第71話 「黄昏の入口」
エデンの光は、背後で少しずつ遠くなっていった。振り返れば、まだ見えたかもしれない――木々の重なりも、果実の色も、庭を満たしていた水音も。けれどリリスは振り返らなかった。
細い紐で足首を留めた薄いサンダルの底が、乾いた土を踏んだ。エデンの草のやわらかさはいつの間にか足元から消え、土の粒が白い足の甲に薄く跳ねている。
ルシファーはその歩幅を横で見ていた。速くはないが、止まらない足取りだった。
リリスは疲れているはずだった。
いろいろな感情を抱え、神の言葉を聞き、ありえたかもしれない未来をほんの一瞬だけ見て、それでも彼の手を取ったばかりだった。
それでも彼女は前を見ていた。
髪の先に夕暮れに似た荒野の風が触れた。
エデンの中にはなかった風で、花の香りも甘い果実の匂いも運ばない。ただ乾いていて、まだ誰の暮らしにも馴染んでいなかった。
「疲れていない?」
ルシファーが訊くと、リリスは少しだけ目を細めた。
「疲れてはいるわ」
正直な返事だった。
「でも、止まりたいわけじゃないの」
「そう」
ルシファーはそれ以上休もうとは言わなかった。
言えば彼女は聞いてくれるかもしれない。けれどそれは、彼女が選んだ歩みの速さをこちらの心配で変えることになる。
それでも、手だけは離さなかった。
荒野の先に光の届き方が変わる場所があった。
夜が落ちているのとは違い、雲がかかっているわけでもない。
そこだけが光を受けても形を返さず、石も土も空もあるはずなのに目がうまく奥行きを拾えなくなっていく。
リリスも気づいたのか足を止めた。
「ここからは、しばらく暗い」
ルシファーが言うと、リリスはその先を見たまま訊いた。
「……怖い?」
「感覚が変わるから、怖くないとは言い切れない」
誤魔化すつもりはなかった。
大丈夫だよ、と言うのは簡単だ。
けれど、あの黒をひとりで越えた時、自分にも確かに恐怖があった。
上も下も分からない場所で、自分についていた呼び名が少しずつ遠くなる感覚を怖くなかったとは言えない。
リリスは一度繋いだ手を見下ろした。
「……手は繋いでいてくれるんでしょう?」
「もちろん」
答えに迷いはなかった。
リリスはそこでようやく少しだけ笑った。
「じゃあ大丈夫。行くわ」
先に進んだのは、彼女の方だった。
暗さは、足元から来るものではなかった。
踏み出した瞬間、荒野の乾いた土の感触が遠のき足は地面を捉えているのに、手にはリリスの温度があるのに、視界の先には距離がなくなっていた。
空も地面もどこかへ続く道も、ひとつに沈んでいる。
白でも、夜でも、影でもない、まだどの色にもなっていない場所だった。
リリスの手がほんの少し強くなる。ルシファーは歩調を緩めた。
「ルシファーは、エデンに来るときここを通ってきたの?」
「うん。天界から出るときもね」
「一人で?」
「一人で」
黒の中では声の響きも少し違った。
広い場所に放った声というより、布の内側で聞こえる声に近く、遠くへ飛ばずすぐそばに戻ってくる。
「怖くなかったの?」
「正直言えば、怖かったよ。ここは真っ暗で、上も下も分からない場所だからね。何度も足を止めようと思った」
リリスは彼の横顔を見た。
「でも、足は止めなかったのね」
「そうだね。だから、これから行く場所にもたどり着いた」
それから、ほんの少し遅れて付け足す。
「エデンにも」
「私がいた場所にもね」
繋いでいた手にまた力がこもった。
今度は怖さのためではないと分かる。
ルシファーは黒の中で小さく笑う。
「そうだね」
「あなたは勇敢だわ」
思いがけない言葉に、ルシファーは瞬きをした。
「やっと褒めてくれたね。変な天使は卒業かな?」
リリスは声を立てずに笑った。
「ふふっ、それはまだ健在」
「まだかぁ……」
「だって、ずっとそうでいてもらわないと困るもの」
「今はもう、天使かどうかすら怪しいけれどね」
深刻に響かないよう言ったつもりだった。
けれどリリスは、黒の中でルシファーをまっすぐに見た。
ここには光がない。それでも、深緋色の瞳だけは不思議と見失わなかった。
「それでも、あなたは私の隣にいるわ」
ルシファーはしばらく答えられなかった。
天使でも、大天使でも、父上の言葉を最も正しく読む者でもなく、ルシフェルという名を脱ぎ、リリスに呼ばれた名を選んだ自分が、今どこへ向かっているのか――その答えを、彼女は役目ではなく、場所でもなく、ただ隣で言った。
「……そうだね」
今度はルシファーの方から手を握り返す。
「君の隣にいる」
そうして気が遠くなるような時間、方向もわからないまま歩いた先で、黒の向こうに黄昏が滲んだ。
それは夕焼けに似ていたが、太陽の終わりではなくどこかに沈む光があるわけでもない。
ただ、昼でも夜でもない色が古い空気の中に薄く広がっていた。
足元に固い感触が戻る。
荒野の土とは違う石とも砂とも言い切れない乾いた地面だった。
熱はないのに冷たくもなく、長い時間、誰かが名前を呼ぶこともなくそこにあったような場所だった。
リリスはゆっくり息を吸った。
花の香りも、果実の匂いも、海辺の潮の匂いもしなかった。
「……ここが、地獄?」
「父上は、そう呼んでいたね」
「あなたは?」
ルシファーは黄昏の奥を見た。
一度ここへ来た時、彼はまだ白を纏っていた。
銀の髪も、六枚の羽も、白い式服も、そのすべてが彼の周りで鳴っていた。
ここにいるものたちは彼を嫌ったわけではなく、ただ、うるさい、と言った。
今は、羽を隠し、髪は黒く、白い式服もほとんど失われた。
それでも、この場所が自分のものになったとは思えなかった。
「まだ、決めていないかな」
「そう」
ルシファーの隣で、リリスは黄昏を見渡していた。
怖がってはいなかったが油断もしていない様子が、力の籠る手から伝わった。
エデンを出た者が、新しい箱庭を見つけて安心した顔ではない。
それでよかった――ここが彼女にとって、次の檻になることだけは避けたかった。
しばらくすると、黄昏の奥で何かが蠢いた。
輪郭ははっきりせず、小さな子どものようにも、影の切れ端のようにも見える。
目があるのかも分からないのに、こちらを見ていることだけは分かった。
リリスの指がルシファーの手の中でわずかに動いた。
ルシファーは逃げず、引き寄せもせず、ただそのままそこにいた。
古い気配が足音もなく近づいてくる。
黄昏の空気が少しだけ薄く揺れた。
「……まえより、すこししずかになった」
幼いようにも、ひどく古いようにも聞こえる声だった。
ルシファーはその声を聞いて、少し目を細める。
「そうかな」
「うん。まだすこしなってるけど」
古い気配はそう言って彼の周りを一度ぐるりと見渡した。
羽も白い式服も失われて、それでもまだ何かが残っているのだろう――天界の白か、父上の言葉か、誰かに兄と呼ばれていた頃の響きか。
ルシファーは苦笑した。
「それは、すぐには消えないかもしれないね」
「うん」
古い気配は頷いたように見えた。頷く首がどこにあるのかは、よく分からなかったけれど。
ルシファーは、ふと思い出したように言った。
「以前来た時に名乗っていなかったね。俺はルシファーだよ」
「ルシファー? それがきみをよぶおと?」
「うん」
「そう」
その声には驚きも、感心もなかった。ただ、新しく聞いた音をそのまま受け取ったようだった。
それから、古い気配はリリスを見た。
「そのこは?」
「リリスだよ」
古い気配は教えられた音を確かめるように、ゆっくり繰り返した。
「リリス」
リリスは一歩だけ前に出た。ルシファーの後ろではなく、隣から黄昏の古い気配を見る。
「初めまして、リリスよ。私もここにいてもいい?」
古い気配はすぐには答えなかった。その視線がリリスからルシファーへ移る。
「きみについてきたの?」
ルシファーが口を開くより先にリリスが言った。
「いいえ。私が、自分で来たいって言ったの」
古い気配はまたリリスを見た。
責めるでもなく、試すでもなく、ただその言葉がそこにあるかどうかを見ているようだった。やがて、短く言う。
「いたいなら、そうしたらいい」
許された、という感じはしなかった。迎え入れられた、とも少し違う。
ただ、リリスがここにいることを古い気配がそのまま受け取った――それだけだった。
リリスは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「ありがとう、って言えばいいのかしら?」
古い気配は首を傾げたようだった。
「わからない」
「そう。じゃあ、そのまま受け取っておいて」
「うん」
会話はそこであっけなく終わった。
黄昏の奥には他にも何かがいるのが見えた。
石の隙間に沈む影のようなもの、風のない場所で揺れる薄い布のようなもの、声にならない声でこちらを見ているもの――どれも近づいてはこないが、いなくなるわけでもない。
命じるものも、道を示すものもなく、ここでどう生きればいいのかを誰も教えてくれなかった。
リリスは何も命じられないその場所をぐるりと見渡したあと、ふと足元へ目を落とした。
歩き続けた底の薄い履物には荒野の土がついている。
細い紐のあいだに入り込んだ砂が、白い足の甲に薄く残っていた。
長い髪の先にも乾いた粒が絡み、指で払えばすぐ落ちそうで、けれども払ったところでまたすぐ汚れるのだと分かる程度にはこの場所は整えられてはいなかった。
ルシファーもようやくそれに気づいて周囲を見回した。
座る場所がない――そう思った瞬間、ほかのものまで一度に見えてきた。
火も、水も、食べ物もない。
彼女が腰を下ろして息をつける場所も、髪についた砂を落とす水も、夜を越すための布もない。
天界にはいつも何かがあった。
茶を飲む場所も、眠る場所も、手を洗う水も、羽を休める広さも、望んだから用意されたのではない。
あることが当たり前すぎて、それが誰かの手によって保たれていたのだということに今更ながら気づいた。
ここには何もない。
その事実は黒を越えた時よりも音もなく、けれど確かに彼の足元へ沈んできた。
リリスが困ったように笑う。
「まず、座れそうな場所を探す?」
その声には、深刻ぶった響きが少しもなかった。けれど、その屈託のなさが、ルシファーの喉の奥に小さく刺さった。
彼女は慌てていないし、何もないことに怒ってもいない。
ただ、ないなら探すのだと、当たり前のように次を見ている。
その強さを頼もしいと思うより先に、ルシファーは自分が何も用意できていなかったことを知った。
「そうだね」
ルシファーは答えた。
「まずは、そこからだ」
黄昏は、二人を拒まなかった。
けれど、夜を越す場所までは、まだ用意してくれなかった。
これより、二章突入です!
互いの隣を選んだ二人が、この場でどう過ごし、何を選んでいくのか。
この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。
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