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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第65話「それは罰ではない」

「アダム」


名を呼ぶ声が、庭に落ちた。


怒りではなかった。

罰の響きでもなかった。

それでもアダムは、知恵の木の下で肩を大きく震わせた。


誰も動かなかった。


イヴは果汁の残る手を胸の前で握りしめ、ミカエルは姿勢を正し、ガブリエルは唇を結んだまま目を伏せている。

木陰では、リリスが白い羽を抱いていた。

ルシファーは、その手を離さない。


神は、いつの間にか庭の奥に立っていた。


足音はなかった。

光が増したわけでもなく、ただそこに神がいると分かった瞬間、止まっていた庭のすべてが、自分の位置を思い出したように見えた。


葉は葉として、木は木として。

アダムはアダムとして。

イヴはイヴとして。


蛇と呼ばれた白い生き物だけが、木の根元で静かに丸まっていた。


神は、まずアダムを見た。


「食べたのだね」


問いというより、確認だった。

アダムは喉を鳴らし、逃げ道を探すように唇が動いたが、そこから出てきた声はあまりにも細かった。


「僕は……」


言葉はすぐに途切れる。


神は急かすことも、責めることもせず待っている。

けれど、その沈黙はアダムをかばうものではなく、彼が次に何を選ぶのかをただ見ているだけだった。


 アダムは、ようやく声を出した。


 「……イヴが、彼女が、僕に渡したんです」


イヴの指が、胸の前で強く握られる。

乾きかけた果汁の跡が、白い指の間に沈んでいた。


神はイヴを見ることなく、アダムだけを見ていた。


「渡されたものを食べたのは、君だ」


アダムの顔から、さらに色が引いた。

ミカエルの眉が動き、ガブリエルは息を止めた。


神の声は変わらない。

そこには怒りも、失望も、責める熱もない。

ただ、切り分けられた事実があるだけだった。


「君は、食べた」


アダムは何か言おうと口を開いたが、今度は声が出なかった。


神は次に、イヴを見た。


「イヴ」


イヴは小さく震えた。


「……はい」


声は掠れて聞こえた。

神は言う。


「君は、取ったのだね」


イヴは、果汁が乾き始めてべとついた自分の手をじっと見る。

指の間に残った赤い跡を隠すことはしなかった。

隠すことを知らないのではなく、今ここで隠してはいけないと、どこかで分かっているようだった。


「……はい。 私が、取りました」


ガブリエルの喉が、わずかに動いた。

イヴは、神へ向き直るようにして続けた。


「知れば、分かると思ったのです」


神は静かに聞いている。


「私は、アダムが望むからここにいるのか、それとも、私がここにいたいと思っているのか。それを、知りたかったのです」


アダムは俯いた。


イヴの声は震えていたが、もう途切れることはなかった。

知る前には戻れないのだと、彼女の身体の方が先に知ってしまったようだった。


ミカエルはアダムを見る。

ガブリエルはイヴを見ている。

アダムは、自分の足元ばかりを見ていた。


神は、ほんの少しだけ首を傾けた。


「知ろうとしたのだね」


イヴは頷いた。


「はい。 知ろうとすることは、悪いことだったのでしょうか?」


その問いは、か細く吐息の様だった。

ガブリエルが苦悩の表情で目を上げる。

ミカエルも神を見る。


神はすぐには答えなかった。


いまだ木の葉は鳴らず、鳥の声も戻らない。

知恵の木の下で、イヴの問いだけが形を持たないまま残っている。


やがて神は言った。


「悪ではない」


イヴの目が揺れた。

神は続ける。


「だが、知った者はもう、この庭の中だけでは生きられない」


イヴは意味を探すように、神を見上げる。

神の声は変わらない。


「この庭は、知らないまま始まるための場所だ」


光が知恵の木の葉を透かしている。

その光の下で、神は告げた。


「知ろうとした者は、外へ出る」


アダムの顔が上がった。


「外……?」


その声には、初めてはっきりとした恐怖が混じっていた。


「この庭の、外ですか……?」


「そうだ」


「でも……っ」


アダムは一歩、神へ近づきかけた。

ミカエルがわずかに身じろぎする。


「ここが、僕たちの場所ではないのですか? 僕は、ここにいるように作られたのでは!?」


神はアダムを見る。


「始まりは、いつか外へ続く」


「でも、僕は……!」


アダムは言葉を探した。


僕は悪くない。

僕は知らなかった。

僕は渡されただけだった。


そのどれも、神の前では声にならない。

なぜなら、神はアダムを責めていない。

だからこそ、アダムの中にある言い訳は、形を取る前にもろく崩れていく。


神は言った。


「これは罰ではない」


アダムの目が揺れる。


「罰では、ないのですか……?」


「そうだ」


神は頷いた。


「君たちは、もうこの庭の中だけで生きる者ではなくなった」


イヴが震える自分の手を見た。

アダムは首を振る。


「僕は…僕は出たくありません!!」


その声は幼かった。


「外がどんな場所か、知りません! ここには水も食べ物もある! 夜も怖くない。僕たちはここで始まるのではなかったのですかっ……」


神は沈黙した。

その沈黙は、アダムの恐怖を優しく包むようなものではなかった。

ただ、恐怖がそこにあることを見ているだけだった。


「始まりは、終わらないために外へ出る」


アダムは何か言いかけた口を開けたまま、理解できないという顔をした。

イヴは何も言わなかった。

ただずっと、自分の手を見つめている。


その小さな手が、果実を取り、アダムへ渡した。

その手が今、自分のしたことを逃がさずに握っている。


神は木の根元へ視線を移し、白い生き物を見た。

アダムが、蛇と呼んだもの。

細く白い身体は、葉の影の中で静かに丸まっている。

何も語らず、何も訴えず、ただそこにいた。


神はアダムへ言った。


「君は、それを蛇と呼んだね」


アダムは肩を震わせる。


「あれが……」


「君は、そう呼んだ」


神の声は同じだった。

アダムの言葉の続きは、そこで行き場をなくしていく。

白い生き物は動かない。

イヴはその姿を見て、初めて顔を歪めた。


神は言う。


「これから、そう呼ばれ続けるだろう」


 

木の陰に身を隠していたリリスの胸がきしんだ音を立てた。


名のないまま、ただ木の近くにいた生き物。

何も渡していない、何も囁いていない。

誰の手も取っていない。


それでも、名は落ちた。


蛇。


呼ぶためではなく、罪を背負わせるために。


リリスは白い羽を抱く腕に力を込めて俯いた。


 

ルシファーはリリスの手を包んだまま、木の根元にいる白い生き物を見ていた。

紫紺の瞳の奥で、紅い輪郭がかすかに沈み、リリスの手を包む指に少しだけ力を籠らせた。


その横顔に、さっきまでのやわらかな笑みはない。

怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えなかった。

ただ、落ちた名がその小さな身体にかぶさっていくのを、目をそらさずに見ていた。

 


神は、アダムとイヴを見る。


「君たちは外へ出る」


アダムが息を呑む。


「今すぐに……ですか?」


「この庭に留まり続けることはない」


「父上……」


ミカエルが低く言った。


神はミカエルを見ない。

まだアダムとイヴを見ている。


「この庭は永遠の住まいではない。始まりの場所だ」


アダムは肩を震わせ、イヴは目を伏せた。


「……私が、知ろうとしたから」


その声は小さかった。

神は言った。


「君が知ろうとしたからだ」


イヴは唇を噛んだが、涙は落ちなかった。


ガブリエルは、彼女へ一歩近づきかけて、止まる。

触れていいのか分からなかった。

触れれば何かを慰められる気がして、けれど触れても、イヴが知ってしまったものは消えない。


 

リリスは、その一歩を見ていた。

ガブリエルが止まったことも。

イヴが手を握ったまま、誰にも触れられないことも。


胸の奥に痛みが広がっていく。

 

自分は出た。

あの子は、出される。

同じ外でも、まったく違う。


リリスは肩を寄せるように、羽を抱く腕に力を込めた。

ルシファーが、握っていた手にも少しだけ力を込める。


「……行こう、リリス」


リリスはすぐには答えなかった。


イヴの手には、まだ果汁の跡が残っている。

アダムは震えたまま神の言葉を受け止めきれず、ミカエルの背は強張っていた。

ガブリエルの指は、伸ばされかけたところで止まっている。


そのすべてが、朝の光の中でひどく近く見えた。

手を伸ばせば届きそうで、けれど、もう自分が戻る場所ではないのだと分かる。


リリスはゆっくりと目を伏せた。


「……ええ」


二人は、手を離さないまま木陰を離れた。


ルシファーは、リリスの手を引いてはいない。

リリスも、彼の手に引かれているわけではない。


同じ歩幅で、葉の影の中を歩く。


木々の影を抜ける前に、ルシファーは、知恵の木の下に立つ神の姿を振り返る。


ただ、神だけが木陰の奥へ目を向け、ルシファーとの視線がほんの短い間だけ重なる。


神は何も言わない。

ルシファーも何も言わない。


リリスの手が、手の中で動くのを感じると、ルシファーはすぐに前を向いた。


二人の足音が草の上に吸われて離れていくのを、神は瞬きもせずに見ていた。


やがて、その視線を戻す。


「ミカエル」


呼ばれたミカエルは、深く頭を下げた。


「……はい、父上」


「アダムに、庭の外を見せなさい」


アダムが顔を上げる。


「外を……?」


ミカエルは、一度だけ目を伏せた。

その横で、ガブリエルが唇を噛む。


庭の外。


その言葉を聞いても、アダムにはまだ、そこに何があるのか想像できなかった。

イヴも同じだっただろう。


だが、もう知らないままではいられない。


ミカエルは静かに頷いた。


「御心のままに」


知恵の木の葉が、ようやく小さく揺れる。


けれど鳥の声は、まだ戻らなかった。


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