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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第63話「楽園じゃなくても」

朝の光は、少しずつ強くなっていた。


夜のあいだ青紫に光っていた草花は、陽を受けるほどに色を淡くしていく。

葉先に残った露が風に揺れ、細い光を弾いた。

夜の名残は、消えていくのではなく、朝の中へ静かにほどけていくようだった。


リリスは、短くなった左側の髪に指を通した。


まだ慣れない。

頬に直接風が当たる。

これまでは髪の奥に隠れていた皮膚まで、朝の空気に触れている。

そこだけ少し頼りなくて、心許ない。

けれど、嫌ではなかった。

隠れていた場所が外へ出ただけで、自分が削られたわけではないのだと、指先で少しずつ確かめる。


隣では、ルシファーが黒くなった髪を風に揺らしていた。

朝の光を受けても、その髪は銀には戻らない。

首筋にかかるほどの短さになった黒髪は、昨日までの大天使の面影を少しだけ遠ざけている。

それでも、その横顔のやわらかさは変わらなかった。


リリスは、その横顔に問いを投げる。


「ルシファーは、これからどこへ行くの?」


ルシファーの目が、わずかに動いた。

リリスは続けない。答えを急かすつもりはなかった。

けれど、このまま朝の中に座っているだけでは、昨夜に言った「隣」が、ただ綺麗な言葉のままになってしまう。


隣にいたい。


なら、彼がどこへ行こうとしているのかを知らなければならない。

その先が暖かい場所なのか、冷たい場所なのか、自分の足で立てる場所なのかも、聞かずに済ませるわけにはいかなかった。


ルシファーは少し考えてから答えた。


「前に行った場所へ戻るつもりだよ」


「前に行った場所?」


「天界の外に、古い場所があった。黄昏の底みたいな場所だよ」


天界でも、エデンでもない場所。


神の庭の外にある、まだ名前のない場所。

リリスはその響きを胸の中で転がした。

黄昏の底。

明るくも暗くもない、朝でも夜でもない場所。

彼が天界を出たあと、一度そこへ行ったのだと思うと、その場所は急に遠いものではなくなった。


「……君に勧めるような場所じゃない」


ルシファーは、穏やかに言った。


その言い方に、リリスは目を細める。

責めるような言葉ではない。

けれど、こちらの足元を案じて、彼が一歩引こうとしていることは分かった。


「それは、私に来てほしくないということ?」


「そうじゃない」


ルシファーはすぐに否定した。

けれど、その先の言葉は少し慎重だった。


「エデンのように整ってはいない。食べるものも、眠る場所も、誰かが最初から用意してくれるわけじゃない。答えを渡してくれる場所でもない」


彼は、海の方を見る。


「暗くて、静かで、不便だと思う。 でも、住む者はいる」


「そうなの? どんなもの?」


ルシファーは、少しだけ困ったように笑った。


「形は曖昧で何と言っていいのかわからない。 うるさいと言われたよ」


「うるさい? あなたが?」


リリスは本当に意外そうに目を丸くした。


昨夜の彼は、海の音の中でも静かだった。

怒鳴らず、押しつけず、リリスの言葉を待った。

だから、うるさいという言葉が彼に向けられたことが、どうにも結びつかない。


ルシファーは小さく頷く。


「声を荒げたわけじゃないんだけどね」


彼は自分の胸元に触れた。

そこにあった徽章は、もうない。

けれど、指先の動きだけが、かつてそこにあったものを覚えているようだった。


「天界で覚えた正しさや、何かを知ろうとする癖や、分かったものを誰かに渡せる形に整えようとする癖が、まだずいぶん残っていたんだと思う」


「それが、うるさいの?」


「向こうでは、そう聞こえるらしい」


リリスは、黒くなった髪を見る。


銀ではなくなった髪。

短くなった髪。

白い羽をしまった背。

彼は昨日よりずっと軽く見える。

けれど、その軽さは何も持たなくなった者の軽さではない。

まだ胸の奥に残っているものを、彼自身がひとつずつ聞き分けようとしているのだと分かった。


「今のあなたは、前より静かに見えるわ」


「そうだといいね」


「でも、少し困った顔は増えたかもしれない」


「それは、君のおかげかな」


「私のおかげ?」


「うん」


ルシファーは悪びれずに言った。


「君といると、考えることが増える」


リリスは一瞬だけ言葉に詰まった。


それから、肩に掛けていた白い上着の合わせ目を握り直す。

彼は本当に、こういう言い方をする。

飾らず、遠回しに逃げず、ただ真ん中に言葉を置いてくる。


「……悪いことみたいに言うのね」


「ごめんごめん、そうじゃないんだ。 ただ君が俺にいろんなものを見せてくれるからだよ」


その声があまりにも自然だったので、リリスはまた胸の奥を押されたような気分になった。

嬉しいのに、少し困る。逃げたいわけではないのに、どこへ目をやればいいのか分からなくなる。


リリスは小さく息を吸う。


「それなら、私は行くわ」


ルシファーがこちらを見る。


「リリス」


「あなたが行くのでしょう?」


「楽園じゃない」


「あら」


リリスは、少しだけ得意げに笑った。


「私はあなたが来る前から、知らない場所で一人で過ごして、寝る場所まで作れたのよ?」


ルシファーは言葉を止めた。


リリスは続ける。


「そこが楽園じゃなくてもいいの。私たちで、暮らせる場所にしていけばいいじゃない」


波が、遠くで砕けた。


ルシファーは、しばらく黙っていた。

その沈黙の中に、迷いはなかった。

ただ、リリスの言葉が胸の奥へ届くまで、少しだけ時間がかかったようだった。


やがて彼は息を吐く。


「君には敵わないな」


「そう?」


リリスはすました顔で言った。

その表情に、ルシファーから笑みがこぼれた。


「俺について来る、ではなく?」


リリスは、彼を見返す。


「あなたの隣を選んだの。後ろを歩くとは言っていないわ」


ルシファーの目が、少しだけ細くなる。


彼女は誰かの後ろへ下がらない。

けれど、誰かを押し退けもしない。

自分の足で、隣へ来ようとする。

リリスが選ぶ隣は、誰かに許された場所ではなく、彼女自身が立つと決めた場所なのだ。


「君のそういうところ、俺は好きだよ」


さらりと落ちた言葉だった。


リリスは、瞬きを忘れた。


「え?……うん」


頬が熱くなり、合わせ目を握る手に力がこもる。

自分でも分かるほど、耳の先まで赤くなっていく。


ルシファーはそれを見て何も言わず、ただ、にこにことしていた。

その笑顔の沈黙が、かえっていたたまれない。

何かを言われるよりずっと落ち着かない。


「そ、そんなにニコニコして、何を考えているの?」


「ん?」


「今、何か考えているでしょう?」


「やっぱり君の隣にいたいな、って考えてたよ」


「もうっ!」


リリスは白い上着の袖で頬を隠した。


ルシファーはまだ笑っている。

悪意はないし、からかっているつもりもないのだろう。


ただ、昨夜に互いの隣を選んでから、彼の中の遠慮が少しだけ形を変えている。

踏み込まない慎重さはそのままに、言葉だけがまっすぐ届いてくる。

リリスは、そのたびに胸の奥を揺らされる。


これは、この気持ちは、どうしたらいいのかしら。


ふわふわとした気持ちに肩が縮まり、上着がズレ落ちそうになるのを必死に抑えるしかなかった。


顔に集まった熱が落ち着いた頃、リリスは自分の髪を見下ろしていた。


海の水は、まだ髪と服に残っている。

乾きかけた塩が肌にざらついて、動くたびにかすかに引きつった。

朝の風は心地よかったが、海に沈められたあとの重さまでは連れていってくれない。


「できれば、体を洗いたいわ」


「うん。そうした方がいい。 以前行った泉へ行こう」


ルシファーはすぐに頷いた。


エデンの奥、外縁に近い場所にあるその泉は、朝の光を受けて透明に光っていた。


水面には葉影が揺れ、近くの木々からは甘い果実の匂いが落ちてくる。

リリスは泉の縁に立ち、肩にかかっていた白い上着を外した。

水辺の明るさの中で、布の白さがふわりと浮いたように見える。


ルシファーは当然のように背を向けていた。


その背を見て、リリスは少し笑った。

彼は何も言わない。

見ないことを誇るでもなく、気遣いを押しつけるでもなく、ただそうするのが当たり前のように、少し離れた場所で待っている。


水に手を入れると、冷たすぎない温度だった。

指の間を抜ける水が、海の重さを少しずつ遠ざけていく。


泉の水で髪を濡らしていく。

指を通すたび、海の塩が水の中へ溶けていった。

昨日の沈めるための水とは違う。

ただ、肌に残った冷たさを流すための水だった。

同じ水なのに、触れ方ひとつでこんなにも違うのだと、リリスは少し不思議に思った。


ルシファーは、少し離れた木のそばで待っている。

風が吹くと、彼の黒髪が揺れた。


リリスは水をすくいながら、その背を見た。


今まで見ていた、銀の髪も、羽もない。

背後から見ると別人の様にも見えるのに、彼の纏うやわらかな雰囲気で紛れもなくルシファーだとわかるのが不思議だった。


泉を出る頃には、肌のざらつきはきれいさっぱり消えていた。


濡れた衣は水に通したあと、絞って陽に当てたが、やはりそう簡単には乾かない。

布の冷たさが肌に戻ってくるたび、リリスは少し肩をすくめた。それに、ルシファーはすぐに気づいた。


「寒い?」


「少しだけ」


ルシファーは、木の枝に掛けていた白い上着を取り、彼女の肩に手渡した。


「ひとまず、これを」


リリスは素直に受け取って袖を通した。

上着もまた少し湿っていたが、何もないよりずっといい。

肩に羽織ると、ルシファーの匂いがほんの少し残っていた。

それに気づいて、リリスは何も言わずに襟元を寄せた。


「寝床に戻ろう。あそこには外套がある」


「ええ。私も戻りたいの」


リリスは、胸元に手を添えた。


「あなたの羽があるから」


ルシファーは一瞬だけ目を伏せた。


「持っていくの?」


「持っていくわ」


答えは決まっていた。


「あなたがいらないと言ったものでも、私には大切なものなの」


ルシファーは静かに笑う。


「そうか。ありがとう」



 


二人は、昨日までリリスが寝床にしていた場所へ戻った。


草の陰に作った小さな場所。

花を摘んだ日も、雨を避けた夜も、ルシファーが来る前から彼女が自分で整えた場所だった。

エデンから離れたくて、けれど完全には離れられなかった日々の、その小さな居場所。


そこには、白い羽が残っていた。


リリスは膝をつき、両手でそっと拾い上げる。


羽は軽い。指先に乗せれば、風にさらわれてしまいそうなほど軽かった。

けれど、リリスの中では軽くなかった。


あの日、これを抱いて眠った。


知らない誰かのものだったはずなのに、どうしてか安心した。

今はもう、誰のものか知っている。

だから余計に、置いていくことなどできなかった。


「よかった、ちゃんと残っていてくれて」


「うん」


ルシファーはそれ以上言わなかった。


寝床の端には、白い外套とケープが残っている。

昨日までの彼を形作っていたものたちだった。

紫のタイも、シャツの襟元から外されて、彼の手の中にある。


リリスはそれを見た。


「それは、どうするの?」


ルシファーは外套を手に取る。


白い外套は、朝の光の中でまだ美しかった。

天界の白を思わせる布は、草の上にあっても品を失っていない。

けれど、その美しさはもう彼の肌には馴染んでいないように見えた。

きれいであることと、今の彼に必要であることは、同じではないのだ。


「この形のままは、持っていかない」


「……捨ててしまうの?」


「捨てないよ」


ルシファーは、両手で外套を広げると軽く振った。ばさばさと音を立てて埃を払う。


「布としては使えるからね」


リリスは目を瞬かせた。


「君の服が濡れている。あの場所へ行くなら、そのままでは寒いだろう」


そう言って、彼はリリスの前に外套を広げ、長さを確かめ始めた。

白い式服の一部だったものを、何か別の形へ変えようとしている。

その手つきは迷いなく、けれど乱暴ではなかった。


「なにをするの?」


「服にする。 上着を脱いで後ろを向いてくれる?」


「わかったわ」


リリスは慣れたように先ほど羽織った式服の上着を脱ぐと、近くの木の枝にふわりとかけて戻ってきた。


「それから、後ろを向いて」


「後ろを向くの? なぜ?」


その問いに、ルシファーが少しだけ言い淀み、視線がリリスからずれていった。

軽く息を吸ったあと、伏し目がちに低く言った。


「服を、脱いでほしい」


「……え?」


「絶対に見たりしない。君がこの布を体に巻いてくれたら、俺が後ろから必要なところを結ぶ」


「……そう」


「うん……駄目かな?」


「駄目じゃないわ。 お願い」


「うん」


それから、ルシファーが布の巻き方を教えると、リリスは濡れていた衣を脱ぎその通りに体に巻き始めた。

その間、泉と同じくルシファーは背を向けていた。

 

「巻けたわ。これでいい?」


振り向くと、リリスはルシファーが後ろから確認しやすいように、長い髪を両肩から前に流していた。

白い外套の布に覆われた華奢な首筋には視線を止めず、ルシファーは折り返された布を肩から流せるように形を変えていった。

布の重なりを確かめ、落ちない位置を探し調整していく。

その手は慎重だったが、ためらいすぎて布を崩すことはなかった。


リリスは、形を変えていく布に思わず見入っていた。


「一枚の布がこんなふうになるの?」


「布を結ぶだけだよ。難しいことはしていない。 この紫のところ抑えてて」


「ルシファーって、本当に何でもできるのね」


「できないこともあるよ」


リリスは、紫の布を押さえたままほんの少し振り返った。


「たとえば?」


ルシファーは少し考えた。


そして、ごく当たり前のことを言うように答える。


「君を置いていくこと」


リリスの指が止まった。


抑えた手に力が入り、紫の布が手の中で少しだけたわむ。何か言おうとして、言葉が喉の手前で迷った。


「……そう」


それだけ言って、リリスは顔をそらす。


耳まで赤い。


ルシファーはそれを見て、少しだけ笑った。

口に出したら、きっと困らせる。

だから言わなかった。

ただ、そういう顔もするのだと思い、それがひどく愛しかった。


「ここを押さえていて」


「こう?」


「うん。そこを少し折る。そう、そのまま」


ルシファーは、紫のタイを手に取った。


昨日まで彼の首元を整えていた布が、今はリリスの腰で結ばれていく。

ここにある外套はもう大天使の正装ではなくなっていた。

白い布は肩から胸元へ流れ、腰で紫に留められ、濡れた衣の代わりに彼女の身体を包んだ。


縫われてはいない。

飾りもない。

それでも、ちゃんと服になった。


リリスは両腕を少し広げ、自分の姿を見下ろした。


「不思議」


「落ちない?」


「大丈夫そう」


彼女は紫の帯に指を添える。


「これ、あなたのものだったのに」


「今は君に必要なものだ」


ルシファーは簡単に言った。


リリスは、また少し胸の奥が熱くなるのを感じた。


彼は、自分の過去を大げさに捨てようとはしない。

けれど、もう身に着け直す事もしない。

形を変えられるものは、暮らしのために変えていく。

神のそばにいた者の布が、今はエデンの外へ出るリリスの身体を守っている。


リリスは白い羽を胸に抱き、布越しにそっと押さえた。


「羽は、形を変えない」


「うん」


「これは、このままがいい」


「そうだね」


ルシファーの声はやわらかかった。


リリスは自分の姿を見渡す。

胸に羽を抱き、腰には紫の布を結び、肩には白い外套を形を変えた衣をまとっている。

昨日までの自分とは違う。

けれど、まったく別の誰かになったわけでもない。


怖かった自分を、全部連れていかなくてもいい。

でも、ここで過ごした自分をなかったことにはしなくていい。


そう思った。


ルシファーは、白い式服の上着も着直さなかった。

暗いグレーのシャツと、砂と草の跡が残る白いスラックス。

首元には、もう紫のタイもない。

黒髪になった彼は、昨日よりずっと簡素だった。


けれど、リリスにはその方が彼らしく見えた。


「行きましょう」


リリスが言う。


「うん」


二人が歩き出そうとした、その時だった。


遠くで、鳥が高く鳴いた。

いくつもの羽音が聞こえて、飛び立っていく。

風が枝葉を揺らし、森がざわめきはじめた時。


何かが落ちる音がした。


リリスは思わず足を止め、庭の方を見た。

ルシファーも、同じ方を見ている。


音もなく風が止まった。


さっきまで聞こえていた鳥の声が、エデンの奥から消えている。


リリスは、胸に抱いた羽を少しだけ強く握った。


空も、花も、木々も、何ひとつ壊れていないように見える。

けれど、その明るさの奥で、何かが静かに変わった。

変わったものの名はまだ分からない。

けれど、庭そのものが息を潜めたような沈黙だけが、はっきりとそこにあった。


リリスが眉を寄せてルシファーを見ると、ルシファーは低く息を吸う。


「……リリス」


その声で、リリスはもう一度エデンの奥を見た。


楽園は、まだそこにある。


けれど、もう先ほどまでと同じ庭ではなかった。

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