第73話「記録室の扉」
天界には、何一つ不足がなかった。
白い回廊には光が満ち、水路には澄んだ水が流れている。記録室の棚には必要なものが必要な順に並び、誰かが座る場所も、筆を置く場所も、次に処理すべきものを示す札も、求めるより先に用意されていた。
昨日までならその整い方を意識することもなかった。
ベルゼブブは記録室の机に向かい、開かれた書類の同じ行を読み返していた。
何度目なのかはもう数えていない。筆先はインクを含んだまま乾きかけ、紙の端だけが乱れなく揃っている。
インク壺の蓋も使い終えればすぐ閉められる位置に置かれてる。
手を動かせば、いつも通りに仕事を進められる。
それでも、筆は紙の上へ下りなかった。
ルシフェルが姿を消したあとも、天界は表向きには何ひとつ崩れていなかった。
天使たちはそれぞれの持ち場へ向かい、回廊には規則正しい足音が響いている。神の言葉は必要な場所へ渡され、記録も遅れず整理されていた。
変わったのは、神の言葉が天界を通っていく時の流れだった。
ルシフェルがいた頃、神の言葉がそのまま末端の持ち場へ降ろされることはなかった。内容を変えるのでも、意図を曲げるのでもない。どこへ渡すべきか、どの順で動かすべきか、今すぐ実行するものなのか、まだ動かさずに置くものなのか。その扱いを見分けて天使たちが迷いなく受け取れる形へするのが、大天使ルシフェルに与えられた役目だった。
命令として受けるべき言葉に、許可として置くべき言葉、観測の記録として留めておくべき言葉など、同じ神の言葉であっても持ち場を誤れば天使たちは動けない。
以前なら誰かが迷い始めるより先にルシフェルが現れ、紙面へ目を通し、これは今こちらで受ければいい、この部分はまだ動かさない方がいい、父上の言葉はこの場ではそういう扱いではないよ、となんでもないことの様に穏やかに告げた。
それだけで、止まりかけた流れは戻っていた。
しかし、今はその声がない。
渡される言葉は正確だった。余分なものも曖昧なものもない。
間違えようがないほど整えられているからこそ、どこから手をつければいいのか分からない者が増えていた。
記録室の外を、書類を抱えた天使が二人通り過ぎていく。
声は抑えられていたが、白い回廊は小さな囁きまでよく通した。
「つまりこれは、命令なのではないか?」
「この書き方なら許可だろう」
「だが、許可なら実行する順が違う」
「観測の記録なら、なぜこちらへ回ってきた?」
ベルゼブブは筆を取らなかった。
似たようなやり取りを、ここ数日のうちに何度聞いたか分からない。
大きな騒ぎではないのだ。
誰かが声を荒らげているわけでもなく、天界が崩れているわけでもない。
天使たちは皆、自分の持ち場で役目を果たそうとしていた。
ただ、これまで音もなく通っていたものが、至るところで足を止め始めている。
その滞りは書類だけでは終わらなかった。
どこへ置けばいいのか分からない言葉は、やがて回廊の端で別の話へ姿を変える。
「……名を変えたというのは、本当なのか?」
「神に与えられた名を……?」
足音が近づき、また離れていく。
ベルゼブブは顔を上げなかった。
「もう、我々と同じ道は歩めないと仰ったらしい……」
「それは、神への反逆ではないの?」
「裏切りとも取れる」
「そんな……」
反逆。裏切り。
書類の余白へ書き足された見出しのように、その言葉は容易く人から人へ渡っていった。
口を挟むつもりはなかった。
噂は止めようとして止まるものではなく、ひとつを消しても、別の場所で別の形になる。
知っている者ほど黙り、知らない者ほど言葉を足す。
それだけのことだった。
そう思っていたところへ、別の声が混じった。
「庭を乱したのは、あの人間の女、リリスなのだろう?」
「神から与えられた始まりの席を捨てた女だと聞いた」
「そんな勝手が許されていいのか?」
「つまるところ、ルシフェル様は、その女にかどわかされたのでは?」
ベルゼブブの筆先が紙へ触れた。
それは文字にはならず、白い紙の上に黒い点だけが残る。
リリスという女を、ベルゼブブは知らない。
どんな声で話し、どんな顔で笑い、ルシフェルの隣にどのように立ったのか、何ひとつ見てはいない。
知らない相手を知ったように庇う言葉は持っていないし、そのつもりもなかった。
けれど、知らない相手を知ったように貶めるその声だけは、耳から離れなかった。
——ルシフェルが、その女にかどわかされた。
その一言で、何をどこまで片づけたつもりなのだろう。
ベルゼブブは、紙に落ちた黒い点を見た。
整っていた紙面はもう元には戻らない。
それでも記録室の棚は変わらずまっすぐ立ち、窓から差す光は書類の角を白く照らしている。
天界は、噂ひとつで崩れるほど雑には作られていない。
だからこそ、薄い声はどこまでも届く。
誰かが泣いたことも、誰かが何かを選んだことも、誰かが名を変えたことも。
処理され、整理され、見出しを与えられれば棚へ収まっていく。
棚へ収められたものは、もうそこから動くことは、ない。
ベルゼブブは目の前の記録へ視線を戻した。
そこには、起きたことが過不足なく並んでいる。
ルシフェル。堕天。ルシファー。リリス。地獄。エデン閉鎖。人間の始まりの継続。
記された事実に誤りはない。記録としては、申し分のないものなのだろう。
それでも、その中へ指を入れることができなかった。
読めば内容は分かる、書かれている通りに処理することもできる。
だが、次の仕事へ進もうとするたび、紙の白さばかりが目についた。
唇の隙間からため息にも似た空気が漏れかけたその時、記録室の扉を叩く音がした。
返事をする前にぎっと重い音と同時に扉が開く。
姿を見せたのは一連の事態の収拾に終われていたミカエルだった。
深い青を差した白の式服には、天界とは異なる乾いた外気が今だかすかに残っている。
手には、返却するための記録が一冊あった。
ミカエルは棚へ向かいかけ、机にいるベルゼブブへ気づいて足を止めた。
二人の視線が合った途端、以前交わした会話が戻ってきた。
——兄上は、私たちの前ではいつも兄上だった。
——あなた方に渡すための言葉は、何も預かっていない。
ミカエルの瞳には今も問いが残っている。
最愛だった兄が——あの男が何を見て、何へ手を伸ばし、どこで自分の名を選んだのか。
そして、なぜ自分たちには何も受け取らせてもらえなかったのか。
その答えのすべてに、あの兄妹たちが納得できるはずもない。
大切にされてきたからこそ、そう思えるはずもない。
ミカエルは記録を棚へ戻したあと、今度は何も尋ねずに扉へ向かった。
ベルゼブブも呼び止めようとはしなかった。
ただ、ミカエルが振り返るより先に視線を外した。
逃げたつもりはなかった。
だが、ミカエルの目を見ないことを選んだ瞬間、胸の奥で紙が折れるような感触があった。
扉が閉じ、足音が回廊の向こうへ遠ざかっていく。
やがてその響きも、天界の規則正しい音の中へ紛れていった。
ベルゼブブはしばらく扉の方を見たあと、記録へ目を戻した。
同じ行が、変わらない形で残っている。
書かれていることは正しい。
それでも、もう筆を進めることはできなかった。
ルシフェルがいない。
その不在さえ、ひとつの項目として棚へ収められようとしている。
リリスという女の名も、庭を乱した者として、あるいは始まりから離れた者として、どこかへ分類されていくのだろう。
地獄という名も同じだった。
神がそう呼んだ以上、天界はその名を記録し、必要な場所で扱う。
扱えてしまう。
ベルゼブブは紙の端へ指を置いた。角の揃った書類は、押せばわずかにずれる。
ずれたものは、直せばまた元の形へ戻る。
それだけのことが、ひどく癇に障った。
棚を崩したいのではない。神が間違っていると叫びたいわけでもなかった。
ただ、この部屋にいる限り、どんな引っかかりも、いつかは正しい場所を与えられてしまう。
疑問には疑問という札がつき、誰かの離脱には原因と結果が記される。
誰かが違う名を選んだことも、整った文字で書かれれば、乱れのない出来事として棚へ収まる。
ベルゼブブには、もうそれを受け入れることができなかった。
外から、また声が聞こえた。
「ルシフェル様は、本当に戻られないのだろうか」
「地獄という場所へ行かれたのだ」
「もう、我々とは……」
声は途中で途切れた。誰かが近づいたのだろう。囁いていた天使たちは、何事もなかったように足音を揃えた。
その整え方を、ベルゼブブは知っている。
自分も、何度もしてきた。
筆を机へ置くと、小さな音のはずが、この記録室の中ではよく響いた。
書類を閉じたところで、何かが終わるわけではない。
明日になれば別の書類が届き、今日閉じたものも、いずれ誰かの手で処理される。
おそらく、何の問題もなく仕事は続くだろう。
空いた役目にも、やがて別の誰かが置かれる。
棚は空白を残さない。
ベルゼブブが立ち上がると、椅子が床を擦り低い音を立てる。
机の上を整えた。
インク壺の蓋を閉め、紙の角を揃える。閉じた書類も、決められた棚へ戻した。
どれも、いつもと同じ動き。
一つひとつを正しく終わらせるほど、その正しさが自分の手から離れていく。
最後に、机の端へ手を置いた。
そこは、ルシフェルがよく肘をついていた場所だった。仕事の邪魔をするなと言えば、あの男はいつも困ったように笑った。
呼んだことはない。
それは本当だった。
だが、来るなと言い切ったことも、おそらく一度もない。
机からそっと手を離し、部屋を出ようといつもの扉へ向かう。
何度も開けた扉だった。
この先には白い回廊があり、右へ進めば資料保管庫、左へ進めば階段がある。
少し歩けばいつもの水路の音が聞こえる。
冷たくも温かくもない、天界の扉らしい感触のする取っ手に手をかける。
ベルゼブブは、いつものように扉を開けた。
いつもの様に。
いつも通りに。
けれど————その向こうに、白い回廊はなかった。
黒がある。
夜でも、影でもない。
明かりが消えたのでも、暗い部屋が続いているのでもなかった。
白が、その先を作っていない。
「……っ」
ベルゼブブは扉の前に立ち尽くした。
振り向けば、背後には当たり前に記録室があった。
今の今まで座っていた机も、椅子も、棚も、閉じた書類も、すべて先ほどまでと変わらず置かれている。
だから、そこに戻ることはできた。
扉を閉めれば、明日も同じ机に座り、筆を取り、記録を読んで仕事を続けられる。
だが。
戻ったところで、もう同じようにはできない。
それが後ろに下がろうとする足を鈍らせていた。
ベルゼブブは目の前の黒を見つめた。
手を伸ばせば何が起きるのか分からないという感覚は、あとからじわりと身体へ広がった。
その前に、この扉がもう白い回廊へ続いていないことだけは、疑いようもなく分かった。
目を伏せると、今度こそ自然にまともな溜息が口から洩れた。
記録室へ別れを告げる言葉など、なくてよかった。
言葉にすればそれさえどこかに記され、ひとつの項目になるような気がした。
目の前の黒を見つめ直すと、 ベルゼブブは取っ手から手を離し黒へ足を踏み入れた。
一歩目で、足元の感覚が消えた。
天界なら床は必ず足音を返した。
回廊は進む方向を示し、柱の間隔は距離を教え、窓から差す光が時の流れを知らせていた。
ここには、そのどれもない。踏みしめたところで何かを踏んだ感触はなく、前へ進んでいるのか、同じ場所に留まっているのかさえ確かめられなかった。
それでもベルゼブブは歩みを止めなかった。
振り返れば記録室の扉が残っているのかもしれないと思ったが、確かめようとは思わなかった。
空間を占める黒は、彼を誘い込むことも、押し戻すこともなかった。
ただ、どれだけ歩いても景色を変えず、足音も呼吸も飲み込んでいく。
だんだんと、どれほど進んだのか分からなくなっていく。
時間を測るものはなく、身体が疲れているのかどうかも判然としない。
けれど、歩いたという感覚だけが積み重なっていった。
もう十分に進んだはずだと思ってからも何も現れず、さらに歩いても黒は途切れることはなかった。
黒を渡るうち、なぜか天界の記録室にいたことさえ、ひどく前の出来事のように思えてきていた。
いつから自分がここにいて、どれほど経っているのか、ここはそういう感覚さえも曖昧にさせた。
この黒に終わりがあるという確信はない。ただ、自分で開いた扉を通った以上、戻るより先にこの黒の向こうに何があるのかを見なければならないという思いだけがあった。
どれほど歩いたのかも分からなくなった頃、踏み出した足の裏に初めて何かが触れて、ベルゼブブは思わず立ち止まった。
触れたものは、硬く乾いた感触だった。
次に足を置くと、今度は確かに地面がある。
乾いた岩のざらつきが足裏へ返り、それまで何も応えなかった場所がようやく彼の身体を受け止めた。
それと同時に黒の奥に色がにじみ始めた。
最初は見間違いかと思うほど淡く、 深い藍の底に紫がゆっくり溶けて下には赤が沈んでいた。
その色と地の感触を頼りに進めば、その先には見た事のない黄昏が広がっていた。
地面には黒っぽい土と岩のようなものが転がり、遠くには見たことのない壁のような影が沈んでいた。
その光景に息を飲んだ瞬間、音もなく近づく何かに気づいた。
姿ははっきりしない。
けれど、こちらへ向けられた意識がある。それはひとつではなく、いくつもが声なくベルゼブブを見ていた。
それらの気配は自分を迎えようとしているわけでも、危害を加えたり、追い返そうとしているわけでもなく、ただ、来たものをじっと見ている様子だった。
その事にいささか安堵しながら、ひとつ溜息をつき、ベルゼブブは黄昏の中でしばらく動かなかった。
——あの男も、こうやってどこかにたどり着いたのかもしれない。
そう考えかけて、やめた。
違う。
ここは今、自分が選んでたどり着いた場所だ。




