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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第二章 地獄黎明編

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第74話「答えの形」

黄昏の入口の、天界の白を引きずった気配——ベルゼブブは黒い岩場の上に立ち、しばらく周囲を見渡していた。


天界の床は、踏めば足音を返した。回廊は行き先を示し、柱の間隔は距離を教え、窓から差す光は時の流れを知らせていた。

だが、この場所で足元の岩はただ硬く、空は昼とも夜ともつかない色に沈んでいる。どちらへ進むべきかを示すものはどこにもなかった。


だからといって、何もないわけではなさそうな事だけはわかる。

遠くからなんらかのかすかな音が届き、遠くの方では黒い森が黄昏の奥に影を沈めている。

岩の割れ目には見たことのない色が鈍く光り、天界の白に慣れた目にはどれも整えられる前の姿で差し出されているように見えた。


そして、その景色の中には、こちらを見ているものがいる。


姿ははっきりせず、剥がれ落ちた影の欠片にも石の間に溜まった古い夜にも見える。

小さな子どもの輪郭を取るものもいれば、形を持ち損ねた獣のように揺らぐものもあった。

いくつもの気配が声もなくベルゼブブを眺めていたが、そこには相も変わらず歓迎も敵意も感じられなかった。

ただ、見ている。見られている。


「……きた」


声がどこから発せられたのかは分からなかった。


「またきた」


「しろいけはい」


「まえのと、すこしちがう」


ベルゼブブは声のした方へ目を向けたものの、どれが話したのかは判別することはできなかった。

気配たちはそのまま少しずつ距離を縮め、珍しいものでも眺めるように彼を見上げていた。


「お前たちはなんだ? ここはどこだ」


問いかけても返事はなかった。答えるつもりがないのか、そもそも返事をするという考えがないのかも分からない。


天界の様にどこかへ続く回廊も案内役もなく、行き先を示すものもないのなら、立ち尽くしていても仕方あるまい。

ベルゼブブは目に入るものをひとつずつ確かめるように歩き始めた。


黒っぽい地面は乾いており、ところどころが硝子のように光っている。割れ目には淡い色の欠片が沈んで天界とは違う乱れた風が衣服の裾を揺らした。

先ほどからかすかに聞こえていた音は、川らしき場所からの水音だった。

それは右手の奥から聞こえ、その先に壁のように見えていた黒い森らしき地帯が広がっているらしかった。

 

なんなのかわからない気配たちは、彼を止めず距離を空けたまま後ろについてきた。

ベルゼブブは、進行方向に立ちはだかる黒い壁のように見えていた森を指さした。


「あれはなんだ」


「あるもの」


短い返事が戻ってくる。


「またそれか」


別の気配が、少し考えてから付け足した。


「たかく、おいしげるものがたくさんある場所」


最初からそう言え、と口にしかけてベルゼブブはやめた。

この場所ではおそらく、名前は初めから備わっているものではなく、誰かが用途や区別を見つけた後で貼られるものなのだろう。

何かは何かとして扱われる前に、ただそこにある。


天界とはまるで違っていた。

その扱いにくさは面倒だったが、分からないものを分からないまま見ていられる感覚にはわずかに興味を引かれた。



----- 

 


同じ頃、火のそばではリリスが眠っていた。


黒い硝子を重ねたような岩棚の下に小さな火床があり、彼女はルシファーの肩へ頭を預けている。

そうしてから数時間は経っていたが、火は絶えない程度に保たれ、古いものたちは少し離れた場所で眠るでもなくそこに佇んでいた。


ルシファーだけは目を閉じず、肩に預けられた身体を起こさないよう、ほとんど姿勢を変えずに火を見ていた。

炎が黒い髪の端を照らすたび、白い式服も六枚の羽も失った姿が黄昏の中に浮かび上がった。

天界の者が見れば、かつてのルシフェルと同じ存在だとはすぐには受け入れられなかったかもしれない。


それでも、古い気配たちは彼を見間違えることはなかった。


 それを少し興味深いなどと思っていた時だった。

 

火の向こうにいた気配のひとつが、ふいに黄昏の入口へ意識を向ける。

何かを聞いたわけでも、誰かに呼ばれたわけでもないのに、遠くを見るようにすっと首の様な部分を伸ばした。

ルシファーも顔を上げる。


「どうかしたのかい?」


「……またきた」


「え?」


「きみとおなじ。だけど、すこしちがう。しろいけはいがきた」


ルシファーは反射的に立ち上がりかけたが、肩にもたれていたリリスの身体が傾いた。

すぐに腕を回して支えると、彼女は小さく身じろぎした。


「……ん……ルシファー?」


「ごめん、起こしちゃったね」


リリスは眠りの残る目をゆっくりと開き、火の光を見たあと自分が肩を借りていたことに気づいた。

口元を手で覆ってあくびをすると、少し寝ぼけている様なおぼつかない笑顔を見せた。


「大丈夫。たくさん眠ったわ。肩を貸してくれてありがとう、ルシファー」


そう言って、彼女は当然のように彼の頭へ手を伸ばした。


リリスの細い指先が黒い髪に触れると、ルシファーは動き方を忘れたように固まった。

やがて、ためらいながらもわずかに頭を下げる。

拒まれなかったことに気づいたリリスの手が、もう一度髪の上をゆっくりと滑った。


誰かの頭へ手を置いたことならいくらでもあった。

小さな天使を宥める時や、怯える者を落ち着かせる時、兄として、教師として、彼はいつも誰かへ手を差し出す側だった。


けれど、自分の頭へ誰かの手が降りてくる体験を、ルシファーはほとんど知らなかった。


リリスの指は何かを求めるでもなく、ただ礼を返すために髪へ触れている。

それだけのことが、彼の身体から力を抜いていった。

自分から離れる理由を探すより先に、もう一度触れてほしいと思ってしまったことに気づき、ルシファーはますます動けなくなった。


周囲の原初の古いものたちが、様子を見ながら囁き合う。


「なでられている」


「おれい」


「なでるは、おれい」


「……ルシファー」

 

火の向こうにいたひときわ古い気配のその声に呼び戻されるように、ルシファーは瞬きをした。


「あ、はい」


リリスが不思議そうに彼を見上げる。


「どうかしたの?」


古い気配が黄昏の入口を示すように揺れた。


「しろいけはい、きた。ここにつれてくる?」


ルシファーの顔から先ほどまで残っていた緩みが消えた。


「それは待ってほしい。何を目的に来たのか分からない」


古い気配は短く頷いたように見えた。


「わかった」


そのやり取りを聞いているうちに、リリスの目から眠気が消えていった。


「白い気配って……天界から誰かが来たということ?」


「だろうね」


「ここ、そんなに簡単に来られる場所なの?」


「そうではなかったはずなんだけどね……」


ルシファーは天界を出た時のことを思い返した。

自分は天界の綴じ目を読み、白の内側が途切れる場所を見つけたからこそ、その先の黒へ踏み出せた。

では、別の天使はどうやってここまで来たのか。

父上の言葉によるものか、はてまた何らかの処置を受けたのか。

それとも、リリスあるいは自分を連れ戻す使命を与えられたのか。


同じ可能性に思い至ったのだろう。

リリスの指が火床のそばの岩を掴んだ。


「……私たちを戻しに来た天使かしら?」


「俺が行くよ」


考えるより先に、ルシファーの口から言葉が出た。


「なら、私も行くわ」


「君はここにいた方がいい。何らかの使命を持った天使なら、俺が対応する」


リリスは首を横に振った。


「私も行く」


「リリス」


「……分かっているわ。私は何も知らないし、できることもない。でも、先に決めないで」


声は大きくなかったが、言葉を押し戻されないよう、一つひとつを確かめながら口にしていた。


天使を前にすれば、また声が震えるかもしれない。

何かを言い返すだけで精一杯になり、自分が無知で何も持たず、この地獄についてさえほとんど知らないことを突きつけられるかもしれない。

それでも、自分の行き先を自分のいないところで決められることだけは受け入れられない。

それが例え、ルシファーが自分を守ってくれようとしているのだとしても。

迷惑をかけたいわけではない、自分もルシファーを守りたかった。


そこまで口にすべきか迷って、リリスの表情が曇っていく。


それを見ていたルシファーは、ようやく自分の言葉が彼女にどう届いたのかを悟った。


後ろに置くつもりなどなかった。

守ろうとしただけだった。だが、彼女の意思を聞く前に自分が安全だと思う場所へ残そうとしたことに変わりはない。


「……そうだったね。ごめん」


彼が差し出した手を、リリスはしばらく見つめた。


「一緒に行こう」


リリスは息を吐くと安心したようにその手を取った。

重なった指をリリスの方から握り返し、笑った。


ルシファーは古い気配へ向き直った。


「その白い気配のところまで案内してくれるかい?」


「わかった。しろいけはい、もう、すこしずつこっちにきてる」


「そうか。なら行こう」




---

 

 


黒い森は近づくほど奥行きを失っていった。


ベルゼブブはその手前で足を止め、どこから入るべきかを探していた。

天界の庭であれば、木々はどこから見ても全体の形を見失わせず、枝の重なりも風の通り道も、歩く者を迷わせないよう整えられていた。

だが目の前の森は入口も行き先も示さないまま、黄昏の奥へ沈み込んでいる。


その森を眺めていた時、背後の空気が変わった。


 

来た道を戻るように、古い気配に案内されて岩場を進んでいたルシファーは、黒い森の傍に差し掛かったところで、黄昏の向こうにあるものを捉え不意に立ち止まった。


リリスと繋いでいた手から力が抜け、彼女が緩んだ指先へ目を落とす間にルシファーの唇がわずかに動いた。


「…………うそだ」


息とともに零れた声を聞き、リリスは顔を上げた。


「……ルシファー?」


彼は答えず、黄昏の向こうを呆然と見つめている。

見開かれた瞳は、黄昏の向こうにいるはずのない存在を確かに捉えていた。


ルシファーが一歩を踏み出すと、繋いでいた手が完全に離れた。

離れた足取りは一歩ごとに速くなっていく。


突然の事に思わず顔を見合わせたリリスと古い気配はその場に残され、何が彼を動かしたのかも分からないままその背中をただ見送るしかできなかった。


けれど、手を離されたことより先に、先ほどのルシファーの表情や見開かれた瞳を見て、リリスには一つわかったものがあった。

 

彼が向かっているのは、きっと見知らぬ誰かのもとではないのだろう。

ルシファーの中にずっと以前から残っていた場所へ戻ろうとしている。そんな気がした。


それは、自分の知らない天界の時間。

そこにいた頃の彼をリリスは何も知らない。

それでも今の彼を見れば、そこに彼が大切にしていたものがあったのだと分かった。

名前を聞くより先に身体が動いてしまうほどの誰かが、彼にはいたのだ。


自分の知らない彼が確かに存在することに、少しだけ胸の内側がわずかにきゅっと音を立てて狭くなる。

それでも、その事実には向き合いたいと思った。

ルシファーが失ったものまで自分のために無かったことにしてほしいなんて思えないし、言うつもりもない。


リリスは離された手を見た。

 

 

ああ——これが『さみしい』なのね。


そう思って少しだけ眉を下げ、小さくなるルシファーの背中を追った。




 


黒い森の前に立っていたベルゼブブは、近づく足音に気づいて振り向いた。


黄昏の荒野を黒い髪の男がこちらへ向かってくる。


白い式服も、六枚の羽もない。

天界の光を含んでいた銀髪さえ失われた、黒い髪の男。


それでも、ベルゼブブには分かった。


「ベルッ!」


姿より先にその声が届いた。

ベルゼブブは目の前まで来た男を見つめ、呼びかけようとした名を途中で変えた。


「……ルシフェル……いや、今はルシファーか?」


「そうだよ。それより、どうしてっ……」


問いかけながら、ルシファーは言葉を失った。黄昏の中で彼の顔からいつもの余裕が完全に消えていた。


ベルゼブブはその表情を見ながら答えた。


「……さてな。ただ、もう戻れなかった」


「ッ!……どうして君まで……俺が、君に何かを渡してしまったのかい?」


ルシファーは片手で額を覆った。

目の前にいる友人の姿に喜ぶよりも先に、自分が彼をここまで連れてきたのではないかという可能性を探している。

ベルゼブブは息を吐いた。


「勘違いするな。俺は自分で選んでここへ来た。お前の事情を勝手に被せるな」


「……だとしてもっ!!」


それ以上を、ルシファーは続けられなかった。


予想できなかったわけではないのだろう、とベルゼブブは思った。

 

この男は読めてしまう。天界の綴じ目も、誰かがどこで息を詰まらせているかも、時には本人より早く見つける。

それでも、自分まで天界を出る可能性だけは、どうやら受け取りたくはなかったらしい。


ミカエルたちと同じように、自分にも、天界の白の中で何事もなく暮らし、仕事にうるさく口を出しながら、ときどきいなくなった友人を思い出してはそんな者がいたなと、頭の片隅にでも置いてくれるだけでいい。

違和感を抱え、誰にも理解されない場所へ出る者は自分一人で十分なのだから、とでも思っていたに違いない。


目の前の顔には、その勝手な願いがありありと写っていた。


「時化た顔をするな」


「そんな顔をしているかな?」


「している」


「なら……少しは慰めてほしいな」


「冗談を言うな」


「これは冗談じゃないよ」


ベルゼブブは返す言葉を探し、結局何も言わないことを選んだ。


冗談でないことは分かっている。

だが、その言葉の奥にあるものを今ここで開けば、簡単には閉じられなくなる。


視線を逸らした先で、黒い岩場を一人の女が歩いてくるのが見えた。

古い気配らしき姿もそのそばにあった。


ルシファーも彼女に気づき、すぐに振り返った。


「リリス……」


その呼び方を聞き、ベルゼブブはわずかに目を細めた。


天界では聞いたことのない声だった。

兄弟たちへ向ける穏やかさとも、他の天使たちに向ける柔らかさとも、ベルゼブブに向ける気安さとも違う。

相手の足元を確かめ、歩幅を合わせるような近さがその短い呼びかけの中にあった。


リリスはルシファーの隣まで来ると、目の前のベルゼブブを見上げた。

その目にはわずかな警戒が残っている。


当然だろう。あんなことの後だ。

天界から来た白い者が、この女にとって安心できるものであるはずがない。


ルシファーは彼女が立ち止まったのを確かめてから言った。


「リリス、大丈夫。彼はベルゼブブ。前に話した天界にいた頃の俺の友人だよ」


友人という言葉に、ベルゼブブの眉がわずかに動いた。


それを聞いた途端、リリスの表情から警戒がほどけ、代わりに驚きが浮かび、深紅の瞳を瞬かせた。


「あなたがベルなのね? 初めまして、リリスよ」


「……ベルゼブブだ」


リリスは笑った。


その顔には哀れに救われここに来たというような湿り気も、天界で言われていた様な相手をかどわかすようなむせ返る甘さもなかった。

警戒心がありながらも背へ隠れず、自分の足でルシファーの隣に立った。


ベルゼブブは二人を見比べた。

ルシファーが女を呼んだ声と、リリスがその隣へ歩いてきた時の迷いのなさ。

近くにいながら互いの動きを縛っていない距離を見て、ようやくひとつの線が繋がった。


「……なるほど」


ルシファーがこちらを見る。


「なんだい?」


「お前が天界を出てまで見つけたかったものは、こういう形をしていたのか」


ルシファーはリリスへ目を向けた。

彼女を見るその眼差しには、天界で誰にも向けたことのないものがあった。


「そうだね」


リリスは何の話なのか分からず、不思議そうに彼を見上げている。


 ベルゼブブは呆れたように眉を寄せた。


実際、ここまで来てようやくそれを見つけたのかと思わなくもない。

それでも、ルシファーが探していたものに辿り着けたのならそれでいいと思った。


その考えを、あえて言葉にするつもりもなかった。


リリスがベルゼブブを見る。


「ねえ、私もベルって呼んでいい?」


「……好きにしろ」


「ありがとう、ベル」


呼ばれてもベルゼブブは返事をしなかった。

リリスもそれを拒絶とは受け取らなかったらしく特に気にした様子もない。


ベルゼブブは原初の古い気配へ視線を移した。


「それで、そっちは?」


「ここにいるもの」


ベルゼブブは額へ手を当てた。


「それは、さっき周りにいる奴らからも聞いた。見たところ同じものなんだろうが……どうにかできないのか」


「どうにか……?」


古い気配はその言葉の意味が分からないように揺れた。


呼び名もなく、それぞれを分ける言葉もない。

ベルゼブブは地獄が想像以上に扱いにくい場所であることを、早くも思い知らされていた。


 


火のある岩棚へ戻ると、ベルゼブブは周囲をひととおり確認しはじめる。


黒い硝子のような岩肌に、石で囲った小さな火床がある。

そのそばには乾いた枝らしきものが積まれ、リリスが腰を下ろしていたらしい場所もあった。

水場は少し離れており、森も遠くはない。火と水はあるようだが、それだけでは不足だった。


「食べるものは」


「まだないよ」


ルシファーが答える。


「寝床は」


「これから、かな」


「お前は」


「え?」


「休んでないな」


「……そんなことないよ」


「そんなことのある顔だ」


ルシファーは言い逃れを諦めたように笑った。


「……後で休むよ」


少し離れた場所で聞いていたリリスがルシファーの顔を見た。

何も言わなかったが自分が眠っている間、彼がずっと起きていたのだと気づいたらしい。


ベルゼブブはおもむろに懐へ手を入れ、小さな包みを取り出した。


「食えるものは、これしかない」


ルシファーが目を瞬かせる。


「持ってきたのかい?」


「たまたま入れっぱなしにしていただけだ。糖分は頭を使う時に要る」


包みの中には星のような角を持つ小さな砂糖菓子と、薄く焼かれた菓子が入っていた。


ベルゼブブは迷わず、包みをリリスへ差し出した。


「リリス、お前が食え」


「……私がもらっていいの?」


「必要だろう」


リリスは両手で包みを受け取った。


「ありがとう。ベルは優しいのね。お花をあげたら怒るって聞いたから、怖い人かと思っていたわ」


ベルゼブブはルシファーを見た。


「なんの話だ」


ルシファーはさりげなく目を逸らした。


「後で話すよ」


「余計なことを話したということだけは分かる」


リリスは包みから角を持つ小さな砂糖菓子を掌へ数粒取ると、二人のやり取りを楽しそうに眺めている。


ベルゼブブは近くにいた古い気配へも包みを差し出した。


「お前たちは?」


原初の古いものたちが、興味を引かれたように集まってくる。


「なに?」


「なんだ?」


古い気配は包みの中身をじっと見つめたあと、首を傾げるように揺れた。


「たぶん、ひつようない」


「そうか」


ベルゼブブは無理に勧めず、今度はルシファーへ包みを向けた。


「お前も食っておけ」


「ありがとう。もらうよ」


ルシファーが取ったのは、砂糖菓子一粒だけだった。

それだけでいいのかとベルゼブブは言いかけたが、ルシファーが一度リリスの手元を確かめたのを見て、口を閉じた。

足りないものばかりの場所で必要な者へ先に渡そうとしているのだろう。


リリスは砂糖菓子をひとつ摘まみ、黄昏の空へかざした。

小さな角が黄昏を映し、白く透けて見える。


「……星みたい」


ルシファーが笑った。


「金平糖だよ」


「こんぺいとう……」


「噛むと硬い。舐めてもいい」


ベルゼブブが教えると、リリスは目を丸くした。


「まあ、食べ方まで選べるのね」


少し迷った末に、彼女は金平糖を口へ入れた。


「……んっ!」


喉の奥で弾んだ声に、ルシファーとベルゼブブが同時に彼女を見る。


リリスは両手で頬を包み、目を輝かせた。


「これ、甘いわ!」


「……糖分だからな」


「こんなに小さいのに、こんなに甘いなんてすごいわ!」


「小さいことと甘いことは関係ない」


そう言われても、リリスは楽しそうに、もう一粒を掌の上で転がしている。


ルシファーはその顔を見つめ、肩から力を抜いて微笑んでいた。

安心したというだけでは足りないほど、頬も目元も緩んでいる。

天界で大天使として立っていた頃には、決して見せなかった顔だった。


ベルゼブブはしばらくその横顔を眺めてから言った。


「……天界でも見たことのない顔をしてる。気色が悪い」


「ひどいな」


「今のお前の顔を見たら、俺でなくてもそう言う」


本気で引いているベルゼブブの横で、リリスはなぜか声を立てて笑った。

原初の古いものたちは、彼女の手に残った金平糖を飽きずに見つめている。


「それも、ひつようなもの?」


古い気配の問いに、ベルゼブブは肩をすくめた。


「場合による」


リリスは金平糖を見ながら言った。


「甘いものを食べると少し元気になるの」


「げんき?」


古い気配は、初めて聞いた言葉を確かめるように繰り返した。


「みんなも食べてみる?」


リリスが金平糖を差し出すと、ルシファーは古い気配たちを見回した。


「食べられるのかな」


古い気配はしばらく考え込んだ末に答えた。


「……わからない。かんがえておく」


リリスは真面目に頷く。


「ええ。無理に食べなくていいわ」


金平糖を見つめていた原初の古いものたちは、それから何度も「げんき」と囁き合った。

黄昏の中にまたひとつ、彼らの知らなかった言葉が残っていく。


やがてリリスは火床を離れ、原初の古いものたちと岩棚の外を眺め始めた。彼らが示すものへ目を向け、ときどき問いかけながら頷いている。

黄昏の空の下に立つ彼女は、もうこの場所のすべてを恐れてはいなかった。


火のそばには、ベルゼブブとルシファーが残った。

火床の枝が細く鳴り、水の流れる音が岩場の向こうから届いている。


ベルゼブブは、金平糖を一粒口へ入れたルシファーを横目で見た。


「……お前、何か変わったな」


「見た目の話?」


「それだけなら楽だったな」


ルシファーは返事をせず、火の向こうにいるリリスを見た。


「……そう」


「今は聞かない」


「助かるよ」


「後で聞く」


その言い方に、逃がすつもりがないことは十分に表れていた。ルシファーも諦めたように笑い否定はしなかった。


火の向こうでは、リリスが古い気配のひとつに何かを尋ね、返ってきた答えに笑っている。

原初の古いものたちは相変わらず彼女との距離を測りかねながらも、少しずつ周囲へ集まっていた。


その光景から目を離さないまま、ルシファーが口を開く。


「ベル」


「なんだ」


「……君には、天界で俺の姿に呆れていてほしかった」


ベルゼブブは眉を寄せた。


「言われなくても呆れていた」


「そうか。ずっと、ずっとそうしていてほしかった」


火が枝の隙間で揺れた。


ルシファーはしばらく言葉を探し、困ったように口元を緩める。


「だけど……君がここにいるのは、やっぱり嬉しい」


ベルゼブブは何も返さなかった。


ルシファーは笑っていたが、その目は火の向こうの黄昏から戻らない。

喜びだけでその顔が作られていないことをベルゼブブは見逃さなかった。


見逃せるほど、遠い仲ではなかった。

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