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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第68話「地獄」

神の顔に、怒りはなかった。


悲しんでいるようにも、失望しているようにも見えない。

庭で起きたことを誰かの罪として裁くのではなく、目の前にあるものを、あるべき場所へ一つずつ置き直しているようだった。


「君たちは戻らない」


返事を求める言い方ではなかった。


その言葉を聞いた瞬間、木々の上に並ぶ天使たちの羽音が少し収まった。

 白い庭の端には荒野から乾いた風が入り、ルシファーの黒い髪と、天界のものではない衣の裾を揺らしている。彼は神から目を逸らさず、短く答えた。


「うん」


隣でリリスもまっすぐ神を見ていた。


神は二人を順に見たあと、天使たちへ視線を移した。


「天使たちは、それを受け入れられない」


ミカエルの肩が動いた。ガブリエルは唇を結んだまま、ルシファーを見ている。

誰かを咎める声ではなかった。

ただ、ここにいる天使たちがまだ何を飲み込めずにいるのかを、神がそのまま口にしただけだった。


「ならば、ここから先は、名と行き先の話になる」


名、と聞いて、ルシファーの指が少し動いた。


リリスは、胸に抱いた白い羽に指を添える。

羽は指の下で簡単に形を変えそうなほどやわらかいのに、そこに残っている出来事は、抱きしめても小さくならなかった。


神はルシファーを見る。


「天界は、君をルシフェルと呼ぶ」


その名を聞いた天使たちの視線が、一斉に上がった。


ルシフェルという名は、まだ彼らの中に残っている。

白い式服をまとい、銀の髪を光に馴染ませ、神の言葉を読み、天使たちへ渡していた大天使。


兄と呼ばれ、敬われ、天界の中心に近い場所にいた者。


けれど今、目の前に立つ男へその名をそのまま重ねようとすると、声は喉の奥で止まってしまう。

黒い髪も、白ではない衣も、リリスの隣に立つ姿も、彼らの知っているルシフェルとは少しずつ違っていた。


神は次に、リリスを見た。


「リリス。君は、その者をルシファーと呼び、隣にいることを選んだのだね」


リリスは神ではなく、隣にいる彼を見た。


「ええ」


迷いはなかった。


「私は、彼に救われたからここにいるんじゃないわ」


天使たちの視線が、リリスへ向く。

それでも彼女は身を引くことなく、ルシファーの隣に立ったまま続けた。


「彼が、ルシファーが、私を始まりの女なんかじゃなく、リリスとして見てくれた。私の声を聞いて、私に選ばせてくれたの」


ルシファーは、その顔を見る。


左側の髪は短くなり、頬も耳も隠れていない。

右側に残った長い髪は、彼女自身の手で耳にかけられていた。

かつてのように顔を覆うものはもうなく、天使たちに見られても、神の前に立っても、彼女は俯かなかった。


胸には白い羽を抱いている。


その腕に力は入っている。

けれど、誰かの後ろへ隠れるためではない。

リリスはルシファーの背に守られる場所ではなく、彼の横を選んで立っていた。


始まりの女と呼ばれた時、彼女の顔は見えなかった。

アダムの隣へ戻されそうになった時、彼女の声は何度も届かなかった。


けれど今は違う。


彼女は自分の名を口にし、その名で呼んだ相手の隣にいる。

戻れと言われる席ではなく、自分で選んだ場所に立っている。


少し離れていた手に、ルシファーの指が触れた。


引き止めるための手ではなかった。

彼女の行き先を決めるためでもない。

ただ、そこに立つ彼女へ触れてよいかを確かめるように、指先がそっと重なる。


リリスは逃げない。

それを確かめてから、ルシファーは彼女の手を握った。

 

天使たちへ向けていた目が、そこでようやく少しだけ和らぐ。


微笑んだわけではない。

それでも、握り返された指を感じた瞬間、彼の呼吸が深く戻った。


「リリスが、俺を大天使のルシフェルではなく、ルシファーとして見つけてくれた」


その名が口にされた瞬間、天使たちの間に小さなどよめきが走った。

翼を動かしかけた者が、その場で止まる。


ルシファー。


少なくとも、天界の者たちはまだ、彼をその名で呼んだことがなかった。


ミカエルの指が、白い袖の中で強ばる。

兄上、と呼びたかった。

けれど今、その名は自分の喉から出るには、あまりにも昔の場所に残りすぎていた。


ガブリエルは息を整えることができなかった。

 

兄さま、と呼べば、まだどこかで届くと思っていた。

ルシフェル様、と呼べば、まだ振り向いてくれると思っていた。


けれど目の前の彼は、リリスの口から生まれたその名を、少しもためらわず受け取っている。


その事実は叱責よりも深く、ガブリエルの胸の内側へ沈んでいった。


神は、その名を聞いていた。


「ルシファー」


低く、繰り返す。


その声に拒絶も怒りすらもない。

ただ、世界のどこかに新しい名が書き加えられた時のように、庭の空気がわずかに張りつめた。


「君は、その名で進むのだね」


ルシファーは、リリスの手を握ったまま、もう片方の手を胸に当てた。

かつてそこには、天界の八つの光があった。

神の言葉を読み、天使たちへ渡す者の印。


今はもうない。

白い式服も、銀の髪も、胸元の星すらも。

それでも彼は、かつて印があった場所に自分の手を添えた。


天使たちは、その動きを見ていた。

神が与えた徽章のない胸に、彼は自分で手を当てている。

そこに新しい何かを刻むように。


「俺は、この名を選ぶよ」


その声は大きくなかった。

けれど庭の明るさが、ほんの一瞬、二人から距離を取ったように見えた。


ルシフェルという名が、この場で消えるわけではない。


天界に戻れば、天使たちはこれからも彼をルシフェルと呼ぶだろう。

白い式服を着ていた頃の姿を思い出し、その名で記録し、その名で失ったものを数える。


けれど、今ここに立つ彼は、その呼び名だけで自分を戻すつもりはなかった。


リリスが呼んだ名を、彼は自分自身でも選んだ。


ルシファー。


その名は、誰かに与えられた役目ではなく、彼女に見つけられ、彼自身が受け取ったものだった。


神はわずかに目を細めた。


「では、ルシファー、リリス」


二人の名が並び、天使たちの間でまた翼がかすかに動いた。その並びはあまりにも新しく、天界のどの記録にも、どの祝福にも、まだ同じ形はなかった。


神は二人を見ていた。


「君たちは、私が最初に置いた名と役目の中には戻らない」


その言葉に、ミカエルの表情がかすかに変わる。


ルシフェルとして天界へ戻るのでもない。

始まりの女として人間の流れへ戻るのでもない。

二人はそれぞれ、ここで選んだ名のまま、庭の外へ向かおうとしている。

神は、それを責めなかった。


庭の中で、いくつもの息が止まった。


「だが、そこから外れたからといって、君たちが消されるわけではない。これから先、君たちは私の世界を進めるための行には入らない。天界の役にも、人間の血筋にも組み込まれない。名や役目を与えられてそこに立つのではなく、今ここにいることだけで残る者になる」


神の世界を進めるための行。


それは、神が世界を始め、天使たちが読み、命がそこから歩き出すものだった。

ルシファーが、かつて誰よりも正しく読んでいたものでもある。


ルシファーは口を開いた。


「つまり、俺たちは消されるわけじゃない。けれど、天界の行にも、人間の系譜にも記されない」


神は答えない。

けれど、その沈黙は否定ではなかった。


ルシファーは、小さく息を吐く。


「本文の外側に残る……『余白』ということか」



『余白』というその言葉に、天使たちの翼がわずかに揺れた。


天界の記録にも、人間の系譜にも入らない。

けれど、なかったことにされるわけではない。


世界を進めるための本筋からは外れ、それでも消えずに残る場所がある。

誰かの役目に戻されることも、誰かの血筋に組み込まれることもないまま、ただそこにいるための場所。


それが——余白。



神は言う。


「そう呼んでもいい」


リリスは、胸に抱いた羽を少しだけ押さえた。

その言葉は、不思議と恐ろしくはなかった。

少なくとも、リリスにとって、アダムの隣へ座れと言われた時のように息を奪うものではない。


ルシファーが、神の言葉を受け取るように視線を落とした。


「本文の縁に残るもの。そこに書かれる言葉。本文そのものではないが、痕跡として確かにそこにある。——余白(マージナリア)


神はルシファーを見る。


「読めなくなった今でも、君はそこまで読むのだね」


ルシファーは少しだけ笑った。


「父上の言葉を最も正しく読む者だったからね」


その声は、わざと少し軽く聞こえるように抑えられていた。

けれど、ミカエルとガブリエルには少しも軽くなど響かなかった。

かつてなら誇らしく受け取れたはずの言葉が、今は天界のルシフェルだった頃を遠ざける声に聞こえた。


ルシファーは、自分の手を見る。


「俺の輪郭が天使たちから掴みにくくなっているのも、そのためだろうね。天界の本文に記されていたルシフェルと、今ここにいる俺は、もう同じ行の上にいない。だから天界に残る者からは、以前のようには俺を読めないし、掴むこともできない」


神は頷かなかった。

ただ、否定もしなかった。


「君は今も存在している。だが、天界の記録の中にあった場所には、もういない」


ミカエルの顔からは、わずかに色が引き、ガブリエルは、吸い込んだ息をそのまま胸の中で止めた。


兄上は消えていない。


兄さまは、間違いなくそこにいる。


けれど天界の中にあった場所からは外れている。

それが、今の彼を以前のように見られなくしているのだと、二人はようやく分かりかけていた。


リリスは、ふと自分の手を見た。


「……私も、天使たちから見えにくくなっていくの?」


その問いは、誰に向けたものでもなかった。


答えたのは神だった。


「君は人の身体を持っている。人間として作られ、地上に触れられる身体を持っている。だから、彼のように輪郭が揺らぐことはない。リリスとして、君も余白に残る」



その響きは、奇妙なほどまっすぐ胸へ入ってきた。

 

ルシファーはリリスを見る。


「これからは、余白に残る俺たちを使って、世界の次の行を書くことはできない」



「そうだ」


神の一言が庭に落ちた。


ミカエルもガブリエルも、その場にいた天使たちも、まだそれを受け取れずにいた。

拒絶ではないと言われても、同じ場所へ戻らないことは、彼らにとって失うこととほとんど同じ形をしていた。


神は、庭の外へ目を向けた。


その視線は、木々の切れ目や荒野の土を見ているのではなかった。

白い庭の向こう、人間が歩き出した大地よりもさらに先へ届いているように見えた。


ルシファーには、それがどこを指しているのか分かった。


一度だけ足を踏み入れた、藍と紫の空が続く場所。

朝にも夜にもならない黄昏の下で、古い影たちが名を持たないまま息を潜めている場所。


神は言う。


「君たちが行こうとしている先、名を持たない古い黄昏」


リリスは、ルシファーを見る。

神の声が、庭の光の中へ落ちていく。


ほんのわずかな間のあと、神は告げた。


「地獄と呼んでおこう」


その名を聞いた瞬間、木々の上に並ぶ天使たちの間で息が乱れた。

誰かの翼が動きかけ、すぐに止まる。


まだ誰も、その場所を見たことはないはずだった。

けれど、地獄という響きは、天使たちの中にいくつもの光景を呼び起こした。

誰かがそう教えたわけでもないのに、その名はもう彼らの想像を暗い方へ引いていた。


ルシファーが、少しだけ目を細める。


「ずいぶん強い名だね」


神は返した。


「人は、そう呼ぶだろう」


ルシファーはそれ以上何も言わなかった。


人は、という一語の先に、これから庭の外で生きていく者たちがいた。

アダムとイヴから続き、泣き、怒り、愛し、奪い、失い、それでも何かを選ぼうとする者たち。

その長い歩みのどこかで、あの黄昏は地獄と呼ばれるようになる。


神が、ミカエルとガブリエルを見ると、ミカエルの背が、無意識にまっすぐになる。


「天界は、生きている者のそばに立ち、導き、支え、守る。だが、選ぶ手を奪ってはならない」


その言葉で、庭にいた者たちの視線がわずかに変わった。


——選ぶ手。

リリスを縁へ留めようとした水、アダムとイヴが出ていった庭。

イヴが伸ばした手、リリスが自分で切った髪。


いくつもの手が、誰の目にも見えないまま、その場に残っている。


神は続けた。


「ミカエル。ガブリエル」


名を呼ばれた二人が、頭を下げる。


「ラファエルとウリエルにも伝えなさい」


「はい」


ミカエルの返事は、いつも通り整っていた。けれど、その奥にあるものまで同じように整っているわけではなかった。


「君たちは、人間の歩みを支える側に残る」


その言葉を聞いたミカエルは、わずかに息を止めた。


兄上は行く。自分たちは残る。もう同じ歩き方はできない。それでも、生きていく者たちのそばに立つ役目は、自分たちの側に残されている。


神は、今度はルシファーとリリスを見た。


「そして地獄には、天界の導きをすぐには受け取れない魂が流れ着くだろう」


天使たちの表情が変わった。死した者の行き先が語られたのだと、誰もがすぐに悟った。


神は続ける。


「自分のしたことを見られない者。誰かのせいにしたまま足を止める者。救いの言葉を聞いても、まだ歩き出せない者。そういう者たちが、あの黄昏へ流れ着く」


ルシファーは黙って聞いていた。


リリスの脳裏に、アダムの顔がかすめる。続いて、イヴの涙が浮かんだ。手を取り合って庭を出た二人の背は、もう朝の光の向こうに小さくなっている。


神は言った。


「そこは罰の場ではない。けれど、誰かが代わりに正しい答えを決めてくれる場所でもない」


天使たちは顔を上げた。


さきほど地獄と名づけられた場所を、彼らはすでに罰と結びつけていた。

光から落ちた者が裁かれる場所。

罪ある者が押し込められる底。

名前を聞いた瞬間から、その想像は彼らの中に生まれていた。


けれど神の言葉は、そのどちらにも向かわなかった。


罰するための場所ではない。

かといって、天使が手を引き、善悪を告げ、神の言葉に従えば済む場所でもない。


そこへ流れ着いた者は、自分のしたことから目を逸らしたままではいられない。

誰かに裁かれるのではなく、誰かに救い上げられるのでもなく、自分の足が止まった場所を、自分で見なければならない。


ルシファーは、小さく息を吐いた。


あの黄昏を思い出す。

短い返事しかしない古いものたち。

名を求めず、役目を問わず、ただそこにいる気配。


あの場所は、たぶん最初からそうだったのだ。


誰かが来ても、正しい場所へ戻せとは言わない。

来るなとも言わない。

そこにいるものを、そこにいるまま見ている。


神が名を与えたことで、世界の方がようやくその場所を見つけたのかもしれなかった。


「そこへ来た者の答えを、俺が決めることはしない」


ルシファーがそう言うと、天使たちの視線が彼へ集まった。


「戻りたいのか、そこに留まるのか、もう一度歩き出すのか。それは本人が決めることだ」


その声を聞いて、リリスは吸い込んだ息が喉で止まらずに済んだ。

彼の言葉は、ただ優しいだけのものではない。

かといって、流れ着いた者を突き放すものでもない。

誰かの代わりに選ばないという、ルシファーが自分にも見せてきた厳しさがそこにあった。


リリスは白い羽を抱いたまま、前を見た。


「私は、そこにいることを拒んだりしないわ。善い者だからでも、役に立つ者だからでもなく、迷って来た人たちに、ここにいては駄目とは言わない」


ルシファーが彼女を見る。


リリスは振り向かなかった。

彼の隣で、まっすぐ神を見ている。

その横顔を見たあと、ルシファーもまた何も言わず、彼女の言葉をその場に残した。


神は何も言わない。


地上で天界と地獄という二つの名が初めて向かい合っていた。

生きている者のそばに立つ天界と、歩けなくなった魂が流れ着く地獄。

 

それは光と闇や、正しさと悪の線引きではなく、違う場所で違うものを引き受けるための名として今ここに存在していた。


神が少しだけ間を置く。


それまで言葉を受け止めていた庭の空気が、次に告げられるものへ向きを変えていく。

ルシファーの指が、リリスの手に触れたままわずかに硬くなる。


神はリリスを見た。


「もうひとつ、伝えておこう」


リリスは目を逸らさなかった。


神の声には、怒りも慰めもない。

だからこそ、次に来るものから逃げてはいけないのだと分かった。


神は、ゆっくりとその名を呼んだ。

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