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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第66話「失楽園」

「ミカエル」


知恵の木の下に、神の声が落ちて、ミカエルは深く頭を下げる。


「……はい、父上」


「アダムに、庭の外を見せなさい」


アダムの息が止まった。


外。


その言葉は、さっきから何度も聞いていたが、アダムにはまだ、それが何を指すのか分からなかった。


エデンの外、この庭の向こう。

果実の枝も、澄んだ水も、怖くない夜も、いつもの朝もない場所。

そう言われても、彼が知っている世界はこの庭だけだ。

眠れば朝が来て、目を開ければ木々があり、手を伸ばせば実があった。

水は濁らず、雨は恐怖ではなく、夜はただ朝を待つための時間だった。


それ以外の場所を、どう考えればいいのか分からない。


ミカエルは、アダムの前に立った。


剣を抜いたわけでも、翼を広げたわけでもない。

ただ、その青い瞳がアダムを捉えた瞬間、庭の明るさが一歩遠のいた。


「見るんだ、アダム」


声は静かだった。


「お前たちが向かう場所を」


アダムが瞬きをした次の瞬間、足元の草が消えた。


そこにあったのは、やわらかな葉に覆われた地面ではなく、乾けばひび割れ、雨を含めば重くまとわりつく土だった。

誰かがその土を掘っている。

手は汚れ、爪は欠けた。

それでも止まらず、指の皮が剥けて血が滲んでいく。

何かを埋め、何かを掘り返し、何かを育てようとして、手のひらが土の色に染まっていく。


雨が降っていた。


大きな葉も、豊かに実った枝もない場所で、人々が身を寄せ合っている。

濡れた髪が頬に張りつき、消えかけた火の前で、誰かが震える手を伸ばしている。

守ろうとしているのが火なのか、火のそばにいる者たちなのか、アダムには分からなかった。


赤ん坊の泣き声が聞こえた。


それは祝福の歌などではなかった。

小さな身体が初めて空気に触れ、全身で泣いている。

母らしき女も顔を歪めて泣いている。

苦しみのあとに腕の中の命を見て、安堵とも痛みともつかない涙をこぼしていた。


誰かが食べ物を分け、その隣で、誰かが奪っている。

笑い声と叫び声が同じ場所から聞こえ、人が人を抱きしめる影の向こうで、人が人を突き飛ばす影が揺れた。


血のついた土、折れた枝。

焼けた家のそばで、動かなくなった者の名を呼ぶ声がある。


それでも、すべてが暗いわけではなかった。


倒れた者の唇へ水を運ぶ手があった。

泣く子を抱いて、泥の道を歩く背中があった。

何も残っていない場所で、小さな火を灯そうとする者がいた。

夜の中で誰かが名を呼び、その声に、別の誰かが振り返る。


アダムは、息をすることを忘れていた。


見えているもののどれも、彼にはまだ遠すぎていた。

けれど、遠いはずの土の匂いが喉に入り、雨の冷たさが肩に落ち、誰かの泣き声が胸の内側で跳ね返る。

目の前にあるのか、ずっと先にあるのかも分からないその景色から、逃げることだけはできなかった。


庭の外には、風があった。


その風は、エデンの風とは違っていた。

やさしく頬を撫でる日もあるのだろう。

けれど今アダムに触れているのは、エデンの様には整えられていない風だった。

花の匂いだけではなく、土と汗と火の匂いを運び、吹きつけるたびに、体ごとまで知らない場所へ連れていこうとする。


アダムは、その風に立っていられなかった。


気づくと、彼は知恵の木の下に膝をついていた。


庭の明るさが戻り、葉は緑で、果実は赤く、水は光を返している。

けれど、さっきまでと同じには見えなかった。

何も壊れていないのに、すべてが、知らなかった頃の美しさから遠ざかっていた。


アダムは両手を地面につけた。


指先が震えている。

触れているのは土ではなく、いつもの草のはずだった。それなのに、爪の間にはまだ泥が入り込んでいるような気がした。


「……こんなものをっ」


声が掠れた。


「こんなものを、僕は望んでいないッ!!」


ミカエルは何も言わなかった。


アダムは顔を上げる。


「僕たちが……外へ出るから、あれが始まるのですか……僕のせいなのですか」


ミカエルの目は揺れない。


「お前一人のせいではない」


アダムは、一瞬だけ息を吸えた。


けれど、ミカエルの言葉はそこで終わらなかった。


「だが、お前が食べたことは、お前のものだ」


その一言が、アダムの中に残った。


重すぎて、持っていられなかった

だから、視線が逃げていく。

そこに、イヴがいた。


手を握りしめたまま、彼女は立っていた。

涙はもう目元にたまっていて、落ちる前から、頬が濡れることを知っている顔をしていた。


アダムの口が、勝手に動いた。


「君が……君が取らなければ……」


イヴの肩がびくりと震える。


「君が渡さなければ、僕は……」


そこで言葉が詰まっていく。

言ってしまえば、自分の中に戻ってくる。

それが分かっているのに、止まらなかった。


「僕は、あんなものを見ずに済んだのに…!」


イヴは、すぐには答えなかった。


ひと粒、涙が頬を伝って落ちた。

それでも、彼女は膝を折ることはなかった。

衣の裾を握る指に力が入り、白い布が小さくしわになる。

果汁の赤は、まだ指の間に残っていた。


「……はい」


声は震えていた。


「私が取りました」


アダムは息を止めた。

イヴは、裾を握ったまま続ける。


「私が、あなたに渡しました」


涙は止まらない。

けれど、彼女の目は地面だけを見てはいなかった。

一度息を吸おうとして、胸元が小さく上下する。

うまく入らなかった息の隙間から、細い声が落ちた。


「でも……」


ガブリエルが、ほんの少しだけ身を動かした。

差し出しかけた指は、宙で止まる。


イヴは、アダムを見る。


「あなたも、食べました」



誰かを責め、自分が勝つような声ではなかった。

ただ、消えないものを見つけてしまった子供の声をしていた。


アダムの唇が震えた。


自分の口元に、まだ果汁の跡がある。

舌の奥には甘さの名残があり、喉を通った果肉の感触が、遅れて戻ってくる。


渡された。

けれど、噛んで、飲み込んだ。

自分の口で。


アダムは両手を握った。


逃げる場所が、少しずつなくなっていく。


「……僕も」


声は、小さかった。


「僕も、食べた」


それは謝る言葉でも、許しを求める声でもなかった。

けれど初めて、彼は自分の口に入ったものを、誰かの手へ押し返さずに言った。


イヴの涙が、もう一度落ちて土に染み込んでいく。

 

その顔に、笑みが浮かんだ。

笑おうとしていた。


頬も、指先も、まだ震えている。

涙も止まっていない。

それでも、イヴは笑った。

 

けれど、それは楽園を見つけた者の顔ではない。

失った庭の代わりに、目の前の手をどうにか信じようとしている顔だった。


アダムは、その笑みから目を離せない。


イヴは、アダムの手を取る。


「あなたが行くところなら、どこへでも一緒に行きます」


その手は温かかった。

けれど、その温かさは彼を許してくれるものではない。

ただ、離れないと言っているだけだった。


「あなたがいる場所を、私は楽園だと思いたいのです」


イヴの声はか細かった。

愛の宣言というより、失った庭の代わりを必死に探す声に聞こえた。


「あなたがいない楽園なら、きっとそこは私にとって、楽園ではありませんから……」


アダムは何も言えなかった。


手を握り返す。

支えるためというより、離せば自分が崩れてしまうものを繋ぎ止めるような手。

イヴも、その手を振りほどかなかった。

許したからでも、分かったからでもない。


ただ、外へ出るのが怖かった。


そして怖い時に隣にいる相手を、彼女はまだ他に知らなかった。



 


ミカエルの背が、エデンの縁へ向いた。


急かす声はなく、退け、と命じる手もない。

それでもアダムには分かった。

あの背中の先へ行くしかないのだと。


足はすぐには動かなかった。

 


草はやわらかい。

さっきまでと同じ庭の草だ。

けれど、その上に立つ足だけが、もう同じ場所にはいられないことを知っている。

隣でイヴの手が小さく震えていた。


アダムは、その手を握ったままだった。

握られているのか、握っているのか、もう分からない。


ガブリエルは、イヴの指を見ている。


果汁の跡は薄くなり始めていた。

けれど、消えてはいない。

声をかければ、彼女は振り向くかもしれない。

手を伸ばせば、触れられる距離だった。


それでもガブリエルの指は動かなかった。


何を言えばいいのか分からない。

「大丈夫」とは言えない。

「行きなさい」と告げれば、今のイヴを突き放す言葉になる。

イヴの裾を握る指がまだ震えているのを、ガブリエルはただ見ていた。


エデンの道は、変わらず美しかった。


失われるものがあるから美しいのではない。

美しいまま失われるから、花も水も、二人を引き止めるもののように見えた。


アダムは何度も振り返りかけた。

振り返れば、庭が、水が、木が、眠る場所が、暗闇のない夜がある。

けれど、そのたびにミカエルの背が視界に入った。


青を差した白い式服にまっすぐな歩み。

戻るなとは言わないのに、戻る余地だけを静かに閉ざしていく背中。


イヴは、アダムの手を離さない。


エデンの縁へ向かう途中、彼女は一度だけ後ろを振り返った。


思い出したのは、海の近くで会った女のことだった。


紫の髪、深い赤の瞳。

自分に問いを差し出した人。


あの人は、逃げたのではない。

誰かの手に引かれたのでも、誰かの許しを待ったのでもない。

自分で出ていったのだ。


イヴは、握ったアダムの手に少しだけ力を込める。


自分はまだ、あの人のようには歩けない。


怖い。外が怖い。アダムの手を離すこともたまらなく怖かった。


それでも、外へ出る。


庭の縁に近づくにつれ、風が変わった。

花の匂いだけではない。

土と、遠い水と、知らない草の匂いが混ざっている。


アダムの足が止まりかけた。

イヴの手が、そこに残っている。


ミカエルは振り返らない。


そして二人は、エデンの外へ出た。


初めての風は、あたたかな祝福のようには吹いてはくれなかった。

けれど、拒むようにも吹かなかった。


ただ、庭の外にも風があることを、二人の頬に知らせて通りすぎていく。


アダムは目を閉じた。

イヴは流れる涙を拭わなかった。


背後で、エデンの光が少し遠くなる。


 

鳥の声は、戻ることはなかった。






 


リリスは、エデンの縁へ向かう途中の低い丘で、二人の背が遠ざかっていくのを見ていた。


丘と呼ぶには低いかったが、木々の間から庭の縁が見える。

アダムとイヴが小さくなっていく。

あんなに近かったはずの二人が、光の中で遠く見える。



私は自分であそこから出た。

けれど、あの子は、出された。


同じ外へ向かっているのに、その足元にあるものはまるで違う。

それでもイヴは歩いていった。

アダムの手を離さず、涙を拭わず、庭の外の風へ向かっていた。


リリスの隣で、ルシファーは何も言わない。

慰める言葉を探しているのではなく、リリスが何を見るのかを、ただ待っている。


その沈黙は慰めではなく、リリスが見届けるための場所を空けてくれていた。


リリスは、遠くへ向けてぽつりと言った。

声は、誰にも届かないほど静かだった。


「私は、別の場所から見ているわ。あなたから続く者たちが、いつか行き場をなくした時、そこにいていいと言える場所で」


言葉にしても、胸の痛みが消えるわけではなかった。


自分の問いが、イヴの中に残ったことも。

その問いが、知恵の実へ向かう道のひとつになったことも。

どれだけ目を伏せても、なかったことにはならない。


けれど、もうそこに留まり続ける必要はない。

これから先の行く道を、自分は決めたのだから。


リリスは、ゆっくり息を吸った。


庭の匂いや海の名残。

白い羽のやわらかさ。

隣にいるルシファーの気配。

そのすべてが、今ここにあった。


リリスは隣を見る。


ルシファーは、ただ彼女を見ていた。

急かす色も、慰めを差し出す光もない。


リリスは小さく笑った。


「ありがとう、ルシファー。もう大丈夫」


ルシファーは頷く。


「うん」


それだけでよかった。


 


二人が丘を下りようとした時、草の間で白いものが動いた。


草をかきわけるような音に、リリスの視線が先にそちらへ行く。


白い蛇がいた。


細く、なめらかな身体が、草の上に静かに伸びている。

二人を呼ぶわけでも、道をふさぐわけでもない。

ただ、見ていた。


リリスは足を止めた。


もう、名のない生き物ではない。

アダムが与えた名を、世界は受け取り始めている。


それでもリリスの目には、あの時と同じ白い生き物に見えた。

花のそばにいて、木の近くにいて、何も語らず、ただそこにいたもの。


リリスは触れようとはしなかった。

触れなくても、別れはできる。


胸に抱いた羽の上から、そっと手を添える。


「ありがとう」


声は小さい。


「さよなら」


それだけを伝えた。


蛇は聞いていたのかいないのか、ぴくりとも動かなかった。


やがて、白い身体が草の間を滑り始めた。

エデンの奥でも、外でもない方へ進んでいく。

まだ名のない草の影へ、音もなく消えていく。


リリスは、白い姿が見えなくなってから前を向く。

ルシファーが隣で待っていてくれていた。


「行きましょう」


「うん」


二人は歩き出す。


その背後で、庭はまだ眩く明るい。

けれど、その明るさの中に、もう誰の戻る場所もなかった。

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