第62話「欠けた読者」
天界はいつも通りだった。
磨かれた床には白い光が流れ、柱の影は少しの歪みもなく伸びている。
遠くから聞こえる羽音も、衣擦れの音も、いつもと同じように澄んでいた。
何かが崩れたわけではない。誰かが声を荒らげたわけでもない。
それでも、その白さの中で、いくつもの小さな足音が止まっていた。
執務棟の一角で、若い天使たちが一枚の書面を囲んでいる。
書面は机の上に伏せられ、文字の面は見えない。
けれど、そこに神の言葉があることは、誰もが知っていた。
「これは、命令として受ければよいのでしょうか?」
隣にいた天使は答えられなかった。
記された言葉に誤りなどあるはずもなく、曖昧であるはずもない。
むしろ、余分なものが何ひとつないほど正確だった。
正確で、滑らかで、どこにも綻びがない。
だからこそ、手を伸ばした者たちは、その先で止まってしまう。
「これは、許可ではないのか?」
「だが、許可ならいつもと実行の順が違うのでは?」
「ならば、どれが正しい順なのだ?」
「記載がないのに、なぜこちらへまわってきた?」
声は、明るい執務室の片隅で小さく絡まった。
天使たちは誰も怠けてなどいない。
判断を投げ出しているわけでもない。
ただ、どの棚へ置けばいいのか、どの手順で流せばいいのか、その一手が決まらなかった。
以前なら、そこへ誰かが来た。
伏せられた書面を一瞥し、少し目を細めて、穏やかな声で言った。
『これは今、あちらで受ければいい』
『この部分はまだ動かさなくていい』
『父上の言葉は、この場ではそういう扱いではないよ』
そうして、詰まりは詰まりになる前にほどけていった。
誰かが大きく感謝するほどのことでもなく、誰かが特別な役目として数えるほどのことでもなく、天界の白い流れの中で、ただ当然のように処理されていた。
けれど今、その声はない。
ひとりの天使が、言いかけた。
「ルシフェル様なら……」
その先は続かなかった。
言った天使も、聞いた天使も、同じように口を閉ざす。
白い部屋の中で、伏せられた書面だけが動かないまま残った。
天界は、今日も整っている。
けれど、整っているだけだった。
セノイ、サンセノイ、マンゲロフが神の前へ戻った時、神は一枚の紙を伏せたところだった。
だが、紙から離れた神のまなざしは、それでもなお、何かを見ているようだった。
三天使は並んで膝をつく。
「戻ったね」
神は穏やかに言った。
その声には、責める響きも、労う響きもない。帰還した者を確認する、ただそれだけの音だった。
セノイが頭を下げる。
「ご報告いたします。エデン外縁における境界固定は、完了しませんでした」
神は瞬きをしなかった。
「そうか」
短い返答だった。その短さが、かえって三天使の背を冷やしていく。
神は怒らない。失望もしない。
なぜできなかった、と問い詰めもしない。
ただ、次の言葉を待っている。
その静けさに、セノイは自分の呼吸が少し浅くなるのを感じた。
「処置は、たしかに海へ通っておりました。ですが、とある者に途中で切り離されました」
「誰かな?」
その問いにも感情はなかった。
セノイは、ほんのわずかに言葉に迷った。
「……ルシフェル様、だったと思います」
神の目が、三天使を見る。
「思う?」
サンセノイが顔を伏せたまま口を開いた。
「それが……記録にあるルシフェル様として扱おうとすると、何かが合わず……」
言いながら、彼自身もその曖昧さを持て余していた。
見ていたし、声も聞いた。
白い式服も、銀の髪も、六枚の羽も、彼らが知るルシフェルに近かった。
けれど、記録の中にある名をそのまま重ねようとすると、どうしても一致しない。
神は静かに聞いている。
「それでも、君たちは彼をルシフェルだと判断した」
「はい」
セノイは、今度は迷わず答えた。
「あれは、ルシフェル様でした」
神は伏せた紙の端に指を添えた。
「そうか」
それだけだった。三天使の誰も、顔を上げられない。
神は怒らない。
怒らないまま、彼らの言葉をそのまま受け取っている。
罰が下らないことは、楽になることではなかった。
怒りや失望なら、まだ受け止める形がある。
けれど神の静けさは、彼らの報告を感情の色へ変えず、そのまま白い記録の中へ記していく。
「リリスは」
神が問う。
「失われておりません」
「庭の内には」
「戻っておりません」
「アダムとイヴは」
「エデンにおります。ミカエル様とガブリエル様が庭に残り、見守っております」
神はわずかに頷いた。
「ならば、庭は続いている」
その言葉に、三天使の胸の奥がさらに冷えた。
続いている。
その通りだった。
庭は壊れたわけではない。
アダムもイヴもいる。
リリスは消えていない。海も海に戻った。
何も失われていないと、そう言うことも、記することもできる。
けれど、あの海の中でリリスが息を奪われかけていたことは、その記録の中には入らない。
サンセノイの指が、膝の上でわずかに強ばった。
神は続ける。
「ルシフェルは、何と言ったのかな?」
マンゲロフが答えた。
「……リリスも、俺も戻らない、と」
神はしばらく黙った。
その沈黙は短かった。けれど三天使には、白い床の光が一度遠ざかるほど長く感じられた。
やがて神は言った。
「戻らないと言ったのなら、それも彼の言葉だ」
セノイは顔を上げかけて、やめた。
神は伏せた紙を一枚、横へ滑らせる。
「記録しておこう」
それは、怒りよりもずっと遠い言葉だった。
「庭はまだ終わっていない。君たちは戻りなさい。ミカエルとガブリエルに、引き続き庭を見させる」
「はい」
三天使は深く頭を下げる。
「リリスは失われていない。ルシフェルも失われていない」
神は静かに言った。
「ならば、まだ記述できる」
◇
智天使ベルゼブブは、天界の言葉や報告の流れを見る役目を持つ者の一人だった。
渡された言葉がどこで滞り、どこへ通せばその場が動けるのかを見る。
そういう役目を担う智天使は、彼のほかにもいた。
それでも今日は、彼のもとへ書類が集まっていた。
誰に回せばよいのか分からないものが、いつもより多い。
そして、そういうものほど、以前ならルシフェルの前で一度止まっていた。
ベルゼブブは、ルシフェルに遠慮なく異を唱える数少ない天使だった。
役目として必要なら、彼は言った。
その解釈では現場が止まります。
その順では、下の天使が迷います。
周囲が息を呑んでも、ルシフェルは怒らなかった。
むしろ、少し楽しそうに笑った。
——君は面白いね、ベルゼブブ。
——参考になるよ。
ベルゼブブにとっては、ただの指摘だった。
だが、ルシフェルはそう受け取らなかったらしい。
今、そのルシフェルはいない。
ベルゼブブは、机の上に重なった報告書を見下ろしていた。
文言に破綻はなく順序も正しい、必要な項目は揃っている。
庭の現状、三天使の帰還。
境界固定の未完了に始まりの女の所在。
ルシフェルと思しき存在の介入。
どれも書かれている。
それなのに、読み終えても何も分からなかった。
ベルゼブブは、書面の端を指で軽く叩く。
「……薄いな」
隣にいた天使が顔を上げた。
「何がでしょうか?」
「報告がだ」
「必要項目は揃っていますよ?」
「……そうだな」
ベルゼブブは書類から目を離さなかった。
「揃っているだけだ」
天使は黙った。
ベルゼブブはもう一度、最初から目を通す。
始まりの女リリスは、アダムの隣へ戻らない。
神より境界固定の処置が下る。
三天使が外縁へ向かうが、処置は完了せず。
ルシフェル様と思しき存在が介入し、始まりの女は失われず、庭は継続。
きれいに並んでいる。
あまりに、きれいに。
「女は何と言った」
ベルゼブブが問う。
天使はすぐに別の記録を探した。
「記載がありませんね」
「ルシフェルは、なぜ止めた」
「……記載がありません」
「アダムは、この件について何を?」
「今の報告には含まれておりません」
ベルゼブブの指が止まる。
「では、何がある」
天使は返答に詰まり、自分の手元だけを見る。
ベルゼブブはため息を漏らす。
「庭が続いているという記録だけだ」
書面は白いく文字は正しい。
しかし、その白さの中に誰かの息がない。
以前なら、ここでルシフェルが一度目を通していた。
『父上の言葉はこうだ』
『けれど、この報告では足りない』
『この場では、こう伝えた方がいい』
そんな風に、柔らかく言っていた。
柔らかく言うくせに、外さなかった。
誰よりも正確に読み、誰よりも自然に整えて、天使たちが動ける形にしていた。
あれを才能だと思っていた。
優秀な大天使の性質だと思っていた。
本人が涼しい顔で紅茶を飲んでいたから、そういうものだと思っていた。
違った。
あれは、役目だった。
神の言葉を、天界が動ける形へ渡すために、あいつが担っていたものだった。
誰も、それを負荷として数えていなかっただけで。
「智天使ベルゼブブ様」
別の天使が駆け寄ってくる。
「こちらの確認をお願いしたいのですが……」
「肩書きはいらない。何件だ」
「同じ神の言葉について、三つの部署から異なる処理案が戻ってきています」
「内容は?」
「一つは命令として、一つは許可として、一つは観測記録として処理されています」
ベルゼブブは目を閉じた。
短い沈黙の後、書類の束を受け取る。
「全部持ってこい」
「はい」
天使が下がる。別の方向から、また声がした。
「ベルゼブブ様、こちらも」
「後にしろ」
「ですが、ルシフェル様がいらっしゃらないので……」
その天使は、途中で口を閉じた。
ベルゼブブはそちらを見なかった。
「いない者を呼ぶな。書類を出せ」
「……はい」
天界の執務室で、書類が増えていく。
声が増えていく。確認が増えていく。
どれも大きな混乱ではない。
天界が崩れているわけでもない。
誰かが叫んでいるわけでもない。
ただ、ゆっくりと、少しずつ詰まっている。
以前なら音もなく流れていたものが、見える形で止まり始めている。
ベルゼブブは、積まれた書類を見た。
……俺が止めていたつもりでも、結局、最後に読んでいたのはあいつだった。
顔色ひとつ変えず、周囲に特別な負担として見せもせず、神のそばで、いつもの調子で笑って。
優雅に紅茶まで飲んでいた。
それを声には出さずにベルゼブブは、書面の上に指を添えたまましばらく動かなかった。
◇
書類の紙束が減った頃、ベルゼブブが部屋を出たのは、次の確認先へ向かうためだった。
執務棟から中庭へ降りる階段は、途中で一度折れている。
大きな窓からは、整えられた庭の一部が見えた。
天界の庭はエデンとは違い花の配置も、泉の位置も、風の流れも、すべてが過不足なく調えられている。
その踊り場で、ベルゼブブは窓の外を見ていたマモンと鉢合わせた。
マモンの手には別の部署から回されたらしい報告書がある。
彼はベルゼブブの手元の束へ目をやり、それだけでだいたいを察したようだった。
「詰まってる」
「そうだな」
「でも、流れてはいる」
マモンは、自分の書類へ視線を落とした。
「だけど、巡ってはいない」
ベルゼブブは階段の途中で足を止める。
「何の話だ?」
マモンは報告の一文をなぞった。
「最初の女は外された。次の女が補われた。庭は続く」
淡々と読んでから、少しだけ黙る。
「外れたものは、どこへ行ったんだろうね?」
ベルゼブブは答えなかった。
マモンも答えを求めてはいなかった。
ただ、書面を閉じる。
「処理としては綺麗だよね。……綺麗すぎる」
その声に、褒める響きはなかった。
踊り場へ、もう一つ足音が近づいた。
モロクだった。
彼はベルゼブブとマモンを見てから、手にしていた記録の一部を示す。
「おい、境界固定の報告見たか?」
「今まさに見ていたところだ」
ベルゼブブがうんざりしたように答えると、モロクは記録の一部を指で押さえた。
「境界ってのは、分けるためにある」
彼の指先が、書面の「留める」という言葉の近くで止まる。
「ここから先は危ねぇ、と示す。ここまでは守る、と区切る。越えるか戻るかを、そこで見えるようにするための線だ」
ベルゼブブは黙って聞いていた。
モロクの声は低い。怒鳴ってはいない。けれど、言葉の奥に、硬いものが沈んでいる。
「だが、これは違う」
彼は書面から目を離さなかった。
「はじまりの女が戻らねぇから、外縁に留める。庭へ入れないためじゃねぇ。外へ行かせないためだ」
マモンが、わずかに視線を上げた。
モロクは続ける。
「それは境界じゃねぇ。檻だ」
踊り場の空気が、少し重くなる。
「分ける線なら、向こう側がある。戻る道も、進む道も見える。だが、これは違う。女がどこへ行くかを決める前に、線の方が身体を掴んでる」
ベルゼブブは、書面に目を落とした。
そこには、正しい言葉で処置の未完了が記されている。
けれど、モロクの言った通りだった。
境界と呼ばれているものが、この報告の中では、リリスの足を止めるためのものになっている。
モロクは、低く吐き捨てるように言った。
「守るための線ならいい。だが、進む奴を縫い止めるなら、それはもう境界じゃねぇよ」
その問いは、誰に向けたものでもなかった。
「三人で何を止まっているのです?」
下から声がした。
にこやかな表情をたたえたベリアルが階段を上ってくる。
彼もまた腕に数枚の書面を抱えていた。
ベルゼブブの手元の束と、マモンの報告書と、モロクの記録を順に見て少しだけ首を傾け笑った。
「同じ件ですか」
「似たようなものだ」
ベルゼブブが言う。
ベリアルは踊り場に足を止め、境界固定の報告に目を通した。
ページを追う視線は静かで、表情もほとんど変わらない。
けれど読み終えたあと、すぐには書面を返さなかった。
「筋は通っています」
「なら問題ないな」
ベルゼブブは皮肉で返した。
ベリアルは首を振る。
「いいえ」
彼はもう一度、報告の一文を見る。
「リリスはアダムの隣へ戻らない。庭の内へ戻せば影響が出る。ならば外縁に留める。庭は守られる。論理としては成立しています」
「それで?」
「不快です」
ベルゼブブは初めて、わずかに眉を動かした。
ベリアルは表情を変えない。
「反論できる箇所は少ない。だからこそ、大変不快です」
「……理由は?」
「うーん……それはまだ言葉にできませんねぇ」
ベリアルは書面を返した。
「ですが、正しいことと、納得できることは同じではないようです」
踊り場に、短い沈黙が降りる。
誰も、すぐには次の言葉を出さなかった。
やがてマモンが階段を下りていく。
「じゃ、僕はそろそろ戻るよ。このまま止めると余計に滞りそうだ。」
モロクも別の方向へ向かった。
「俺も、エデンに関する境界の記録を確認する。例の木のことも気になる」
ベリアルは踊り場に残ったベルゼブブを見る。
「ベルゼブブ、あなたは?」
「書類提出後に戻る。 戻らなければ増える」
「それはそうですね。私も戻るとしましょう」
そう言ってベリアルもまた、静かに去っていき、ベルゼブブがひとり、踊り場に残された。
白い。
どこまでも白い。
壁も、階段も、窓の外の庭も、天界そのものも。
その白さの中で、報告だけが積み上がっていく。
神の言葉は正しく、天使たちもまた正しくあろうとしている。
庭は続き、アダムとイヴがいる。
リリスは失われず、ルシフェルもどうやら失われてはいないらしい。
だが、もう戻ることはない。
ベルゼブブは、エデン外縁からの報告をもう一度手に取った。
ルシフェル様と思しき存在。
はっきりとは掴めず。
始まりの女と行動を共にする。
「……生きてはいるのか」
小さく呟いてから、ベルゼブブは自分の声に気づいた。
安堵していた。
腹立たしいことに。
生きているなら、それでいいと思った自分がいた。
だが同時に、問いが残る。
なぜ、そんな場所にいる。
なぜ、お前がいなくなった後の天界が、これほど詰まる。
ベルゼブブは書面を伏せた。
伏せても、文字は消えない。
読んだものは頭の中に残り続ける。
以前なら、ここでルシフェルがいた。
神の言葉を読み、紙を伏せ、笑っていた。
読み終わったような顔をしながら、それでも誰より深く読み続けていた。
知らなかったわけではない。
ルシフェルが神の言葉を読み、それを各持ち場へ渡せる形にしていたことを、ベルゼブブは誰よりも近くで見ていた。
うるさく口も挟んだ。
一人で拾うなと止めたこともある。
それでも、不在になって初めて分かる重さがある。
あいつが担っていたのは、ひとつの手順ではなかった。
天界が滞りなく動くための、最後の噛み合わせだった。
その読者が欠けた。
だから、天界はまだ美しいまま、少しずつ詰まり始めている。
「……何をしているんだ、ルシフェル」
その声は、誰もいない踊り場で低く沈んで消えた。




