第76話「建たない地獄」
黒を抜けた先には、黄昏が広がっていた。
マモンは黒い岩場に降り立つと、すぐには動かず周囲を見回した。天界の白さしか知らなかった目には、目の前に広がる景色をどう捉えればいいのかさえ分からない。
空は昼とも夜ともつかない色をしており、乾いた黒い地面の向こうには壁の様に見える森らしく影が沈んでいる。どこかでかすかに水の流れる音もしているが、それがどこから来てどこへ流れ何に使われているのかを示すものはなかった。
確かになにかはあるのだろう。しかし、どれひとつとして誰かのために置かれたものには見えなかった。
「うわ……何もない」
思わず漏れた声が、黄昏の岩場へ吸い込まれていった。
その少し離れた場所で余白の黒が揺れた。
誰かがそこを抜け、足元の感触を確かめるように地面を踏む。マモンが振り向くと、長い髪を無造作に後ろへ流した男が、黒い岩場の傾きや周囲の高低差へ目を走らせていた。
この土地をどう扱えるのか考え始めているその目には、見覚えがあった。
二人は少しのあいだ無言で顔を見合わせた。
「ムルシベル……お前も来たの?」
マモンが尋ねると、ムルシベルは短く笑った。
「そっちこそ。お前まだ天界で帳尻合わせてるもんだと思ってた」
「帳尻が合わなくなったから来たんだよ」
「奇遇だな。俺も図面が引けなくなった」
それだけ言うと、互いに詳しい事情までは聞かなかった。
天界のどこかでいつもの扉を開き、その先に白い回廊ではなく黒を見た。
そこで引き返さずここまで来た。その事実だけで、今は十分だった。
やがて岩の間から、原初の古いものたちが姿を見せ始めた。影の欠片のようなものが地面から覗き、輪郭を持ちきれない何かが黄昏の中で揺れている。
彼らはマモンとムルシベルを囲むように少しずつ近づいたが、それ以上の距離を詰めようとはしなかった。
「……またきた」
「ふたつ……」
「しろい」
「さっきのとちがう」
「たくさんみてる」
「かたちみてる」
マモンは眉を上げた。
「こいつら、何?」
ムルシベルも周囲を測っていた目を止め、近くにいた影のようなものへ声をかける。
「よく分からん。なあ、お前たち、ここの住人か?」
「じゅうにん?」
「あるもの」
ムルシベルは少し考えてから頷いた。
「たぶん……住人だな」
「適当だなぁ」
呆れながらも、マモンは原初の古いものたちへ向き直った。
「住人なら聞きたいんだけど、ここってどこなの?」
「どこ?」
「しらない」
「ここはここ」
マモンは額へ手を当てた。
「……参ったな」
ムルシベルは荒野と黒い森を見回しながら尋ねる。
「ここはずっとこんな感じなのか? 何か使えそうなものはないのか」
「あるものある。むこうのほう」
「にてるものも、いる」
マモンが顔を上げた。
「似てるもの? それって……」
ムルシベルはもう歩き出すつもりらしい。
「行ってみるか」
原初の古いものたちは二人を止めなかった。案内しているのか、ただ一緒についてきているだけなのかは分からない。それでも進む先には黒い森へ続く荒野があり、水の音が少しずつ近くなり、やがて火が燃えたあとのような匂いも混じり始めていた。
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その頃、火床のある岩棚を出たルシファーたちは黄昏の入口へ向かって荒野を戻っていた。
先頭を歩くベルゼブブの横では、古い気配がときおり入口の方をうかがうように揺れている。
ルシファーはリリスの歩幅に合わせて進み、今度は彼女を残して先へ出ようとはしなかった。
黒い森の影の手前まで来たところで、ベルゼブブが足を止める。
「……今度はお前たちか」
その声を聞いたマモンが片手を上げた。
「あ、ベル。やっぱりいた」
「やっぱりとは何だ」
「だって君、堕天第二号だもん」
ベルゼブブの眉がわずかに動いた。
「……そんな呼ばれ方をしているのか」
「正確にはもっと長いと思うよ。ルシフェル様に次いで天界から失踪した智天使ベルゼブブ、とか」
「余計に悪い」
二人のやり取りを聞きながら、ルシファーはマモンとムルシベルを見つめていた。
「智天使のマモンに、ムルシベル……君たちまで」
最後の言葉だけがわずかに掠れた。
マモンもムルシベルもそこには触れず、まず目の前に立つ彼の姿を見た。
黒い髪に、羽のない背。天界の白を脱いだ装い。顔立ちは確かに自分たちの知るルシフェルのものなのに、そこにいる男はもう天界の大天使ではなかった。
「「ルシフェル様」」
それでも、長く身についた動作までは簡単に消えず、二人はほとんど同時に片手を胸へ当て頭を下げた。
天界で高位の者を前にした時の礼だった。
ルシファーは困ったように眉を下げ、すぐに首を振る。
「二人とも、やめてくれ。俺はもうルシフェルじゃないし、ここは天界じゃない」
顔を上げた二人は、少し気まずそうに目を合わせた。
マモンが先に口を開く。
「……じゃあ、ルシファー様?」
「様もいらないよ」
ムルシベルは苦笑した。
「でもなあ……落ち着かないッス」
ルシファーは諦めたように息を吐いた。
「なら、好きに呼ぶといい」
「じゃあ、慣れるまではこれで」
マモンがそう言って視線を移すと、ルシファーも一歩だけ横へ動いた。
「リリス。こちらはマモンとムルシベルだよ。天界ではそれぞれ資源と建築に関わっていた」
リリスは二人を見て頭を下げた。
「初めまして。リリスよ」
マモンは彼女を値踏みするようには見なかった。
薄いサンダルを履いた足元から、疲れの残る顔、それでも自分の足で立っている姿までを順に確かめ納得したように口を開く。
「君には、いろいろと必要そうだね」
リリスは首を傾げた。
「それ、さっきベルにも言われたわ」
「褒め言葉だよ。何が必要なのか見えない場所では何も始められないから」
リリスは少し目を丸くした。
ベルゼブブに似たことを言われた時と同じく、自分の存在が負担ではなく、暮らしに必要なものを知るための手がかりとして扱われることに慣れるのにはまだ少し時間が必要だった。
ムルシベルは彼女の後ろに見える岩棚と火床へ目を向けた。
「ちゃんと休めてるんスか? ここ、エデンとは大違いッスよね」
「岩棚の下で眠ったわ。でも大丈夫。私、エデンでも似たようなものだったから」
ムルシベルは一度言葉を止め、それから感心したように頷いた。
「……なるほど。逞しいお嬢さんッスね」
リリスは小さく笑う。
「褒め言葉として受け取るわ」
「そうしてください」
ムルシベルも笑った。
火床のある岩棚へ戻ると人数が増えただけで、その場所は急に手狭に見えた。
黒い硝子を重ねたような岩肌の下では、石で囲われた小さな火が燃えている。火のそばには乾いた枝のようなものや樹脂に似た塊、用途の分からない石、リリスが川で拾った小さな欠片が、ひとまず一か所に集められていた。
同じ場所へ戻ってきても、マモンとムルシベルが見ているものは違った。
マモンは置かれたものの種類と位置を確かめ、ムルシベルは岩棚の傾きや火の位置、風の抜け方、水場まで続く道へ視線を動かしていた。
二人がひととおり周囲を見終えるのを待ってから、ルシファーが口を開く。
「いろいろあって、ベルには聞きそびれていたんだけど、君たちはどうやってここへ来たのかな。天界の状況も知っておきたい」
マモンが先に手を上げた。
「初めに言っておくけど、ルシフェ……っと、ルシファー様のせいって話じゃないからね」
ムルシベルも頷く。
「そうッスね。こっちはこっちで、もう戻れなかったってだけなんで」
「そこが知りたいところなんだ」
ルシファーは火へ目を向けた。
「俺は天界の外へ抜ける綴じ目があることに気づいた。だから自分の意思でそこを開いて出た。君たちも同じように綴じ目を見つけたのかい?」
ベルゼブブがすぐに答える。
「そんなことが俺たちにできると思っているのか。お前が天界の綴じ目を読めたのは、お前があの場所を誰より深く読み、見ていたからだ」
ルシファーが口を閉じると、マモンが続ける。
「僕の場合は、扉がそこに現れた」
「現れた?」
「探したわけじゃない。いつもの扉を開けただけだよ。そうしたら、その向こうにあるはずの回廊がなかった」
ムルシベルも自分の手を見下ろした。
「俺も同じッス。綴じ目を見つけたわけじゃない。いつもの扉を開けたと思ったら、その先が黒に繋がってた」
ベルゼブブは二人の話を聞いて頷いた。
「なら、俺たちは同じだったわけだ」
火の中で枝のようなものがパチっと小さく鳴った。
ルシファーは三人を順に見た。
「……何が君たちをそこまで連れていったのか、聞いてもいいかな」
すぐに答える者はいなかった。
ややあって、最初に口を開いたのはベルゼブブだった。
「俺は記録が嫌になったわけじゃない。むしろ、記録は正しくあるべきだと今でも思っている。だが、正しく並べれば済む顔をした文字が、急に読めなくなった。お前の不在も、リリスの離反も、庭の継続も、項目としては並べられる。しかしその行を読んでもそこで誰が何を選び、どこで息を詰まらせたのかは記録に残らなかった」
マモンは、火のそばに置かれていた小石を指先で転がした。
「僕は帳尻を合わせる側だった。足りないなら補う。外れたなら代わりを入れる。それで全体は続いていく。でも、リリスの件を見た時に思ったんだ。外れたものは、そのあとどこへ行くんだろうって……」
リリスがわずかに顔を上げた。
マモンは彼女へ答えを求めるでも、慰めるでもなく、自分が考えるようになったことをそのまま続けた。
「空いた席が埋まれば、それで終わりじゃない。そこを離れた者にもその先がある。全体が続くことは大切だけど、表の上だけ綺麗に埋めて、外へ出たものを見ないことは循環とは呼べない。そう思ったらもう以前と同じようには帳尻を合わせられなくなった」
ムルシベルは、少し離れた岩肌を見ながら口を開いた。
「俺は天界の場所を作る仕事に誇りを持ってたッス。宮殿も庭も回廊も、神の美しさを形にして、誰かが迷わず、守られて過ごせる場所を作ってるつもりだった。でも、ルシフェル様がいなくなって、神の言葉がそのまま降りてくるようになって、エデンの報告が回ってきてから、今まで作ってきたものの見え方が変わったんス」
彼の目は、まだ存在しない線を探すように黒い岩棚の端を辿っている。
「俺が作ってきた場所は、誰かが休むための器だったのか。それとも、決められた位置へ戻すための枠だったのか。居場所を支える形と、逃げ道を塞ぐ形って、見た目だけならよく似てるんスよ。綺麗で、寸法も合っていて、誰も困らない顔をしてる。でも、一度そう見えたら駄目だった。次に線を引くたび、これは誰かを休ませるためなのか、それとも戻すためなのかって考えてしまう。もう、天界で以前と同じ図面は引けなかった」
三人とも、自分の仕事を嫌って天界を出たわけではなかった。
ベルゼブブは記録を正しく残そうとしたからこそ、整えた文字の中から誰かの選択が見えなくなることに耐えられなくなった。
マモンは全体を巡らせようとしたからこそ、外へ出た者の先を見ない帳尻合わせを続けられなかった。
ムルシベルは誰かが安らげる場所を作りたかったからこそ、自分の引く線が誰かを決められた場所へ戻す枠にもなり得ると知ったあと、以前と同じ図面を引けなくなった。
ルシファーは三人の話を聞き終えると、ゆっくり息を吐いた。
「つまり君たちは、それぞれの場所でいつもの扉を開けた。けれど、その向こうがいつもの白い回廊ではなく、何も書かれていない黒……未記入の黒になっていた。俺は天界の綴じ目を読んで、自分から開いたけれど、君たちはそうじゃない。未記入の黒に繋がる扉の方が現れたんだね」
ベルゼブブが答える。
「そうだ」
マモンも頷いた。
「僕は扉なんて探していない。開けた時には、向こうはもう天界じゃなかったんだ」
ムルシベルは肩をすくめる。
「戻ろうと思えば、たぶん戻れたッスよ。でも戻ったところで、もう同じ線は引けないことは明白だった」
ルシファーは火の向こうに座る三人を見た。
彼らはルシファーを追ってきたわけでも、神に突き落とされたわけでもない。それぞれが自分の持ち場で以前のようにはいられなくなり、その先に現れた黒へ自分で踏み出した。そのことは分かっていても、最初に天界の外へ出た自分と無関係だと、ルシファーにはすぐに切り離せなかった。
リリスも、エデンで自分が選んだことを悔いてはいない。それでも、そのあと天界で起きた変化を目の前の三人から聞けば、何も感じずに聞き流すことはできなかった。
二人の顔を見比べたムルシベルが、少し乱暴に話を切り替えた。
「でもまあ、俺たち、ルシファー様やリリスさんのせいだなんて、少しも思ってないんで」
マモンも頷く。
「そうそう。自分たちのせいなんじゃないかって顔をされると、僕たちの方が困るんだよね」
ベルゼブブは火を見たまま言った。
「どちらにせよ、もう天界には戻れない。なら、ここを何とかするしかないということだ」
起きたことについて考え続けても、目の前の地獄にやわらかな寝床が増えるわけではない。
その一言で、皆の視線が自然と今いる場所へ戻った。
ムルシベルは改めて岩棚を見回した。
「それにしても、ここ……本当に何もないッスね」
マモンも周囲へ目を向ける。
「何もないというより、ただ在るだけだね」
「一応、水と火は見つけたんだけどね」
ルシファーが言うと、ベルゼブブはすぐに返した。
「それだけでここを居場所にできるなら苦労はしない」
ムルシベルは火床を見たあと、岩棚を見上げ、最後にルシファーへ視線を向けた。
「お言葉なんスけど……元大天使長は、ここで何をしてたんです?」
「うーん、俺はそういう担当じゃないというか……ほら、読む役だったからね」
マモンがムルシベルへ顔を寄せ、小声で言う。
「ここでは無力ってことだよ」
ムルシベルは納得したように頷いた。
「……なるほどな」
「聞こえているよ。俺もやろうと思えばできると思うんだけどね」
ベルゼブブが容赦なく口を挟む。
「逞しさでいえば、石を積もうとしていたリリスの方が上だ」
リリスが少し得意そうに背筋を伸ばしたあと、今度はマモンがベルゼブブを見る。
「ベルも突っ立っていただけじゃん?」
「整理はした」
「手は動いてなさそうだね」
ベルゼブブの眉間に皺が寄った。
そのやり取りを見ていたルシファーから思わず笑みがこぼれた。
三人が地獄に来た理由を聞いても、自分の中に残ったものがすぐに消えるわけではない。
それでもここには休める場所もなければ、食べ物さえない。誰が何を抱えていようと手を動かさなければ、ここでどう過ごしていくかを考える事も、始めることもできない。
ムルシベルがもう一度周囲を見回すと、すっかり仕事の顔になった。
「素材はありそうなんで、時間をかければなんとかなりそうッスね。まず何建てます? やっぱりルシファー様とリリスさんが住む王宮とか?」
「いらない」
即答だった。
ムルシベルが目を瞬かせる。
「早いな」
「そんな派手な場所はいらないよ。リリスが落ち着いて休めて、ひっそりお茶を飲める場所があればそれでいい」
マモンはルシファーをじっと見た。
「……隠居する気です?」
ベルゼブブも低い声で言う。
「まだ何も始まっていないぞ」
リリスは少し考えてから、楽しそうに口を開いた。
「お茶を飲む場所は素敵だと思うわ。ルシファーの好きなものだしいつか作ってあげてほしいわ」
ルシファーは嬉しそうにベルゼブブを見る。
「ほら」
「ほら、じゃない。教育するな」
二人が味方を増やそうとする前に、ムルシベルが現場の都合で話を切った。
「茶は後ですね。まずは雨風を避ける場所と、寝る場所、火を置く場所。それから水をどう運ぶか」
そそくさと黒い地面に線を引き始めたムルシベルの横で、ルシファーは肩を落とした。
「……厳しい」
「現場なんで」
ムルシベルはもう返事を待たず、火床と岩棚を見比べながら黒い地面へしゃがみ込んだ。
指先で砂を払いしばらく考えたあと、地面へ一本の線を引く。
リリスが興味深そうに覗き込んだ。
「それは何?」
「図面の前ッス。まだ、何をどう建てられるかも分からないんで」
原初の古いものたちも集まり、地面に残った線を不思議そうに見つめていた。
「ずめん?」
「これから、ここをどう使うか考えるためのものだよ」
ルシファーが答えかけ、ふと古い気配を見る。
「……ここにあるものを、俺たちが使ってもいいのかな」
古い気配は少し揺れた。
「ここには、あるものがあるだけ。そうしたいなら、したらいい」
「ありがとう。無理に壊したり、粗末に扱ったりはしないよ」
マモンは火のそばに散らばっていた石や枝へ目を向けた。
「何が使えるかも、これから見ていけばいいね」
ムルシベルは一連のやりとりのあと、もう一度地面へ視線を戻した。
天界で彼が引いてきた線には、いつも先に目的があった。宮殿なら宮殿、回廊なら回廊、その場所が何のために存在するのかを知らされたうえで図面を引いていた。
けれど今、黒い地面に残っている線には、まだ名前さえない。
誰かを決められた場所へ戻すためでもなければ、与えられた形を再現するためでもない。ここにいる者たちが、これからどう過ごしたいのかを考えるための線だった。
地獄にはまだ、道すらない。
それでも火のそばの黒い地面には、その日初めてムルシベル自身が引いた線が残った。




