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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第69話「終わらない身体、続かない命」

「リリス」


神が彼女の名を呼んだ。


庭はまだ明るかった。

花は咲き、水の匂いも、葉を透かす光も、先ほどまでと変わらない。

けれどその声が落ちた瞬間、リリスは同じ庭にいながら足もとの土だけが別の場所へずれたような感覚を覚えた。

責められているのでも、慰められているのでもない。

神の声は、ただこれから起こることを告げるためにそこにあった。


繋がれた手の中で、ルシファーの指がわずかに強張る。

リリスはそれに気づいたが、神から目を逸らさなかった。


「君について、伝えることが二つある。ひとつ。君は人として始まったが、人の枠組みから外れた存在として、余白の存在となる。故に、老いること、死ぬこと、その対象からは外れる」


二つ、という数だけが、妙にはっきりと耳に残った。


白い庭のあちこちで、天使たちの羽がかすかに動いた。

リリスは自分の手を見る。指があり、爪があり、海水で少し荒れた肌も、まだ乾ききらない髪の重さも、自分のものだった。

花に触れれば柔らかさが分かる。

石を踏めば足裏が痛む。

寒ければ身体は震え、ルシファーに手を握られれば、その熱が分かる。


身体はここにある。

それなのに神は、この身体がもう、老いと死の流れから外れるのだと告げていた。


リリスは、すぐには言葉を返せなかった。

恐怖と呼ぶには輪郭がなく、喜びと呼ぶには何も知らなすぎた。

ただ、自分がアダムやイヴから続いていく者たちと同じ終わり方をしないのだという事実だけが、胸の奥で空白を作った。

 


「もうひとつ。老いや死から外れるからといって、君の身体が壊れるわけではない。人として子を宿す力そのものは残っている。だが、君たちは本文の余白の存在となる。だから、君から始まる命を、世界は新しい生命として受け取り記述することができない。その命は、この世界に根づけない。育ち、生まれ、明日へ進むところまで届かない。故に、子は望めない」


子。


その言葉は、かつてリリスの身体へ無遠慮に押しつけられたものだった。

アダムの隣に座り、未来を繋ぐための身体として見られた時、リリスは息をする場所を失った。

あの時の感覚は、まだ彼女の中から消えていない。


けれど今、神の声は反対の場所へ向かっていた。

かつて押しつけられたものが、今度はありえないものとして告げられている。


庭の音が、膜の向こうへ下がっていくような気がした。


それでも涙が流れることはなかった。

リリス自身、まだ、何を失ったのか分からなかった。

ルシファーとのこの先の未来、そして自分から生まれる命、それを具体的に思い描いたことがなかった。


それでも、隣の手が強くなっていることだけは分かった。

ルシファーには、神の言葉が届いている。届きすぎている。

 

ルシファーは唇を引き結んだ。

 

自分たちは余白の存在となる。

系譜に接続せず、役割も持たない。

世界の本文の中で、次の行へ進む者ではない。


アダムとイヴから続く命は線になる。

不完全で、迷い、間違い、傷つけ合い、それでも先へ伸びていく。

生まれ、老い、死に、また次へ渡されていく。

 

けれど、自分とリリスは違う。


互いに選び合った、その一点で完結している。


——線ではなく、点なのだ。


点は、世界の次の行へ伸びることはない。

だから、そこから新しい命は続かない。


ルシファーには、その理屈が分かった。

分かってしまうことが、胸の奥に小さな棘を残した。


かつてリリスには、命を繋ぐ役目が押しつけられていた。

それを怖いと感じた彼女を、天界も神の言葉も、正しく見なかった。


そして今度は、同じ世界が告げている。


——もう、その未来はない、と。


押しつけたのも世界だった。

奪うように告げるのも世界だった。


喉の奥に戻ってきた熱を、ルシファーは声に乗せなかった。

ただ、神を見る目だけが、先ほどまでとは違っていた。


「それを、今ここで彼女に告げる必要があったのか」


声は荒くなかった。

それでも、天使たちの羽音を止めるには十分だった。


神は動じなかった。


「彼女にも関わることだ」


正しい返答だった。


だからこそ、ルシファーはすぐには返せなかった。

 

リリスに関わることなのは事実だった。

彼女の身体のこと、彼女の未来のこと。

彼女が知らないままでいてよい話ではない。


正しい、正しかった。

しかし、正しいからといって、それをこの場で受け止められる形になるわけではない。


リリスは、ルシファーの手を握り返した。

止めるためではなく、なかったことにするためでもない。

ただ、自分はここにいると伝えるように、指先に少しだけ力を込めた。


ルシファーの視線が彼女へ向く。

リリスは神をまっすぐに見ていた。


「……それが、お父様からの祝福というわけね」



「なんと無礼なっ……!!」

 

天使たちの間で息が乱れ、誰かが、そう漏らした。

けれど神は、リリスの皮肉を受けても表情を変えることはなかった。


「祝福ではない。罰でもない。君たちは、何者であるかを決められること自体を拒否した存在だ。どこにも属さない。どこにも続かない存在。君たちの愛は、二人だけで完結する」


愛。


神の声でその言葉が出ると、それは誰かを抱くための言葉ではなく、記録に置かれた分類の名のように聞こえた。


天使たちは黙っている。

ルシファーは、しばらく神を見ていた。


神が告げたのは、喪失だった。


続かないこと、属さないこと、世界の次の行に書かれないこと。

余白、すなわちこの世界の構造の外側。


世界の中では、誰もが何かの役を持つ。

天使は天使として、人間は人間として、親は親として、子は子として、始まりは始まりとして、続きは続きとして書かれていく。


けれど外側へ出たものは違う。

何かのために存在するのではなく、次の何かへ渡されるのでもない。

世界の仕組みから見れば、役目として扱えない。

血筋として数えられない。記述の中に戻せない。


存在している。

けれど、世界の中では扱えない。


ルシファーは、その言葉の縁を読んだ。

そして、同じ言葉の中に別の読み筋があることにも気づいた。


「……それは」


彼はリリスの手を離さなかった。


「世界に混ざらないからこそ、消されもしない。つまり、誰にも奪えないということだね」


ミカエルが顔を上げた。

ガブリエルの瞳が揺れる。

神は、ルシファーを見ていた。


「世界の中で役を持つものは、世界の都合で動かされる。血筋に繋がるものは、次の誰かへ渡されていく。けれど俺たちは点として完結する。増えない。続かない。だからこそ、誰かのための役にも、誰かへ渡されるものにもならない」


リリスは、先ほどとは打って変わって雄弁に語るルシファーの横顔を見た。


「父上の言葉はいつも正しい。でも————読み方はひとつじゃない」


その声に、天使たちは何も言えなかった。


神は、ルシファーの言葉をそのまま見るようにして返した。


「そう読むのだね」


否定ではなかった。

肯定とも違った。


ただ、ルシファーがそう読んだことを、神はそのまま受け取っていた。


リリスは、ルシファーの横顔を見ていた。


告げられたことのすべてを、今すぐ悲しめるほど、自分はまだ何も知らない。

自分の身体のことも、この先の長さも、続かない命のこともまだ手の中に収まらない。


けれど、今ここにあるものは分かる。


ルシファーの手、彼の力。その力に彼が傷ついたこと。

そして、自分はその手を離したくないと思っていること。


神は二人を見ていた。


「戻ってくる日を、待っているよ」


その声は、天使たちには慈しみに近いものとして届いたかもしれない。

失われたものがいつか帰ってくることを望む、父の言葉のように。


けれど、ルシファーにはそうは聞こえなかった。

 

神が待っているのは、二人が思い直して戻る日などではない。


余白までもが本文へ組み込まれ、例外であったはずのものさえ記述できるようになり、自分たちが再び世界の中で読めるものになる日を、神は見ているのだ。



ルシファーは、リリスの手を握ったまま神を見る。

 


「俺たちは、その日が来ない未来を選ぶよ」

 


リリスも隣で頷いた。


「私もよ」


その返事には、沈み込むだけではない確かさがあった。


神は何も言わない。

天使たちはもう、誰も動けなかった。


ルシファーはリリスを見る。


「行こうか」


リリスは小さく頷いた。


「ええ」


二人は、庭の光の中で歩き出した。


ミカエルは動かなかった。


兄上、と呼びかけることもできただろう。

止めることも、剣を抜くことも、できたのかもしれない。

けれど足は動かず、喉の奥で何度も言葉だけが形を変えた。


ガブリエルは、ルシファーの手を見ていた。

その手はリリスの手を握っている。

奪うための強さではなく、置いていかないと確かめるための強さだった。


……兄さま。


その言葉は、喉の奥に残ったまま表に出ることはなかった。

 


リリスは振り返らない。

ルシファーもまた、振り返ることはなかった。

 


庭の光の中を、黒髪の男と紫の髪の女が歩いていく。



————二人は、もう戻らなかった。

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