一章_番外編Ⅲ「記録できなかった言葉」
そこに残されていたのは、リリスが生まれて間もない頃、エデンの水辺で過ごした朝のことだった。
リリスが水から上がると、朝の光が肌の上で小さく弾けた。エデンの水辺にはまだ夜明けの気配が残り、葉の隙間から落ちる光は、水面に触れるたび白い布のようにほどけていく。底に沈んだ丸い石の上を、濡れた髪の影がゆっくり流れていった。
リリスは水辺に立ったまま、自分の腕を見下ろした。水を含んだ髪は思っていたより重く、肩から胸へ流れた菫色の束が、透明な滴をいくつも落としている。足元の草は濡れ、つま先には冷たさが残っていたが、それさえもまだ、リリスには新しい感覚だった。
「寒くはないか」
ガブリエルの声がして、リリスは顔を上げた。水辺の少し手前に立つガブリエルは、柔らかな白い布を手にしている。橙色の髪は朝の光を受けて淡く輝き、翼は背の後ろにきれいに畳まれていた。
リリスは一度、自分の濡れた髪を見てから答えた。
「少し冷たいわ。でも、嫌ではないの」
「そうか」
ガブリエルは近づきすぎない位置まで来ると、布を広げた。
「では、先に身体を包もう。水を含んだままで長く立っていると、冷えてしまう」
「冷えると、どうなるの?」
「体調を崩すことがある」
「たいちょう」
リリスは、聞き慣れない言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
ガブリエルは少しだけ表情を和らげる。
「身体の調子のことだ。人間の身体は、天使よりもよく変わる。温めなければ冷えるし、食べなければ力が出なくなる。休まなければ疲れも残る」
「天使は違うの?」
「私たちは、人間とは少し違う」
そう言って、ガブリエルはリリスの肩へ布をかけた。布は柔らかく、肌の上の水をゆっくり吸い込んでいく。急がせることなく、触れる場所を選びながら、布の端で水気を押さえていくその手つきに、無駄な動きはひとつもなかった。
リリスは、その手元をじっと見ていた。
「ガブリエルは、こういうことをよく知っているのね」
「君が困らないように、教えるために来ている」
「私が困らないように」
「そうだ」
その言葉は、朝の水辺にまっすぐ置かれた。
リリスは少しだけ目を瞬いた。困らないように、という言葉を、胸の内でもう一度なぞってみる。誰かが、自分が困る前に気づいてくれる。それだけで、肩に置かれた布の重みが少し軽く感じられた。
ガブリエルは、リリスの濡れた髪をそっと背から前へ移した。
「次は髪だ。水を含むと重いだろう」
「ええ。こんなに重くなるなんて知らなかったわ」
リリスは濡れた髪の端を両手で持ち上げた。紫の束から、透明な滴がいくつも落ちる。
「乾くと軽くなるの?」
「なる。だが、長い髪は乾かすのに時間がかかる。無理に引くと痛むから、先に水を布で取って、それから梳く」
「痛む?」
「髪も傷む。絡まったところを乱暴に引けば、切れることもある」
リリスは驚いて、自分の髪を見た。
「髪も痛いの?」
「君が痛むほどではないかもしれない。だが、丁寧に扱った方がいい」
ガブリエルはそう言って、髪を布で包んだ。上から押さえるのではなく、毛先へ向かって水を移すように、ゆっくり手を動かしていく。自分の髪なのに、自分よりガブリエルの方が扱い方を知っている――それが少しおかしくて、少し安心した。
「ねえ、ガブリエル」
「なんだ」
「私は、知らないことが多いのね」
ガブリエルの手が、ほんの少しだけ止まった。
「生まれたばかりだからだ」
「生まれたばかりだと、知らないの?」
「そうだ。だから、ひとつずつ覚えていけばいい」
「ひとつずつ」
リリスは頷いた。
「わかったわ」
ガブリエルが布を替え、次に手にしたのは白い櫛だった。よく磨かれた歯の間に朝の光が細く入り、リリスはそれが何をするものなのか、しばらく目で追っていた。
「それで髪を梳くの?」
「そうだ。最初は毛先から。絡まったところを、少しずつほどいていく」
背後に回ったガブリエルの手が濡れた髪を支え、櫛の歯が毛先へそっと入る。思っていたよりも冷たく、くすぐったくて、リリスは小さく肩を揺らした。
「痛かったか?」
「いいえ。くすぐったいの」
「動くと絡む」
「じゃあ、じっとしているわ」
そう言って、リリスは膝の上に手を置いた。
ガブリエルは毛先から櫛を入れた。引っかかれば無理に通さず、指先で髪を分け、またゆっくり櫛を下ろす。櫛が通るたび、濡れた束の中に空気が入り、髪の重さが少しずつ変わっていった。水が落ち、菫色の中に朝の白が細く混じる。
「気になっていたのだけど、ガブリエルの名前にも庭にいる天使たちの名前にも、似ているところがあるのはなぜ?」
ふいに、リリスが言った。ガブリエルは櫛を動かしながら答える。
「エル、という響きのことか」
「ええ。見回りの天使たちにも何人かいたわ」
「よく聞いていたな」
「だって、みんな名前を呼ばれているもの。聞こえるわ」
リリスは少し得意そうに言った。
「天使たちのエル、ってどういうものなの?」
ガブリエルは、絡まった毛先を指でほぐしながら答えた。
「父上に近い務めを受けた者の名には、その響きが宿ることがある」
「お父様に近い天使の証ということ?」
「そう受け取ってくれて構わない」
「名前にもそういうものがあるのね」
「ある。名はその者がどこから来て、何を担うかを示すことがある」
リリスは少し考えた。
「なら、私の名前も?」
ガブリエルの櫛が、ゆっくり下りる。
「君の名は、父上が君へ与えたものだ」
「お父様が」
「そうだ。君が君として呼ばれるための名だ」
リリスは、自分の名を胸の内で繰り返した。
リリス。
それは、呼ばれるたびに自分の方を向く音だった。まだ不思議だったけれど、呼ばれれば顔を上げる。それが自分の名前なのだと、少しずつ分かってきていた。
「天使は、みんなお父様から名前をもらうの?」
「そうだ。名を受け、務めを受ける」
「天使も私のようにお父様に作られたの?」
ガブリエルは、櫛を止めなかった。
「そうだな。作られ方は違うが、天使も父上によって作られ、名を与えられ務めを与えられる」
「お父様は、たくさんの天使を作ったのね」
「そうだ」
「じゃあ、人間もこれからお父様がたくさん作るの?」
リリスは水面の方を見たまま、少し楽しそうに続けた。
「私やアダムのような人が、もっと増えていくの?」
「いいや」
ガブリエルは、櫛を持つ手を止めて答えた。
「人間は違う」
「違うの?」
「人間は、人間同士で次の人間へ続いていくんだ」
「人間同士で?」
「そうだ」
ガブリエルは、絡まった毛先を指でほどきながら言った。
「君はアダムとは違う身体を持っている」
「そうね。私とアダムは似ているけど、違う形だわ」
リリスは、自分の腕を見て、それから胸元へ視線を落とした。
「そうだ。君は子を宿す側の身体を持っている」
「子を、宿す?」
「いつか、その日が来たら君とアダムから次の人間が生まれる」
リリスは目を丸くした。
「私から? 私から次の人間が生まれるの?」
「そうだ」
「それは、いつ?」
「君の身体の準備が整ったら、だ」
リリスはしばらく黙った。水辺の風が、まだ乾ききらない髪を揺らす。ガブリエルの櫛が、毛先からまた、ゆっくりと通った。引っかかっていた部分がほどけ、髪が背に沿って落ちる。
「そうなの。それって、なんだかとっても不思議だわ」
リリスは、自分の手のひらを見つめた。
「私はお父様に作られたのに、今度は私から人が増えるなんて……よく分からないわ」
「分からないことは、少しずつ覚えていけばいい。その時になってみないとわからないこともある」
「また、ひとつずつ?」
「そうだ」
リリスは小さく笑った。
「今日は、ひとつずつがたくさんあるのね」
「そうだな」
ガブリエルの口元が、わずかにやわらいだ。
髪は少しずつ乾き始めていた。濡れて重かった菫色は、光を含むたびにふわりと広がり、櫛が通る場所から滑らかになっていく。
ガブリエルは櫛を持つ手を止めずに聞いた。
「アダムとはどうだ? なにか困っていないか?」
リリスは少し考えた。
「うーん……困っては、いないと思うわ」
「そうか」
「アダムは、あれは食べられる、これはこう使う、こっちへ行くと水がある、って、いろいろ教えようとしてくれるの」
「それは、君を気にかけているからだ」
「気にかける?」
「大切にしているということだ」
リリスは、その言葉を聞いて瞬きをした。
「大切にしていると、困らないように教えるのね」
「そうだ」
「君はアダムに大切にされている。だから君もアダムを大切にしてやれ」
リリスはすぐには頷かなかった。膝の上で指を重ね、アダムが教えてくれた水の場所や果実のことを、ひとつずつ思い出しているようだった。アダムは、水の場所も、果実のことも、庭の道も、いろいろ教えようとしてくれる。それが大切にするということなのなら、教わったことを覚えることも、アダムを大切にすることなのだろう。
リリスは小さく頷いた。
「わかったわ」
ガブリエルの櫛が、また動き出した。
「いい子だ」
その一言に、叱る響きも、急かす響きもなかった。
リリスは少しだけ肩をすくめる。
「いい子?」
「教わったことを、きちんと受け取っている」
「じゃあ、教わったとおりにできないと、悪い子になってしまうの?」
ガブリエルの手が、少しだけ止まった。
「そうではないよ」
「違うの?」
「すぐにできないこともある。分からないこともある。そういう時は、また聞けばいい」
「また聞いていいの?」
「構わない。我々はそのためにいる」
ガブリエルは、リリスの髪を傷めないように、絡んだところを指で分けた。
「ただ、教えられたことを大切に受け取るのは、よいことだ」
「そうなのね」
リリスは少し安心したように息を吐いた。
「天使にも、そういうひとがいる?」
「そういうひと?」
「ガブリエルたちが困らないように、先に気づいて教えてくれるひと」
その問いに、ガブリエルの櫛が、ほんの少しだけ遅くなった。水辺の音が、急に近くなる。リリスは振り返らないまま、ただガブリエルの返事を待っていた。
ガブリエルは一拍置いてから答えた。
「そうだな。私たちが迷う前に、いつも先に気づいて導いてくれる方がいる」
「そうなの」
リリスは、素直に頷いた。
「天使にも、そういう方がいるのね」
「ああ」
「じゃあ、ガブリエルもミカエルもほかの天使たちも、その方に大切にされているのね」
ガブリエルの手が、今度こそ止まった。リリスは自分の問いが何に触れたのか分かっていなかった。
ただ水面の光を見つめ、答えを待っている。
ガブリエルは、リリスの背に流れる濡れた髪と、白い布に包まれた細い肩を見ていた。生まれたばかりの人間の娘は、自分の言葉がどこに触れたのか分かっていない。
ガブリエルの脳裏に、光の中に立つ背が浮かんだ。
銀の髪、振り返る紫紺の瞳。自分の名を呼ぶ声。
兄であり、四人を導く大天使長であり、迷うより先に道を示す者。
それ以上の何かを考える前に、ガブリエルは思考を止めた。
「……そうだな」
ガブリエルは、ようやく答えた。声は乱れなかった。
「私たちも、大切にされていると思う」
リリスはほっとしたように笑った。
「なら、いいわ」
「いい?」
「ええ。ガブリエルも大切にされているなら、いいことだと思うもの」
ガブリエルは返事をしなかった。櫛を持つ指に、わずかに力が入る。けれどすぐに力を抜き、リリスの髪へまた丁寧に櫛を通した。
「髪が乾いてきた」
「あ、本当ね。軽くなったわ」
リリスは髪を少し持ち上げて笑った。ガブリエルも、いつもの表情に戻る。
「少し動くと、また絡む。最後までじっとしていなさい」
「はーい」
リリスは素直に返事をした。
ガブリエルは、菫色の髪を最後まで梳いた。水の重みが抜けた髪は、朝の光を受けて柔らかく流れる。毛先が揃い、絡まりがなくなり、風が通るたび、背の上でひとすじずつ揺れた。
「終わったぞ」
ガブリエルが言うと、リリスは振り返った。
「もう?」
「ああ」
リリスは自分の髪を両手で持ち上げ、目を輝かせた。
「すごいわ。さっきより軽い」
「髪は、きちんと乾かして梳けば扱いやすくなる」
「毎日するの?」
「できるだけ」
「毎日、こんなに丁寧に?」
「慣れれば、もう少し早くできるさ」
リリスは感心したように頷いた。
「ガブリエルはすごいのね」
「私は、やり方を知っているだけだ」
「知っているのは、すごいことだわ」
その言葉に、ガブリエルは返事を忘れた。
教えられたことを疑わず受け取り、知ったことを素直に喜ぶ。目の前の娘が、このまま困らずに笑っていられればいい。
それは、務めだから生じた思いではなかった。
リリスを愛おしく思い、守りたいと願う気持ちは、ガブリエルの中では迷うようなものではなかった。
「そうか?」
「ええ」
リリスは笑った。その笑顔は、まだ何にも疑いを持っていない。差し出されたものを、やさしさとして受け取っている。
ガブリエルは、その笑顔を見つめたまま、櫛を持つ手を止めた。何と呼べばいいのか分からない感覚が、胸の奥でひとつにならないまま残っている。けれど、それもまた、言葉にはしなかった。
やがて二人は水辺を離れた。エデンの庭へ戻る道は、やわらかな草に覆われている。リリスは、先ほどまで水に入っていたせいか、歩きながら何度も髪へ触れた。梳かれた髪は指に引っかからず、さらさらと流れる。
「ガブリエル」
「なんだ?」
「髪が揺れるのって、少し面白いわ」
「転ばないように前を見なさい」
「ええ、ちゃんと見ているわ」
そう言いながら、リリスはまた髪へ触れた。
ガブリエルは息を吐いたが、その声には叱る響きより苦笑に近いものが混じっていた。
木々の間を抜けると、小さな花畑が見えた。
朝の光の中で白や淡い黄色、青の花が揺れ、葉の影には菫色の花も咲いている。
リリスの足が止まった。
「見て、ガブリエル!」
声が明るく跳ねた。
「きれいだわ」
リリスは花畑へ近づき、白い花の丸い花弁や、青い花の細い葉を順に見ていった。
やがて、葉の影に隠れるように咲いた菫色の花へ視線が止まり、手がそちらへ伸びかけた。
その前に、ガブリエルは白い花を一輪摘んでいた。
白い花は朝の光の中で柔らかく開いている。乾いたばかりの菫色の髪にも、まだ幼いリリスの表情にも、よく似合うように思えた。
「これがいい」
ガブリエルはそう言って、リリスの髪にそっと花を挿した。
「白い花がよく似合う。リリス、君は本当にかわいらしいな」
リリスは目を丸くし、それから髪に挿された花へ手を添えた。
「そう? ありがとう」
リリスはもう一度、髪の花に触れた。白い花はやわらかく、指先に触れると少しだけ揺れる。
花はたしかに美しく、ガブリエルの手つきも急かさず、押しつけるものでもなかった。
だからリリスは、そのまま笑った。
けれど、リリスの視線は花畑の方へ残っていた。
ガブリエルはそれに気づきながらも、その先に何があるのかまでは確かめなかった。
◇
あの日の記録には、多くのことが書かれていた。
リリスが水の冷たさを嫌がらなかったこと、髪を梳かれる間、動かずに座っていられたこと。天使の名の響きを覚え、アダムを大切にすると頷いたこと。
白い花がよく似合っていたことも記録には残っている。
けれど、書かれていないことがあった。
リリスから天使たちにも困る前に気づいてくれる者がいるのかと尋ねられた時、誰を思い浮かべたのか。
銀の髪を持つ兄の面影を、なぜ記すことができなかったのか。
兄がルシフェルには戻らず、ルシファーとしてリリスの手を取り、エデンを去った今になっても、尚、ガブリエルには分からなかった。
あの人へ向けていたものが、敬愛だったのか。
導く者への憧れだったのか。
兄を慕う心だったのか。
それとも、別の名を持つ感情だったのか。
本当に分からなかったのか。
分からないままでいようとしていたのか。
その違いさえ、ガブリエルにはもう確かめられなかった。
そして、もうひとつ。
リリスが白い花へ礼を言いながら、花畑へ視線を残していたこと。あの時のガブリエルは、その視線の先まで見ようとはしなかった。
白い花が似合うと思った。自分がよいと思ったものを差し出し、リリスも笑って受け取った。けれど、どの花が好きなのかとは尋ねなかった。
あの視線の先を追っていたのなら、白い花を挿す前にリリスが何を見ていたのか確かめていたら。
何かが変わったのかもしれない
あの二人が互いを選ぶことまで変えられたとは思わない。
それでも、あの時リリスの視線を追っていたなら、二人が互いの方を見ていたことに、エデンを去られたあとで初めて気づくことはなかったかもしれない。
自分の感情にも、リリスの望みにも、言葉を与えられなかった。
その後悔を、ガブリエルはどこにも記せず、胸の奥へしまい込んだ。




