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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第67話「別の在り方」

ルシファーは、リリスの隣を歩いていた。


少し指を伸ばせば触れられる距離にいる。

近すぎて彼女の足を奪うこともなく、遠すぎて一人にすることもない。

その歩幅の置き方だけで、リリスは自分が今誰かに連れていかれているのでも、後ろを歩いて着いていくのでもないと分かった。

隣を歩くルシファーの気配だけが、今の自分の場所を確かめさせてくれた。


庭の縁へ向かう道は、はじめのうち木々に覆われていた。


枝葉の隙間から朝の光が落ち、白い衣に変えられた布の端を淡く照らしている。

足元にはまだエデンの草がやわらかく茂っていたが、進むほどに幹の間隔は広くなり、葉の重なりも薄くなっていった。


やがて、木々は途切れた。


そこから先には、もう森も花もなかった。

庭の明るさは背後に残り、前方には、草の少ない荒れた大地が広がっている。

土は乾き、遠くの空は淡く霞んでいた。

エデンの内側で聞こえていた水音も、果実の匂いも、そこまでは届かない。


庭の終わりは、門のように二人を迎えたわけではなかった。

ただ、木々が尽きた先に、何も整えられていない土地が続いていた。


二人が庭と荒野の境目へ足を進めたその時だった。


背後の木々の上から羽音がした。


最初はひとつだった。

すぐにふたつ、三つと重なり、枝葉の上を渡る気配は数えきれないほどに増えていく。


リリスの足が止まり、ルシファーも、同じ場所で歩みを止める。


振り返ると、エデンの木々の上に白い影が並んでいた。


見回りの天使たち。

地上に降りきることなく、空の低い位置に留まり、庭の縁に立つ二人を見下ろしている。

白い翼が光を受け、並んだ式服の裾が、まだ降りてこない風の中でかすかに揺れた。


その中央に、ミカエルとガブリエルがいた。


青を差した白の式服と、橙の光を帯びた白の式服。

二人を中心に、天使たちはずらりと並んでいる。

怒鳴る者も、剣を抜く者もいない。

ただ、庭の側に留まったまま、荒野へ向かう二人を見ていた。


リリスの指が、白い羽の上で少しだけ強ばる。


逃げたいとは思わなかった。

ただ、また何かが来たのだと、身体の方が先に知っていた。


天使たちはすぐには言葉を出さず、リリスを見て、それからルシファーへ視線を移した。


黒い髪、白ではなくなった衣。

式服の胸にあった光の印もなく、紫紺の瞳の奥には、見た事のない紅い輪が沈んでいる。

羽を無くしたまた、地上を歩くその姿に、誰かが小さく息をのんだ。


「ルシフェル様……?」


そう呼んだ天使自身が、戸惑っていた。


目の前にいるのは確かにルシフェルに見える。

けれど、彼らが知っていた白い大天使とは、もう同じ姿ではなかった。



「……ほ、本当に、ルシフェル様なのか?」


「しかし、あのお姿は……?」


「輪郭が……」


羽がかすかに揺れ、白い衣の裾が風もないのに擦れる。

ミカエルは何も言わずにルシファーを見ていた。

ガブリエルも同じだった。


二人には分かっている。

分かっているからこそ、言葉がすぐには出てこなかった。

 

目の前にいるのは兄だ。

けれど、もう自分たちが知っていた兄ではない。


リリスは、その視線の重さを横から感じていた。

今、誰かが失ったものの隣に、自分が立っている。

そのことが、肌に触れるほど近く分かった。


「……ルシフェル様」


ひとりの天使が、一歩前へ出た。

声には震えがあった。

怒りだけではない。

恐れと混乱が混じっている。


「あなたが去ってから、天界は乱れています」


別の天使が続ける。


「神の言葉を受け取っても、うまく巡らない。伝えられたものが、次の者へ届く前に滞るのです」


「誰も、あなたの代わりにはなれないのです」


その言葉に、ルシファーは目を伏せなかった。

受け止めている。

けれど、その言葉で表情が曇る事はなかった。


「エデンも変わってしまった」


三天使の、サンセノイが言う。


「神勅は破られ、リリスは戻らず、イヴは実を取り……アダムとイヴは庭の外へ出された」


声が、リリスへ向いた。


「この庭は……エデンの園は、もう始まりの庭でなくなった」


白い羽が、低く鳴る。

誰かが息を呑む音が、葉擦れより近く聞こえた。


「あなた方は、何をしたのか分かっているのですか?」


「壊すだけ壊して、どこに行こうというのです?」


「残された者たちは……どうすればよいのです?」


言葉が重なっていく。


リリスは、そのひとつひとつを聞いていた。

反射的に言い返すことはできただろう。

私は私の足で出たのだと、誰かを壊すために出たわけではないのだと。

けれど、今それを口にすれば、彼らが失ったものを見ないまま、自分だけを守る言葉になってしまう気がした。


彼らの動揺は、作りものではない。

自分たちが選んだあとに、残された者たちがいる。

それを、なかったことにはできない。


「リリス、あなたがイヴに、余計なことを言ったからだ」


天使のひとりが言った。


「お前は、始まりの女でありながら庭を出て、次の女にまで疑いを残した」


別の声が重なる。


「イヴは、与えられた場所で穏やかに始まるはずだった」


「あなたがあの子に余計なことを聞かなければ、彼女はあの実に触れなかったかもしれない」


リリスは、胸に抱いていた羽を押さえた。


イヴの涙が浮かぶ。

アダムの手を握り、外へ出ていったあの子の顔も。


リリスは一呼吸置いて、言葉を選び告げた。

 

「……ええ」


声は大きくなかった。


「私は、イヴに聞いたわ」


羽が擦れる音が、あちこちで小さく鳴る。


「あなた自身は、そこにいたいと思ったのか。そう聞いた。それは、間違いなく私がしたことよ」


「……では、認めるのですね」


三天使のひとり、セノイの言葉は、出てくる前に少し詰まった。


「あなたの言葉が、彼女を動かしたのだと」


リリスの指先が、羽の上で止まる。


「私の言葉が、あの子の中に残ったのだとしても……実に手を伸ばしたのは、イヴ自身よ」

 

リリスは顔を上げた。

 

誰かが息を呑み、天使の羽が空気を切る前に止まる。


「なんと便利な言い方だ」


別の天使の言葉が、冷たく落ちる。


「問いだけを与えて、その先は彼女の責任だと?」


「自分には関わりがないと?」


リリスの喉が、少しだけ狭くなる。

そこには、避けて通れない場所があった。


自分の言葉が、イヴの中に残った。

それは、たぶん本当だ。

あの子は知ろうとした、確かめようとした。

そして、実に手を伸ばしてしまった。

そこに自分の言葉がまったく関わっていないとは、言えるはずもなかった。


でも。


「関わりがないなんて、言わない」


白い羽の上に添えた指が、少しだけ沈む。


「でも、知りたいと思ったのはあの子自身よ。あの子自身の気持ちを、私や他の誰かが決めつけるなんておかしいわ」


天使たちは黙っている。


「あの子が……イヴが知りたいと思った気持ちを、私の罪にも、私が正しかった証にもしたくない」


声が少しだけ震えた。けれど、リリスは目を伏せなかった。


「あれは、イヴが初めて自分で知ろうとしたことよ」


「では、あなたは悪くないと言いたいのですか」


「違うわ!」


返事はすぐだった。


「私は、私がしたことをなかったことになんてしない」


胸に抱いた羽が、指の下で少しだけ沈む。


「でも、イヴがしたことまで私が引き受けたら、あの子が実に手を伸ばした理由は、全部“リリスに惑わされたから”で終わってしまう」


リリスは、静かに息を吸った。


「そうなったら、あの子が知りたいと思ったことも、怖くても確かめようとしたことも、誰にも見てもらえなくなる……私は、それが嫌なの」


少しだけ、声が揺れた。 

白い式服の群れが沈黙する。


リリスは続けた。


「私も……それが嫌だったの……」


喉の奥に絡まっていたものが、少しずつ言葉になっていく。


「私の考えも、答えも、その先に待つものも、最初から用意されているのが嫌だったの。その席に座れば幸せだと言われても、納得できなかった。 正しいことを言われるたびに、息ができなかった」


苦しいほどに喉が痛んでも、リリスは言葉を絞り出す。


「だから、祝福だと言われても、笑うことなんてできなかったの」


誰も動かない。


「だから、私はあの席には戻れなかった。座ることができなかったの」

 

 リリスは、まっすぐに彼らを見据えた。


「あなたたちの庭を乱したことも、イヴに聞いたことも、なかったことにはしないわ」


声は震えていた。


「でも……何を言われても、私が今ここにいることまで間違いだったとは思わない」

 

 リリスはそこで唇を引き結んだ。


「……ならば、それは」


天使たちの声が、鋭くなった。


「庭に従えなかった者の言い訳ではありませんか!」


「イヴのためではなく、あなた自身を正しいと思いたいだけではないか!」


「いったい何をしたかったんだ!!」


「庭を混乱に陥れ、神の始まりを乱しただけの女だ」


「アダムのことも、イヴのことも惑わせた」

 

その瞬間、ルシファーが口を開いた。


「彼女の言葉を、お前たちの都合で語るな」


声は荒くなかった。

それでも、羽音が一瞬にして止まった。


怒鳴られたわけではなかった。

それなのに、誰もすぐには次の言葉を出せなかった。


ミカエルの指が、かすかに強ばる。


兄上、と、そう呼びかけるには、目の前の姿は遠い。

それなのに、まったく知らない者でもない。

そのどちらでもあることが、ミカエルの胸の奥で絡まったまま残った。


 

リリスは、ルシファーの隣でその静けさを聞いていた。


彼が自分を庇ってくれたこと、怒ってくれたことも分かった。

けれど、その怒りの先に自分を隠すつもりはなかった。

ここで何を言うのかは、彼ではなく、自分が選ばなければならない。


ルシファーも、それ以上は言わなかった。


ふと見上げると、彼の視線がこちらにあった。

問いかけるようでも、止めるようでもない。

リリスが自分の言葉を見つけるまで、ただ隣で待っている目だった。


ありがとう、と言わなくても、その沈黙には届く気がした。

大丈夫、と返す代わりに、リリスは小さく頷いた。


そして、天使たちを見る。



「私は、始まりの女でも誰かの助け手や伴侶でもない。私は、私。リリスよ! 本当の私でいることを、もう諦めたりしないわ!」


静かになった天使たちの視線が、リリスに集まっていく。

天使たちは、すぐには言葉を返せなかった。


目の前の女は泣き崩れない。

許しを乞うことも、怒りに任せて叫ぶこともしない。

白い羽を抱く指はかすかに震えているのに、視線だけは逸らさず、そこに立っている。


それが、彼らを余計に戸惑わせた。


庭に戻ることを拒み、与えられた席にも座らず、自分の名を自分の声で言う女。

天界の者たちが知っているどの言葉にも、彼女はきれいに収まらなかった。


庭の明るさの中で、リリスだけが別の影を持っているように見えた。

天使たちは、その影の名を知らないまま、彼女を見ていた。


「……兄上」


ミカエルの声が落ちる。


詰まった様な声だった。

けれど、責めるためだけの声ではなかった。


「せめて、聞かせてくださいっ」


その一言で、周囲の空気が少し変わった。

末端の天使たちも、三天使も、ガブリエルも、誰もすぐには動かない。


ミカエルはルシファーを見ている。

視線を向けているのに、以前のようには映らない。

そこにいると分かるのに、かつての兄の形へ重ねようとするほど、輪郭がずれていく。


「……ガブリエルから、兄上がもう我々の知っている兄上ではないと聞かされていました」


ガブリエルの肩が、かすかに強ばる。


「そんなはずはないと思いたかった」


ミカエルの声は低い。


「でも、今の兄上を実際に拝見し、信じざるを得なくなりました」


青い瞳の奥で、光が細くなる。


「存在の輪郭は曖昧で、揺らぎの中で掴める姿も、以前とは違う」


ミカエルのその言葉に、リリスは、不思議そうにルシファーを見た。


何を言っているのか、分からなかった。

彼女には、ルシファーがはっきり見えている。

黒い髪も、紫紺の瞳も、紅い輪も、指先のわずかな動きも。

少し困ったように笑う口元まで、何ひとつ揺らいでなどいない。


リリスを見たルシファーの目が、少しだけ困ったように細くなった。


「皆も驚いただろうね」


ルシファーは、ミカエルへ向き直る。


「俺も驚いているよ」


言いながら、彼は自分の黒い髪を指先で軽くつまんだ。


「こうなっているのは、もう君たちの知る俺ではないからだろうね。まあ若干の見た目の変化に関しては、不可抗力としか言えないかな」


あまりにもいつも通りだった。


少し困ったように笑って、場をやわらげる。

昔からそうだった。

誰かが張りつめすぎた時、兄はよくそんな声で語りかけた。


けれど今、その軽さはミカエルを救うことはなかった。

同じ声色なのに、戻ってこない。

同じ笑い方なのに、届く場所が違う。


ミカエルは、唇を引き結んだ。


「なぜ……天界を去ったのですか?」


ようやく、その問いがミカエルの口からこぼれ落ちた。


周囲の天使たちは、誰もすぐには声を出さなかった。

きっと皆、同じことを思っていた。

けれど、その問いを口にすれば、戻ってこないものを本当に認めることになる。

だから誰も、そこへ手を伸ばせなかった。


なぜ、何も言わずに去ったのか。

なぜ、戻らなかったのか。

なぜ今、その女の隣に立っているのか。


ルシファーはすぐには答えなかった。


その沈黙に、かつての天界の静けさはなかった。

白い式服を着ていた頃なら、彼が黙っていても、誰かは待つことができたかもしれない。

やがて口を開けば、皆が受け取れる形に整えられた言葉が出てくると信じて。


けれど今、彼の沈黙は誰かのために整えられたものではなかった。


そこには、天界へ戻るための余地も、問いに合わせて自分をほどく気配もなかった。

 


「父上の言葉を読んでいて、読めないものが残った」


ルシファーは静かに言った。


ミカエルの眉が動く。


「読めないもの……?」


「役目を持つこと。名を与えられること。祝福されること。天界では、それらはすべて正しいものとして並んでいた」


ルシファーの視線が、リリスへ移る。


「でも、その正しさの中で、息ができない者がいた」


ガブリエルの唇が、かすかに開いた。


リリスのことだと、分かった。

同時に、それだけではないことも分かった。


「天界を出た時、俺に立派な答えがあったわけじゃない。 ただ、もうあそこにはいられないことだけが分かっていた」


ルシファーは目を伏せた。

少しだけ間が落ちる。

 

「最初は、うまく言えなかった。 でも、彼女に会って、ようやく分かった」


リリスの指が、白い羽の上で止まる。


「役目があるから、存在を許されるんじゃない。 名前がついたから、初めてそこにいるわけじゃない」


天使たちは黙っている。


その言葉は、天界ではあまりにも不慣れだった。

名があり、役目があり、場所があり、だからこそすべてが美しく巡る。

そう教えられてきた者たちには、すぐに受け取れる言葉ではない。


ルシファーは続ける。


「役目や名前がなくても、そこにいる者はいる。俺は、それを見落としたくなかった」


ルシファーは、ミカエルを見る。


「正しい席へ戻すことも、新しい名を与えて別の役目に収めることも、俺のしたいことではなかった」


次に、ガブリエルを見る。


「答えを渡すことでもない」


最後に、リリスを見る。


「戻れと言わずに、隣にいることならできると思った。 それを、彼女の隣で知った」


リリスの胸に、静かな熱が残る。


ミカエルの目が揺れる。


「俺は、父上を否定したいわけじゃない。天界を壊したいわけでもない。 ただ、父上とは違う在り方を見つけてしまった」


少しだけ間が落ちる。


「だから、戻れない。戻ることはしない」


「兄上は…!」


ミカエルの声が、少しだけ低くなる。


「我々を……信じてくれていなかったのですか?」


ルシファーは、すぐに答えた。


「信じていたよ」


迷いのない声に、ミカエルは息を詰めた。


「なら、なぜ何も言ってくれなかったのです……」


「言えば、君たちは止めただろう」


「当然です!だって——」


「うん。だから言わなかった」


それは、やさしさの顔をした拒絶だった。


信じていたから。

止められると分かっていたから。

だから、何も言わなかった。


ミカエルは、そんな形の断絶を知らなかった。

兄の声は静かなままなのに、伸ばした手の先にあったはずの距離だけが、音もなく遠のいていく。


「もう、私たちの知る兄さんではなくとも……」


ガブリエルが耐え切れずに言葉をこぼした。

声は震えなかったが、震えなかったことが、かえって何かを堪えているように聞こえた。


「それでも、まだあなたを兄さまと呼びたい私たちはっ……どうすればいいのですか」


唇が、そこで一度止まる。


「ラファエルも、ウリエルも……ミカエルも、私だって……」


ルシファーは、少しだけ目を伏せた。


「君たちがそう呼ぶことを、俺は止めない」


ガブリエルの指が、袖の中で握られる。


止めない。

けれど、その名で呼べば帰ってくるとは言わない。

兄さまと呼ぶことは許される。

でも、兄として戻ることは、もう約束されない。


それが、ガブリエルにはいちばん苦しかった。


ミカエルの声が、もう一度落ちる。


「では、兄上は……私たちと道を違えるのですか」


それは責める声ではなく、ただ兄と呼ぶ相手が、もう同じ場所へは戻らないのかを確かめる声だった。


「うん。 少なくとも、同じ歩き方はもうできない」


ミカエルの指が、白い式服の袖の中で強ばる。

敵になると言われた方が、まだ分かりやすかったかもしれない。

剣を向ける理由ができる。

守るものと退けるものを分けられる。


けれど兄は、ルシファーは、敵になるとは言わなかった。

ただ、同じ歩き方はできないと告げた。

その言葉は、ミカエルの心の奥底に空虚な穴をあけていった。


 

その時、神の声がした。


「ルシフェル」


その名に、天使たちが一斉に顔を上げた。


ルシファーはすぐには答えない。

リリスの指が、すこしだけ手に触れる。

 


「……やあ、父上」


神は、怒りも、悲しみも、失望もない。

ただ、最初からそこにあったものを見ているような静けさでそこにいた。

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