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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第61話「白を脱ぐ朝」

朝の光は、羽の隙間から差し込んでいた。


夜のあいだ青紫に光っていた草花は、空の色が薄まるにつれて、ひとつずつ灯りをしまっていく。

葉の先に残った露だけが、淡い金を受けて小さく瞬いた。

まるで、夜が完全に去る前に、ここにいたことを少しだけ残していくようだった。


リリスは、その光で目を覚ました。


身体はまだ重く、海の冷たさが肌の奥にうっすらと残っている。

けれど、昨夜ほど震えてはいない。

肩には白い上着がかかっていて、膝のあたりまで布が余っていた。

自分のものではない温度がそこに残っている。

 

ルシファーの上着。

そう思い出した途端、昨夜の言葉まで一緒に戻ってきた。


——私は、あなたの隣にいたいわ。


——俺も、君の隣にいたい。


胸の奥に落ちたその声を確かめるように、リリスはゆっくりとあたりを見回した。


すぐ隣に、ルシファーがいた。


離れてはいない。

けれど、彼女に触れたまま眠っていたわけでもない。

手を伸ばせば届く距離で、片膝を軽く立てて座っている。

片翼はまだ、リリスの背を囲むように広がっていた。


その内側で、彼は自分の髪を切っていた。


最初、リリスは何を見ているのか分からなかった。

朝の光を受けているはずの髪が、銀ではない。

夜を含んだような黒が、彼の頬にかかっている。


「……ルシファー?」


呼ぶと、彼はすぐに手を止めた。


黒い硝子のような石片を指に挟んだまま、こちらを振り向く。

紫紺の瞳には、昨夜と同じ紅い輪が残っていた。

けれど、その上にかかる髪はもう天界の銀ではない。

短くなりかけた黒髪が、朝の風にかすかに揺れた。


「起こしたかな?」


声はいつも通りだった。

やわらかくて、少し困ったような声。

だから余計に、髪の色だけが不思議に見えた。


リリスは返事を忘れて、彼を見つめる。


「その髪……どうしたの?」


ルシファーは指先で自分の髪に触れた。まだ少し長い後ろ髪が、首筋にかかっている。


「起きたら、こうなっていた」


それから、ほんの少しだけ笑う。


「……変かな?」


リリスは首を振った。


「変じゃないわ」


あまりにすぐ答えたせいか、ルシファーが目を瞬かせた。

少し身構えていたものが抜けたような顔をする。

その表情に、リリスは眠気の残る声のまま続けた。


「黒い髪も似合うわ。前の色も綺麗だったけれど、今の色もあなたに見える」


ルシファーはしばらく彼女を見ていた。

やがて、黒くなった髪を指先で軽くつまむ。


「ありがとう。君がそう言ってくれるなら、悪くない」


そう言って、彼はまた手元の石片へ視線を落とした。


黒い石は薄く割れて、鋭い縁を持っている。

刃物というより、朝の光を吸い込んだ欠片のようだった。

ルシファーはそれで、後ろ髪を少しずつ切っている。

切られた髪は、草の上に静かに散っていた。


リリスは身を起こそうとして、わずかに息を詰めた。

身体に力が入りきらない。

ルシファーがすぐに手を伸ばしかける。

けれど、その手は途中で止まった。


「起きられる?」


「ええ」


リリスは白い上着の合わせ目を押さえながら、ゆっくり身体を起こした。

無理をしていることは、たぶん彼には分かっている。

それでも彼は急かさなかった。

代わりに、羽の角度だけを少し変えて、朝の風が彼女に直接当たりすぎないようにした。


それに気づいて、リリスは少し笑った。


「後ろの髪も切ってしまったの?」


「うん」


ルシファーは、首筋に残った髪を手でまとめる。


「もう、この長さでいる必要はないと思って」


大きな言葉ではなかった。

けれど、リリスにはそれだけで分かった。


白い式服、銀の長い髪、六枚の羽。

神のそばにいた、あの大天使の姿。


彼はそれを嫌っているわけではない。

憎んでいるわけでも、乱暴に捨てようとしているわけでもない。

ただ、もう同じ姿のままでは歩けないのだ。

昨日まで纏っていたものを、朝の光の下でひとつずつ自分の手で下ろしている。


リリスは、朝の光の中でルシファーを見た。


黒い髪と紅い輪を持つ紫紺の瞳。

少し乱れたグレーのシャツ。

リリスを包んでいた羽。


どれも、昨日までの彼とは違う。

けれど、目の前にいるのはルシファーだった。


「……そうね」


リリスは小さく息を吸った。


「あなたは、ルシファーだわ」


ルシファーは、その名を受け取るように目を伏せた。


「うん」


短い返事だった。

その声は、朝の空気の中へ静かに馴染んでいった。


リリスは彼の手元を見た。


「それ、かしてくれない?」


ルシファーが黒い石片を持ったまま、こちらを見る。


「いいけど、どうす……」


言い終わらないうちに、リリスはその石片を受け取り、自分の左側の髪を一房つかんだ。

濡れて完全には乾ききらなかった長い髪は、胸元へ重く流れている。


次の瞬間、黒い刃が朝の光を切った。


ズッ、と鈍く小さな音がした。


「リリス!?」


ルシファーの声が、草花の間で跳ねた。


いつもの落ち着いた声ではなく、あまりにも素直に驚いた声だったので、リリスは少しだけおかしくなった。


切られた髪が、白い上着の上を滑って胸元へ落ちていく。

左側だけが、胸のあたりまでで短くなり、毛先は揃っていない。

けれど、不思議とみっともなくはなかった。

長い髪に隠れていた頬が、朝の光に触れる。


「急に切ると危ないよ」


ルシファーはまだ驚いている。


リリスは黒い石片を持ったまま、短くなった左側に触れた。

そこには、今まで髪に守られていた肌がある。

風が吹き抜け、光が当たって少しだけ冷たい。


「隠れるための髪は、もういらないわ」


その声に、ルシファーの表情が変わった。


リリスは、胸元に落ちた髪を見下ろす。

昨日、海の中で頬に貼りついていた髪。

息をするたびに重くなり、目の前を塞いだ髪。

怖いと思った自分を、全部覆い隠し、そして守っていてくれていた髪。


「怖かった私は、この先には全部連れていかなくてもいいでしょう?」


ルシファーは何も言わなかった。


リリスは右側の長い髪を指で梳き、耳にかけた。

顔が出る。

 

風が頬を撫でる。


少し寒い。


けれど、怖くない。


リリスは、ルシファーを見る。

 

「顔を上げたいの。あなたの隣で」


ルシファーは、しばらく黙っていた。


その沈黙は、迷いではなかった。


彼は今のリリスを見ていた。

昨日までのリリスでも、神が始まりの女と呼んだ存在でも、アダムの隣に戻されるはずだった誰かでもなく。

朝の光の中で、自分の髪を自分で切ったリリスを見ていた。


やがて、彼は静かに言った。


「綺麗だよ」


リリスの指が、耳元で止まる。


ルシファーは、彼女の顔をまっすぐ見ていた。


「前より、ずっと君が見える」


胸の奥が、ふわりと熱くなる。

リリスは黒い石片を差し出すと、ルシファーがそれを受け取る。

指先が少し触れた。

昨夜なら、それだけで互いに少し息を止めたかもしれない。


けれど今は、止まらなかった。


リリスは笑った。


「あなたもよ」


ルシファーの瞳が、少しだけ揺れる。


「私にも、前よりずっと、あなたが見えるわ」


その言葉に、ルシファーは何かを返そうとした。

けれど、返さなかった。

ただ、黒い石片を持たない方の手で、リリスの短くなった髪の先へそっと触れる。


「似合ってる」


「あなたも」


ルシファーは困ったように笑った。


その笑い方は、昨日までと同じはずなのに、昨日までとは少し違うように見えた。


ルシファーの羽が、静かに閉じていくのをリリスは見上げた。

白い羽が、朝の光の中で少しずつ姿を薄くする。

折り畳まれて、目に見える場所から遠ざかっていくようだった。


「羽もなくすの?」


「なくすわけじゃないよ」


ルシファーは、リリスの視線に気づいて言った。


「ただ、もうこれを広げて歩かなくてもいいと思った」


リリスは少しだけ目を伏せる。


昨夜、その羽はあたたかかった。

海の冷たさから、自分の身体を包んでくれた。

白い羽の内側で、自分は初めて、彼に隣にいたいと言った。


「なくなるわけじゃないのね」


「うん。必要ならまた出すよ」


「私が寒い時も?」


「もちろん」


リリスは満足そうに頷いた。


「なら、いいわ」


ルシファーはまた困ったように笑う。


羽は、朝の中へ薄く沈むように見えなくなった。

そこにあったものが消えたというより、彼の内側へ戻ったようだった。


リリスは、その背を見た。


白い羽のないルシファー。

黒い髪のルシファー。

紅い輪を持つ瞳のルシファー。


そして、自分の隣にいるルシファー。


朝の光は、エデンの外縁にも等しく降っていた。

けれど、その中にいる二人は、昨日までと同じ姿ではなかった。






 


ガブリエルが戻った時、エデンの庭は明るかった。


草木はいつも通りに朝を迎え、果実は枝に丸く実り、泉の水は澄んだ音を立てている。

鳥の声も葉の擦れる音も、何ひとつ変わっていないように聞こえた。


その明るさが、かえって胸に刺さった。


ミカエルは庭の中央に近い場所にいた。

少し離れたところでは、アダムとイヴが楽し気に何かを話している。

イヴはまだ、この庭のすべてを珍しそうに見ていた。

アダムはその隣で、時折、教えるように手を動かしている。


始まりの二人。


その言葉が、ガブリエルの中でひどく遠く聞こえた。


「ガブリエル」


ミカエルがこちらを見た。


彼はすぐに気づいたのだろう。

ガブリエルが、何かを隠しきれていないことに。


「どうした?」


いつもの問いだった。

けれど、その奥には警戒がある。


ガブリエルは唇を開いたが、声がすぐには出てこなかった。


兄さまに会った。


そう言えばいい。

ただ、それだけのはずなのに言葉にした瞬間、外縁で見た横顔が戻ってくる。


——もう君の知っている俺ではない。


あの声、あの目。

同じ姿をしているのに、呼び慣れた名の内側へ戻ってこなかった兄。


「……兄さまに会った」


ミカエルの表情が変わった。


「兄上に!? 」


「……ああ」


「どこでだ」


「外縁で……」


ミカエルが一歩近づく。


「なぜ連れて来なかった!?」


それは問い詰めるような言い方ではなかったが、ガブリエルの胸には十分すぎるほど深く刺さった。


「兄さまは、戻るつもりがない。致し方ない事情があったのではなく、自ら離れたと」


ミカエルの眉が寄る。


「兄上が、そう言ったのか……?」


ガブリエルが俯いたその時、庭の外側から羽音が近づいてきた。


三つの影が、朝の光の中へ降りる。

セノイ。サンセノイ。マンゲロフ。


三天使は、ミカエルの前で深く頭を下げた。

その動きには乱れがない。

けれど、彼らの顔色はいつもとは違っていた。


ミカエルはすぐに向き直る。


「報告を」


セノイが顔を上げる。


「……境界固定はッ、完了しませんでした」


空気が止まる。


ガブリエルは息を呑み、ミカエルの表情もわずかに硬くなった。


「理由は」


セノイは、すぐには答えなかった。

言おうとしているものが、言葉の形にうまく入らない。

そんな沈黙の間、ゆっくりと話し始めた。


「介入が……ありました」


「誰の?」


「……ルシフェル様だったと、思います」


ミカエルの目が鋭くなる。


「思う、とは何だ?」


セノイは視線を伏せた。


「申し訳ありません。ですが、そうとしか申し上げられません……」


サンセノイが続ける。


「高位天使の姿をしていました。白い式服、銀の髪、六枚の羽。声も、立ち姿も、私たちが知るルシフェル様に近いものでした」


近い。

その言い方に、ガブリエルの指先が冷えた。


マンゲロフが静かに言う。


「しかし、はっきりとその姿を掴めないのです。そこにおられるのに、こちらの知る名で捉えようとすると、ずれるのです」


ミカエルは黙って聞いていた。


サンセノイの声が低くなる。


「見えてはいました。声も聞きました。ですが、我々の知るルシフェル様としてお呼びしようとすると、何かが合わず。輪郭というより、存在そのものが、こちらの記憶にあるルシフェル様と一致せず……」


ガブリエルは、手のひらに爪が食い込むのも構わず拳を強く握りしめた。


やはり。


自分だけではなかった。

外縁で見たあの違和感は、自分の動揺だけではなかった。

兄はもう、天界が覚えている『ルシフェル』の形では、誰にも捉えきれなくなっている。

 

ミカエルが、低く問う。


「……それでも、兄上だったのか?」


三天使は黙った。


やがて、セノイが答える。


「はい」


短い返事だった。


「はっきりとは掴めません。けれど、あれはルシフェル様でした」


ミカエルは目を伏せない。

ただ、ほんの少しだけ顎を引いた。


「処置は?」


「神より授かった処置は、海へ通されていました。私たちは、それを進めるために立ち会いました」


セノイの声が硬くなる。


「ですが、海に通されたその処置だけが切り離されました。水が、リリスを留めるものではなくなったのです」


「切り離された?」


「はい」


マンゲロフが答える。


「戦闘があったのではありません。攻撃を受けたわけでもありません。ただ、神より授かった処置が通らなくなりました」


ミカエルの手が、静かに握られた。


「リリスは」


ガブリエルは、自分の心臓が嫌な音を立てた気がした。


セノイが答える。


「無事です」


瞬間、ガブリエルは息を吐いた。


よかった。


心からの安堵が音もなく漏れた。

リリスは沈められなかった、境界に留められずに済んだ。


あの子はまだ、どこかで息をしている。


けれど、次の言葉が来ることも、もう分かっていた。


「ただし」


セノイが続ける。


「リリスは、ルシフェル様と共にいます」


胸の奥に、細い痛みが走った。


分かっていたはずだった。

外縁で兄に会った時から、もう分かっていたはずなのに。

それでも、その言葉は痛かった。


ミカエルもすぐには返さなかった。


庭の奥で、イヴが笑う声がした。

何かを見つけたのだろう。

アダムがそれに答える声もする。


この庭は、何も知らない。


兄が戻らないことも。

リリスがもう、ここへ戻るつもりがないことも。

神より授かった処置が、通らなかったことも。


「……ルシフェル様は、こう告げられました」


セノイの声が、朝の庭に落ちる。


「リリスも、俺も戻らない、と」


ガブリエルは唇を結んだ。

ミカエルは、長い沈黙の後で口を開いた。


「ガブリエル」


「……何だ」


声が少し震えた。

自分でも分かった。


「お前は、兄上に会った」


「ああ」


「その時も、同じように見えたのか?」


ガブリエルはすぐには答えられなかった。


外縁で見た兄は、自分の知る兄ではなかった。

見つけたはずなのに、手を伸ばすほど、届かないところでこぼれていくようだった。


「見つけたのに、見失ったようだった」


ミカエルの目が揺れる。


「お前の目にまで……そうなのか?」


その声には、苛立ちよりも困惑があった。

認めたくないものを前にした者の声だった。


「兄上は兄上だろう!?」


ガブリエルは、ミカエルを見た。

ミカエルも誰よりも強く、まっすぐに兄を敬愛している。

だからこそ、その言葉にしがみつきたいのだと分かった。


けれど、ガブリエルはもう見てしまった。


 

「……もう、私たちが知っていた兄さまではないということだ」


かすれた声に、ミカエルは何も言えなかった。


ガブリエルも、それ以上の言葉がでてくることはなかった。

言えば、自分の中の何かが崩れてしまいそうだった。


三天使は深く頭を下げたまま、次の指示を待っている。

ミカエルは庭の奥を見た。


アダムとイヴがいる、生まれたばかりの女と、その隣にいる男。

神より任された庭、守るべき始まり。


今、自分がここを離れるわけにはいかなかった。


ミカエルは、握っていた手をゆっくり開く。


「神への報告は、お前たちが行け」


三天使が顔を上げる。


「神勅を受けたのはお前たちだ。起きたことを、そのまま伝えろ」


「はい」


セノイが答えると、サンセノイとマンゲロフも、それに続いて頭を下げた。


ミカエルは続ける。


「我々は庭を離れられない。アダムとイヴがいる」


その声は乱れていなかった。

乱れていないことだけが、ガブリエルには痛ましかった。


三天使は庭の外へ向かうと天界へ戻るために、朝の光の中を進んでいった。


ガブリエルは、その背見送りながら表情を曇らせた。


リリスは無事だった。

そのことには、確かに安堵している。


けれど。


リリスは、兄さまと共にいる。


兄さま。

そう呼べば、いつでも振り向いてくれると思っていた。

けれど外縁で見たあの人は、「兄さん」と呼べば振り向いてくれた頃の姿から、もう少しだけ遠くなっていた。

三天使の言葉で、それが自分の錯覚ではなかったと知ってしまった。



エデンの庭は、何も知らないように明るい。


ガブリエルはその明るさの中で、兄の笑顔を、輪郭を、何度も思い出そうとした。


そうして、思い出そうとするほどに、それは少しだけ滲んだ。

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