第72話 「水に似たもの、火に似たもの」
二人は座れそうな場所を求めて歩き始めようとしたが、リリスに必要だったのは座る場所だけではなかった。
黄昏の岩場に立ったまま、渇いた喉元へ一度だけ指先を滑らせる。何も言わなかったが、ルシファーはその仕草を見ていた。
エデンを出て、荒野を歩き、未記入の黒を越えてきたのだ。疲れていないはずがない。それでもリリスは困った顔をせず、自分の身体が何を求めているのか確かめるように周囲を見渡した。
「ここに、水はないかしら?」
それを聞いた古い気配が、首を傾げるように揺れた。
「みず?」
「そう。冷たくて、透明で……ええと、流れていたり、止まっていたりするもの」
古い気配は黄昏の奥へ意識を向けた。顔も目もないのに、そちらを見たのだと分かる。
「にているものならある。もっととおく。それがひつようなの?」
「ええ。喉が渇いたら、動けなくなっちゃうもの」
「うごけなくなる」
古い気配は聞いた言葉を口の中で確かめるように繰り返した。
ルシファーは、隣に立つリリスの横顔を見る。
弱っているわけではないけれど、ここにいるものたちとは違う身体を持っている。疲れれば休み、渇けば水を求める。
それはおそらく、この地獄とよばれる場所の古層になかった種類の『必要』だった。
「それと、火もあれば助かる」
ルシファーが言うと、古い気配は今度はこちらを向いた。
「ひ?」
「熱くて、ゆらゆらしているものかな」
「それも、にているものなら」
そう言って、古い気配は黄昏の奥へ動き出した。
足音は聞こえないが、空気の薄いところに筋が通るように進む先だけが分かる。
ルシファーとリリスは、そのあとを歩いた。
入口の乾いた岩場を離れるにつれ、地獄は別の姿を見せ始めた。
遠くには黒い壁のように見える森らしき場所があり、葉なのか影なのか分からないものが幾重にも重なって、奥へ行くほど青く沈んでいる。
その方角からかすかな水音が届いてリリスが顔を上げる。
「音がするわ」
「水に似たもの、だろうね」
「地獄にも川があるのね」
その言葉を聞いて、ルシファーはすぐには返せなかった。
一度ここへ来た時には、そんなものを見なかった。見えなかったのではなく見ようとしていなかった。
あの時の彼には、ここを暮らす場所として見る余裕は持ち合わせていなかった。自分の足が天界の白から離れたことだけで手いっぱいで、水も火も、休む場所も探そうとはしていなかった。
リリスが必要なものを口にして、初めてこの黄昏が誰かの暮らせる土地として輪郭を持ち始めていた。
古い気配は、さきほどまで壁の様に見えていた黒い森の手前で止まった。
その場所では、森の方から川が流れていた。
遠くからは黒い帯に見えたが、近づけば水そのものは澄んでいる。黒く見えたのは川底に沈んだ石の色だった。
黒い硝子のような石、深く濁った緑。
流れの中で鈍く光る、淡い金色の欠片。
水は黒い石の上を穏やかに流れ、触れた指をすぐにさらっていくほどの速さはなかった。
リリスはしゃがみ込むと、川面を覗き込んだ。長い髪が肩からさらさらと落ちていく。
彼女が手を伸ばすより先に、ルシファーが水へ指を入れた。
冷たい。
指が痺れるほどではないが、エデンを流れていた水とは違っていた。花の根を潤すために整えられたような水ではなく、黒い石の上を誰の指図も受けずに流れてきた水だった。
「飲めるかどうかは、分からないね」
「でも、喉が渇いたわ」
「まず俺が試すよ」
リリスが目を丸くする。
「平気?」
「少なくとも、君より丈夫にできてるからね」
ルシファーは手のひらに水をすくい、まず匂いを確かめた。
土でも花でも、天界の清水でもない。黒い石と日の届かない場所を長く通ってきたものの匂いがする。
そのまま口に含むと、リリスだけでなく古い気配や周囲の原初のものたちまで、彼の様子を見守った。
舌に触れた水は冷たかったが、苦みも臭みもない。
喉を通しても、内側が焼けたり、痛みでむせたりすることはなかった。
「……大丈夫そうだ」
リリスの肩から力が抜ける。
「でも、君が駄目そうだったら、すぐにぺっ、するんだよ」
リリスはそこで笑った。
「ありがとう。いつも慎重なのね」
「君のことだからね」
「ぺっってなに?」
古い気配が尋ねる。
ルシファーは答えを探してから言った。
「吐き出すことだよ」
「はきだす……」
「口に入れたものを、外へ出すの」
「そとにだす」
古い気配はその言葉も覚えるように繰り返した。
リリスは両手で水をすくい、まず唇を湿らせた。
それからもう一度、今度は喉へ流し込む。
その動きを見届けて、ルシファーはようやく息を吐いた。
「平気そう?」
「ええ。冷たくておいしいわ」
「よかった」
「少し目が覚めたみたい」
リリスは川底へ目を落とした。流れの中で小さな石が光っている。
「ねえ、水の底に綺麗な石があるわ。ほら」
肘まで水につけ、底から拾い上げた小石は、緑に濁った欠片と淡い金色をしていた。
どちらも透き通ってはおらず、それでも濡れた表面が黄昏の光を受けて内側に沈んだ色を返している。
「本当だ」
ルシファーは、彼女の手の中を覗き込んだ。
「これ、持っていってもいい?」
リリスが古い気配へ尋ねると、それは川と石と彼女を順に見た。
「そうしたいなら、そうしたらいい。ここにあるものは、ただあるだけ」
「ただあるだけ?」
リリスはその言葉を繰り返し、二つの石を掌に包んだ。
それが何なのかルシファーには分からない。ただ、リリスが初めて地獄で自分から選び、手に取ったものだった。
それだけで、今は十分だった。
水を得ただけでは、夜を越せない。
古い気配は次に、火に似たものがある場所へ二人を案内した。
川から離れて黒い森の端を回り込むと、地面は次第に硬くなり、黒い岩が増えていく。
やがて、岩の裂け目から細い炎が立つ場所へ出た。
大きな火ではなかった。
燃えるものもないのに、黒い岩の隙間から誰かの息のように炎だけが揺れている。
リリスは熱の届かないところで足を止めた。
「これが、火に似ているもの?」
「俺たちの言葉なら、火でいいと思う」
ルシファーは炎を見つめた。
神に命じられてそこにあるわけでも、誰かを罰するために燃えているわけでもない。地獄の岩の奥から立ち上がり、ただ揺れている。
「じゃあ、分けてもらいましょう」
リリスが言うと、古い気配がまた首を傾げた。
「わける?」
「ええ。別の場所にも灯すの」
「べつのばしょにも」
「そう。私たちが休む場所にも来てもらうの。なにか燃えるものがあるといいんだけど……」
「もえるもの……」
古い気配は炎を見たあと、周囲にいた原初のものたちへ意識を向けた。
「もってきてくれる?」
その声にいくつもの影が揺れ、返事をしないまま散っていった。
リリスは、それぞれ別の方向へ消えていく影を見送った。
「何を持ってきてくれるのかしら」
「たぶん、燃えそうなものかな」
「分かるの?」
「さあ……」
ルシファーが正直に答えると、リリスは笑った。
しばらくして、原初のものたちがそれぞれ何かを抱えて戻ってきた。
乾いた枝のようなもの。黒い薄皮に見えるもの。樹脂に似た半透明の塊。柔らかな苔のようなもの。黒く丸い石に、どう見ても燃えそうにない、つやのある板状の岩の欠片。
リリスは差し出されたものを順番に受け取った。
「これは使えそう」
乾いた枝のようなものを火の近くへ置き、黒く丸い石は掌の上で転がす。
「これは……違うかもしれないわ。でも、あとで何かに使えるかもしれない。ありがとう」
原初のものは動きを止め、首をかしげるような動きをしていた。
ありがとう、という言葉をどう受け取ればいいのか分からないらしい。
リリスは考えたあと、近くにいたものの頭らしきところへ手を伸ばし、そっと撫でた。
黒い影が固まる。
「……なに?」
別の影も近寄ってきた。
「なんだ?」
リリスは、寄ってきたものたちも順番に撫でていく。
頭なのか背中なのか、影の盛り上がった部分なのかは分からない。それでも彼女は怖がらず、触れられる場所へそっと手を置いた。
「みんないい子だから、お礼をしてあげたかったの」
古い気配も近づいてくる。
「リリス、これはなに?」
「撫でているの」
「なでるのが、おれい?」
「そういう時もあるわ」
リリスは、古い気配の頭らしきところにも手を置いた。
「あなたもね」
古い気配は、その場で動かなくなった。
拒んではいない。ただ、何をされたのか分からないまま、じっとしている。
やがて、古い気配はルシファーへ向き直った。
「これは、ルシファーにはしないの?」
何も言っていなかったルシファーの方を、リリスも見る。
「ルシファーには、後でするわ」
その返事を聞いた瞬間、ルシファーの顔がぱっと明るくなる。
本人は隠したつもりなのか、すぐに炎へ目を戻したが、口元はどうしても戻らないらしかった。
リリスはそれに気づいて少しだけ笑った。
火を移すには、囲む場所が必要だった。
裂け目のそばは熱気が強く、川辺は湿りすぎている。古い気配は、二人をさらに先へ案内した。
水場と火の裂け目の中ほどに、黒い岩棚があった。
硝子を重ねたような岩肌が斜めに張り出し、その下には二人が並んで座れるほどのくぼみがある。
洞窟と呼べるほど深くはないが、風を受け流すだけの奥行きはあった。
リリスは岩棚の下へ入り、自分の髪の動きを見た。
「このあたりなら、風が弱いわ」
「分かるの?」
「髪の揺れ方が違うもの」
「なるほど」
「感心した?」
「かなり」
リリスは得意げに笑った。
その顔を見て、ルシファーも胸の内で張りつめていたものを手放す。
彼女は疲れている。それでも、この土地を恐ろしいだけの場所として見てはいなかった。必要なものを探し、使えそうなものを選び、自分が休める場所へ変えようとしている。
リリスが一つ動くたび、ルシファーにも次に何をすればいいのかが見えてきた。そして、ここでの暮らしは自分一人では作れないのだということも、同時に理解し始めていた。
リリスは、原初のものたちが集めてきた乾いた枝や樹脂の塊を、黒い石で囲んだ場所へ置いた。
ルシファーが裂け目の炎を移すと、火は一度消えかけた。リリスが石の向きを変えると風が逸れ、樹脂の塊が熱を受けて香りを放つ。
次の瞬間、小さな炎が立ち上がった。
黄昏の岩棚の下に、火が灯った。
先ほどまで裂け目で燃えていたものと同じ炎のはずなのに、今は違って見える。
誰かが囲み、手をかざし、眠るために移した火だった。
「あったかいわ」
リリスが両手をかざすと、炎の色が瞳の中で揺れた。
ルシファーはその横顔を見て、ようやく息をついた。
「よかった。君が休める場所を確保できて」
「ええ」
「次は、食べ物を探さなくちゃね」
「そうね……でも、少し休んでからでいい?」
「もちろん。眠った方がいい」
リリスは迷うように彼を見たあと、袖へ指をかけた。
「……じゃあ、くっついてもいい?」
ルシファーは一瞬、言葉を失った。
火の向こうでは古い気配がこちらを見ており、原初のものたちも、撫でられた場所を気にするように留まっている。
けれどリリスは、その視線を気にしているそぶりはなかった。
ただ眠るために自分が安心できる場所を選んでいる。ただ、それだけだ。
「……君がそうしたいなら」
「安心するから、そうしたいの」
それ以上は言わず、リリスは彼の肩へ身体を寄せた。
ルシファーは動かなかった。
正確には、どう動けばいいのか分からなかった。
彼女の髪が腕に触れ、火とは違う温度が肩へ預けられる。
やがて呼吸がゆるやかになり、本当に眠ってしまったのだと分かった時、ルシファーは音を立てないように息を吐いた。
撫でてもらう約束は、まだ果たされていない。
そのことを少し残念に思った自分に気づき、彼は目を伏せた。
火の向こうから、古い気配がこちらを見ている。
「……このこは、ここにいるものとも、きみともちがう」
ルシファーはリリスを起こさないよう、声を落とした。
「そうだね」
「いろんなものがひつよう。どうするの」
ぱちぱちと火が小さく鳴った。
水は見つけた。火もあり、風を避けられる場所もどうにか手に入れた。
けれど、足りないものはその何倍もある。
食べるものに布、眠る場所。
身体を休めるためのもの。器、道具。
ルシファーにはすぐに答えることができなかった。
「……考えるよ」
「ほんとう?」
「本当だよ」
「たくさんある」
「うん。たくさんあるね」
古い気配は、彼の肩で眠るリリスを見た。
「このこがいると、たくさんいる」
「そうだね」
「こまる?」
ルシファーもリリスへ目を落とした。
肩に預けられた身体は、驚くほど小さい。
その身体がここで暮らすためには、多くのものが必要になる。
「困るよ。でも、この子がここで眠れるようにするためなら、ひとつずつ探していくよ」
古い気配はしばらく黙り、やがて別のことを口にした。
「ルシファー。きみ、まえきたときと、だいぶちがう」
「口数が減ったということ? それとも、見た目のことかな?」
「たしかにしずかになった。みため、くろくなった。でも、どちらでもない。ちがうのは、なかみ」
「……中身?」
「きみのなかみ。まえと、むきがぎゃくのものがある」
ルシファーの指先が止まった。
「……それは、俺の目のことかな」
「ぜんぶはわからない。しろもまだなってる。でも、いちばんおおきいのは、はんたいのほう」
古い気配は責めず、慰めもしなかった。ただ見えているものをそのまま口にしている。
だからこそ、その言葉はルシファーの中へ逃げ場なく落ちていく。
「それは……怖いね」
「じぶんで、なにがそうなったのか、わかるはず」
「……今は見たくない」
「そう」
火が爆ぜた。
小さな音にリリスが身じろぎし、ルシファーは肩を動かさないまま、髪が炎の方へ落ちないよう指先で払う。
リリスが起きることなく、古い気配いも、その仕草も見ていた。
「きみは、ねむらないの?」
ルシファーは炎の向こうへ目を向けた。
その先には黒い川があり、さらに奥には森がある。その向こうにも、きっとまだ見ていない地獄が続いている。
ここには水も火も、石もあった。そしてルシファー自身の中にも、以前とは逆を向いた何かがあるという。
「眠ったら……視えてしまいそうだ」
「なにを」
「変わってしまったものを」
古い気配は何も言わなかった。
否定も問い詰めることもしない。ただ返事のない時間が火の向こうに残った。
ルシファーは口元を動かした。
「今は、リリスが安心できる場所を作る方が先だよ。俺のことは後でいい」
「あと」
「うん。後で」
「あとで、みる?」
ルシファーは答えないまま、黄昏の空を仰いだ。
火は小さく燃え続け、リリスは彼の肩で眠っている。
黄昏の地獄が、空っぽでなかったことはわかった。
けれど、リリスが眠り、明日もここで生きるためにはまだ足りないものばかりだ。
不足と不安を抱えたまま、ルシファーだけが、火の向こうを見たまま眠らなかった。




