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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第70話「夜は光を離さない」

エデンを出ると、土の色が変わった。


庭の内側にあったやわらかな草はいつの間にか途切れていた。

足元には乾いた土と小さな石が混じり、風はもう花の匂いを運んでこない。

背後にはまだエデンの明るさが残っている。

けれど、その光は二人を包むためのものではなく、振り返ればそこにあるだけの景色になっていた。


リリスは、ルシファーの手を握ったまま歩いていた。


前に広がるのは、まだ道とも呼べない荒野。

誰かが歩いた跡もなく、木陰も、水音もない。

 

神が地獄と呼んだ場所は、まだここからは見えはしない。


恐ろしい名だと思った。

けれどリリスは、不思議と足を止めたいとは思わなかった。

隣の手がまだ自分の手を包んでいる。

その温度の方が、神の与えた名よりも確かに思えた。


しばらく歩いたところで、ルシファーが足を止める。

リリスもそれに合わせて立ち止まった。

荒野の風が、短くなった左の髪をさらっていく。

右側の長い髪が頬にかかり、リリスはそれを耳にかけようとして、彼の手が少し緩んだことに気づいた。


離れようとしている。


そう分かった瞬間、リリスは指先に力を込めそうになった。

けれど、その前にルシファーが彼女の名を呼んだ。


「……リリス」


声はいつもより低く、優しさを保つためにどこかを無理に押さえているのが分かった。


「君が俺の隣にいたいと言ってくれたことを、疑っているわけじゃない……」


リリスがゆっくりとルシファーを見上げると、ルシファーもまた、リリスを見ていた。

その瞳があまりに真剣だったので、リリスはすぐには言葉を返せなかった。


「でも、先ほどの父上の言葉を聞いてから、考えてしまうんだ。きっとこれから人間は増えていく。その中には、君を役目の席に戻そうとも、母となる者と扱わず、君の言葉を聞き、横に立てる者が現れるかもしれない」


ルシファーの手が、わずかに緩む。


「だから……君が人の流れの中で生き直す道を選べる日が、いつか来るかもしれない。俺の隣にいることで、その道まで閉ざしてしまうなら、それは俺の望むことじゃない」


リリスは、繋がれたままの手を見る。

離そうとしているのに、離しきれない手だった。


その手で、突き放そうとしているのではなく、むしろ逆なのだと分かる。

大切に思ってくれるからこそ、自分の隣が檻になることを恐れている。


リリスは先ほど聞いた、ミカエルとルシファーの会話を片隅で思い出していた。

今までも、きっとあんな風に、相手の選択を奪わないための優しさで、相手をわざと突き放してきたのだろう。

相手が痛むとわかっていても、自分も痛むとわかっていても、それでも全部を飲み込んで、彼は一人でここに来たのだろう。


 この人は、ルシファーは。

 自分の胸を裂くものより先に、こちらの行き先を心配する。


「ルシファーは、私の未来を私より先に心配するのね……その優しさが、今はちょっとだけ苦しいわ」


リリスは、視線をあげて彼を見た。

責めたかったわけではない。

優しいから、そんな先のことまで考えているのだと分かった。

いつか現れるかもしれない誰かのことも、人としての流れへ戻る道のことも、自分の隣にいることで閉ざしてしまうかもしれないと、彼は恐れている。

けれど、その優しさで手を離されるのは、苦しかった。


「……あなたが私の未来を大事にしてくれるのは分かるわ。でも、そのためにあなたが傷つくなら、私はちっとも嬉しくないの」


リリスは、緩みかけた彼の手を握り返した。


「人が増えれば同じような人間出てくるかもしれない。それは、そうかもしれないわ。けれど、それと今あなたの隣にいたいことは別」


リリスは、まっすぐにルシファーを見た。


「あなたは、私から未来を奪う人じゃないわ。来るかもわからない未来のために、私は今ここで、この手を離したくないの」


ルシファーの手が止まる。


「お父様が何を告げても、私の行き先は私が決めるわ」


リリスは彼を見上げた。


黒い髪、紫紺の瞳、その奥に沈む紅い輪。

柔らかく笑うのに、時折、世界の底まで見ているような目をする人。


「あなたは、私が選んだ私を、隣で見てくれた人」


ルシファーは何も返せなかった。

リリスは、彼の沈黙を急かさなかった。

今まで、彼がそうしてくれていたように。

 

神が告げたことのすべてを、今ここで受け止めきれるわけではない。

老いないことも、死の流れから外れることも、人の系譜にも、もう戻らないこと。

そのどれもが、まだリリスの手の中ではっきりとは形になっていない。


けれど、今ここにあるものは分かる。


彼の手、彼の迷い。

その迷いが、自分を縛らないためのものだということ。

そして、自分はその手を離したくないと思っていること。


「私は、あなたがいる世界を選びたいの」


エデンの光が背後で揺れていても、リリスはその光を見なかった。

彼女が見ていたのは、目の前のルシファーだけだった。


「あなたに救われたからでも、必要とされたいからでもない。あなたが何かを黙って飲み込もうとするなら、私はその隣にいたいと思ったの。あなたの見ている世界を、一緒に見たいと、私が思ったの」


ルシファーは、ただ彼女を見ていた。

いつものように返事を整えることも、やわらかく笑って場を逃がすこともできずにいる。

その顔が、リリスには少しだけ愛しかった。


「いつも困ったように笑って、すこし頼りないくらいなのに、誰かの答えが奪われそうになる時だけは、少しも退かない。そういうあなたが好き」

 

リリスは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「そういうあなただから、私は隣にいたいの」


ルシファーの目が、かすかに見開かれる。


リリスは微笑んだ。


「私は、あなたを選ぶわ。ルシファー」


その名を呼ぶと、彼の顔が少しだけ変わった。


大天使でも、神の言葉を読む者でも、天界の兄でもない。

リリスが見つけ、彼自身が選んだ名。

その名で呼ばれた彼が、今ここにいる。


リリスは、握っていた手をそっと離す。


離されたルシファーの指が行き場を失うように止まる。

眉を下げたルシファーを見て、リリスは両手を伸ばした。


「ねぇ、ルシファー。夜はね、光を抱くって決めたら、離さないのよ」


ルシファーはすぐには動かなかった。

伸ばされた腕を見て、それからリリスを見る。

手を伸ばしたいのだと、自分でも分かっていた。

けれど、そのまま抱きしめていいのか、本当に自分でいいのか、彼女が選んだ自由を自分の腕で囲ってしまわないかと、迷いが最後のところで彼を止めていた。


彼は、低く聞いた。


「……いいの?」


リリスは、まっすぐに彼を見た。


「ええ」


その一言で、ルシファーの中に張っていたものが少しだけ揺れた。


彼はゆっくり手を伸ばす。


逃げる余地を残すように、確かめるように、リリスの肩にそっと触れた。

それでも彼女が離れないことを知ってから、ようやく腕に力を込めた。

リリスの身体が、胸元に収まると、離したくないとばかりに引き寄せた。


リリスもまた、ルシファーの背に手を回し。彼の存在を確かめる。

 

いつも怖がらせない様にと距離を取って接してくれていた彼が、今はこんなに近くで、こんなに強く力をこめて自分の身体を引き寄せてくれている。

そのことに、なぜか胸がきゅっと苦しくなって、何かがこぼれそうになる。

 

胸に頬を寄せれば、ルシファーの鼓動が近くにあるのがわかった。

その胸には確かに熱がある。

痛むほど静かな、けれど消えない熱。


ルシファーの声が、髪の上に落ちる。


「俺も、君のいる世界を選びたい」


リリスは目を閉じた。


その言葉は、庭の祝福よりずっと小さかった。

神の宣告よりずっと頼りなく聞こえた。


けれど、リリスにはそれでよかった。


彼が世界を選ぶのではない。

彼女が世界を選ぶのでもない。

互いがいる場所を、これから世界にしていく。


それだけだ。

 


遠くで、エデンの光が揺れている。


リリスはその胸の中で、小さく息をした。


「なら、行きましょう」


ルシファーは、少しだけ腕の力を緩めた。


名残惜しむように、けれど彼女を閉じ込めないように、そっと離れる。


「うん」


二人はもう一度手を繋いだ。


背後には、始まりの庭がある。

これから行く先には、神が地獄と呼んだ黄昏がある。


その名は恐ろしい。

きっと、優しい場所ではないのだろう。

火も、影も、まだ知らない古いものたちもいる。


リリスには分からないことばかりだった。


それでも、荒野の先へ向かう足は止まらなかった。

 


楽園ではなくてもいい。


誰かに用意された席でなくてもいい。


隣を選んだのは、自分だ。


ルシファーが歩き出す。

リリスも、その隣を歩く。

 


エデンの光が、少しずつ背中から遠ざかっていく。

 


————夜は、落ちてきた光を離さなかった。




夜と流星のマージナリア

第一章 創世・エデン編 了

夜と流星のマージナリア 第一章 創世・エデン編はこれにて終幕です。


ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。


これからも、夜と流星の行方を、見守って頂けましたら幸いです。


それでは、第二章でまたお会いしましょう。

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