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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第59話「選んでいいの?」

「一人で考えたいことがあるの」


そう言うと、ルシファーは何も言わずに見送ってくれた。


入り江の海は、朝の光を受けて淡く揺れていた。


森の奥から続く細い道を抜けると、いつもの砂浜に、いつもの岩が見える。

そこに腰を下ろすと、葉の擦れる音も、鳥の声も、誰かが自分を呼ぶ声も遠くなった。


リリスは、その遠さが好きだった。


海は戻れとも行けとも言わず、ただ寄せては返し、白い泡を砂の上に残していく。

答えを差し出さないものの前では、胸の奥まで入り込んでいた力が、少しだけゆるんでいくような気がした。


リリスは膝を抱え、波の先を見つめていた。


昨日の夜の言葉が、まだ耳の奥に残っている。


明日も、会いたいわ。


俺も。

君に会いたい。


言ってしまったこと。

言えてしまったこと。

それが不思議だった。


岩から降りて、砂浜を自分の足で歩く。

海風が長い髪を攫っていく感触が、今は心地よかった。


アダムのそばにいた時、リリスはいつも自分の言葉がどこへ行けばよいのか分からなかった。

口に出しても、役目や祝福や正しさの中へ流されていく。

苦しいと言っても、怖いと言っても、それは別の綺麗な言葉に包まれて戻ってきた。


けれど、ルシファーの前では違った。


彼の前で口にした言葉は、別の形にされて戻ってこない。

急がされも、正されもせず、受け取られたまま、そばに置かれる。

それがどれほど呼吸を楽にするのか、リリスは少しずつ知り始めていた。


リリスは、指先で砂をなぞった。

細い線ができ、寄せた波の湿り気で薄くなっていく。

すぐに消えてしまいそうでも、それは自分の指で引いた線だった。


息を吸う。

潮の匂いが、胸の中へ入ってくる。


私は、彼の隣にいたい。


その言葉を内側で確かめても、思ったより怖くなかった。

怖くないことに少し驚いて、小さく笑う。


あの人が見るものを、隣で見たい。

明日も、明後日も、会いたい。

好きなものを知りたいし、彼が歩く場所を見たい。

手の温かさを、もう一度確かめたい。


リリスは海を見つめたまま、唇をそっと結んだ。


伝えたい。

自分の言葉で。


戻らなくちゃ、そう思った時、背後の空気が変わった。


波の音は続いている。

けれど、入り江を満たす朝の空気が、糸を引かれたように張り詰める。


リリスは振り向かなかった。

なぜなら、誰が来たのか、分かっていたから。


「リリス」


セノイの声だった。

穏やかだが、いつもより距離を置く声だった。


リリスは、ゆっくり振り向く。


岩の向こうに、三つの白い影が立っていた。

セノイとサンセノイとマンゲロフ。

これまでに何度も見た顔なのに、今日はどこか違って見えた。


リリスはゆっくりと立ち上がった。

足元の砂は、少し湿っている。


「また来たのね」


セノイは答えなかった。

サンセノイも、いつものように強い言葉をすぐには出さない。


マンゲロフだけが、一歩前へ進んだ。


その顔に怒りも悲しみも、ほとんど見えない。

ただ、決まった言葉を運んできた者の顔だった。


「神よりお前の処遇が定められた」


処遇、という言葉が砂の上に落ちて、リリスの肩がわずかに強ばった。


「……処遇?」


「お前は始まりの系譜より外される」


マンゲロフは、淡々と続けた。


「アダムの隣へ戻る必要は、もうない」


戻らなくてよい。


少し前なら、その言葉に息が楽になったかもしれない。

けれど、今は違った。

その先に続くものが、もう見えてしまう。


「ただし、始まりの女の席を離れたままのお前を、このまま庭の内に存在させ続けるわけにはいかない」


リリスは、喉の奥が冷えていくのを感じた。


「お前は、エデンの縁に留められる」


波が寄せる。


いつもと同じ音のはずだった。

なのに、その音が今日は低く聞こえた。


「……留めるって、何をするつもり?」


サンセノイが口を開いた。


「罰ではない」


「私は、何をするのか聞いたの!」


サンセノイは少しだけ目を伏せた。


その沈黙で、リリスは答えの一部を知った。


セノイが、苦しそうに言う。


「……あなたを苦しめるためではない」


「そういう言い方、嫌いだわ!」


リリスは一歩下がった。


踵に水が触れる。

冷たい。


「苦しめるつもりがないなら、苦しくならないと思っているの?」


セノイの唇が動いた。

けれど、言葉にはならなかった。


マンゲロフが告げる。


「これは神勅だ」


その瞬間、波が高くなった。


風が強くなったわけでも、海が荒れたわけでもない。

ただ水だけが、決められた場所へ向かうように、リリスの足元へ寄ってくる。


水は足首を越え、膝へ届いた。

濡れた裾が重くなる。


「……っ!」


リリスは岸へ戻ろうとした。


けれど、砂が足を放さない。

引きずり込まれているのではない。

ただ、そこから先へ行くという動きだけが、水と砂のあいだで消えてしまう。


「なに……?」


声が揺れた。


「私、こんなこと望んでないっ」


水が膝を越える。

冷たさが肌を刺す。


「また、私の答えより先に、未来を決めるの!?」


サンセノイの顔が苦しそうに歪んだ。


「リリス、これは庭を守るためだ」


「庭を守るためなら、私はどうなってもいいの!?」


答えはなかった。


いや、少なくとも答えはすでに出ているのだろう。

神の言葉として、天使の役目として、庭のための正しさとして。


リリスは、胸の奥がぎゅっと狭く細くなっていくのを感じた。


水が腰へ届き、衣が重くなる。

髪の先が濡れ、頬へ貼りついた。

波は暴れていない。

むしろ、怖いほど整った動きで、彼女をそこへ留めようとしていた。


また、こうなるの?


リリスは、水をかき分けようとして手を伸ばした。

身体は動くのに、どれだけもがいても岸は近づかない。

ほんの数歩の距離が、もう自分のものではなくなっている。


私が答える前に。


私が言葉にする前に……。


水が胸へ迫り、恐怖で息が浅くなる。


あの人に、明日も明後日も会いたいと思ったのに。

私が誰の隣にいたいのか、やっと分かったのに。


「いや……ッ」


波が口元へ跳ね、塩辛い水が唇に触れた。


リリスは咳き込む。


視界が揺れる。

空は白く、海は青い。

いつも通りの風景が、今は残酷に見えた。


波の向こうに、三天使の白い式服が遠く見える。


私は、私でいられなくなるの?


死ぬとは違うのかもしれない。

けれど、自分の答えごとここに留められてしまうなら、それは何と違うのだろう。


怖い。


けれど、それよりも強いものがあった。


伝えたかった。

選びたかった。


「いや……いやよ」


声は、水に削られた。


「私、まだ……」


水が肩へ届き、濡れた髪は重さを増した。

息を吸おうとして、波が喉に入る。


苦しい。

白い光が、水面の向こうで砕けていく。


——その時だった。


「やめろ」


低い声が、入り江を裂いた。


波の音が、一瞬だけ遠のいたように感じた。


三天使が振り向き、リリスも濡れた髪の隙間から顔を上げる。

その視線の先で、森の方から白い影が降りてきた。


銀髪。

白い式服。

六枚の羽。


けれどリリスにはもう、それは天界の白には見えなかった。


「ルシ、ファー……」


声は、水に濡れてかすれていた。

それでも、彼には届いた。


ルシファーは水際に立っていた。


いつもの柔らかい顔ではない。

紫紺の瞳が、三天使を見ている。


セノイが息を呑んだ。


「ルシフェル様……?」


サンセノイが、言葉を失う。


「なぜ、あなた様が……それに、その姿は……」


「そんなことはいい。これはどういうことだ」


ルシファーの声は低かった。

セノイとサンセノイが肩を揺らす横で、マンゲロフだけが、わずかに顔を硬くした。


「我らは神勅に従い、この女をエデンの縁に留めているだけです」


その言葉を聞いた瞬間、ルシファーの表情から、最後の柔らかさが消えた。


「神勅?」


声は荒くなかった。


だからこそ、入り江の空気が冷えた。


「彼女はまだ何も答えを出していない」


紫紺の瞳の奥が、鈍く光る。


「戻らないことを決めただけだ」


瞳孔の周りに、細い紅が灯った。

炎ではない。

血でもない。

内側から赤い線を引かれたような鈍い光だった。


三天使が、同時に息を呑む。


彼らの知るルシフェルの瞳に、そんな色はなかった。


「彼女の答えを」


ルシファーが一歩進むと、水面がその足元でかすかに歪んだ。


「お前たちが決めるな…!」


入り江の空気が、薄く張った膜のように震えた。


リリスを沈めていたものの輪郭が、初めて見えた気がした。

海そのものではない。

水に絡みつき、そこへ留めろと命じている働き。

波に与えられた役目。


ルシファーは、自分の中でそれを理解していた。


できる。


この海を割るのではない。

水を退けるのでもない。

水に与えられた役目だけを、切れる。


それが分かってしまった。


ほんの一瞬、使ってしまっていいのかという考えが指先を掠める。


けれど、リリスが沈んでいる。

彼女の答えが、まだ言葉になる前に閉じられようとしている。

それだけで十分だった。


ルシファーは手を伸ばした。


紅い輪を帯びた紫紺の瞳が、水面を捉える。

海面に細く冷たい白い光の筋が走り、紫の閃光がそれを横切る。

大きな破裂も、雷鳴もない。

ただ、そこにあった働きだけが、音もなく断たれた。


海はただの水に戻っていった。


「な……ッ」


サンセノイが息を呑む。

セノイは自分の手を見下ろし、マンゲロフは水面から目を離せなかった。


リリスを底へ引いていた力が抜けていく。

沈められていた身体が、ぷかりと浮き上がった。


同時に、ルシファーは水面へ降りていった。


沈まない、というのとは違っていた。

水が彼の足元にまとわりつかず、白い式服の裾が触れた瞬間、海は浅く引いて、濡れた砂だけが道のように残る。


三天使は、その光景を前に動くことができなかった。


ルシファーは水の道を進み、浮き上がったリリスの身体を受け止めた。

震える背を支え、濡れた衣の重さごと、ゆっくり水から引き上げる。


濡れた髪が、ルシファーの腕に重く落ちる。

リリスの身体は冷たかった。


「リリス」


ルシファーの声が、そこで初めて揺れた。

リリスは、濡れたまつげを震わせる。


「ルシファー……?」


「リリス、一人にしてごめん」


彼女は、かすかに目を開いた。

唇が震えている。

それでも、ほんの少しだけ笑おうとした。


「……どうして謝るの?」


弱い声だった。


「私が……一人にしてって言ったの」


ルシファーの眉が痛むように寄った。


何も言えなくなる前に、リリスを岸へ運んだ。

水はもう、ルシファーを止めず、リリスを沈めもしなかった。

ただの波として、足元で崩れていく。


浜辺へ戻るとルシファーは膝をつき、リリスを支えたまま顔を覗き込んだ。


彼女はまだ震えている。

息も浅い。

けれど、赤い瞳は彼を見ていた。

彼だけを、見ていた。


「リリス」


ルシファーは、ゆっくり言った。


「君はどうしたい?」


三天使が息を呑む気配があった。


けれど、リリスにはもう届かない。

海も、空も、天使たちも、今は遠い。

目の前にいるルシファーの声だけが、姿だけが鮮明に見えている。


紅い縁の入った紫紺の瞳。

これまでと違う、彼の瞳。

けれど、怖くなかった。


「……選んで、いいの?」


その声は、いまにも涙に変わりそうだった。


ルシファーは、まっすぐ彼女を見る。


「当たり前だろう?」


いつもの柔らかさではなかった。

けれど、その奥にあるものは、ずっと同じだった。


「最初から、そうだったよ」


リリスの顔が、くしゃりと歪んだ。


堪えようとしたのかもしれない。

けれど、できなかった。


涙が次々と勝手にこぼれていく。


「うん……」


濡れた髪が頬に貼りついたまま、リリスはルシファーの胸に顔をうずめた。

冷たい身体が、彼の腕の中で小さく震えている。


ルシファーは、彼女を支えたまま、三天使を見た。


その視線に、セノイが一歩下がる。

サンセノイの顔から血の気が引いていた。

マンゲロフでさえ、すぐには言葉を返せなかった。


白い式服も、銀の髪も、六枚の羽も同じなのに、そこに立っているものは彼らの知るルシフェルからずれていた。


瞳の奥で、紅が消えずに揺れている。


「去れ」


短い声だった。

入り江の空気が張りつめる。


「そして伝えろ」


ルシファーは、リリスを支え直した。


「リリスも、俺も戻らないと」


誰もすぐには動けなかった。


けれど、最初にセノイが翼を畳むように目を伏せた。

サンセノイも、唇を噛んだまま後ずさる。

マンゲロフは何かを言おうとして、やめた。


三つの白い影が、入り江から離れていく。


羽音が遠ざかり、波の音だけが戻ってきた。


リリスは、まだ泣いていた。

声を上げて泣いているのではなかった。

ただ、ルシファーの胸元に顔を寄せ、息のたびに肩を震わせている。


ルシファーは片腕で彼女を支え、空いている方の手を見た。


そこには血も傷も光も残っていない。

けれど、何かを切った感触だけが、指の内側に残っていた。


ルシファーは眉を寄せる。


潮風が、濡れた式服を冷やしていく。


腕の中には、リリスの重みがある。

確かにここにいる、彼女の重み。


その瞳の奥で、細い紅だけが、まだ消えずに揺れていた。

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