第77話「帰る場所」
ムルシベルが黒い地面へ引いた線は、まだ火床のそばに残っていた。
風が吹けば薄れ誰かが踏めば消えてしまう程度のものだが、彼にとってはそれで十分らしい。火床と岩棚を見比べ、使えそうな場所を確かめると、しゃがみ込んだまま作業を始めた。
「まず、ここでまともに休めるようにするところからッスね」
岩棚そのものを大きく変えるわけではない。
横になるのに邪魔な石を退けて使えそうなものがあれば位置を変え、火の周囲にも必要な分だけ手を入れていく。何もないところへ無理に形を押しつけるのではなく、もともとある岩場を見ながらその中でできることを探しているようだった。
マモンも火床のそばに集められた枝や石へ目を向けた。何に使えるのか分からないものばかりなのだから、今すぐ答えを出す必要はないらしい。いくつか手に取って確かめながら気になったものだけを覚えていく。
リリスは、古い気配たちと一緒に二人の作業を眺めていた。
しばらくすると、古い気配のひとつがどこからか黒い枝のようなものを抱えて戻ってくる。
「これ、つかう?」
リリスは差し出されたものを受け取ると表面を確かめた。
「使えるかもしれないわ。ありがとう」
礼を言われた古いものは返事をする代わりに、その場でわずかに身を揺らした。
ひとつが何かを持ってくると、それを見ていたほかのものたちも次々に姿を消し、やがて思い思いのものを抱えて戻ってきた。乾いた草に似たもの、薄く透ける塊、形も色も違う石。用途を知って選んできたわけではない。ただ、ここにいる者たちが何かを探していると知り、自分たちの知っている場所から、それらしいものを持ってきたのだろう。
「これは?」
緑がかった小さな石を差し出され、リリスはしばらく眺めた。
「綺麗ね。何に使えるかは分からないけれど、マモンに見てもらいましょう」
名前を呼ばれたマモンが顔を上げる。
「見せて」
受け取った石を指先で転がし、表面を確かめたあとマモンはすぐに結論を出すことなくリリスへ返した。
「これは後でちゃんと見たいな。どこにあったものかもその時に教えて」
「分かったわ」
古い気配たちはそのやり取りまで興味深そうに眺めていた。
ルシファーも何かしようと思ったらしく、近くの石へ手を伸ばす。
「それ、今は動かさないでください」
ムルシベルが作業を続けたまま言うと、ルシファーの伸ばした手が止まる。
「こっちは?」
「それも待って」
今度はマモンだった。
ルシファーは少し考えてから、別の石へ視線を向ける。
「触るな」
ベルゼブブが先回りした。
「まだ何もしてないよ」
「しようとしていただろう」
「手伝おうと思っただけなんだけどね」
行き場をなくした手を引っ込めるルシファーを見て、リリスが口元に笑みを浮かべた。
「俺は本当にこういうことには向いていないみたいだね」
「知らないことを勝手にやるなというだけだ。少しずつ覚えろ」
ベルゼブブはそれだけ答えると、また作業全体へ目を戻した。
ルシファーも苦笑し、それ以上石には触れなかった。
できないことを無理にやる必要はない。ならば、この場で自分にできることを探せばいい。
ルシファーは古い気配たちの動きを眺めた。
彼らは誰かに命じられて素材を運んでいるわけではなく、それぞれが知っている場所から、使えそうだと思ったものを勝手に持ってきている。
先ほど黒い枝を運んできたものへ、ルシファーは声をかけた。
「それは、どこから持ってきたの?」
古い気配は森の方を示した。
「もりのおく」
「こういうものが、たくさんある?」
「ある。かわいたもの。おちたもの」
すると別のものが、リリスの手にある緑がかった石を指した。
「みずのそこにもある」
「これと似た石が?」
「ある。たくさん。くろいのも、ひかるのも」
ルシファーがその方角へ目を向けていると、少し離れた場所にいた古い気配が自分から言葉を探すように揺れた。
「あついところもある」
「あついところ?」
「みず、じゃない。ひ、でもない。ゆれる。あつい」
「火とは違う、熱を持った場所があるということかな……」
「ある。とおい」
ルシファーは少し考え、もう一つ尋ねた。
「そこにあるものを、ここへ持ってきても大丈夫?」
古い気配はすぐには答えなかった。
「わからない」
「そうか。なら、まずは確認しにいった方がよさそうだね。教えてくれてありがとう」
聞いたことを覚えると、ルシファーはマモンたちのところへ戻った。今度は何にも触れず古いものたちから得た話だけを持っていく。
「森の奥には、乾いた枝のようなものが多い場所があるらしい。水の底にもリリスが拾ったものと似た石があって、黒いものや光るものもあるそうだよ。それから、火でも水でもない熱い場所が少し離れたところにあるみたいだ。ただ、どんなものかはわからないみたいっだから、直接確認しにいく必要がありそうだ」
マモンがすぐに顔を上げた。
「それは見てみたいな」
ムルシベルも手を止める。
「熱のある場所なら、周りの岩もここにあるものとは違うかもしれないッスね」
ベルゼブブはルシファーを見た。
「お前、手を出すより聞いている方が役に立つな?」
ルシファーが目を瞬かせる。
「それは、役に立ってるってことでいいのかな?」
「事実を言っただけだ」
それ以上の言葉はなかったが、ルシファーの顔にはすぐに笑みが浮かんだ。
天界にいた頃、何かを読み取ったり答えを出したりすることはルシファーにとって特別なことではなかった。
けれど今はこの場所で自分にもできることがあると分かっただけで十分だったらしい。
リリスはその顔を見てくすりと笑い、ベルゼブブは何も言わず再び周囲へ目を配った。
その後も、それぞれができることを続けていった。
ムルシベルが手を入れるにつれ、岩棚の下は少しずつ身体を休められる場所へ変わっていく。古い気配たちが運んできたものも、使えそうなものから試され、マモンは気になるものを見つけるたびに目を留めた。
ベルゼブブは作業の流れを見ながら、誰かが無理をし始めれば先に気づいた。
リリスが立ったままムルシベルの手元を眺め続けていると、さっそく声をかける。
「リリス、少し座れ」
「私、立ったままでも平気よ?」
「なら、平気なうちに休め」
リリスは一瞬きょとんとしたあと、素直に頷いた。
「分かったわ」
火の近くへ腰を下ろすと、ルシファーもその隣へ座った。
「ちゃんと休むんだね」
「休んだ方がいい理由があるもの」
「俺が言っても聞いてくれるのかな」
リリスは少し考えた。
「うーん、そうね、理由は聞くわ」
「そこは変わらないんだね」
ルシファーが笑うと、リリスもつられて笑った。
どれほど時間が過ぎたのかを示すものはなかった。
それでも、ムルシベルがようやく手を止めた頃には、この岩棚へ初めて辿り着いた時とは、そこでできることが少し変わっていた。
立派な建物ができたわけではない。屋根も扉も壁もなく、もしも雨が降ればどうなるのかも、風が強まれば何が残るのかも分からない。それでも火のそばには横になって身体を休められる場所ができ、持ってきたものを置いておける場所も決まっていった。
リリスは横になれるよう整えられた場所へ、そっと手を伸ばした。
黒い岩の上には、古い気配たちが運んできた乾いた草が使われていた。
エデンの草の上とも、海辺の砂とも違う。
それでも、最初に岩へそのまま身体を預けた時よりはずっと眠りやすそうだった。
「ここなら、前よりよく眠れそう」
その言葉を聞いて、ルシファーはようやく息を吐いた。
ムルシベルは少し照れたのか、出来上がった場所を確かめるように視線を逸らす。
「まだ仮ッスけどね」
「十分だわ。ありがとう、ムルシベル」
古い気配たちは変わった岩棚の下を行き来しながら、覚え始めた言葉を確かめるように口にしていた。
「ここ」
「ねる」
「おく」
「もどる」
最後の言葉に、リリスが振り向いた。
「もどる?」
古い気配は岩棚の下を指した。
「いって、もどる。ここ」
リリスはその言葉を聞いて、改めて火の周りを見渡した。
どこかへ行って、またここへ来る。
これまでは、そんなふうに考える必要すらなかった。ただ火のそばへ集まり、身体を休めるために使っていた岩棚が、いつの間にか、離れたあとにもう一度目指す場所になり始めているのだと気づいた。
その横で、マモンがリリスのそばに置かれていた緑がかった石へ目を留めた。
「そういえば、これ。水の底にも似たものがあるって言ってたよね?」
「ええ。川底にたくさんあったわ」
マモンは石を受け取り、火の明かりにかざした。薄く濁った色の奥を確かめるように眺めてから、もう一度指先で転がす。
「やっぱり、あとでそこを見ておきたいな」
ムルシベルも横から覗き込んだ。
「俺も行く。周りに何があるか見ておきたい」
「なら、私が案内するわ」
「頼むよ」
マモンが石を返すと、リリスはそれを掌へ収めた。
そのやり取りを聞きながら、ルシファーは岩棚の下を見回した。
少し前までここには火と黒い岩があるだけだった。
今も立派なものが増えたわけではない。それでも、出ていったあとにまた戻ってくることを、皆が当たり前のように考え始めている。
リリスも同じものを見ていたのだろう。火のそばから周囲を眺め、少し嬉しそうに笑った。
「ここ、少し好きになれそうだわ」
ルシファーは彼女を見る。
「それはよかった」
「まだただの岩棚だがな」
ベルゼブブが横から言うと、リリスは笑って振り向いた。
「ええ。でも、最初よりずっといいわ」
ただの岩棚だったそこは、その日、ほんの少しだけ皆が笑いあえる場所になった。




