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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第60話「夜と流星」

入り江を離れても、海の音はしばらく背後で鳴っていた。


波が砂を引き、濡れた衣から落ちる水が、草の上で小さく鳴っている。

そこにリリスの浅い息が重なって、そのどれもがルシファーの腕の中で残っていた。


抱き上げるには軽すぎるほどの身体だった。

けれど、その腕に戻ってきた命の重さに喉の奥が詰まる。


沈められかけた身体は冷えきっていて、濡れた髪が彼の白い式服へ貼りついていた。

リリスは抵抗せず、ただ指先だけが彼の袖を弱く掴んでいる。


いつもの寝床へは戻れなかった。


あそこには、ガブリエルが近づいていた。

彼女の羽音も、動揺も、まだ森の奥に残っている気がした。

 

光る草花も、白い外套も、花冠も、あそこにはリリスの気配が多すぎる。

今は、誰にも見つけられない場所がよかった。


ルシファーは森の外縁を回り、少し低い窪地へ降りた。


そこには、光る草花が群れ、昼の光が届きにくい木々の下で、青紫の小さな灯りがぽつぽつと浮かんでいる。

夜を待ちきれずに目を覚ました星のように、草の先が淡く光っていた。


風は、いつの間にか止んでいる。


葉は揺れず、遠くの海音だけが低く響いていた。


ルシファーは、草花の間にリリスをそっと下ろした。けれど、腕はすぐには離せなかった。離せばそのまま倒れてしまいそうだったからだ。


リリスの肩は小さく震えていた。

何も言わないのは、言葉を選んでいるからではなく、強がる余裕すら残っていないからなのだと分かって、ルシファーは息を呑んだ。


「それは、脱いだ方がいいね。代わりに、これを」

 

リリスの濡れた衣に目を落としてから、すぐに視線を外す。


ルシファーは白い式服の上着を脱いだ。


水を含んだ空気に触れて、白い布がわずかに重く揺れる。彼はそれをリリスのそばへ差し出した。


リリスは、ぼんやりとその上着を見る。


「……いいの?」


「うん。濡れたままだと冷える」


彼はそれ以上言わず、背を向けた。


衣擦れの音が、草花の灯りの中で小さく響く。

リリスの指先が濡れた布を外していく気配がした。

水を含んだ衣が草の上へ落ちる音がして、少し遅れて、彼の上着を羽織る音が続く。


ルシファーは、リリスの声があるまで振り返らなかった。


「……もう大丈夫よ」


少しして聞こえたかすれた声に、ルシファーは振り向く。


白い上着は、やはりリリスには大きすぎた。


袖は指先を隠し、裾は膝のあたりまで落ちている。

彼女は合わせ目をぎゅっと寄せて、胸元を押さえていた。

濡れた菫色の髪が頬と首筋に貼りつき、赤い瞳の周りだけが熱を持ったように見える。


膝を折って目線を合わせる。


「寒い?」


リリスは少しだけ目を伏せた。

強がろうとしたのかもしれない。

けれど、震えは止まらなかった。


「ん……寒いわ」


「こっちへ」


低い声で言うと、リリスが小さく頷いた。


ルシファーはリリスを自分の傍へと寄せると、冷えた身体を逃がさないように、自分の片翼をゆっくり広げ、リリスの背と肩を包むように回した。


白い羽の内側に入ったリリスが目を丸くする。


大きくて、あたたかい。

海の冷たさで細くなっていた息が、羽の影の中でようやく少し戻ってくる。


「……嫌じゃない?」


ルシファーが聞いた。


リリスは、濡れたまつげを上げる。


「ちっとも嫌じゃないわ。あったかい」


そう言って、羽に頬を寄せたリリスの声はまだ弱かったが、はっきりしていた。

ルシファーの白い羽が、少しだけ揺れる。


「よかった」


ルシファーは小さく息を吐いた。


それだけで、リリスはようやく自分がずっと冷えていたことに気づいた。

 

羽の内側は、思ったよりも静かだった。

海の音が遠い。

光る草花の灯りが羽の隙間から入り込んで、ルシファーの横顔を青紫に照らしている。


リリスは、しばらく何も言わずにその横顔を見ていた。


いつもの彼なら、こういう時、少し困ったように笑う。

大丈夫だよ、と軽い声で言う。

あるいは、何でもない話をして、こちらの息が整うのを待つ。


けれど今のルシファーは、どこか遠くを見ていた。


入り江の方でも、森の奥でもない。

自分の内側のどこかを見ているような顔だった。


草花の光を受けた瞳は、紫紺に見えたけれど、前とは違う。

瞳孔を囲むように、細い紅が残っている。

水の中で見上げた時にも、一瞬それは見えていた。

けれど今、羽の内側で近くにいるとよく分かる。

それは、ただの色ではなく、彼が何かを切った痕のように消えずにそこにあった。


「ルシファー?」


彼は、ぱっといつもの顔に戻った。


「ん? なんだい?」


声も、表情も、リリスに向ける時のものだった。

やわらかくて、少しだけ気の抜ける、いつもの顔。

けれど、瞳だけが違う。


「瞳が……」


ルシファーの視線が、少しだけ下がる。


「……なにか、変?」


「変じゃないの。ただ、前と違って、赤い輪があって」


「……そうか」


その返事は静かだったが、落ち着いているのではなかった。

何かを受け取る前に、胸の奥へ沈めようとしている声だった。


リリスは、袖から少しだけ手を出した。

水に冷えた指先はまだ白い。

けれど、彼へ触れたいと思った。


頬へ手を伸ばす。

ルシファーは動かなかった。

リリスの指が、彼の目の下あたりにそっと触れる。

冷たい指先に、ルシファーの体温が戻ってくる。


「少しだけ、私と同じね」


リリスは力なく微笑むと、ルシファーの瞳が一瞬だけ見開かれた。


彼は、何も返せなかった。

ただ、その手が頬に添えられていることだけを確かめるように、まばたきをした。


「そうだね」


ようやく、それだけを絞り出す。

それでも、リリスの手はそのまま彼の頬にあった。


羽の内側で、二人の距離は近い。

リリスは、近いところにあるルシファーの顔を心配そうに見つめた。


「……ルシファー?」


「ん?」


「大丈夫?」


「……うん」


その返事は、いつもの通りやさしかった。

でも、やさしいだけだった。


リリスは少しだけ目を細める。


「なにかあるなら、話して。あなたの瞳がそうなったことも、あなたがそんな悲しい顔をしていることも」


ルシファーの表情が、わずかに強張る。

リリスはそんな強張った頬を親指でゆっくり撫でた。


なだめるように。

落ち着かせるように。

けれど、彼の痛みをなかったことにしないように。


「私、難しいことはわからないし、なにも知らないわ。だから、全部は理解できないかもしれない。でも、聞くことはできると思うの」


ルシファーは、長く黙っていた。

その沈黙の間に、リリスは初めて彼の顔が崩れるところを見た。


困った顔でもない。

微笑んで隠す顔でもない。

痛みに耐える顔でもない。

それらのどれにもなりきれない、ひどく悲痛な表情だった。


たぶん、彼自身も知らない顔だった。


「……俺は」


声が、低く落ちた。


「できると分かってしまった」


リリスの手が頬に触れたまま止まり、そっと頬から離れていった。


「あの海が君を留めるものとして動いていることも、それだけを切れることも、分かってしまった」


それは誇る声ではなく、抗えないものに自身を削り取られているような声だった。


「やらなければよかったとは思わない。君が沈められていくのを見ていられるはずがなかった。 君自身の答えを聞かないまま、先に決められることだけは、許せなかった」


その言葉でリリスの目元が熱くなる。

沈められゆく海の中で、あの時自分は何を思ったのか。


選びたかった、伝えたかった。

誰の隣にいたいのか、やっと分かったのに。


きっと、そのすべてを彼は知っていたわけでも、見ていたわけでもない。

けれど、見ていないまま、知らないままそこへ手を伸ばしてくれた。


「でも……やらずに済む世界であってほしかった」


ルシファーの声が、少しだけ掠れた。


「俺が切らなくても、君が選べる世界であってほしかった」


リリスは何も言えなかった。


その言葉は、彼のやさしさだけではなかった。


怒りでもあって、悲しみでもあった。

そして、どうしようもなく重い後悔のようなものでもあった。


「俺は未来を保証できない。これでよかったと、父上のように断定できない」


ルシファーは目を伏せた。

紅い輪が、睫毛の影で少し隠れる。


「それなのに、俺は止めた」


ルシファーは自分の手を見た。


さっき海を切った手。

今はあの時の光も、傷も、血も流れてはいない。

けれど、彼にはきっとまだ何かが残っているのだろう。


「怖いんだ」


小さな声だった。

リリスは、彼の口がそう言うのを初めて聞いた。


「……俺が父上と同じ場所に立ってしまったようで」


ルシファーの顔は、静かだった。

けれど、静かであるほど痛みが見えた。


「それに、森の中で会ったガブリエルを傷つけて置いてきた。ミカエルにも、ラファエルにも、ウリエルにも、何も言わずに天界を出た。俺を慕ってくれた者たちの手を、自分から放した……置き去りにした」


リリスは、彼の頬に添えていた手でルシファーの手を探す。

触れたルシファーの指は冷たくなっていた。


「守りたかったからなにも言わなかった。でも皆からの信頼を裏切って置き去りにして……そう見えることは、分かっていた。それでも戻れなかった。今も、戻れない」


リリスは、何も言わず彼の手を両手で包んだ。

細い指が、さっき海を切った冷たい手を覆っていく。

その手を怖がらないためではなく、怖くない、と言葉だけで済ませるためでもなく。

ただ、ここにあると確かめたかった。


この手が、リリスを水の底から引き上げた。

この手が、今、苦しんで、怯えて、冷えている。

そのことを、彼自身に知ってほしかった。


「……あなたは、お父様にはならないわ」


ルシファーが顔を上げる。


「どうして、そう言えるんだい」


リリスは彼の手を包んだまま、まっすぐ見た。


「そんな顔をするもの」


ルシファーは、何も言わなかった。


「あなたは私がここにいることを、自分の正しさにはできないのでしょう?私が何を思うかを、あなたが決めることはできないのでしょう?」


羽の内側で、光る草花が揺れている。


「なら、あなたはお父様にはならないわ」


ルシファーの瞳が揺れて、紅い輪の奥で、紫紺の色が深くなる。

リリスは続けた。


「私は、ここにいるわ」


声は弱く、身体はまだ冷えている。

それでも、その言葉だけは揺らがなかった。


「あなたが止めてくれたから、私は今ここにいる」


ルシファーは目を伏せる。


「それが正しかったのかなんて、私にも分からない。でも、あのままじゃ私はなにも選べないまま沈められてしまっていたわ。なら、今ここで迷える方がいい」


その言葉で、ルシファーはようやく浅く息を吸った。

けれど、止まっていたものがほんの少し動いたような息だった。


リリスは、彼の手を離さなかった。

離したくなかった。


「ルシファー」


「…うん」


「知ってる?」


「なにを?」


リリスは、羽の内側から少しだけ空を見上げた。

木々の枝の向こうに、夜になりきれない色が残っている。

海はもう見えないのに、波の音だけが遠く、まだ消えずにいた。


「夜空にある星も、落ちるものがあるのよ」


ルシファーは、静かに聞いている。


リリスは、あの日見た光を思い出していた。

黒い空を裂くように、ひとすじ落ちていった光は、すぐに消えた。

けれど消える前に確かに眩しく煌めいて、怖いくらい綺麗だった。


「あなたが、天から落ちた流れ星なら」


 リリスは、彼を見る。


「私は、それを受け止める夜になるわ」


それは、リリス自身の言葉に他ならなかった。

誰かに教えられたものではない。

神の言葉でも、天使の言葉でも、庭で覚えた言葉でもない。

海を見て、流れ星を見て、ルシファーを見て、自分の中でようやく形を持った言葉だった。


「リリス……」


「私」


少しだけ声が震えるのに、言葉は止まらなかった。


「私は、あなたの……ルシファーの隣にいたいわ」

 

手を握る指に、力がこもる。


「あなたは?」


ルシファーは、すぐには答えなかった。

けれど、逃げなかった。

リリスの言葉を、ひとつずつ受け取るように、目を伏せる。

彼女の手の中にある自分の手を見た。


海を切った手。

怖いと思った手。

その手を、リリスが両手で包んでいる。

ルシファーは、空いていたもう一方の手を重ね、リリスの手の上からそっと包む。


「俺も、君の隣にいたい」


低い声だった。


「君の笑顔を、隣で見ていたい」


重なり合った手のひらから、じわりと熱が伝わってくる。

その温もりに触れた瞬間、リリスの視界は堪えきれない涙で滲んだ。

それでも、今の彼女には笑みを浮かべる余裕があった。


ルシファーが距離を詰めても、リリスは身を引かなかった。

額がそっと触れ、互いの息が混ざるほど近くなっても、不思議と怖くはなかった。

やがて、二人の額がそっと重なる。

互いの吐息が混ざり合うほどの近距離で、羽の内側に広がる草花の灯りが、淡く揺らめいていた。


リリスは静かに瞼を閉じる。

繋いだ手の温もりと、額から伝わる相手の存在を感じながら、彼女は小さく喉を鳴らして笑った。


「嬉しい」


ルシファーの息が、ほんの少し震えた。


「俺もだよ」


その言葉は、羽の内側で静かに落ちた。

しばらく、二人とも動かなかった。

手の温度も、額の触れ合うところも、羽のあたたかさも、濡れた髪に残る冷たさも、すべてがまだここにあることを教えていた。

ややあって、思いついたようにルシファーが少しだけ額を離した。


「……リリス」


「ん?」


「嫌じゃない?」


リリスは、きょとんとした。

ルシファーは、言葉を探すように一度目を伏せる。


「俺はもう、きっと天使ですらない曖昧な存在だ」


紅い輪の残る瞳が、リリスを見る。


「そんな俺が、君の隣でいいのかい?」


リリスは、驚いたように目を丸くした。

それから、少し遅れて笑った。


「……今更?」


「え?」


リリスは、堪えきれずにふふっと笑った。


「忘れちゃった? あなたは、私の前ではずうっと、曖昧で、不便な『変な天使』だったわ」


ルシファーは、一瞬だけ言葉を失ったように瞬いて、それから困ったように笑う。


「そうだったね」


「そうよ。だから今更だわ。でもね、私はそれがいいの」


ルシファーの瞳が揺れる。


「変な天使のあなたが、ルシファーがいいの。この手がいいの。」


リリスは、繋がれた手を握り返す。


「……そっか」

 

ルシファーは何かを言おうとして口を開いたがやめて、それだけを返す。

その返事が、少しだけ頼りなく聞こえてリリスはまた笑いそうになる。

けれど、今度は笑わずに彼を見た。


「あなたは、自分のことより私の心配ばかりして、選ばせてくれたお礼すら言わせてくれないのね」


ルシファーは一瞬だけ言葉に詰まり小さく目を伏せる。


「……ごめん」


その返しがあまりにも彼らしくて、リリスは少しだけ笑ってしまった。


「いいの」


彼女の声が、今度はずっとやわらかく落ちる。


「あなたは、そういう人なのだわ」


そして、まっすぐに彼を見て、手を握る。


「ルシファー」


「うん」


「私に選ばせてくれて、この気持ちをくれて、ありがとう」


その一言を聞いたルシファーは、ふと視線を伏せた。

言葉を紡ごうとするよりも先に、掌越しに伝わるその熱が、冷え切っていた胸の奥を静かに溶かしていく。

海を切った時の鈍い感触が、掌にはまだ残っていた。

けれど今は、その記憶を覆い隠すように、リリスの柔らかな手が重なっている。


恐怖や、迷い。

何が正しいのかすら分からぬままの脆い心。

それでも彼女は、決してその手を離そうとはしなかった。


ルシファーは、絡めた指先にそっと力を込める。

それに応えるように、リリスも即座に握り返す。

二人の間に、もうためらいは存在しなかった。


「お礼を言うのは、俺の方だよ」


ルシファーは、リリスの濡れた髪に額を寄せたまま、低く言った。

リリスのまつげが震える。


 

「俺を見つけて、居場所をくれて……ありがとう」

ここまで読んでくださりありがとうございます。


この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。

ブックマークや評価も、とても励みになります。

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