一章_番外編Ⅱ「臆さない声」
これはルシフェルがまだ、自分を称賛する声に幸福を感じていた頃の話である。
天界の会議室には、柔らかな光が満ちていた。高い天井から降り注ぐ光は床に影を落とさず、長い卓の上に重ねられた紙束を白く照らしている。神の言葉を写した薄い紙と、天界の各所へ渡される予定の運用案は、端まで乱れなく揃えられていた。
その中央に立つルシフェルは、銀の髪を肩へ流し、白い式服の胸元に大天使長の印を帯びていた。背に畳んだ羽はまだ曇りを知らず、彼が紙面へ目を落として読み始めると、その声は会議室の隅までよく届いた。
強く押しつける必要はない。神の言葉を読み、その示すところをほどいて、天界の各所へ誤りなく渡す。それが、ルシフェルに与えられた役目だった。
「以上の形であれば、各庭園、書庫、観測所への伝達系統は三日以内に整うと思う」
読み終えるのを待っていた天使たちが、揃って頷いた。
「さすがルシフェル様!」
「この形であれば間違いございません」
「ルシフェル様のお読みになる通りです!」
どの声にも、彼を疑う響きはなかった。
ルシフェルも、その称賛を嫌ってはいなかった。神の言葉を正しく読み取り、天界の流れを滞らせないことは、すなわち皆が迷わず、それぞれの持ち場へ戻っていけることに繋がる。
それは彼にとって、素直に喜ばしいことだった。
父からよく読めていると言われれば喜び、兄妹たちから、兄上はなんでもできますね、と目を輝かせられるのも嬉しかった。
周囲の天使たちが、自分の言葉を聞いて安心することも同じだった。
誰かより優れていると誇るためではなく、ただ自分が与えられた場所で役に立てている――そのことを、ルシフェルはまっすぐ喜んでいた。
「ありがとう。では、この形で」
いつものように微笑んだ、その時だった。
「そのままでは、下位の持ち場で判断が割れます」
会議室の動きが止まった。
紙を持っていた天使は手を宙に残し、隣にいた天使も声のした方へ顔を向ける。
ルシフェルも振り返った。
「……え?」
思わずこぼれた声だった。
腹を立てたわけではない。
ただ、自分の読みや運用案へ真正面から意見を返されるとは、本当に予想していなかった。
しかも、その声には彼を試す気配も、挑もうとする響きもなく、必要だと思ったことを、必要な分だけ述べた。
それだけだった。
声の主は、会議室の端にいる智天使だった。
こげ茶色の髪と伏せがちな目を持つ、整った顔立ちの天使で、周囲の天使たちが見せる称賛も、ルシフェルを前にした怯えも浮かんでいない。
彼が見ているのはルシフェルではなく、卓上の紙だった。
「読みそのものは分かります。ですが、実務へ落とすと、二か所で判断が重なります」
「判断が?」
「はい」
智天使は紙面の一部を指した。
「ここです。上位から見れば一つの指示ですが、下の持ち場では二つの受け取り方ができます。どちらを先に処理するかで、結果が変わります」
周囲の天使たちは、誰もすぐには口を開かなかった。やがて一人が、ためらいながら声を挟む。
「ベルゼブブ様、ルシフェル様のお読みになるものにそんな……」
「読みを否定しているのではありません。渡し方の話です」
ベルゼブブは紙面を見たまま答えた。その言葉は場を切り裂くようなものではなかったが、曖昧に引き下がる余地もなかった。
ルシフェルはしばらく彼を見ていた。
ベルゼブブは顔を上げず、行と行のつながりを追っている。
それが、ルシフェルには不思議だった。
「……じゃあ、君ならどう直す?」
今度は周囲の天使たちが、揃ってルシフェルを見た。ベルゼブブも、そこで初めて顔を上げる。
「私が、ですか?」
「うん。判断が割れるなら、割れない形にした方がいいだろう?」
ベルゼブブは一拍置いてから、紙束の一枚を手前へ引いた。
「この一文を分けます。先に観測所へ渡すものと、庭園管理へ渡すものを別にする。共有するのは、その後でいい」
「先に分ける、か」
「はい。上で一つに見えるものを、下へ同じ形で渡さない方がいい場合があります」
ルシフェルは、その指先が二つの区分を作るのを見ていた。神の言葉を読むのとは違う。もっと下の持ち場へ降ろした時、誰がどこに足を置くのかを確かめる読み方だった。
「なるほど」
ルシフェルが頷くと、会議室に張っていた空気がようやくほどけていく。
「では、君の指摘を採用しよう」
「よ、よろしいのですか!?」
思わず尋ねた天使へ、ルシフェルは不思議そうな顔を向けた。
「判断が割れるなら、直した方がいいだろう?」
そう言って再びベルゼブブを見ると、彼はもう紙面へ視線を戻していた。
その日の会議は、予定より時間を延ばして終了した。
それでも、天使たちは席を立つ前に、またルシフェルを称えた。
「柔軟なご判断、さすがでございます」
「やはりルシフェル様は、すべてをお聞き届けになる」
「これで下位の者たちも迷わずに済みましょう」
ルシフェルは笑ってそれを受け取ったが、その視線は一度だけ会議室の端へ向いた。
ベルゼブブはすでに紙束をまとめ、扉へ向かっていた。
彼だけは最後まで、ルシフェルを称えることはなかった。
◇
別の日にも、同じ会議室へ天使たちが集まっていた。
今度の議題は、書庫と外縁記録の照合手順で、ルシフェルは紙面を読み、必要な箇所を順に指し示していった。
「ここは先に書庫で控えを取る。外縁記録は、その後で照合する方がいい」
「承知いたしました」
「さすがでございます」
「その順で進めれば、滞りなく」
皆が当然のように頷くのを、ルシフェルもいつものように受け取った。けれど、話を次へ進める前に、彼は会議室の端へ目を向けた。
ベルゼブブは、紙面へ目を落としたまま、相変わらず称賛も怯えも浮かべていなかった。ルシフェルはすぐに続けず、彼が口を開くのを待った。
周囲の天使たちが、なぜ話が止まったのかと互いの顔を見合わせていると、その間を置いて、ベルゼブブが言った。
「その順序では、伝達に遅れが出ます」
ルシフェルは瞬きをする。
「そう?」
「はい」
ベルゼブブは紙束の端を押さえた。
「上では一つの指示でも、下では三つの作業になります。このまま渡すと、誰が先に動くかで迷います」
「三つ?」
「書庫の控え、外縁記録の照合、照合後の再分類です。順序を一行にまとめれば、受け取る側が、自分の持ち場はどこから動くのかを判断しなければなりません。初めから三つに分けた方が動きやすいのでは?」
ベルゼブブは迷いなく区分を示した瞬間、また会議室が口を閉ざす。
その中でルシフェルは、ベルゼブブの横顔を見ていた。
やはり、彼は自分を見ていない。書類だけを見て、自分の立場も周囲の反応も気にせず、必要なことを言っている。
ルシフェルの口元に笑みが浮かんだ。
「分かった。そこも直そう。彼の、ベルゼブブの案を入れる」
周囲の天使たちは慌てて紙を取り直した。
「し、承知いたしました」
「……ルシフェル様がそう仰るなら」
その言葉を聞いた時、ベルゼブブの眉がわずかに動いたのを、ルシフェルは見逃さなかった。
会議が終わり、退室しようとするベルゼブブを呼び止めた。
「ベルゼブブ」
「……はい」
「君、さっき嫌そうな顔をしたね?」
「していません」
「したよ」
「記憶にありません」
「ルシフェル様がそう仰るなら、というところ」
ベルゼブブは、ようやくルシフェルを見た。
「……それが何か?」
「君は、俺が言ったから通る、という形式があまり好きじゃない?」
「……仕事として必要なら通ります」
「仕事として、ね」
「はい」
ルシフェルは笑った。
「君は本当に、俺をあまり見ないね」
「見ています」
「そう?」
「あなたの顔色ではなく、あなたの案を」
返ってきた言葉を、ルシフェルはしばらく考えていたが、やがて楽しげに笑った。
「それはいいね」
ベルゼブブは返事をせず、面倒なものを見るように目を細めた。
◇
三度目の会議では、ルシフェルは書類を読み終えたあと、自然にベルゼブブの方を向いた。
周囲の天使たちは称賛の言葉を口にしかけたが、ルシフェルの声の方が先だった。
「ベルゼブブ、君はどう思う?」
会議室の空気が止まり、ベルゼブブの眉も動いた。
「……私に聞かれるのですか」
「うん。君の意見が聞きたい」
挑発でも、試すための問いでもなかった。本当にただ、彼がどう読むのかを知りたいのだと、その声が告げていた。
ベルゼブブは書類へ目を落とし、二行目で指を止めた。
「二行目が余計です」
ルシフェルは笑いそうになった。
「余計?」
「はい。なくても伝わります。むしろ、あることで迷います」
「なるほど。じゃあ、削ろう」
周囲の天使たちは、誰も口を挟まなかった。
その日から、会議室の空気は変わり始めた。
ルシフェルが読み終え、周囲が頷く。
そのあとで、誰かがそっとベルゼブブを見る。
ベルゼブブは気づいているのかいないのか、いつも通り紙面を確かめていた。
それからも彼は、たびたびルシフェルの案へ口を挟んだ。
反抗ではなく、挑発でもない。ただ、書かれたものを下の持ち場へ渡した時、どこで判断が割れるのかを指摘しているだけだった。
「その順では、伝達が遅れます」
「この一文は、受け取る側によって解釈が分かれます」
「そこを省くと、末端の天使が判断を代行することになります」
ベルゼブブはいつも、ルシフェルではなく書類を見ていた。
初めは驚き、次には首を傾げ、その後はルシフェルの方から意見を尋ねるようになった。
やり取りを重ねるうちに、ルシフェルはベルゼブブの仕事場へも顔を出すようになった。
最初は書類の確認だった。
次も、たぶん書類の確認だった。
三度目には、確認する書類よりも、ルシフェルの腕に抱えられた本の方が厚かった。
ベルゼブブの仕事場は、会議室やルシフェルの部屋と比べて飾り気がなかった。
机は広く、紙束は用途ごとに分けられ、壁際の棚には、確認済み、保留、差し戻しの札が並んでいる。
扉が開いても、机に向かっていたベルゼブブは顔を上げなかった。
「ベルゼブブ!」
「仕事中です」
「まだ何も言っていないんだけど……」
「来た時点で、何か言うつもりでしょう」
ルシフェルは笑い、腕に抱えた本を持ち直した。
「この本について、ぜひ君の意見を聞きたいんだ。神殿西側の書庫で見つけたものなんだけど、記述の並べ方がとても面白くてね」
「読む暇はありません」
「じゃあ、俺が要約して伝えようか」
ベルゼブブの筆が止まった。
「それは、私の仕事を増やす行為です」
「そうかな? 読む手間は省けるよ」
「聞く手間が増えます」
「でも、きっと面白い!」
「あなたが面白いと思ったものを、私も面白いと思うとは限りません」
「それを確かめたいんだよ」
ベルゼブブは、そこでようやく顔を上げた。
目の前の大天使は、当然のように分厚い本を抱えている。悪びれた様子はなく、むしろ反応を期待している顔だった。
ベルゼブブは息を吐く。
「そもそも、私の意見など必要ないのでは?」
「どうして?」
「あなたは誰よりも読める。神の言葉も、古い記述も、ほとんど迷わず拾えるでしょう」
ルシフェルは瞬きをしたあと、目を輝かせた。
「今のは、褒めてくれたのかな?」
「いえ。事実を述べただけです」
「そっか」
なぜか嬉しそうに頷くルシフェルを見て、ベルゼブブは眉間に力を込めた。
どうやらこの大天使は、否定しても帰らない。褒めたつもりがなくても喜び、指摘をすればするほど、次の書類や本を持ってくる。
厄介な相手に目をつけられた――ベルゼブブは、心の中でそう結論づけた。
「……五分だけです」
「十分ほしい!」
「五分です」
「じゃあ、要点から話すよ」
「最初からそうしてください」
ルシフェルが本を開くのを見て、ベルゼブブは諦めたように筆を置いた。
それから、そういうことが、何度か続き、その度にルシフェルは書類や本を持ってきた。
誰も気に留めなかった古い注釈を抱えて現れることもあり、なぜか途中で茶葉の話へ逸れる日もあった。
ベルゼブブは、そのたびにきつく眉を寄せた。
仕事中です、と言い、読む暇はありません、と断った。それでも、完全には追い返せなかった。
ルシフェルが持ってくるものは面倒だったが、ときどき本当に見る価値があったからだ。
---
ある日、ルシフェルはまた紙束を抱え、ベルゼブブの机の前に立っていた。
扉が開いた時点で、今日もベルゼブブは溜息を飲み込だ。
「君は、俺のことを褒めないね」
書類を束ねていた手が止まる。
「……何の話ですか」
「そのままの話だよ」
ルシフェルは楽しげに笑っていた。
「皆は褒めてくれる。父上も、兄妹たちも、他の天使たちも。俺の読みが正しければ、よく読めていると言ってくれるし、滞りなく進めば、さすがだと言ってくれる」
「そうでしょうね」
ベルゼブブは書類へ視線を戻した。
「実際、それができるのはあなただけです。神の言葉を読み、天界へ渡せる形にする。速さも申し分ありません」
「それは褒めてる?」
「評価です」
「そっか」
弾んだ声に、ベルゼブブが眉を寄せる。
「……なぜ嬉しそうなのですか」
「君は、俺がルシフェルだから褒めるわけじゃない。俺の出したものを見て、必要なことを言うだろう」
「それが俺の役目であり仕事ですから」
「うん。だから、いつか君に褒められたら、ちゃんと百点を取れた気がする」
ベルゼブブは、ひどく不可解そうな顔をした。
「……は?」
「俺はいつか、君に褒められたい」
「余計な目標を増やさないでください」
「余計かな?」
「余計です」
「でも、少し楽しそうだ」
「私は少しも楽しくありません」
「そっか」
ルシフェルは、ますます楽しげに笑った。
---
数日後、今度は小さな包みを持ってきた。扉が開いた時点で、ベルゼブブは余計なものが増えたことを察した。
「ベルゼブブ!」
「仕事中です」
「実は、焼き菓子が作れるんだ」
「仕事中です!」
「食べてみて!」
さすがに顔を上げると、ルシフェルは包みを差し出していた。中には、薄く焼いた小さな菓子が並んでいる。
「ひとつだけでも!」
「……食べたら帰りますか」
「感想を聞いたら帰るよ」
「……では、ひとつだけ」
ベルゼブブは渋々ひとつ取り、期待を隠そうともしないルシフェルの前で口へ運んだ。
「正直に言ってくれていいよ」
「わかりました」
口に入れた瞬間、強烈な甘さが前に出た。
そのあとに残るのも、やはり甘さだ。
香りもないわけではないが、強い甘みと柔らかな生地にすぐ押し流されてしまう。
幼い者には食べやすいだろうが、それだけだった。
ベルゼブブは飲み込んでから言った。
「……厨房担当が作ったものの方が美味しいです」
ルシフェルは、ぽかんと口を開けた。
「……そうなの?」
「はい」
「そんなに?」
「はい」
ルシフェルは、包みの中の菓子を見下ろした。
兄妹たちはいつも美味しいと言ってくれていた。
ミカエルは、兄上の作ったものなら、と目を輝かせ、ガブリエルは、兄さまのお菓子ですから、と大切そうに食べた。
ラファエルは何度もおかわりを欲しがり、ウリエルは、これは保存するべき味です、と記録を取ろうとした。
ほかの天使たちも、ルシフェル様が作られたものならと喜んだが、ベルゼブブは菓子だけを見て、菓子として判断した。
「……もしかして、甘すぎ?」
「かなり」
「柔らかすぎる?」
「はい」
「香りは?」
「弱いです」
「後に残るものは?」
「甘さのみ、です」
ルシフェルは菓子を見つめ、やがて納得したように頷いた。
「……分かった」
「何がですか」
「次は、もう少し変えてみる」
「……次があるのですか」
「もちろん!」
「なぜ?」
「いつか君に褒められたいから」
ベルゼブブは、心底面倒なものを見る目をした。
その頃から、ルシフェルの焼き菓子は形を変え始めた。
甘さは控えめになり、香りが残るようになって、ただ柔らかいだけだった生地にも、端の香ばしさが加わっていった。
それでも、ベルゼブブは褒めなかった。
「焼きが浅いです」
「端だけ硬いです」
「中まで同じ味がします」
「今回も後に残る風味がありません」
ルシフェルは一つひとつ聞き、次の菓子へ反映させた。
その変化は、兄妹である四大天使たちの食卓にも届いていた。
ルシフェルの菓子は、前より甘さが控えめになり、香りも深くなっていた。
ミカエルは、兄上はますます腕を上げられた、と胸を張り、ラファエルは、美味しいね、と笑った。
ウリエルは、以前より香ばしい匂いが残るようになっています、と紙へ記した。
ガブリエルだけが、菓子を見つめたまま口を開かなかった。
兄の皿は前より美味しくなっていたが、自分達以外の誰かの言葉で変わっていくのが、ほんの少し寂しく思えた。
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ある日、ルシフェルはいつものようにベルゼブブの執務室で他愛もない話をし出し、笑っていた。
白い式服に乱れはなく、声も明るかったが、それでも部屋に入ってくる時、重い足音を響かせていた。
ベルゼブブは何も言わず、机の端に置いていた茶器を引き寄せる。
「そろそろ座ってください」
「珍しいね。君から勧めてくれるなんて」
「立たれていると邪魔です」
「そっか」
ルシフェルが素直に椅子へ座ると、ベルゼブブは茶を注ぎ、手元の小さな包みを開いた。
中に入っていたのは、角のある白い砂糖菓子で、それを数粒、茶の中へ落とすと、澄んだ色の中を小さな星のような粒が沈んでいった。
ルシフェルの目が輝く。
「今のは?」
「砂糖代わりの金平糖です」
「紅茶に金平糖を入れるのかい?」
「砂糖がなかったので。……金平糖も元を正せば砂糖ですから」
「こんなこと、思いつかなかった」
ルシフェルは茶器の中を覗き込んだ。
白い角を持つ粒が、熱の中で少しずつ輪郭を失っていく。
「きれいだね」
ベルゼブブは書類を一枚取り上げた。
「溶ければ同じです」
「でも、溶けるまでが違う」
「そこに何かありますか?」
「あるよ。少なくとも、俺は楽しい」
返事はなかった。ルシフェルは茶をひと口飲み、味を確かめるように目を細めた。
「甘い」
「糖分ですから」
「君は、ずいぶん素敵なことをするね」
ベルゼブブの筆が止まる。
「していません」
「しているよ」
「たまたま、砂糖がなかったから入れただけです」
「そっか。でも、ありがとう」
ルシフェルが笑うと、ベルゼブブは書類へ目を戻した。
「疲れている時は、糖分を入れた方がいい」
「……疲れているように見えた?」
「見えました」
ルシフェルは意外そうに瞬きをし、そのあと笑った。
「君は、俺を見ていないんじゃなかった?」
「顔色を見る必要がある時もあります」
「それは、心配してくれたのかな?」
「職務に支障が出ると困るだけです」
「そっか」
茶器の中では、もう星の形がほとんど消えていたが、溶けた甘さは茶に残っていた。その横で、ベルゼブブは淡々と書類をめくった。
「飲んだら、帰ってください」
「……冷たいな」
「疲れているなら休んでください」
「分かったよ」
ルシフェルは、まだ笑っていた。
◇
ある日、ベルゼブブはある持ち場から戻ってきた報告書を読んでいた。
整った報告で、遅れも乱れもなく、数日前にあれほど気にしていた判断の割れも起きてはいなかった。
それ自体は悪いことではない。
けれど、あの手順なら本来どこかで一度は迷いが出るはずで、そこで初めて持ち場ごとの癖や手順の弱い箇所が見えてくるはずだった。
ところが、何も出ておらず、むしろ整いすぎていた。
ベルゼブブは報告を持ってきた天使へ尋ねた。
「この分岐表は、誰が整えた?」
天使は意外そうな顔をした。
「ルシフェル様です」
「ルシフェル様が?」
「はい。あらかじめ、こちらの持ち場ではこのように動くようにと。おかげで誰も迷わずに済みました」
ベルゼブブは報告書を閉じた。
紙の上の処理は正確で、美しく、無駄も間違いもない。
だからこそ、腹が立った。
あの大天使は、全てを自分で直したのだ。
ルシフェルは、天界の庭園にあるガゼボで紙束を読んでいた。
薄い茶を前に置き、光を受けた銀の髪を風に揺らしている。
「ベルゼブブ」
足音に気づいて顔を上げたルシフェルは、いつもの調子で笑った。
「珍しいね。君から来るなんて」
ベルゼブブは挨拶を省いた。
「どういうことですか」
「何の話?」
「下位の持ち場へ渡した分岐表です」
「ああ」
ルシフェルはすぐに思い当たったようだった。
「君が判断が割れると言っていたところだろう? 先に整えておいたよ。これで下の者たちは迷わなかったはずだ」
「迷わなかったでしょうね」
「なら、よかった」
「よくありません!」
ルシフェルは、本当に意外そうに目を丸くした。
「……そう?」
「そうです。私は、あなたが全部整えろと言ったのではありません」
「でも、下の者たちは困らなかった」
「困らなければいい、という話ではありません。あなたが先にすべて整えれば、持ち場の者たちは迷わずに済む。ですが、どこで迷うはずだったのかも分からなくなる」
ルシフェルは、茶器に触れたまま口を閉ざした。
「次もあなたがいなければ動けない。あなたが直したものを渡されるだけなら、誰も覚えません!」
ルシフェルの顔から、先ほどまでの明るさが消えていく。
「俺は、手順を整えたつもりだったんだけど……」
「整えています。正確に」
ベルゼブブは言った。
「だから余計に厄介なんです」
ルシフェルはそこで初めて目を伏せた。
「……君に、少しはましになったと言ってもらえるかと思った」
「俺は、そんなことで褒めません」
その言葉が出た瞬間、ベルゼブブ自身も言葉を切った。
それでも、視線は逸らさなかった。
「あなたが一人で拾えば済む、などと思っているうちは、褒めません」
しばらく、庭園を渡る風だけが二人の間を抜けた。
ルシフェルは手元の紙束を見たあと、息を吐いた。
「……そうか。俺が間違っていたんだね」
驚くほど素直な声だった。
「君の言う通りだ。俺が拾ったせいで、誰がどこで迷うのか分からなくなった」
ベルゼブブは答えなかった。
ルシフェルは優秀だった。
読める、直せる、整えることもできる。
だからこそ、その手は届きすぎてしまう。
誰かが迷う前に道を作り、つまずく前に石を除けてしまう。それが善意であることも、ベルゼブブには分かっていたし、分かるからこそ厄介だった。
やればやるほど称えられてきたのだろう。実際にできるのだから。任せれば間違いないのだから。
だから、誰もその手を止めなかった。
ルシフェルは紙束を閉じ、肩を落とした。
「褒められるのは難しいね」
ベルゼブブは大きく息を吐く。
「だから、お前は面倒なんだ」
言ったあとで、自分の言葉に気づいた。
顔を上げたルシフェルと目が合い、ベルゼブブはすぐに目を伏せた。
「……失礼しました」
けれど、ルシフェルは怒らなかった。
目を丸くしたあと、ゆっくりと笑う。
「今の方がいい」
「……何がです」
「その方が、君らしい」
「なにを言って……」
「それが本当の君なんだろう?」
ベルゼブブは眉を寄せた。
ルシフェルにはまだ落ち込んだ様子が残っていたが、目にはもう、先ほどとは違う光が戻っている。
「じゃあ、これはどうすればいい?」
ベルゼブブは紙束から一枚抜き取った。
「まず、分けます。あなたが直したものをそのまま渡さず、各持ち場に戻して、どこまで自分たちで扱えるか確認する。そのうえで、必要なところだけ整えます」
「分かった」
「分かっただけで、また全部やらないでください」
「気をつけるよ」
ベルゼブブは、まったく信用していない顔をした。
「気をつける、では足りません」
「じゃあ?」
「迷ったら、俺に一度見せてから渡してください」
ルシフェルは瞬きをし、それから笑った。
「それは、君が手伝ってくれるということ?」
「監視です」
「そっか」
ルシフェルは、また嬉しそうにした。
ベルゼブブは厄介なものをさらに厄介にした気がして、言わなければよかったかもしれないと内側で溜息をもらした
それからも、ルシフェルは相変わらずベルゼブブの部屋へ顔を出した。
書類を持ってくる日もあれば、本を持ってくる日もあり、厄介な案を持ち込んでは勝手に話し始め、五分だけだと言われたのに、たいてい十分を超えた。
自信作だと言って菓子を持ってくることもあった。
ベルゼブブはそのたびにひとつだけ食べ、たいてい同じような顔をした。
「厨房担当のものの方が良いです」
「前にも聞いた感想だね」
「では、なぜまた持ってくるのですか」
「いつか君に褒められたいから」
「……まだ諦めていないのですか」
「もちろん」
「厄介ですね」
「君によく言われる」
仕事でも料理でも、ルシフェルはまだ一度もまともに褒められていなかったが、それでもめげず、ベルゼブブが言ったことを一つ残らず覚えていた。
甘すぎる、香りが弱い、焼きが浅い、端だけ硬い、中まで同じ味がする、後に残る風味がない――言い方はそっけなく、遠慮もなかったが、それでもルシフェルは持ってくるたびに少しずつ工夫して改善していった。
菓子の形は整い、香りは深くなり、甘さは前へ出すぎなくなった。
そのことを、もちろんベルゼブブも気づいていた。
最初のただ甘いだけのものよりは、ずいぶん良くなっている。
だが、それをわざわざ口にする必要はないだろうと黙っていた。
---
ある日、ルシフェルはまた小さな包みを持ってきた。
「ベルゼブブ」
「仕事中です」
「うん。だから、ひとつだけ」
「仕事中の意味をご存じですか?」
「知っているよ。君がとても忙しいという意味だ」
「分かっているなら帰ってください」
「でも、今度のはかなりいいと思う」
ルシフェルが包みを開いて見せると、皿の上に薄く焼かれた小さな菓子が並んでいた。
形は揃い、端には淡い焼き色がついていて、香ばしい匂いがほのかに立っているのがわかった。
ベルゼブブは差し出された焼き色を見てから、机の向こうに立つ大天使へ目を移した。
ルシフェルは期待を隠す気もない顔をしていた。
「今度のはどうかな。ぜひ率直な意見を聞かせてくれると嬉しい」
「それはいつも言っています」
「そうだったね」
ベルゼブブは息を吐きひとつだけ菓子を取った。
最初に焼き色の香ばしさが来た。
甘さは前に出すぎず、外側はさくりと軽やかで、中にはほどよく水分が残っている。
噛むと、香ばしい風味が口の奥へ広がった。
悪くない――正直に言えば、美味しかった。
ベルゼブブが返事をせずにいると、ルシフェルが身を乗り出した。
「どう?」
ベルゼブブは皿へ視線を落としたまま答える。
「……悪くは、ないです」
ルシフェルの顔が、ぱっと明るくなった。
「それは美味しいってことかい!?」
「悪くはない、と言いました」
「でも、厨房担当の方が美味しいとは言わなかった」
ベルゼブブが黙ると、ルシフェルは、さらに机へ身を寄せる。
「言わなかったね?」
「うるさい」
言ったあとで、ベルゼブブは止まった。
また、敬語が抜けてしまった。
ルシフェルはそれにも気づき、楽しげに笑った。
「今のも、少し褒めてる?」
「褒めていません」
「そっか」
「笑うところではありません」
「嬉しいんだよ」
「何がですか」
「君が、食べてくれたことも、美味しいと思ってくれたこともね」
ベルゼブブは、手元に残った菓子を見る。
あと一口だけだったので、そのまま口へ入れてから書類へ目を戻した。
「……次は、香りをもう少し抑えた方がいい」
ルシフェルは瞬きをする。
「次も食べてくれるの?」
「改善するなら、確認は必要でしょう」
ルシフェルが笑うのを見て、ベルゼブブは面倒なことを言ってしまったと気づいたが、もう遅かった。
机の端に置かれた皿を見ていたルシフェルが、不意に顔を上げる。
「ベルゼブブ」
「なんです」
「ベルって呼んでいいかい?」
ベルゼブブは、理解できないものを見る顔になった。
「……は?」
「ベル」
「呼んでいいとは言っていません」
「俺は、君と友達になりたい」
ベルゼブブの眉間に、はっきりと皺が寄る。
「何を言っているんです?」
「ベル。俺と友達になろう」
部屋から音が消えた。
ベルゼブブは書類を一枚持ち上げたまま止まっていた。
今の言葉を、どこへ分類すればいいのか分からない。
役目でも、職務の相談でもなく、確認でも、依頼でも、命令でもない。
そしておそらく冗談でもなさそうだった。
「……少しは、ご自身の立場をお考えになっては?」
「考えているよ」
「では、なぜその結論になるのですか」
「君と話すのが楽しいから」
「理由が軽すぎます」
「軽いかな?」
「軽いです」
「でも、俺には大事なことだよ」
ベルゼブブは黙った。ルシフェルは悪びれた様子もなく続ける。
「もう敬語はいらないよ」
「勝手に話を進めないでください」
「俺と友達になるのは嫌かな?」
「そういう話をしているんじゃない」
「じゃあ、嫌ではない?」
ベルゼブブは答えなかった。
答えなかったことをルシフェルは都合よく受け取った。
「俺は君と友達になりたい。君も嫌じゃない。友達成立だ」
「成立していません」
「していない?」
「していません」
「難しいね」
「難しくしているのはあなたです」
ベルゼブブは大きく息を吐いた。
「大天使長と智天使が、私的な友人関係を結ぶのは普通ではありません」
「普通じゃないといけない?」
「少なくとも、そう扱うべきです」
「どうしてそうやって距離を取ろうとするんだい?」
ルシフェルの声にわずかに不満が混じった。
「せっかく仲良くなれたのに、寂しいよ」
「拗ねないでください。これが普通のことです」
「大天使長と智天使が友達なのは、普通じゃないと?」
「そうです」
「なら、俺たちでそれを普通にすればいいじゃないか」
ベルゼブブは、今度こそ言葉を失った。
「…………は?」
ルシフェルは当然のように笑っている。
「だって、それがいけないなんて、父上の言葉にはまだないよ」
ベルゼブブは、その言葉をすぐには処理できなかった。
神の言葉にない、だからできる――禁止されていないから従わない、という話ではなく、書かれていない場所につま先を置こうとしているのだ。
ベルゼブブは、目の前にいる白い大天使を見た。
美しい式服に銀の髪、誰もが見上げる神のそばにいる天使だった。
けれどその目は会議室で初めて意見を返された時と同じように、楽しげに光っている。
「……本当に、面倒な方ですね」
「それは褒めてる?」
「褒めていません」
「そっか」
ルシフェルは満足そうに笑った。
ベルゼブブはもう一度ため息をつき、皿に残っていた菓子をひとつ取った。
「その皿を置いたまま話されると邪魔です」
「食べてくれるんだね」
「邪魔だからです」
「うん」
ルシフェルは嬉しそうに頷いた。
その声はルシフェルを称えなかった。
慰めることもせず、必要な時に必要なことだけを返し、ルシフェルはいつの間にかその声を待つようになっていた。
ベルゼブブはまだ、それを友と呼ぶ気はなかった。
けれど、皿は返さなかった。




