第64話「蛇の名」
庭の音が消えていた。
風が枝を揺らす気配はある。
けれど、葉は鳴らない。
さっきまで遠くで交わされていた鳥の声も、ぴたりと途切れている。
泉の水音だけが、やけに近く、耳の奥へ落ちてくる。
リリスは足を止めた。
胸に抱いた白い羽が、腕の中でかすかに沈む。
腰に結んだ紫の布が、風もないのに少しだけ揺れた気がした。
「……これって」
隣で、ルシファーも顔を上げていた。
「……うん。何かが変わった」
エデンは明るい。
木々は変わらずそこにあり、花は朝の光を受けている。
水も、草も、果実も、何ひとつ壊れてはいない。
昨日までと同じように、美しく整っている。
それなのに、庭全体が息を止めているようだった。
リリスは、奥へ続く木々の間を見る。
「庭で何かあったのかしら」
ルシファーは彼女を見る。
「気になる?」
「……ええ」
リリスは、すぐには言葉を継げなかった。
アダムの隣にも、神の言葉の中にも、あの始まりの女という席には、もう戻らない。
その答えは変わっていない。
けれど。
「……何も見ないまま出ていくのは、違う気がするの」
ルシファーは、何も問い返さなかった。
ただ、空いていた手を差し出す。
「分かった。隣にいるよ」
リリスは、その手を取った。
指が重なる。
昨日より自然に、けれど昨日より確かに。
二人は、エデンの庭へ歩き出した。
奥へ進むほど、明るさは変わらないのに、音だけが薄くなっていく。
花はいつもの様に咲き乱れている。
果実も枝に重く実って、流れる水の匂いも、木々の葉擦れも、いつも通りそこにあるはずだった。
けれど、鳥の声や風の音が戻らない。
リリスは、ルシファーの手を握ったまま足を止めた。
「……ここって」
ルシファーも同じ方を見ている。
エデンの中央に近い場所。
生命の木と、知恵の木がある一角だった。
そこは、リリスもあまり近づかなかった場所だ。
触れてはいけないものがあると聞かされていた。
神の庭の中でも、特に静かに保たれていた場所。
その静けさが、今は違っていた。
整えられた静けさではなく、誰かが息を殺しているような、薄く張りつめた沈黙だった。
ルシファーは声を落とす。
「誰かいる」
二人は、すぐさま木々の影に身を隠した。
ルシファーはリリスの手を握ったまま、隣にいる。
葉の重なりの向こうに、知恵の木が見えた。
強く太い幹から伸びる枝。
そこから広がる深い葉の影。
その下に、アダムとイヴがいた。
アダムは、木の根元を見ようとしない。
イヴは、自分の手を胸の前で握りしめている。
その指の間には、赤みを帯びた果汁が残っていた。
葉の隙間から射す光が、彼女の手に落ちる。
その光を避けるように、イヴは指をさらに強く握った。
リリスは、木陰で息を止めた。
かじられた実が、木の根元に転がっていた。
果肉はまだ瑞々しく、胸をもたつかせるような甘い匂いが、朝の空気に混ざっていた。
アダムの唇にも、同じ果汁の跡がある。
彼は何度も息を吸っていた。
うまく胸に入らないものを、無理に押し込もうとしているようだった。
イヴは、アダムを見ていない。
アダムも、イヴを見ていない。
二人の間に、さっきまでなかったものがある。
それは転がった果実ではなく、禁じられたものに触れたという事実そのものだった。
リリスは、ルシファーの手を握る指に少し力を入れた。
ルシファーは何も言わない。
ただ、彼女の隣にいた。
その時、木々の向こうから羽音が近づいた。
「アダム!」
最初に姿を現したのは、ミカエルだった。
深い青を差した白い式服が、木漏れ日の中で硬く光る。
その後ろに、ガブリエルが続いている。
二人は、知恵の木の下にあるものを見た。
かじられた実、アダムの唇に残る果汁。
イヴの指の間に滲む、赤みを帯びた汁。
その瞬間、ミカエルの表情から余分なものが消えていった。
「……何をした」
低い声。
怒鳴ってはいない。
けれど、その声を聞いたアダムの肩が大きく震えた。
ガブリエルはイヴに視線を移す。
彼女の指先が濡れているのを見て、息を吸う音を殺すように唇を結ぶ。
「まさか……」
ガブリエルの声は、ほとんど掠れていた。
「禁じられた実に、触れたのか」
イヴの顔から血の気が引いた。
アダムは口を開こうとしたが、声にならない。
喉だけがひくりと動き、視線が木の根元へ逃げる。
ミカエルが一歩進む。
「答えろ、アダム」
その一歩で、葉影が揺れた。
「食べたのか」
アダムは、今度も答えられなかった。
代わりに、イヴが小さく息を吸った。
「……私がっ」
ガブリエルの視線がイヴへ移る。
イヴは、自分の手を見ていた。
果汁の残る指を握りしめても、赤い跡は消えない。
「私が、取りました」
アダムが息を止める。
ミカエルの目が、わずかに細くなった。
「なぜだ……」
短い問いの中に、庭全体が押し黙るほどの重さがあった。
イヴはすぐには答えられなかった。
彼女は震える指を握った。
けれど、逃げはしなかった。
「私は……知れば、分かると思ったのです」
「何を」
ミカエルの声は硬い。
イヴは、まだ顔を上げられない。
「私がここにいるのは、アダムが喜ぶからなのか……」
アダムの顔が上がった。
「それとも、私がここにいたいからなのか」
ガブリエルの瞳が揺れる。
イヴは続けようとした。
けれど、言葉のひとつひとつが喉を傷つけるようだった。
「私は、アダムを愛しているからここにいるのか……知りたかったのです」
「イヴ……」
ガブリエルが名を呼ぶ。
責める声ではなかったが、止めることもできない声だった。
イヴは、ようやく少しだけ顔を上げた。
「アダムが、私にここにいてほしいのは、私がイヴだからなのか、それとも……」
その先は、うまく言葉にできなかった。
でも、澱のように広がりその場に届いた。
アダムは、まるで見てはいけないものを見たように顔を歪め、ミカエルは黙っていた。
ガブリエルも、何も言えなかった。
知恵の木の下で、イヴの問いだけが残っている。
それは、禁じられた実を食べた理由としては、あまりにも幼く、あまりにも危うかった。
けれど、偽りではなかった。
ミカエルは、ゆっくりとアダムへ視線を戻す。
「……アダム」
その呼びかけで、アダムの肩が跳ねた。
「お前も食べたのか」
アダムは、木の根元に落ちた実を見た。
その視線はすぐに逃げた。
「僕は……」
声がひきつって乾いていた。
「僕は、違うっ!」
ミカエルの眉が動く。
「違う?」
「違うんだ、僕は……僕は、そんなつもりじゃなかった!!」
「……食べたのかと聞いている」
ミカエルの声が、さらに低くなる。
アダムは肩と唇を震わせ、耐えきれないようにイヴを見た。
「渡されたんだ!」
視線を落としていたイヴの瞳が、アダムを捉える。
「イヴが……彼女が、僕に渡したんだ!!」
ガブリエルが息を呑む。
「アダム」
「本当だ!」
今度はアダムの声が跳ねた。
「彼女が先に食べたんだ! 何も起きなかった! だから僕は……僕はっ、渡されたものを食べただけだ!」
イヴの指が震えた。
実を渡したのは、確かに彼女だった。
けれど、その言葉は彼女の手から実だけを取り上げるのではなく、彼女ごと突き放すように聞こえた。
ミカエルは厳しい目でアダムを見る。
「渡されたなら、食べてよいのか?」
アダムは答えられない。
「禁じられていた。お前も知っていたはずだ」
「でも……ッ!」
アダムの声が崩れる。
「でも、イヴがっ……彼女が先に……!」
そこまで言って、彼はまた黙った。
言葉の先が、自分へ戻ってくるのを恐れるように。
視線が、逃げ場を探す。
木の根元に、深い葉の影に、かじられた実に。
そのすぐ近くに、あの白い生き物がいた。
細く、なめらかな身体。
枝の影に沿うように、静かに丸まっている。
それは何をするでもなく、ただ、木の傍にいた。
リリスは、その姿を見て息を呑んだ。
あの子だわ。
名のない白い生き物。
花のそばにいた、木の近くにいた。
いつも、ただそこにいた。
アダムの目が、その白い姿を捉える。
「あ、あれだ!!!」
その声に、イヴがびくりと震えた。
「あの白い生き物は、いつもこの木の近くにいた!!」
白い生き物はアダムの大きな声を聞いても動かない。
アダムは、何かを思いついたように言葉を早めた。
「イヴをそそのかしたのも、あれだ!」
「アダム……!」
ガブリエルが低く呼ぶも、アダムは止まらなかった。
「リリスも、あれを慕っていたんだ! あの生き物を見ていた! 一緒にいた! だから出ていったんだっ!!!」
リリスの手が、ルシファーの手の中で強ばる。
「全部、あれが悪い!!」
白い生き物は、ただそこにいる。
何も言わない、誰を呼びもしない。
実を差し出しもしない。
それでも、アダムはそれを指した。
「蛇だ」
庭の空気が、さらに薄く冷えていく
「あれは、そう、『蛇』だ!!」
その名は、白い生き物の上に落ちた。
呼ぶためでも、見つけるためでもなく。
自分の手からこぼれ落ちたものを、別の誰かへ背負わせるための名だった。
その声に、名に、リリスは、声を出すことができなかった。
イヴは、見た事のないほど色を失い、喚くアダムを見ていた。
自分が渡した実の重さを、自分以外のどこかへ逃がされていくのを、ただ見ている。
アダムは息を切らしながら震えていた。
震えながら、自分の言葉に縋っている。
リリスの指が、ルシファーの大きな手の中でわずかに強ばった。
そしてぽつりと言った。
「……私が、聞いたから?」
ルシファーは隣で、瞳を揺らすリリスを見る。
「私があの子に、あなた自身はそこにいたいと思ったのかと聞いたから? だから、あの子は……」
言葉はそこで途切れた。
知りたいと思った。
確かめようとした。
そして、あの実に手を伸ばした。
リリスは、胸に抱いた羽を少し強く押さえた。
「……私が渡してしまったの?」
ルシファーはすぐには答えなかった。
慰めるための言葉なら、いくつか言えた。
けれど、どれも彼女の痛みに触れる前に滑っていく気がした。
リリスの手が、小さく震えだす。
ルシファーは指をほどくことなく、ゆっくりと握り返した。
「君は、あの子に聞いただけだ」
ルシファーは静かに言った。
「実を取ったのは、イヴだ」
リリスは息を止めた。
ルシファーのその言葉は、慰めでも憐みでもなく、ただそこにある事実を告げるものだった。
「君が庭を出て、今、俺の隣を選んでいるように、イヴも、知ろうとすることを選んだんだ」
リリスは瞳を伏せ、小さくうなずいた。
「……ルシファー」
「なんだい」
「もう、あそこに私はいない……でも、あそこに、あの席に座り続けていたら、あそこにいたのは私だったかもしれない」
「君は、あそこにいない」
ルシファーは、握った手を少しだけ上げた。
「今は、俺の隣だ」
リリスは滲んだ視界のまま、握られた手を見た。
自分の手を包む、大きくて温かな手。
ここだよ、と言われた気がした。
あの木の下ではなく、アダムの隣でもなく、神の言葉の中でもなく。
今、自分はこの手の隣にいる。
そう思うと少しだけ、息が戻っていく。
「……ええ」
楽園は、まだ美しかった。
けれどその美しさの中で、『名』ははじめて誰かを呼ぶためではなく、誰かに背負わせるために使われ、
同じ実を食べた二人のあいだで、痛みは分け合われず、片方の手からもう片方の『名』へ移された。
その時だった。
「アダム」
庭の奥から、声がした。
怒りでもなく、罰の声でもない。
ただ、名を呼ぶ声。
アダムは震え、イヴは俯き果汁の残る手を握りしめる。
ミカエルはそれに一瞬目を伏せたが、次の瞬間には姿勢を正し、声のする方を見た。
ガブリエルもまた、声のする方を向き、唇をひき結んだ。
リリスの手が強張るのを感じても、ルシファーは手を離さなかった。
ただ、庭の奥から目を逸らすことなく、声に眉を寄せた。




