第7話「同じ土から」
エデンでの日々は、穏やかに流れていった。
朝になれば、葉のあいだから光がこぼれる。
昼には風が草を撫で、水辺には小さな波紋がひろがる。
夕方には空の色がほどけるように薄まり、夜になれば、星に似た光を宿した草が地のあちこちでひっそり灯った。
同じ庭のはずなのに、見るたびに違う顔を見せる。
リリスは、それを眺めるのが好きだった。
指先で花弁の薄さをたしかめる。
水面に映った雲の形が崩れていくのを見つめる。
木の実を掌にのせて重みを知り、獣の毛並みにそっと触れる。
鳥が枝を移るたびに鳴る葉擦れの音も、耳を澄ませばひとつとして同じではなかった。
この庭には、まだ知らないものがいくらでもある。
見て、触れて、知っていく。
それが面白かった。
「リリス」
呼ばれて振り向くと、アダムがこちらへ歩いてきていた。
今日も明るい顔をしている。
何かを見つけるたび、それを誰かと分け合えるのが嬉しくてたまらない、そんな顔だった。
「またこんなところにいたんだね。君は本当に、いろんなものを見るんだな」
そう言って、彼はためらいなく隣に立つ。
その近さにも、もう最初ほど身を強ばらせはしなくなっていた。
「見てごらん。あっちの実、昨日より色づいてる」
「こっちの水も朝は特別きれいだよ。君にも見せたかったんだ」
アダムは、美しいものを見つけるとすぐリリスを呼んだ。
水の澄んだ場所、木陰を抜ける風、花の咲いた枝先、獣の眠る草むら。
見つけたものを教えたがり、知っていることを渡したがった。
リリスも、そのたびに足を止めた。
本当にきれいなものはきれいだったし、初めて見るものは、自分の目でたしかめたかった。
その日も、リリスは水辺の近くで小さな白いものを見つけた。
ひらひらと、風に持ち上げられるように飛んでいる。
羽なのか、花びらなのか、生きものなのか、まだわからない。
けれど、なぜか目が離せなかった。
これは、と問いかけるより少し早く、アダムが言う。
「それは蝶だよ」
リリスは白いものから目を離さないまま、その音を聞いた。
「ちょう……」
「父上が、僕に生きものたちへ名を与えるよう仰ったんだ。だから、あれは蝶だ」
アダムの声には誇らしさがあった。
任されたものを、そのまま大事に抱えている声だった。
リリスはようやく蝶から視線を外し、アダムを見る。
「あなたが、名をつけるの?」
「そうだよ」
アダムは少しも迷わず頷いた。
「鳥も、獣も、木々も、僕が呼んだ名がその名になるんだ。不思議だよね。でも、そうするよう父上が仰ったから」
不思議。
たしかに、そうだった。
リリスはもう一度、蝶を見る。
白い羽は風に揺れながら、気まぐれのような軌跡を描いていた。
それを見つめたまま、小さく首を傾げる。
問いはまだ言葉にならず、そのまま蝶と一緒に枝の向こうへ消えていった。
「リリス、こっちへおいで」
アダムが手を差し出す。
リリスはその手を見た。
少しだけ間を置いてから、自分の手を重ねる。
するとアダムは嬉しそうに笑い、何でもないことのように歩き出した。
そのぬくもりにも、もう初日のような驚きはない。
けれど、指先が重なるたび、彼女の目は一度だけそこへ落ちた。
「ねえ、リリス」
花の咲く木のそばで、アダムが振り返る。
「君が来てくれて、本当によかった」
言葉はまっすぐだった。
飾るつもりなど、彼にはないのだろう。
「これで僕はひとりじゃない。君は僕と同じ形をしているし、僕と共に歩む者なんだ。父上は、本当にすばらしいものをくださったんだね」
その声を聞きながら、リリスは目覚めた朝のことを思い出した。
光がやわらかく落ち、風が草を鳴らしていた朝。
その中で神は、静かな声で彼女に言葉を与えた。
同じ土より造られた、アダムの伴侶となる者。
共にこの庭に在り、この先へ続いていく者。
彼の隣に置かれた者。
それが、彼女に与えられた役割だと。
そのときのリリスは、ただ聞いていた。
与えられた言葉を、そのまま受け取るしかなかった。
この庭のことも、アダムと並ぶことも、まだ知らないことばかりで、何を返せばよいのかわからなかったからだ。
だから、いまアダムの口からこぼれる
「君が来てくれてよかった」
「これで僕はひとりじゃない」
という言葉も、はじめはその続きのように聞こえた。
けれど、胸のどこかに少しずつ引っかかるものがあった。
一緒に歩くと言っているのに、なぜか最初から、アダムが先にいる。
「リリス?」
気づけば、彼女は立ち止まっていた。
アダムが不思議そうにこちらを見ている。
責める顔ではない。
ただ、本当に不思議なのだという顔だった。
「どうしたの?」
リリスはアダムの顔を見る。
次に、自分たちの手を見る。
それから、ようやく小さく口を開いた。
「……どうして、共に歩むのに、あなたが名前を決めるの?」
風が、ふたりのあいだを吹き抜けた。
アダムはそこで初めて、心底意外そうな顔をした。
問われることそのものが思ってもみなかった、という顔だった。
「どうして、って……」
彼は少し考えた。
けれど、答えに迷っているわけではなかった。
「それは、父上から僕に与えられた役割だからさ!それに、君は僕と同じ土から生まれた、共に生きる者、伴侶なんだ。これからは、僕が名を与えたものを一緒に見て、守っていくんだよ」
答えはよどみなく整っていた。
そこに、彼自身の迷いはひとつもない。
けれど、リリスはその言葉を聞いて、なおさら静かに立ち尽くした。
同じ土から生まれた。
共に生きる者。
隣に置かれた。
それなのに、どうして。
アダムは困ったように眉を下げた。
「リリス、難しく考えなくていいよ。きっとすぐ慣れる。わからないことは僕が教えるし、君が困らないようにするから」
その声はやわらかかった。
アダムは本当に、そうするつもりなのだろう。
だからリリスは、すぐには何も言えなかった。
そのとき、白いものが視界の端を横切った。
蝶だ、と思うより早く、アダムの手が彼女の指を包み込む。
「ほら、行こう。向こうに木の実の多い場所があるんだ。君にも見せたい」
リリスは視線を戻し、繋がれた手を見た。
それから小さく息をついて、歩き出す。
「……ええ」
その日の空も、水も、草も、変わらず美しかった。
アダムは嬉しそうに話しつづけた。
獣たちは彼のそばへ寄り、鳥は枝の上からふたりを見下ろしていた。
リリスもまた、目に映るものを面白く思っていた。
木の肌のざらつき、水辺の匂い、葉の裏に差す淡い色を、ひとつずつ受け取りながら。
この世界は本当に面白い。
そう思う気持ちは、たしかにあった。
夜。
アダムが先に眠ったあと、リリスはひとり、水辺へ出た。
昼に熱を持っていた石は、今は少し冷えている。
水面には星が揺れ、夜の草は足元で淡く光っていた。
リリスはしゃがみ込み、静かな水を見つめた。
そこには夜空と、自分の顔と、揺れる草の光が重なって映っている。
同じ土から生まれたはずなのに。
顔は違い、形もまるきり同じではない。
同じようにこの庭へ置かれたはずなのに。
決めるのも、手を引くのも、彼だった。
どうして、最初から同じではないのだろう。
答えはまだない。
けれど、その問いは朝までに消えてしまうようなものでもなかった。
ふと、昼の蝶を思い出す。
白い羽が、風の中で揺れていた。
決まった道を見せないまま、それでも落ちずに飛んでいった。
リリスは水面から顔を上げ、夜空を見た。
胸の奥に、昼にはなかった問いだけが残っていた。




