第78話「種を持つ天使」
地獄に朝はなかった。
空は相変わらず夜にも昼にもなりきれない色をしている。それでも岩棚の外を満たす黄昏は、目を閉じる前よりわずかに薄くなっているように見えた。
火床には小さな火が残って黒い石に囲まれた内側で赤い芯を保っている。
リリスは、いつの間にか身体へ掛けられていた外套に気づいて目を開けた。
一枚ではない。ベルゼブブか、マモンか、ムルシベルか。誰のものか分からない白や灰の布が、肩から足元まで重ねられている。
少し前に整えられた寝床は寝台と呼ぶにはまだ硬く、草と平たい石を使っただけのものだったが、最初に岩へそのまま身体を預けた時よりずっと楽に横になれていた。
リリスは布の端を指先で撫でると、エデンでルシファーの外套の上に眠った夜を思い出す。
あの時まだ彼の外套だった白い布は、今では自分の衣服へ姿を変えていた。
触れている布地はまるで違う。それでも寒くないようにと誰かが掛けてくれたことだけは、あの夜と少し似ていた。
離れた場所ではベルゼブブとマモンとムルシベルがそれぞれ身体を休めている。マモンは丸めた外套に頭を預け、ムルシベルは片腕を枕にして、作業の途中でそのまま眠り込んだような格好だった。
ルシファーだけは火床のそばで岩に背を預けていた。
時折ぱちぱちと音を立てる火をじっと見つめながら、何かを考えている様子で眠ってはいなかった。
リリスが外套を肩へ掛け直して身を起こした時、隣に薄く横たわっていた古い気配がふいに黄昏の入口へ顔を向けた。
「……また」
「また、誰か来たの?」
古い気配は入口の方を見たまま答えた。
「しろい。けど、はっぱみたい」
「葉っぱ?」
その言葉に、火床のそばのルシファーが声をかけた。
「おはよう、リリス。……と言っていいのかな、ここでは」
「おはよう、でいいと思うわ。少しだけ、朝みたいだもの」
「そうだね」
ルシファーは立ち上がると、古い気配が見ている方へ目を向けた。
「葉っぱみたいな白い気配というのは、気になるね」
その声を聞いてベルゼブブも目を開けた。
マモンとムルシベルまで起こす頃には、入口の方から古い気配たちのざわめきが届き始めていた。
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余白の黒を抜けた小さな天使は、両腕いっぱいに抱えた包みを確かめてからようやく息を吐いた。
「……よかった。落としてない」
彼女が真っ先に確かめたのは、自分の身体ではなく腕の中に抱えてきた種袋と小さな苗だった。
細い枝を折らず、根を傷めないように、いくつもの布を重ねて守ってきたらしい。
周囲には、すでに古い気配たちが集まり始めていた。
「しろい」
「なにか、もってる」
「ちいさい」
「ねむってるもの」
形を持ちきらない黒いものが、苗へ顔らしきものを近づける。
小さな天使は肩を跳ねさせた。
「わっ……あ、あの、触るなら、そっとお願いしますっ。まだ根が弱いので……!」
古いものたちは、互いを見るように揺れた。
「そっと」
「そうです。そっと、です」
一歩下がりかけた天使の足が石に引っかかり、身体が傾くと同時に背の白い羽が開く。
それでも腕の中の苗だけは、きっちり抱え込んだままだった。
ルシファーたちが辿り着いた時、彼女は古い気配たちに囲まれながら、苗を守るために何度も「そっとですよ」と言い聞かせているところだった。
ルシファーの姿を見つけた瞬間、その天使は目を大きくした。
彼女の記憶にあるルシフェルは、銀の髪と白い式服をまとった大天使だった。
今そこにいるのは黒い髪を持ち、背から羽を無くした男である。
顔立ちは確かに同じなのに、知っている姿とはあまりに違っていた。
「あっ……えっと、ルシフェ……ルシファー、様」
苗を抱えたままでは胸に手を当てられず、天使は包みを落とさないように頭だけを下げた。
ルシファーは彼女へ近づくと、困ったように笑った。
「頭を上げてくれないかな。それから、様もいらないよ。ここでは好きに呼んでいい」
「で、でも……」
「落ち着かないなら、慣れるまででいい」
それなら、とネツァルはようやく顔を上げた。
ルシファーは彼女を見ながら、記憶を辿る。
「君はたしか、智天使ソフィエルのところの……」
「ネツァルです。ソフィエル様のもとで果樹園の管理や灌水、茶葉や薬草の世話をしていました」
「そうだ、ネツァル。覚えているよ。君も……来たんだね」
ネツァルは小さく頷いた。
ベルゼブブの目は、すでに彼女が抱えているものへ向いていた。
「それは?」
ネツァルは腕の中の種袋と苗を見下ろしぽつりとこぼした。
「……置いて、こられなかったんです」
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火床のある岩棚へ戻ると、ネツァルは火から距離を取った場所を選び、抱えてきた苗と種袋をそっと下ろした。
ルシファーは、その様子を見ながら尋ねた。
「それで……置いてこられなかったというのは?」
ネツァルは種袋の口へ指を添えた。
「私は、実は食べるために実るものだと思っていました。命をつなぐために、誰かが喜ぶために、それから次に育つものを残すために。でも、エデンの報告を聞いてから、それまでと同じようには見られなくなってしまったんです。自分たちが育てていた実が、禁じられたものや罪のきっかけ、誰かがエデンを離れることになった理由として語られていくのが、どうしてもうまく受け止められなくて……」
先ほどまでのおどおどした話し方とは少し違っていた。
植物のことになると、迷いながらも言葉が途切れない。
「イヴを責めたいわけでも、誰かが悪かったと言いたいわけでもないんです。ただ、私にとってあの実はそんなふうに誰かを責めるためのものではありませんでした。ルシフェル様がいなくなってから、天界では神の言葉が以前より直接届くようになりましたけど、私は自分の役目を嫌いになったわけではありません。植物を育てることも、実を結ばせることも好きです。だからこそ、何も考えずに同じ場所へ戻ることができなくなってしまって」
ネツァルは足元へ置いた種と苗に目を落とした。
「それで、私が預かっていたものだけは、どうしても置いていけなかったんです。ここで育つかどうかも分かりません。でも、持ってきたかった」
彼女が何を抱えて黒を越えてきたのかは、それだけで十分に伝わった。
自分の役目を捨てたかったのではなく、自分が水をやり、枝を見て、種を守ってきたものを、何もなかったように置いていくことができなかった。その腕に残ったものを、そのままここまで連れてきたのだ。
やがてネツァルは、リリスへ顔を向けた。
「……えっと、あなたが、リリスさん?」
「ええ。初めまして。リリスよ」
ネツァルは何か言いかけて口を閉じた。
視線がリリスと種袋の間を行き来したあと、意を決したように口を開く。
「あなたが、あの実を食べないでいてくれて……本当によかった」
リリスの目がわずかに見開かれた。
「……実を食べなかったことを、そんなふうに言われるなんて思ってなかった」
「あの実を食べた人を責めているわけではないんです。ただ、あれが誰かの罪や追放の話に結びついていくのを見るのが、私にはつらかったんです。だから、あなたが食べずに今ここにいることに、私、ほっとしてしまって……」
リリスはすぐには返さず、ネツァルの顔を見ていた。
「私は、ただ食べたくなかっただけ。食べたら死んでしまうって言われていたしね」
「それでも、よかったんです」
ネツァルは迷わず答えて、膝の上に置いた両手をぎゅっと握った。
リリスは少しだけ困ったように笑ったあと、ネツァルが持ってきた小さな苗へ目を向けた。
「これ、眠っているみたい」
ネツァルの顔から張り詰めていたものが抜けた。
「はい、休んでいるんです。まだ根が弱いので、すぐには植えられません」
「私が触っても大丈夫?」
「もちろんです。そっとなら」
リリスは指先で葉へ触れた。
黄昏の中で小さな緑がかすかに揺れる。黒い岩や砂ばかりだった場所では、その色がひどく鮮やかに見えた。
それを見た古い気配たちも近づいてくる。
ネツァルはすぐに苗を支え直した。
「そ、そっとでお願いします…!」
「そっと」
古いもののひとつが、覚えたばかりの言葉を繰り返す。
そのやり取りを見て、リリスは笑った。
その時、並んだ苗を眺めていたルシファーの目が、ひとつの葉で止まった。
「……これは……ネツァル、まさかこれって」
わずかな変化だったが、ベルゼブブはすぐに気づいた。
ネツァルが示された苗を見る。
「あ、それはチャノキの苗ですね」
それを聞いたルシファーの目の奥に明らかな光が差した。
顔には出していないつもりなのだろう。だが、近くにいる者には分かる程度に彼は全身で喜んでいた。
リリスは二人を見比べてから首を傾げる。
「どういう植物なの? ルシファーの好きなものなの?」
「うん、好きだよ。これは作り方でいろんなお茶になるんだ。緑茶も、烏龍茶も、それから紅茶も」
「まあ、そうなの? この葉から紅茶ができるのね!?」
「おい、リリス盛り上げるな」
「そうだよ」
ベルゼブブの声を遮るように、ルシファーは苗を見つめたまま声を弾ませる。
「紅茶はね、葉の育て方からもう味が変わるんだよ。土と水と風と、摘む時期と、揉み方と、乾かし方と……」
ネツァルが、思わず身を乗り出した。
「は、発酵の具合も大事ですっ!」
ルシファーが深く頷く。
「そう、それだよ。はあ…リリスにも早く飲ませてあげたいな」
「紅茶の話になると急に口数が増えるな」
ベルゼブブの指摘にルシファーはまた聞こえなかったふりをした。
ネツァルは苗を確かめるように両手を添える。
「……大事に育てましょうね、ルシファー様」
「そうしよう」
「楽しみだわ!」
三人はまるで尊いものでも見るようにチャノキの苗を囲んでいた。
マモンが少し離れた場所からその様子を見て、ぽつりと言う。
「なにを見せられてるの? 僕たち」
「……俺に聞くな」
ベルゼブブは短い沈黙のあと低く答えると、その横でムルシベルは肩を震わせて笑っていた。
いち早く現実に戻ったマモンが苗そのものへ目を向けた。
「ところで、それ、ここで育つの?」
その声にネツァルが振り向く。
「分かりません」
あまりの即答ぶりに、ルシファーの表情が止まった。
「分からない……」
「はい。天界と同じ水も土も光もありませんから、根を置ける場所を探して、まずはここで育てられるか確かめないと」
ムルシベルも周囲の岩場を見回した。
「確かに、今見えてるところはほとんど岩ッスね」
マモンが頷く。
「ちょうど水場を見に行くつもりだったし、その周りも一緒に見てみようか」
「水場は私が案内できるわ」
リリスが答えると、ネツァルがすぐに彼女を見た。
「お願いします。水の様子とその近くに根を置けそうな場所があるかも見たいです」
何人かが立ち上がりかけたところで、ベルゼブブが口を開いた。
「一度に全員で動くな。火床が空になる」
動きかけていた者たちが足を止める。
ネツァルは改めてリリスへ向き直った。
「で、では、水場へ向かうメンバーを決めましょう。リリスさんが、案内役で…えっと、マモンさんと……」
「俺も行くッス。水場までの道も見ておきたいんで」
ムルシベルが挙手すると、その後にルシファーも当然のように立ち上がった。
「俺もい「お前は残れ」
それを見たベルゼブブが即座に言い放つと、ルシファーの動きが止まる。
「どうして?」
「過保護すぎる。水を見に行くたびに保護者面でついて行かれたら、リリスが動きにくい」
リリスは少しだけ困ったように笑い、否定はしなかった。
ルシファーはあからさまにしょんぼりした様子で眉を下げる。
「俺はそんなつもりじゃ……」
「それと、お前は眠っていない。休んでいろ」
その一言で、ルシファーの反論がわずかに遅れた。
「いや、俺は……」
ベルゼブブは火のそばに座ったままルシファーを見る。
「残れ」
それは命令というより、もう逃がさないという声だった。
ルシファーはしばらくベルを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
水場へ向かうリリスの方を見て、まだ何か言いたそうにしている。
「……リリスを頼むね」
マモンが軽く手を振った。
「はいはい」
ムルシベルも頷く。
「任せてください」
ネツァルは苗袋を抱え直し、少し緊張した顔で言った。
「だ、大事に案内してもらいます……!」
リリスはルシファーを見上げて少しだけ頬を膨らませた。
「もう、ルシファーったら。 私は荷物じゃないわ」
「そういうつもりじゃなかったんだけど……ごめんね」
ルシファーは苦笑した。引き止めたい気持ちが消えたわけではない。
それでもここで止めれば、彼女が自分で案内したいと言ったことまで奪ってしまう。
それ以上何も言わず、ただ気をつけて、とだけ小さく付け加えた。
心配した様子でやり取りを見ていたネツァルもほっと胸をなでおろし、皆に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます、皆さん、よ、よろしくお願いします…!」
火床のそばには、彼女が持ってきた種袋と苗が残された。
地獄の水が合うのか、根を下ろせる場所があるのか、黄昏の光の中で葉を保てるのか、今はまだ誰にも分からない。
けれど、ここで育つかもしれないものが、初めて黄昏へ持ち込まれたのだった。




