一章_番外編Ⅰ「白い羽根のころ」
————これは、ルシフェルと兄妹たちが幼かった頃の話。
その頃、四大天使たちの羽はまだ柔らかく、足取りは弾むようで、気持ちだけがいつも先を走っていた。
ミカエルは小さな胸を張り、ガブリエルはすぐ眉を寄せ、ラファエルは何にでも目を輝かせ、ウリエルは短い指で何かを数えたがる、そんな子供たちだった。
ルシフェルは彼らよりずっと先に生まれていた。
天界で最初に目を開けた天使であり、世話役の天使たちよりも、四人よりも早く、天界を知っていた。
四人から見れば、兄は偉大な存在だった。
天界から見ても、神の言葉を読む特別な大天使だった。
それでも、その頃のルシフェルにはまだ、知らないことを知らないまま笑える幼さがあった。
天界では、食べなくても空腹になることはない。
眠らなくてもまぶたが重くなることはなく、身体も地上のもののように泥で汚れたり、汗で重くなったり、放っておけば弱っていくようなものではなかった。
白い光が巡り、神の整えた場所にいるかぎり、天使たちはそのまま澄んだ姿でいられる。
だから食事は、生きるためにどうしても必要なものではなかったが、覚えなくてよいものでもなかった。
世界にはいつか、身体を持って生きるものたちが置かれる。
果実を噛むこと、温かいものを口に含むこと、甘さや酸っぱさ、苦さ、香り、冷めていく温度を知ること、そして誰かと同じ皿を囲むこと――噛むことも飲み込むことも温度を知ることも知らないままでは、天使たちは世界の手触りを知らないままになる。
だから彼らは、そうした小さな営みを、ひとつずつ学んでいた。
その食卓で、ガブリエルはいつも固まっていた。
白い卓布の上には、傷ひとつない果実や赤い小さな野菜、青い葉、蜜をかけた穀物、柔らかく煮た根菜が並び、どれも美しく、正しい場所に盛り付けられていた。
けれど、ガブリエルの手は膝の上にあった。
世話役の天使が、そっと声をかける。
「ガブリエル様、少しだけでも……」
ガブリエルは首を横に振った。
「……いりません」
「では、果実だけでも」
「いりません」
「葉の方は」
「それも、いりません」
声はかすかだったが、返事は変わらなかった。
世話役の天使たちは困ったように顔を見合わせた。
叱るわけにもいかず、無理に口へ運ぶわけにもいかない。
食べなくても倒れはしないが、食べることを覚えないままでよいとも言えなかった。
そこへ、白い回廊の方から足音がした。
「どうしたの?」
ルシフェルが食卓をのぞき込む。
銀の髪が肩先に落ち、紫を差した白の式服が光を受けていた。
四人がいつものように顔を上げ、兄を見つける。
ミカエルがすぐに背筋を伸ばす。
「兄上!」
ラファエルは、ぱっと顔を明るくした。
「兄さん!」
ウリエルは皿とガブリエルを見比べてから、短く言った。
「ガブリエルが、まだ食べていません」
「ウリエル様」と世話役の天使がたしなめると、ウリエルは瞬きをして「事実です」と返した。
ルシフェルは口元を緩め、それから世話役たちを見た。
「何かあった?」
「ルシフェル様。ガブリエル様が……その、どうしてもお食事に手をつけられず、嫌いなものがあるというより、食べること自体がまだ難しいご様子で」
ルシフェルは、ガブリエルの前に置かれた皿を見つめた。
傷ひとつない、美しすぎるほどの皿だった。
「ガブリエル」
呼ばれて、ガブリエルはためらいがちに顔を上げる。
「はい……兄さま」
「食べにくい?」
ガブリエルは唇を結び、しばらくしてから首を縦に動かした。
「……わかりません」
「わからない?」
「食べる、が、わかりません」
ルシフェルはすぐには答えなかった。
ガブリエルは叱られると思ったのか、両肩をいっそう強く寄せる。
けれどルシフェルは、ただ皿を見ていた。
「そっか」
やがて、彼の口元に笑みが戻る。
「じゃあ、今日はここまでにしよう」
世話役たちが驚いたように顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「うん。今日は難しかったんだろう?」
ガブリエルは兄を見た。
「……怒らないのですか?」
「どうしてだい? こんなことで俺は怒らないよ。わからないものは、わからないからね」
ルシフェルはそう言って、ガブリエルの皿を横へずらした。
「でも、兄さまが考えてみるよ」
その言い方が、妙に自信ありげだった。
ミカエルの目が輝く。
「兄上なら、きっとできます!!」
「うん」
ルシフェルは笑った。
「兄さまにまかせてよ」
その時の彼は、本当にできるような顔をしていた――少なくとも、四人にはそう見えていた。
◇
数日後、ガブリエルはまた食卓の前で固まっていた。
今度の皿には、前よりも小さく切られた果実が並び、青い葉も柔らかいところだけが選ばれて、蜜も控えめになっていた。
それでも、ガブリエルの手は動かなかった。
「……食べられません」
その声を、通りかかったルシフェルが聞いた。
彼は足を止め、食卓を振り返ってから、そのまま来た道を引き返していった。
どこに向かったのかと思えば、厨房だった。
白く磨かれた台の前で、厨房の天使たちが一斉に振り返る。
「ルシフェル様!?」
「厨房を、少し借りてもいいかな?」
その一言で、部屋の空気がざわついた。
「ルシフェル様が、ですか……?」
「何かお望みのものがございましたら、すぐに——」
「火も刃物もございます。どうか我々に」
「あなた様がなさらずとも——」
「ありがとう」
ルシフェルは、まったく動じなかった。
「でも、今回は俺が作ってみたいんだ」
厨房の天使たちは、さらに困った顔をした。
ルシフェルは式服の袖を留めはじめる。
その姿だけなら、どこか儀式の前のようにも見えたが、手に取ったのは刃物で、前にあるのは果実と、赤い小さな野菜と、青い葉と、穀物の粉だった。
「まず、何からすればいい?」
厨房の天使が、とうとう息を飲んだ。
ルシフェル様に、最初から教える――それは、天界のどの手順書にもなさそうな出来事だったからだ。
「……で、では、そちらの生地を、丸く」
「丸く」
ルシフェルは頷いて、生地を台へ落とした。しかし丸くはならず、生地は横へ流れて片側が薄く、もう片側が厚くなった。
厨房の天使が「あ」と声にならない声を漏らす。
ルシフェルは生地に目を凝らした。
「……これは、丸いと言えるかな?」
「広い意味では」
「広い意味」
「いえ、その……」
焼き始めると今度は片側だけ色がつき、急いで返そうとして端が欠けた。
蜜を落とせば多すぎ、赤い実を切れば角が曲がり、黄色い果実は石ころのような形になっていった。
青い葉はどこに置けばいいのか分からず、皿の端で妙に威張っていた。
「どうかな?」
「これは…その、大変……斬新な一皿かと……」
「斬新、かぁ」
ルシフェルは皿を見下ろした。
丸く焼いたはずの生地は丸くならず、果実は不揃いで、野菜は大きく、蜜は皿の端へ流れていた。
それでも、その皿を持っていった彼を、厨房担当の天使達は何も言えずに見送るしかなかった。
ガブリエルは、まだ食卓にいた。
ルシフェルが皿を置くと、ミカエルもラファエルもウリエルも、そろって身を乗り出した。
「兄上、それは?」
「もしかして、兄さんが作ったの!?」
「……形が、一定ではありません」
「ウリエル、今それを言うのかい?」
ルシフェルは笑い、ガブリエルの前に皿を置いた。
「兄さまが作ってみた」
ガブリエルは目を丸くした。
「……兄さまが?」
「うん。だから、これはきっと大丈夫だよ」
根拠は、あまりなかった。
けれど、ルシフェルはにこりと笑った。
「兄さまを信じて」
ガブリエルは皿を見つめた。
焦げたところがあって丸くはなく、果実は石ころみたいで、青い葉が皿の端からはみ出している。
でも、これは兄さまが、自分のために作ってくれたものだった。
ガブリエルは、小さな匙を取った。
「……た、食べます!」
ルシフェルの口元から笑みが引いた。
「無理はしなくていいよ」
「無理じゃありませんっ!!」
ガブリエルは、ぎゅっと匙を握った。
「兄さまが作ってくださったものだから!」
ひと口を口に入れると、甘いと思った瞬間に酸っぱさが追いかけてきて、そのあとなぜかしょっぱさまで顔を出した。
ガブリエルは動きを止めた。
ミカエルは口を閉じ、ラファエルは椅子から身を乗り出す。
ウリエルは皿に目を落とし、何が起きたのかを覚えようとしている。
ルシフェルも、ガブリエルの顔から視線を外さなかった。
ガブリエルは、時間をかけて飲み込んだ。
「……残しません」
かすかな声だったが、言葉ははっきり届いた。
ルシフェルが目を瞬くと、ガブリエルはもう一度皿を見てから言った。
「これは、残したくない、です!」
「ガブリエル、ごめんね。 少しいいかな?」
「え? はい、もちろん」
そう言って、自らも匙ですくってひと口食べてみると、甘さも酸っぱさもしょっぱさも、それぞれがばらばらに主張していて、ガブリエルはよくこれを食べられたものだと思わずにいられなかった。
ルシフェルの眉尻は下がったが、皿を見つめていたのはわずかな間だけだった。
「ごめんね、ガブリエル。次は、もっとおいしくするよ」
ミカエルが目を輝かせる。
「兄上ならできます!」
ラファエルも頷く。
「うん、できるよ!」
ウリエルは言った。
「まず、丸くする練習が必要です」
「ウリエル……」
「事実です」
ルシフェルは笑った。
「そうだね。そこからだ」
ガブリエルは皿を抱えるようにして頷いた。
兄さまを困らせたくはなかった。
それでも、兄さまが自分のために作ったこの皿を、なかったことにはしたくなかった。
その日から、ルシフェルは厨房へ通うようになった。
最初の皿をガブリエルが食べてくれたからといって、すぐに上手くなったわけではない。
むしろルシフェルは、自分の作ったものを味見してからというもの、しばらく下げられた白い皿を見つめていた。
翌日、彼はまた厨房へ顔を出した。
「今日も端を借りるよ」
厨房の天使たちは一瞬だけ動きを止めてから言った。
「ルシフェル様、本日も、ですか?」
「うん。邪魔にならないところで練習するから」
「邪魔などと、とんでもございません!」
「いいや、ここは君たちの場所だろう。俺は借りる側だから」
そう言って、ルシフェルは厨房の一番端の台へ向かった。
そこは大きな火床から離れ、食材の受け渡しにも器の洗い場にも近すぎず、厨房の天使たちの流れを遮らない、ちょうどよく空いた場所だった。
ルシフェルは袖を留め、果物を置き、刃物を手に取る。
厨房の天使たちは、見ないふりをしながら見ていた。
「兄妹たちのために、あれほど熱心に……」
「さすがルシフェル様」
「しかし、刃の向きが危ない」
「見守れ。だが、いつでも駆けつけられる距離にいるんだ」
「それはもう、もちろん」
小声で交わされる言葉を、ルシフェルは聞こえていないふりをした。
果物の皮をむき始めると、途中で切れてしまい、もう一度やり直せば今度は厚すぎた。
「なるほど。薄くしようとすると途切れるんだね」
ルシフェルが呟くと、厨房の天使がたまらず一歩寄った。
「刃を少し寝かせると、よろしいかと」
「こう?」
「はい。ですが、指はもう少し遠くへ」
「こうかな」
「はい。……いえ、その、近うございます」
「これは近いの?」
「近いです」
ルシフェルは果物と自分の指を見比べる。
「難しいね」
眉間に皺を寄せたまま果物を見ているので、厨房の天使は返事に困った。
次に、ルシフェルは赤い小さな野菜を切ってみたが大きさは揃わず、青い葉を千切ろうとすれば葉脈の固いところだけが残り、蜜を混ぜようとすれば器の底に沈んでしまった。
「全部混ぜれば、ひとつの味になると思ったんだけど……」
ルシフェルは匙の先を見つめて言った。
「混ぜすぎると、それぞれの味が濁るのです」
「なるほど。全部混ぜてはいけないんだね」
「はい」
「勉強になる」
本気でそう言うものだから、教えた天使の方が恐縮してしまう。
ルシフェルは、知らないことを一つずつ紙に書きつけるわけではなかった。
けれど、目つきはいつも本文を読む時に似ていた。
火の強さ、果物の厚み、蜜の量、葉の香り、口に入れたときにどこで味が変わるのか――彼は、皿の上に置かれたものをひとつずつ読もうとしていた。
その時だった。
「あ」
刃先が指の腹をかすめ、赤いものが白い指先に滲んだ。
厨房の天使たちが、ほとんど同時に振り向く。
「「「ルシフェル様!」」」
「お手を!」
「治癒布を!」
「水を!」
「刃を置いてくださいませ!」
ルシフェルは、指先よりも周囲の慌てぶりに目を丸くした。
「大丈夫だよ。少し切っただけだから」
「少しではございません!」
「いや、本当に少しだよ」
「神に近き御手が!」
「それは大げさじゃないかな?」
「大げさではございません!」
結局その日は、指先に白い包帯を巻かれてしまった。
翌日、ミカエルは剣の稽古の帰りだった。
小さな身体にはまだ重い木剣を抱え、汗などかかない天界のはずなのに、気持ちだけはずいぶん走っている顔をしていた。
その横では、ラファエルとウリエルが書庫の薄い本を運んでいる。
ラファエルは途中で花の方へ気を取られ、ウリエルは本の角が揃っていないことを気にしていた。
白い回廊の向こうから、ルシフェルが歩いてくる。
「みんな」
彼はいつものように手を振った。
三人は同時にその手を見た。
指先には、白い包帯が巻かれている。
ミカエルの表情が変わった。
「兄上、お怪我を!?」
「少しだけだよ」
ラファエルが本を抱えたまま近づく。
「兄さん、痛い?」
「もう痛くないよ」
「本当に?」
「本当だよ」
ウリエルは、包帯から目を離さない。
「昨日は巻かれていませんでした」
「よく見ているね」
ルシフェルは笑った。
「みんな、今日も役目を果たしていて偉いね。ミカエルは稽古。ラファエルとウリエルは書庫かな」
ミカエルは背筋を伸ばす。
「はい。与えられた役目に恥じぬよう励んでおります!」
ラファエルは首を傾げた。
「兄さんは、今日もお料理の練習?」
「そうだね。早くおいしいものが作れるように頑張るよ」
「また、手を切ったりしない?」
「気をつける」
ルシフェルは、それで話は済んだというように頷いた。
「それじゃあ、行ってくるね」
彼は三人の頭を順に撫で、厨房の方へ歩いていった。
三人は兄の背中を見送った。
ミカエルは木剣を抱え直す。
「兄上は、私たちのために励んでおられる」
ラファエルは、ルシフェルが消えた回廊を見たまま言った。
「でも、手が痛そうだったよ」
ウリエルは短く言う。
「傷は増える可能性がありますね」
「ウリエル、それは嫌な言い方だよ」
「事実です」
「事実でも、嫌な言い方ってあるんだよ」
「……では、言い方を考えます」
そう答えながらも、ウリエルも回廊の先を見た。
それから数日、ルシフェルの手には包帯が増えたり減ったりした。
親指、人差し指、手の甲の端――火に近づきすぎたらしい、細い赤みだった。
大きな怪我ではなく、天界の光の中では放っておいてもすぐに薄れるものばかりだった。
それでも三人には、兄の手が前とは違うことが分かった。
その日、とうとう、三人は厨房の入り口から中を覗き込むことにした。
ミカエルが先頭に立ち、ラファエルがその後ろから顔を出し、ウリエルがさらにその下から隙間を探す。
「見えませんっ!」
「ウリエル、押すな!」
「ミカエルが大きいからです」
「私はそんなに大きくないぞ!」
「三人の中では大きいです」
「二人とも、静かにしようよ~」
ラファエルが声を落とした瞬間、厨房の奥からルシフェルの声がした。
「あ」
三人の顔が一斉に上がると、ルシフェルが指先を押さえていた。
また刃がかすめたらしい。
飛び出したのはラファエルだった。
「兄さんッ!!」
ミカエルとウリエルも続き、厨房の天使たちが驚いて次々に振り返った。
「ラファエル様!?」
「ミカエル様、ウリエル様まで!」
ラファエルはルシフェルの手を取る。
「大変だ!兄さんの指が……」
「ラファエル、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ!血が出てる!!」
幼いラファエルは眉を寄せ、唇を引き結んでいた。
彼はルシフェルの指に両手をかざす。
淡い光が、幼い手のひらからにじんだ。
「僕が治すから!」
ルシフェルは、その光を見て目を細める。
「ありがとう、ラファエル」
「動かないで」
「うん」
「ちゃんと治すから」
「うん。頼むよ」
光が指先に触れ、小さな傷はすぐに薄くなった。
ラファエルの肩から力が抜ける。
「ほら、治った」
「すごいね」
ルシフェルが言うと、ラファエルは胸を張ったが、すぐに兄の指をもう一度確かめた。
「でも、また切ったらだめだよ」
「気をつけるよ」
そこへ、ウリエルが前へ出た。
「でも、兄様の手はもうぼろぼろです」
厨房がしんとなり、ミカエルは息を飲み、ラファエルもルシフェルの手を見下ろした。
ルシフェルは自分の手を見た。
白い包帯、薄く残った赤み、癒えたばかりの指先が並んでいる。
「……痛いところをつくなぁ」
彼は苦笑した。
ウリエルは首を傾げる。
「やはり痛いのですか」
「いや、今のはそういう意味ではなくて」
「では、どういう意味ですか」
「ええと……」
ルシフェルが言葉を探していると、ミカエルが一歩前に出た。
「兄上」
小さな身体で精一杯背筋を伸ばし、稽古の時にも見せないほど強い目で、兄の顔を見上げていた。
「私たちにも、手伝わせてください」
ルシフェルは瞬いた。
「ミカエル……」
「兄上がお一人でなさることではありません」
「でも、これは俺がやりたいと思っていることだから」
「それでもです!」
ミカエルは引かなかった。
「私たちは、兄上に比べたら小さいです。まだ力もありません。知らないことも多いです。それでも、できることはあるはずです」
最後の言葉で声が揺れたが、ミカエルは目をそらさなかった。
ラファエルも頷く。
「僕、怪我したら治せるよ。料理をおいしくする葉も探せる」
ウリエルは紙を抱きしめた。
「俺は、失敗したことを記録できます。次に同じことをしないためです」
厨房の天使たちは黙っていた。
ルシフェルは三人を見る。
小さな身体で前に立つミカエル、兄の手をまだ離そうとしないラファエル、今にも記録を始めそうなウリエル――彼らは確かに小さく、羽もまだ柔らかで、手も声も彼よりずっと幼かった。
けれど、頼りないとは思わなかった。
ルシフェルの頬が緩む。
「ありがとう。じゃあ、少しだけ手伝ってもらおうかな」
「「「はい!」」」
その日から、厨房の片隅は賑やかになった。
ミカエルは器を運びたがった。
ただし、熱い器にも重い鍋にも同じ勢いで手を伸ばすので、ルシフェルと厨房の天使たちがそのたびに止めた。
「ミカエル、それは熱い」
「布を使います!」
「布を使っても、まず世話役が持つ」
「私はもう持てます!」
「持てるかもしれない。でも今日は持たない練習をしよう」
「持たない練習……?」
ミカエルは、難しい課題を与えられた顔をした。
ラファエルは香草を集めてきた。
「兄さん、これ、料理がおいしくなる葉だって!」
「いい香りだね」
「入れてもいい?」
「少しだけ使ってみよう」
「少しって、これくらい?」
ラファエルの手には、葉がこんもり乗っていた。
ルシフェルは瞬きをする。
「それは、少しの山かな」
「山?」
「うん。皿には、もう少し低い山がいいと思う」
「じゃあ、これくらい?」
「それなら皿も喜びそうだ」
ラファエルは満足げに頷いた。
ウリエルは、厨房の端で紙を広げる。
「一度目。火が強い」
「それは昨日も書いていなかったかな?」
「再発しています」
「厳しいね」
「必要です」
ウリエルは続けて書いた。
「香草、多すぎ」
ラファエルが振り向く。
「多い?」
「多いです」
「ちょっとだけなのに」
「ラファエルのちょっとは、皿にとっては多いです」
ルシフェルは、吹き出しそうになって口元を押さえた。
厨房の天使たちも、だんだんその光景に慣れていった。
最初はハラハラするばかりだったが、やがて布を早めに置き、幼い手が届かない場所へ熱い器を移し、香りの強い葉と穏やかな葉を分けるようになった。
誰に命じられたわけでもなかったが、厨房の一番端にあるその台は、しだいに四人の場所になっていった。
◇
その頃、ガブリエルは別棟の記録室にいた。
記録室は、食堂や厨房よりもずっと声が少なく、棚には薄い紙束が並び、白い机の上には古い言葉を写したものが置かれていた。
ガブリエルは、その一枚を両手で押さえていた。
まだ読むのは遅いが、読めないわけではなかった。
いつか自分が誰かに言葉を届けるために、間違えず、こぼさず、きちんと伝えられるように――そう教わっていた。
紙の上の文字を追っていると、扉の外から世話役の天使たちの声がした。
「最近、ルシフェル様が厨房に立たれているそうだ」
ガブリエルの指が止まる。
「ルシフェル様が? なぜ?」
「弟君や妹君のためだとか……」
「けれど、ルシフェル様は神のお言葉を読むお役目のはずでは……」
「もちろんだ。だが、どうやらご自身で料理を覚えようとなさっているらしい」
「料理を?」
「それで、手を傷だらけにされて……厨房の者たちが大層慌てていて——」
紙の端が、ガブリエルの指の下で曲がった。
兄さまが、私たちのために料理を覚えようとして、手を傷だらけにしている。
次の瞬間、ガブリエルは椅子から立ち上がっていた。
「ガブリエル様?」
記録室にいた天使が声をかけるが、ガブリエルはもう扉へ向かっていた。
白い回廊を走る。
大天使ともあろう子が、走ってはいけない、という声がどこかでした気がした。
それでも止まれなかった。
厨房の扉が見えて、中から、ミカエルの張った声と、ラファエルの弾む声と、ウリエルの短い指摘が聞こえた。
その奥に、ルシフェルの笑う声がある。
ガブリエルは扉を開けた。
「兄さまっ……!!」
厨房の中にいた全員が振り返る。
ルシフェルは台の前に立っていた。
袖を留め、手には薄い焼き色のついた丸い生地を持っている。
「ガブリエル」
彼の顔がほころんだ。
「ちょうどよかった。見て、こんなに丸く焼けるようになったよ」
ルシフェルは皿を持ち上げた。
そこには、以前とは違うものが乗っていた。
まだ完璧ではないが、ちゃんと丸く、端も焦げすぎておらず、上には甘い果実を添えるための空きが作られていた。
そばには白い柔らかなクリームのようなものと、赤い実が用意されていた。
「ここに甘い果実を添えたら、味も見た目もよくなると思うんだ」
ルシフェルは皿をわずかに持ち上げた。
「どうかな?」
ガブリエルは、皿ではなく差し出された手を見ていた。
指に巻かれた白い包帯、手の甲の細い赤み、癒えたばかりの傷が目に入る。
胸の内側を指でつかまれたように、息が詰まる。
「兄さま……」
声が震えた。
「ごめんなさい……」
ルシフェルは瞬いた。
「どうして謝るの?」
「私が、食べられなかったから——」
ガブリエルは言葉を切りながら続ける。
「私が食べられなかったから、兄さまがこんなに頑張って、手まで……」
言い終わる前に、視界が滲んだ。
それが嫌で、ガブリエルは唇を強く結ぶ。
ルシフェルは皿を台に置き、ガブリエルの前に膝を折った。
「ガブリエルのせいじゃないよ」
「でもっ」
「俺が下手だったんだ、それだけだよ」
ルシフェルは、自分の指先を見て苦笑する。
「それだけではありません」
ガブリエルは首を振った。
「兄さまが、私のために……」
「うん」
ルシフェルは、あっさりと頷いた。
「最初は、ガブリエルに食べてもらいたくて始めた。でも、食べてもらえるなら、おいしい方がいいだろう? 見た目も、きれいな方がいい。最初の皿は、少し……いや、かなり、変だった。本当にあんなものを出してごめんね、ガブリエル」
ガブリエルは、知らないうちに息を止めていた。
ミカエルが無意識に頷きかけ、ラファエルが慌てて袖を引いた。
ウリエルは紙へ何かを書こうとして、ルシフェルに見つかる前に手を止める。
ルシフェルは笑った。
「まだ時間はかかりそうだけど、頑張るよ」
そして、ガブリエルを見た。
「だから、また食べてくれる?」
ガブリエルは差し出された皿を見た。
丸く焼けた生地、甘い果実、白いクリーム、その向こうにある兄の手を。
困らせたくなかったし、傷を増やしてほしくもなかった。
それでも、自分のために始まったものを拒みたくはなかった。
ガブリエルは頷き、それから顔を上げる。
「……はい。もちろんです」
ルシフェルの目元が和らぐ。
ガブリエルは、その顔から目をそらせなかった。
包帯を見た時とは違う理由で、息がうまく続かない。
ガブリエルは、何も言えないまま、胸の前で手を握りしめた。
「じゃあ、ガブリエルにも手伝ってもらおうかな」
ルシフェルは立ち上がり、明るい声で言った。
ガブリエルは目を瞬く。
「私が、ですか?」
「うん。ガブリエルが食べやすいものを作りたいから、教えてくれると助かるよ」
「教える……」
「これは食べやすいとか、これはにおいが強いから苦手、とか。そういうことを」
ガブリエルは皿を見た。
食べることは、まだ得意ではない。
けれど、兄さまが自分に聞いてくれている――自分のせいで増えたと思っていたものの中に、自分にできることもあるのだと気づいた。
ガブリエルは頷いた。
「やります!」
その日から、厨房の片隅は五人の場所になった。
ミカエルは相変わらず器を運びたがり、ラファエルは料理をおいしくする葉を持ってくるようになった。
ウリエルは火加減と失敗の回数を容赦なく記録し、ガブリエルは小さな匙を持って皿の前に座った。
「これは、少しすっぱいです」
「すっぱい」
ルシフェルは聞き漏らすまいと頷く。
「どのあたりが?」
「最初は甘いです。でも、あとからきます」
「あとからくるすっぱさ」
ウリエルが紙へ書く。
「後続の酸味」
「ウリエル、それは料理の言葉なのかな?」
「今、決めました」
ラファエルが赤い実をひとつ摘まむ。
「これを少なくしたら?」
「それは食べやすいから減らさなくてもいい」
ガブリエルが言うと、ラファエルの口元が上がった。
ミカエルはその横で、布を持ったまま熱い器を見張っている。
「兄上、これはもう持ってよろしいですか」
「まだ」
「では、待ちます」
「うん。待つのも手伝いだよ」
ミカエルは、課題を受け取るように頷いた。
三つ数えたところで、また器に手を伸ばす。
「ミカエル」
「まだでした」
「そうだね」
皿は、日を追うごとに姿を変えていった。
丸くなかった生地は丸くなり、焦げは減り、端の欠けも少なくなって、果実は石ころから小さな花びらのような形へと変わっていった。青い葉は皿の端で威張らなくなり、香りは奥の方に隠れるようになった。
味も、喧嘩をすることが少なくなっていった。
甘いものは甘く、酸っぱいものは少しだけ、しょっぱいものは皿のどこかに迷い込まないように整えられていった。
厨房の天使たちも、最初のように止めるばかりではなくなった。
「本日は、こちらの果実が甘くございます」
「薄く焼くなら、この火がよろしいかと」
「香草は、こちらが穏やかです」
「ミカエル様、その器はまだ熱うございます」
「はい」
ミカエルが素直に一歩下がると、厨房の天使の口元が緩んだ。
◇
やがて、ルシフェルは四人を食卓へ呼んだ。
「今日は、ちゃんと君たちの分を作ったんだ」
白い卓布の上に、四つの皿が並べられる。
それは、いつもの天界の食卓とは違っていた。
整いすぎた皿ではなかったが、ひとつひとつが四人へ向けて置かれていた。
丸く焼いた柔らかな生地、甘く煮た果実、赤い小さな野菜、青い葉、香草をまとわせた温かな根菜、蜜の光。
そして、それぞれの皿には細い飾りが立てられていた。
ミカエルの皿には青い剣の印、ガブリエルの皿には橙の羽、ラファエルの皿には淡い緑の葉、ウリエルの皿には小さな灯が。
それを見た四人は、しばらく黙っていた。
最初に声を出したのはミカエルだった。
「兄上!」
皿に向いた瞳が、光を弾いている。
「すごいです!」
ラファエルはもう椅子に座りかけていた。
「兄さん、これ、いいにおい~。食べてもいい? もう食べてもいい?」
「もちろん」
「やった!!」
ウリエルは自分の皿の前で、灯の印をじっと見ている。
「俺の印もあります」
「うん。少し歪んじゃったけどね」
「歪みはあります。でも、分かります!」
「それはよかった」
「これは食べます。でも、記録もします!」
「忙しいね」
ガブリエルは、橙の羽を見ていた。
小さな飾りだったが、兄が自分のために選んでくれた印だった。
「兄さま……」
「うん」
「私の羽も、あります……!」
「もちろん」
ルシフェルは穏やかに笑った。
「ガブリエルのための一皿だからね」
ガブリエルは頷き、匙を取った。
ひと口を口に入れる。
今度は、なにも怖くなかった。
甘さが舌に乗り、柔らかな生地がほどける。
赤い実の酸味は控えめで、青い葉は遠くで香った。
「……おいしいです」
ルシフェルが笑った。
ミカエルはすでに姿勢よく座り、けれど口元には蜜をつけていた。
「兄上は、やはり何でもおできになります!」
ラファエルも頷く。
「うん。兄さん、すごい!これ、ずっと食べたい」
ウリエルは紙を取り出しかけた。
「兄様の料理は、保存するべきです!」
「こらこら、食べながら書かない」
ルシフェルに言われ、ウリエルは紙を横にどかすが、名残惜しそうに紙の端を指で押さえている。
四人の顔が、自分へ向いている。
兄上はすごいと、兄さんはできると、兄様は残すべきものを作ったと、兄さまは自分のためにと――四人がそれぞれの言葉で、同じ兄を見ていた。
その視線を受けて、ルシフェルの口元が緩んだが、やがて首を横へ振った。
「俺は、何でもできるわけじゃないよ。最初は丸く焼くこともできなかったし、果実も石ころみたいに切っていた。味も……ずいぶん、いろいろ混ざっていた」
厨房の方で、天使たちがそっと目を伏せた。
何か思い出したらしい。
ルシフェルは、四人を順に見た。
「ここまでできたのは、みんなが手を貸してくれたからだよ」
ミカエルが顔を上げる。
「私たちが、ですか?」
「うん。ミカエルは、運ぶものを覚えようとしてくれた」
ミカエルは、認められた役目を受け取るように背筋を伸ばした。
「ラファエルは、葉を探してくれた」
ラファエルの顔がほころぶ。
「おいしくなる葉、もっと探すね」
ルシフェルは笑って、ウリエルを見る。
「ウリエルは、残してくれた」
「記録は必要です」
「うん。おかげで、同じ失敗を何度もせずに済んだ」
最後に、ルシフェルはガブリエルを見た。
「ガブリエルは、食べてくれた。最初の皿も、今日の皿も」
ガブリエルの指が、匙を握ったまま止まる。
「食べてもらえたから、次を作れた」
ガブリエルは何かを言おうとしたが、喉の奥で言葉が絡んだ。
ミカエルが、椅子の上でまっすぐ背を伸ばす。
「では、これからも兄上をお支えします!」
ラファエルも続く。
「僕も。兄さんが怪我したら治すし、頑張りすぎてたら休んで、って言う!」
ウリエルは頷く。
「俺は記録します。兄様が忘れても、残せます」
三人の声が並ぶ。
ガブリエルは、ひと呼吸遅れて口を開いた。
「私は……食べます」
ルシフェルが彼女を見る。
「兄さまが作ってくださるなら、ちゃんと、どんなものでも」
それは、小さな約束だった。
天界の食卓で、食べることが分からないと言ったガブリエルが、自分の言葉で置いた初めての返事だった。
ルシフェルの目が細くなる。
「ありがとう」
ガブリエルは皿を見た。
今だって兄さまを困らせたくないし、傷を増やしてほしくもない。それでも、兄さまが自分のために始めたものが、今はみんなの皿に並んでいる。
ミカエルは笑い、ラファエルは次のひと口を待ちきれずにいて、ウリエルは紙を取り出す隙をうかがっている。
その真ん中で、兄さまも笑っていた。
自分だけに向けられていたものが、今は四人の皿にある。
そのことを誇らしく思うのに、兄の笑顔が皆へ向くたび、匙を持つ指に力が入った。
なぜそうなるのかを、ガブリエルはまだ知らなかった。
◇
さて、料理がどうにか形になった頃、ルシフェルはまた余計なことを思いついた。
「ここまでできるなら、お茶のそばに置く菓子も作れるかもしれないね」
厨房の天使たちが固まった。
「ルシフェル様……!」
「菓子は火加減がさらに繊細でございます」
「蜜の扱いも、型も、焼き色も」
「失敗すると、たいへん焦げます」
ルシフェルは、一つずつ受け止めるように頷いた。
「では、教えてもらえるかな」
厨房の天使たちは互いに顔を見合わせた。
もう止めても無駄だと、全員が知っていた。
蜜と木の実、穀物の粉、花の香りを少し加えて薄く伸ばし、木の葉の形に整えてから、端だけが淡く色づくまで焼き上げる。
最初の菓子は、料理ほど不格好ではなかった。
けれど、焼き色は不揃いで、形もよく見ると一枚ずつ違っていた。
ルシフェルはそれを皿に並べ、四人の前へ置いた。
「これも作ってみたんだけど、どうかな」
ミカエルが目を丸くする。
「兄上、お菓子も作れるようになったのですか!?」
ガブリエルはひとつ手に取り、そっとかじった。
「兄さま、これ……おいしいです」
ラファエルも頷く。
「兄さん、すごい。でも、また手を切ってない?」
「今日は切っていないよ」
「本当?」
「本当」
ラファエルはルシフェルの手を裏返して確かめてから、ようやく菓子へ手を伸ばした。
ウリエルは菓子の断面を見ている。
「これは絶対に残します。レシピを」
「食べてからにしよう」
「食べながらでは駄目ですか」
「お菓子にインクがつくよ」
「それは困ります」
ルシフェルは困ったように眉を下げたが、口元はどうしても緩んでいた。
その日の菓子は、あとから何度も作られることになる。
茶のそばに置かれ、休むための時間に並べられ、誰かが戻ってきた時の皿にもなった。
形は整い、味も変わり、いつしか厨房の天使たちも、彼の工夫を面白がるようになった。
けれど、ルシフェルが覚えていたのは味だけではなかった。
熱い器へ伸びた小さな手、料理をおいしくする葉を抱えて走ってきた声、紙に残された文字、そして最初のひと口を飲み込んだガブリエルの顔――そうしたものたちだった。
同じ父に作られていても、血で結ばれていたわけではない。
それでも、あの白い厨房で、彼らは確かに兄妹としてそこにいた。
ルシフェルは、そこにいた誰のことも、頼りないとは一度も思わなかった。




