第75話「足りないもの」
リリスを囲むように集まった原初の古いものたちは、「あまい」「げんき」と、覚えたばかりの言葉を小さく繰り返していた。食べたそうにするわけでも、金平糖を欲しがるわけでもない。
ただ、リリスが笑ったことを不思議そうに眺めている。
ベルゼブブはその様子を横目に見ながら、黒い岩棚の下へ視線を巡らせた。
火も風を避けられる岩棚も見つかっている。だが、どれも今すぐ行き倒れずに済むというだけで、ここを暮らす場所と呼ぶには足りないものが多すぎた。
天界では、必要なものは初めから用意されていた。
役目に応じた部屋があり、机があり、水路があり、決められた手順があった。
しかし、ここにあるのは誰かのために整えられたものではない。水も火も石も森も、ただそこにあるだけで、何に使い誰のために運び、どこへ置くのかを一つずつ決めなければならなかった。
ベルゼブブが息を吐くと、それに気づいたルシファーがこちらを見た。
「何か気になる?」
「気になるものしかない」
「それは困ったね」
「なにをのん気にしている」
二人のやり取りを聞いたリリスが笑うと、火の光が頬に薄く映った。
ルシファーはその顔につられて目元を緩めかけたが、ベルゼブブの視線に気づいてすぐに表情を戻した。
遅い。もう十分に見られていた。
リリスは掌に残していた金平糖を口に含み、今度はぽりぽりと音をさせながら噛み砕いた。
甘さと口当たりを嬉しそうに確かめた後、ふと思い出したようにルシファーの隣まで歩いてきて隣に腰を下ろした。
「そういえば、ルシファー」
「うん?」
「さっき、あなたのことがまたひとつ分かったわ」
ルシファーは言葉を選ぶように少し間を置いた。
「それは……どんなことかな?」
リリスは首を傾け、いたずらを思いついたように笑った。
「秘密」
「秘密かあ。 そういえば俺も君に伝えなくちゃいけないことがあった」
ルシファーは困ったように笑った。
「なにかしら?」
「ごめんね。さっきは急に手を放して」
「いいの。だってそのおかげで、あなたのことが分かったんだもの」
「そうなの?」
顔を見合わせてから、ふふっと同じタイミングで笑い始める二人から視線を外し、ベルゼブブは黄昏の奥を見た。
ベルゼブブが思っていた以上に、リリスは相手の奥までよく見ているらしい。
ルシファーが天界で言葉にできずにいたものの輪郭が、ベルゼブブにも少しわかりかけた気がした。
とはいえ、今はこののほほんとした二人を眺めている場合ではない。
「そういえば、水場はあるのか?」
ベルゼブブが尋ねると、リリスはすぐに顔を上げた。
「少し歩いた先にあるわ。黒い川みたいに見えるけれど、水は澄んでいるの」
「火は」
「岩の裂け目から分けてもらったの」
「分けた?」
「ええ。岩の裂け目から火が出ていたから、その火をここにも灯したの」
ベルゼブブはリリスを見た。
水がどこにあり、火をどう運び、どこなら風を避けられるのか。説明の早さだけなら、ルシファーより彼女の方がよほど頼りになる。
喉が渇く、寒い、風に当たり続けるとつらい、横になって休みたい。
天界では大きく扱われなかった身体の都合を、人であるリリスはここで暮らすための基準として捉えていた。
「この先は、どうするつもりだった」
ベルゼブブがルシファーへ視線を戻すと、彼は少し姿勢を正した。
「考えてはいたよ」
「具体的に」
「まず水と火を確保して、休める場所を……」
「その次は」
「……食べ物かな」
「どうやって」
「……探す」
「誰が」
「……俺が?」
「探せるのか」
ルシファーはわずかに背筋を伸ばした。
「努力はするよ」
ベルゼブブが目を細めると、よほど信用のない顔に見えたのか、ルシファーは慌てて言葉を足した。
「いやだな、本当に考えていたよ。最終手段としては余白の黒を越えて、エデンのあった人間界へ行く。そこで地上にある食べ物を取ってくる、とか」
ベルゼブブはしばらく目の前の男を見つめた。
どうやら冗談ではないらしい。
真面目な顔でひとまず腹を満たすだけで何も解決しない案を口にしている。
「一見便利なことを言っているようだが、何の根本的な解決にもなっていない」
「……そうだったね。そうだよね……」
ルシファーが素直に肩を落とす横で、リリスは口元を押さえて笑いをこらえていた。
ベルゼブブは構わず続ける。
「お前……ここでは思ったより使えないな」
「辛辣じゃないかな?」
「現状確認だ」
「現状が厳しい……」
ルシファーが本気で困った顔をしたため、リリスはとうとう声を漏らして笑った。
ルシファーは彼女をちらりと見て笑われたことよりも、彼女が笑っていることにほっとしたような顔をした。
ベルゼブブは、それも見逃さなかった。
天界にいた頃のルシファーは、誰よりも神の言葉を正確に読み、その奥にあるものへ手を伸ばしていた。
自ら天界を出て与えられた名さえ選び直した男である。
ところが、ここで食べ物を探し、寝床を整え、火を保ち、水を汲むとなると、途端に頼りなくなる。
けれど、できないのは、彼に能力がないからではない。
天界では、暮らすために必要なものが用意されすぎていた。
今まで自分で探す必要のなかったものを、初めて何もないところから数え始めているのだ。
リリスは膝の上に置いた手を見ながら言った。
「食べるものだけじゃなくて、水を入れるものも必要ね。手ですくうだけじゃここまで持ってこられないもの」
ベルゼブブは頷いた。
「器だな」
「それから、眠る場所に敷くものも欲しいわね。今のままだと、石の上に寝ることになるでしょう? ちょっと痛そう」
「布か、草か。何か柔らかいものだな」
「体を洗う場所も必要だわ」
そこまで言ってから、リリスはわずかに言葉を止めた。
ルシファーが何かを案じて顔を引き締めるより先にベルゼブブが答える。
「……必要だろうな」
リリスは意外そうにベルゼブブを見た。
当の彼は、周囲を確かめながら続けた。
「お前がいると、要るものが増えるな」
「……迷惑?」
「逆だ。何が必要か分かる」
今度こそ驚いたリリスは瞬きをした。
ルシファーまで何を言い出したのかという顔でベルゼブブを見ている。
彼にしてみれば、特別なことを言ったつもりはなかった。必要なものが見えるのはこれからこの場所を整えるうえで大きな助けになる。足りないと言われなければ、いつまでも用意されないままだ。
リリスはやがて、嬉しそうに微笑んだ。
「そう。なら、たくさん言うわ!」
「言え。全部が通るとは限らないが」
「ええ、分かったわ」
二人の話を聞いていた古い気配が、考えるように揺れた。
「あるものを、つかう?」
ベルゼブブはそちらへ顔を向けた。
「そうだ」
「つかうと、なくなる?」
「なくなるものもあるし、別の形になるものもあるわ」
リリスが答えると、ルシファーも続けた。
「分けられるものもあるね。火みたいに」
古い気配は受け取った言葉を確かめるように繰り返した。
「わける。つかう。なくなる。かわる……」
周囲の原初の古いものたちも、その一部を小さく口にしている。
水、火、必要、撫でる、お礼、甘い、元気。
彼らが覚えた言葉はまだ少なく、使い方もおぼつかない。
それでも、火を囲む者が増えるたび黄昏にはそれまでなかった言葉が残されていった。
リリスは何かを思い出したように、そばに置いていた石を拾った。
「これも川で見つけたの。綺麗だったから」
彼女の掌には緑がかった濁りを持つ欠片と、淡い金色の小さな石が載っていた。
水に濡れていた時ほど鮮やかではないが、火を受けると表面が鈍く光っていた。
「川底にこういうものがあるのか」
「黒い石と、それから緑のものも、少し黄色いものもたくさんあったわ。」
「なるほど、覚えておく」
何に使えるのかも価値があるのかも分からない。だが、分からないからこそ残しておく必要がある。
ベルゼブブは火のそばに置かれた枝らしきものや樹脂の塊、黒い石、リリスが拾った欠片を順に見ていった。
この場所には知らないものが多すぎる。
ならば、見つけたものを分け、性質を確かめ、後から辿れるようにするしかない。
「まず必要なのは三つだ」
「三つ?」
リリスが尋ねる。
「水を汲むもの、眠る場所、食べるもの」
「それだけ?」
「それだけではない。だが、その三つがなければ次へ進めない」
ルシファーが苦笑した。
「ずいぶん現実的だね」
「現実だからな」
ベルゼブブは石に囲まれた火床を見た。
今は小さな炎が保たれているが風向きが変われば消えるかもしれない。
水場までは距離があり、食べ物も寝床もない。
この場にあるのは黒い岩棚と火、それから休めていない三人だけだった。
「俺ができるのは、ひとまず整理までだ」
ベルゼブブが言うと、ルシファーがこちらを見る。
「適任者がいれば、話は変わるが……」
特定の誰かを思い浮かべているわけではなかった。
ただ、この場所には整理する以外の手が必要になる。
石を積む者、木や鉱石を削る者、使えるものを探す者、食べ物を育てる者。
天界では役目が先に与えられ、それに必要なものも最初から当たり前の様に揃っていた。
ここでは誰が何をできるのか、本人たちさえまだ知らない。
リリスが黄昏の空を見上げた。
「ここは夜なのかしら。それとも昼?」
火のそばに座っていると、どれほど時間が過ぎたのか分からなくなる。
空は変わらず黄昏の色をしており、暗いとも明るいとも言い切れなかった。
古い気配が答える。
「あかるくなるときもある。くらくなるときもある」
ベルゼブブは額へ手を当てた。
「つまり、分からないと」
「わからない」
「よし。俺は休む」
ベルゼブブは黒い一枚岩の、比較的なだらかな場所へ腰を下ろした。
岩棚の下で火の熱が届き、風も直接は当たらない。
とても寝るのに適した場所とは言い難いが、少なくとも今ある中ではまだましだった。
そのまま仰向けになると、リリスが目を輝かせた。
「楽しそう! じゃあ、私も」
「楽しそうなのかな?」
ルシファーは戸惑っていたが、リリスは座るとそのまま岩の上に身体を横たえた。
「こんな場所で空を見ながら三人で並んで眠るなんて、初めてだもの!」
「それは……そうかもしれないね」
ルシファーも少し迷ったあと、二人の間へ横になった。
ベルゼブブ、ルシファー、リリスの順に三人が並び、足元では火が燃え、岩棚の外には黄昏の空が広がっている。
古い気配たちはリリスの横へ集まり、地面の上へ自分たちを薄く広げた。
眠る、というより、影を敷いてその場に留まっているように見える。
リリスはその様子を見て笑った。
「あなたたちも休むの?」
「リリスが、そうしてる」
古い気配が答える。
「なら、一緒ね」
「いっしょ……」
その言葉も覚えようとしているらしく、いくつかの声が黄昏の下で繰り返した。
仰向けになったベルゼブブは、岩棚の縁に切り取られた空を見つめていた。
天界の空とは違い見上げたところで時刻も方角も分からず、自分がどこにいるのかを確かめる手がかりにもならない。
しばらくして、彼は隣にいるルシファーへ尋ねた。
「……最後に眠ったのはいつだ」
ルシファーはすぐには答えなかった。
「……エデンを出る前かな」
「それは眠ったうちに入るのか」
「少しは」
「眠らない理由があるな」
足元で火が小さく鳴った。
リリスも口を挟まず、ルシファーの返事を待っている。
ルシファーは空を見たまま、何でもないことのように答えようとして失敗した。
「……今は、見たくないものがあるだけだよ」
ベルゼブブはそこで追及を止めた。
「後で聞く」
「君はそればかりだね」
「後でお前を逃がさないためだ」
そう告げると、ベルゼブブはルシファーに背を向け、それ以上は何も尋ねなかったが、話が終わったわけではないことは、その態度だけで十分に伝わっていた。
リリスはしばらく空を見上げたあと、ルシファーの手へそっと自分の手を重ねた。
「眠れないなら、起きていてもいいわ」
「リリス」
「私もまだ眠れそうにないから」
ルシファーが顔を向けても、リリスは空を眺めたまま微笑んでいた。
「眠れない?」
「あんまり眠くないの。さっきあなたのそばでたくさん眠ったもの。こうして空を眺めているのも楽しいわ」
リリスの手が、起きているのなら隣にいると伝えているのがわかる。
「……そうだね」
ルシファーの声から、張り詰めていたものが少しやわらいだ。
背を向けたまま、ベルゼブブは二人の声を聞いていた。
この女——リリスはルシファーを変えようとも、立ち直らせようともしていない。
不思議な女だ、そう思いながらベルゼブブは意識が遠くなっていくのを感じていた。
堕天した直後の身体に、人間と同じ疲れがあるのかは分からない。
それでも、記録室の扉を越え、果ての見えない黒を歩き、この黄昏まで辿り着いた彼の思考は火のそばでようやく止まった。
原初の古いものたちも声を潜め辺りから言葉が消えていく。
起きていたのはルシファーだけだった。
眠りに落ちたリリスの手はまだ彼の手に重ねられている。
ベルゼブブは背を向け、足元では火が燃えて、黄昏の空は相変わらず夜にも朝にもなろうとはしなかった。
ルシファーは目を閉じられないままその空を見ていた。
眠れば自分の中で起きたことをもう一度見るかもしれない。
リリスが境界へ縫い止められようとしていたあの場所で、自分が何をしたのか。
神の言葉を誰より正確に読んでいたこの目には、今度は何が見えるようになってしまったのか。
答えを出す事を自分はきっと怖がっている。
それでも今は隣にリリスがいて、すぐそばにベルゼブブがいる。
そのことを確かめるうちに、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていった。
——どれほど経ったのかは分からない。
空の色は先ほどより薄くなったようにも見えたが、見慣れただけかもしれなかった。
ベルゼブブとリリスはまだ眠っており、ルシファーも無意識にまぶたを閉じかけていた。
その時、それまで地面に広がっていた古い気配が動いた。
「……また」
はっと気づいた様にルシファーも目を開けた。
「また?」
「ふたつ」
「……二つ?」
古い気配は黄昏の入口へ意識を向けている。
「しろいけはい。けど、ちがう。ひとつは、たくさんのものをみてる。ひとつは、かたちをみてる」
背を向けていたベルゼブブが目を開いた。
「……まさか、天使か?」
ルシファーは苦笑する。
「おはよう。そのようだね」
ベルゼブブは身体を起こしながら、眠気の残る低い声で言った。
「誰が来たんだが……」
「ふあ……賑やかになりそうね」
リリスも身を起こし眠そうに目元をこすっている。
ルシファーが目を細めて彼女を見る。
「おはよう、リリス。起きたんだね」
「ええ、いつの間にか寝ちゃってたわ。ごめんなさい」
リリスはそう答えると、眠っている間も重ねたままだった手を申し訳なさそうにきゅっと握った。
「いいんだよ。 さて、誰が来たのか見に行こうか」
三人は火のそばで身体を起こし、古い気配が見つめる先へ目を向けた。
足りないものを数え終えるより先に、地獄はまた新しい足音を受け取った。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。
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