と一緒にここで生きるんだろう?僕たちは共に歩む者なんだから、うまく分けた方がいいじゃないか。父上も、そういうふうに僕たちを創り、ここへ住まわせてくださったんだと思う」
答えはよどみなかった。
そこには、疑う余地が最初から置かれていない。
けれど、リリスの胸の中には、まだうまく言えない何かが静かに残った。
そのとき、木々の向こうから羽音が近づいた。
白を基調とした式服に、橙の差し色。
ガブリエルだった。
「アダム、リリス」
凛とした声だったが、強すぎる響きではない。
アダムはすぐに姿勢を正した。
「ガブリエル。見に来てくれたんだね」
「通りがかりに君たちの姿が見えたものだから」
言葉は簡潔だった。
だが、ガブリエルの視線はアダムだけでなく、リリスにも向けられていた。
「どうだ。暮らしには慣れたか」
問われて、リリスはわずかに考える。
「……まだ、知らないことが多いわ」
それだけ答えると、ガブリエルは短く頷いた。
「そうだろうな」
アダムが口を挟む。
「でも大丈夫だよ。彼女はまだ慣れていないだけだから!僕が見ているし、わからないことは教えている。この庭にも、きっとすぐ馴染む」
その声に悪意はなかった。
ガブリエルも、それをわかっているようだった。
「そうか」
短く返しながら、ガブリエルは一度だけリリスを見た。
返事の少なさ。言葉より先に落ちる視線。アダムの言葉を受けたあとの、わずかな間。
だが、まだ何かと呼ぶには早い。
「無理はするな。なにかあれば相談するように」
それだけ言い置いて、ガブリエルは風のように去っていった。
アダムはその背を見送り、少し誇らしげに笑った。
「ガブリエルも僕たちを気にかけてくれているんだ!よかったね」
リリスはその言葉を聞きながら、木の根元に咲く小さな花へ目を向けていた。
薄い花弁は、半分だけひらきかけている。
さっきから気になっていた花だった。
「リリス?」
アダムがこちらを見る。
リリスは花から目を離さないまま言った。
「これを見ているの」
アダムが少しだけきょとんとする。
「……これ?」
「ええ」
「花なら向こうにもっとたくさん咲いてるよ。あっちの方が綺麗だ」
リリスはそこで初めて、はっきりと首を振った。
「あっちはいいの。私は、これが見たいの」
風が花を揺らす。
白に近い花弁が、陽を受けてかすかに透けた。
アダムはしばらく黙っていた。
怒っているわけではない。
ただ、どうしてそこで立ち止まるのか、本当にわからないらしかった。
「……そうなんだ」
それが、彼の返した言葉だった。
リリスはしゃがみ込み、花にそっと触れた。
まだ完全にはひらいていない。
けれど、だからこそ見ていたかった。
いま、この形を。
夕方になっても、世界は変わらず美しかった。
アダムはいつものように話し、獣たちは草を踏み、鳥は枝から枝へ移っていく。
風は木々のあいだを抜け、水辺には陽の名残が揺れていた。
リリスもまた、そのひとつひとつを見た。
枝のしなり、石のぬくもり、草の匂い。
自分の目で見て、自分の指で触れて、自分の中へ入ってくるものだけが、少しずつ確かなものになっていく気がした。
夜。
アダムが先に眠ったあと、リリスはひとり外へ出た。
昼の熱を失った石の上に座る。
空には星が散り、足元では夜の草が淡く光っていた。
今日一日を思い返す。
アダムはずっとやさしかった。
世界はどこまでも美しかった。
それでも、花の前で自分が口にした小さな言葉だけが、胸の内に残っていた。
私は、これが見たいの。
まだ完全にはひらいていなかった、あの形。
それを見たいと言った自分の声。
何もわからないままでも、その言葉だけは手放したくなかった。




