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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第58話「消えかけた兄」

朝の庭は、いつもと同じ明るさで始まっていた。


葉の先に残った露が白い光を受けてきらめき、水辺では鳥が羽を震わせて、低い枝から高い枝へ移っていく。

花は昨日と同じ向きで開き、草は乱れず、どこにも騒ぎの跡はない。

始まりは、今日も穏やかに続いているように見えた。


その穏やかさの中でガブリエルだけが、イヴの返事が半拍遅れたことに気づいた。


「イヴ?」


アダムが呼ぶと、イヴは顔を上げた。


「……はい、アダム」


声は明るい。

けれど、ほんの少しだけ遅かった。


アダムは気づかない。

イヴがそばにいることを確かめるように、その手元を見ている。

昨日、庭の外れへ行ったことが、まだ不安として残っているのだろう。

彼の視線は、イヴが離れていかないかを何度も確かめていた。


イヴはそれを嫌がらない。

ただ、前よりも少しだけ、答える前に何かを挟むようになっていた。


ガブリエルは水差しを手にしたまま、そのわずかな間を見ていた。


イヴは、隠すことを知らない。

迷えば、迷いがそのまま目元に出て、困れば、困ったまま立ち止まる。

だからこそ、彼女の中に昨日まではなかったものが残っていることが分かった。


アダムが果樹の方へ向かい、イヴが木陰の椅子へ腰を下ろしたところで、櫛を手に近づく。

朝の風が、イヴの髪を細く揺らしていた。


「イヴ」


「はい、ガブリエル様」


「……昨日、何かあったか?」


イヴは、咎められた顔をしなかった。

ただ、思い出すように目を伏せる。


「昨日、リリス様にお会いしました」


櫛を持つガブリエルの指が、髪に触れる手前で止まった。


荒い声も出ていない、肩を掴んだわけでもない。

大天使としての顔は、まだ崩れていない。

けれど、櫛の歯が朝の光を受けたまま、空中で動かなくなった。


「リリスに……」


「はい。白い生き物を見たのです」


イヴは素直に話し始める。


「足がなくて、草の間をするりと進む、不思議な生き物でした。追いかけたつもりはなかったのですが、気づくと外縁の方へ来ていて」


白い生き物と外縁、そしてリリス。

その三つが、ガブリエルの中でつながらないまま重なった。


「そこで、リリス様にお会いしました」


「何を話した」


ガブリエルの低い声にさえ臆することなく、イヴは少し考えてから口をひらいた。


「お友達になれないか、と聞きました」


「……友達」


「はい。リリス様はお一人なのかと思ったのです。アダムは、私が来るまで寂しかったのだと聞きました。ですから、リリス様も寂しいのではないかと」


イヴの眉が、少しだけ寄る。


「でも、リリス様は、なんだか苦しそうでした」


ガブリエルは、櫛を動かせないままだった。


その光景が見える気がした。

イヴは責めるつもりも、微塵の悪意もない。

ただ、自分が聞いたこと、思ったことを差し出す。

その無垢さが、リリスのどこに触れたのか。

考えるだけで、息が浅くなる。


「それから」


イヴは続けた。


「リリス様に聞かれました。私は、アダムの隣にいたいと思っているのか、と」


ガブリエルのまぶたが、わずかに震えた。


「それから、もうひとつ」


イヴは胸元に手を添える。

そこにまだ言葉が残っているかを確かめるような仕草だった。


「それは、私が選んだことなのか、と」


風が木陰を抜け、イヴの髪が櫛に触れないまま揺れる。


選んだこと。


その言葉は、明るい庭の中で、まだ置き場所を知らないまま響いた。


「……リリスは、それ以上何か言ったか」


「いいえ。急いで答えにしなくていい、と」


ガブリエルは目を伏せる。


リリスは答えを渡していない。

それでも、問いはイヴの中に残っていた。


「それから……」


イヴは少し迷いながらも続けた。


「森の奥に、天使のような気配がありました」


ガブリエルの視線が上がる。


「なんだと? 姿は見たのか?」


「いいえ。見えた、というより、いた気がしたのです」


イヴは、まだ言葉を探しているようだった。


「ガブリエル様や、ミカエル様と同じ感じがしました。けれど、見ようとすると分からなくなって……そこに誰かがいると決めてよいのかも、分かりません」


先の若い天使の報告が、指先に冷たい水を浴びせるように戻ってくる。


六枚羽、銀髪、白い式服。

どれもそう見えたというだけで、顔は分からず、本当にそこにいたのかも分からない。


ガブリエルは、ようやく櫛を下ろした。


「イヴ」


「はい?」


「そのことは、今は他の者に軽く話さないように」


「悪いことだったのでしょうか?」


イヴの声に、不安が混じる。

ガブリエルはすぐに否定しようとして、できなかった。

悪いこと。

そういう言葉で片づけられるなら、どれほど楽だっただろう。


「確認が必要なことだ」


それだけ告げると、イヴは素直に頷いた。


「はい、わかりました」


その素直さが、今日はひどく痛かった。


 


ミカエルは、園の中央に近い水辺にいた。


広い木陰の下で、浅い流れが白い石を撫でている。

アダムとイヴのいる場所からは少し離れているが、声を荒げれば届いてしまいそうな距離だった。

だからガブリエルは、最後の数歩をゆっくりと進んだ。


ミカエルは、水面へ目を落としていた。

水の中には空が映っている。

澄みすぎていて、そこにあるものすべてを受け入れているように見えた。

けれど、ガブリエルには、その透明さが今日は少し苦しく見えた。


「ミカエル」


呼ぶと、彼は顔を上げた。

すぐに、何かを察した目になる。


「イヴのことか」


「ああ」


ガブリエルは、イヴから聞いたことをかいつまんで話した。

白い生き物を追うように外縁へ入り、そこでリリスと会ったこと。

リリスに、アダムの隣にいることは自分で選んだのかと問われたこと。

そして森の奥に、天使のような気配を感じたこと。


ミカエルは最後まで黙って聞いた。


風が水辺の葉を揺らす。


遠くでは、アダムがイヴに何かを差し出している。

イヴは受け取りながらも、時折、庭の外れの方へ目を向けていた。

アダムはそのたび、彼女の顔を覗き込む。


まだ穏やかだ。

けれど、昨日までの穏やかさとは違う。


ミカエルは低く息を吐いた。


「外縁での報告と重なる」


「ああ。無視はできない」


ミカエルは、しばらく水面を見ていた。


そこに映る光は揺れている。

揺れているのに、乱れているとは呼べない。

水は水として流れ続けている。

庭も同じだと、父なら言うのかもしれない。


けれど、ガブリエルの中ではもう、同じとは思えなかった。


「外縁を確認する必要がある」


ミカエルが言う。


「私が行く」


ガブリエルは即座に返すと、ミカエルの視線がこちらへ向く。


「ガブリエル」


「私が行く!」


もう一度言うと、今度は声が少し低くなった。


「リリスの様子を見る理由もある。イヴの話を確かめる理由もある。外縁の気配についても、私なら判断できる」


ミカエルは答えなかった。

その沈黙の中に、止めたい気持ちがあるのをガブリエルは知っていた。


ミカエルは、ガブリエルが兄の姿を追っていることに気づいている。

リリスの教育係だったことも、兄に対する感情を誰にも知られていないつもりで隠していたことも、おそらく気づいている。


それでも、ガブリエルは引かなかった。


「一人で深入りするな」


ミカエルは言った。


「リリスを刺激するな。何かを見ても、追わずに戻れ」


「承知した」


ガブリエルが頷いた、その時だった。


頭上の光が、三度揺れる。


静かに、けれど急ぎを含んだ羽音が、園の上から降りてくる。

セノイ、サンセノイ、マンゲロフが木陰の外へ舞い降りた時、その場の空気は先ほどまでと取って代わった。


普段なら穏やかな顔をしているセノイも、正しさを背負うように立つサンセノイも、この時ばかりは目を伏せている。

表情を大きく動かさないマンゲロフだけが、半歩前へ出た。


「……神より、リリスの処遇について神勅が下りました」


水の音が遠くなった。


ガブリエルは、知らず手を握っていた。

ミカエルの声が低くなる。


「内容は?」


マンゲロフは、淡々と告げた。


「リリスを始まりの系譜より外れたものとして扱い、庭と外の境界へ留めるように、と」


ガブリエルの唇が、わずかに開く。


「境界へ留める……?」


サンセノイが、目を伏せたまま言った。


「始まりの女が、伴侶の席を離れたまま存在できる。その前例を、庭の内へ残さぬためです」


セノイは何も言わない。


いつもの柔らかさは、今はどこにも見えない。


「彼女の意思は……」


ガブリエルの声は、自分でも驚くほど細かった。


マンゲロフは、少しだけ目を伏せる。


「神勅です」


その一言で、庭の音が変わった。


鳥は鳴いている。

水も流れている。

葉も揺れている。


けれど、そのすべてが一歩遠くなったように聞こえた。


ガブリエルは息を吸う。

肺の奥に、冷たいものが入ってくる。


「彼女は、どこに?」


「入り江へ向かうことが多いと確認しています」


マンゲロフが答える。


「我らが向かいます」


「待てっ!」


ガブリエルが一歩出た。

けれどミカエルが、低く名を呼ぶ。


「ガブリエル!」


振り向くと、ミカエルの青い瞳がこちらを見ていた。

苦い顔だった。


「……君は外縁の気配を確認しろ」


「しかしっ!」


「もし兄上に関わるものなら、この処遇はさらに危うい」


ガブリエルは言葉を失った。


ミカエルは続ける。


「三天使は入り江へ向かう。君は外縁を見ろ。何かあれば、すぐ戻れ」


正しかった。

おそらく、それが今できる判断としては正しい。

それでも、ガブリエルの足元は一瞬、土ごと沈んだようになった。


リリスのところへ行きたい、兄の影を確かめたい。

どちらにも行かなければならない気がする。

どちらにも間に合わない気がする。


三天使が飛び立ち、白い羽が入り江の方角へ向かって遠ざかっていく。

ガブリエルは、その背を見送ることしかできなかった。




 


その日の朝、リリスはいつもより早く寝床を離れていた。


「少し、一人で考えたいの」


そう言った時、ルシファーは止めなかった。

止められるはずがなかった。


昨日の夜、彼女は言った。


——明日も、会いたいわ。


その言葉は、まだルシファーの中に残っている。

小さな光のように、消えずにいた。


けれど、リリスにはリリスの時間がある。


イヴに会ったこと、問いを渡してしまったこと。

これから先を誰かに決められる前に、自分で考えなくてはならないこと。

それらを抱えた彼女が、一人で入り江へ向かうのを止められるはずもなかった。


ルシファーは、寝床の近くに残っていた。


昼の光の中で、光る草花はただの草に見える。

白い外套は枝葉の陰に畳まれ、花冠は草の上でほとんど輪だけになっていた。


花も、草花も、羽も、外套も。

ここに残っているものは、どれもリリスが選び、受け取り、残したものだった。

昨日の言葉も、明日も会いたいという声も、まだこの場所の空気に残っている。


ルシファーは、枝に手を添えたまま、しばらく動かなかった。


父上の言葉からこぼれていたものは、見た。

けれど、見た以上、もう戻るだけではいられない。

その先をどうするのか、その答えをまだ出せずにいる。


 

その時、外縁の風が変わった。


羽音が近づき、風で木々が揺れた。

 

それは、よく知っている気配だった。

 

ガブリエル。


ルシファーは目を伏せる。


彼女がこのまま進めば、リリスの寝床に近づく。

リリスは今ここにいない。

けれど、ここにはリリスの痕跡がありすぎる。


畳まれた白い外套も、昼の中で色を失った光る草花も、抜け羽も、輪だけになった花冠も、ガブリエルに見せるわけにはいかなかった。


隠れてやり過ごすこともできる。

でも、それではガブリエルはさらに奥へ進む。


ルシファーは、木立の影から一歩出ると、正面を見据えた。


 

目の前に現れた影に気づいたガブリエルは、外縁の空気の中で足を止めた。


中心から離れた場所では、光の質が違う。

すべてはまだ美しく、草も木も、庭として乱れてはいない。

けれど、白い庭の奥にいる時ほど、ものの輪郭が一つの言葉へ収まってくれない。


木立の向こうに、白い式服が見えた。


銀の髪も、紫紺の瞳も、六枚の羽も、ひとつひとつはガブリエルの知っている兄のものだった。

なのに全体にした途端、胸の中で噛み合わない。

光の当たり方がずれているようだった。

見ているはずなのに、見慣れた姿として収まらない。


それでも——


兄さまだ。


そう思った次の瞬間、違う、と身体のどこかが告げた。


「にい……さま?」


声が、うまく出なかった。


ルシファーは、いつも通りに微笑んだ。


「やあ、ガブリエル」


穏やかな声だった。

あまりにも、いつも通りだった。

それが、怖かった。


「本当に、兄さまなのですか……?」


「そうだね……」


ルシファーは逃げなかった。


「ただ、もう君の知っている俺ではないと思う」


「どういう……ことですか」


「そのままのことだよ」


「分からない……」


ガブリエルの声が揺れた。


「私には、兄さまが何を言っているのか分かりません。どういうつもりなのです。天界から突然消えたと思えば、こんなところに……」


言葉が乱れていく。

整えようとしても、整わなかった。


「そして、なぜ……そんな、そんなに定まらないお姿なのです?」


ルシファーは、自分の手を少し見下ろした。

手の輪郭は、彼自身にはいつも通り見えている。

だが、ガブリエルの目には違うのだろう。


「そうか」


静かな声だった。


「やっぱり、そういう風に見えるんだね」


ガブリエルは息を呑んだ。


それを、彼は確認として受け取った。

兄が、兄自身の揺らぎを、まるで前から予測していた事実のように受け止めている。


「兄さま……まさか」


喉がきしんで痛い。


「これは、兄さまの意図なのですか? やむを得ない理由があってここにいるわけではなく、兄さまが選んで、天界を出て、ここにいるのですか……?」


ルシファーは、少しだけ目を伏せた。


それから、ガブリエルを見る。


「……そうだよ」


ガブリエルの手が、空を掴むようにわずかに動いた。


体の中で何かが外れた気がした。

外れたまま、戻らない。


「どうして……」


声がかすれ、肩から力が抜ける。

翼だけがどうにか姿勢を保っていた。


「確かめたいことがあった」


ルシファーは言った。


ガブリエルの中で、怒りとも痛みともつかないものが跳ねる。


「だったら! なぜ私たちに相談してくれなかった!?」


声が崩れていく。

もう大天使の声ではなかった。


「確かめたいことがあったのなら、私たちだって協力した!兄さまを支えられた!一緒に考えることだってできた!」


一度溢れた言葉は止まらない。


「私たちは、兄さまの中でそんなに頼りない存在だったのですか……?」


ルシファーの胸が痛みできしんだ。

それは一瞬だったけれど、だが、確かにあった痛みだった。


「……頼りないなんて、一度も思ったことはないよ」


「なら、なぜ!?」


「ガブリエル」


名前を呼ばれる。

それだけで、胸の奥がまたひどく痛んだ。


「君が今言ったように、俺が話せば、君たちは俺と共にそれを背負い、支え、解決し、俺を戻そうとしただろう」


ガブリエルは何も言えなかった。


「俺の問いを、君たちの役目に変えてしまう」


ルシファーの声は静かだった。


「だから、言わなかった」


ガブリエルは目を伏せた。


言えば支える。

当然だ。

兄が苦しんでいるなら、支えたい。

迷っているなら、戻したい。


それの何がいけないのか、少し前の自分なら分からなかった。

今も、分かったとは言えない。


けれど、兄の声は、もうそこに戻れない場所から届いていた。


「……それほどのものを抱えていたのなら」


ガブリエルは、唇を噛む。


「なおさら、話してほしかった……私でなくてもいい。せめて、ミカエルに。ラファエルやウリエルに……」


「できない」


「どうして……」


「俺はもう、その場所には戻らない」


その言葉は、短かった。

短いからこそ、反論の指先がどこにもかからなかった。


「どうして……兄さまのいるべき場所は、天界だろう!?」


ガブリエルの声は、ほとんど祈りだった。

ルシファーは、柔らかく目を伏せる。


「それは、ルシフェルの場所だよ」


「兄さまはッ!」


ガブリエルは、かすれた声で言う。


「あなたは、ルシフェルでしょう……?」


「今は、そう呼ばれていた者だよ」


その言葉で、ガブリエルはやっと理解した。

目の前にいる兄は、戻る気がないのではなく、自分たちが呼び続けた名の中へもう収まらないのだと。


「……リリスと」


ガブリエルは、やっとのことで言葉を絞り出す。


「会っているのですか……」


「会っているよ」


即答だった。

嘘をつかない声。

ガブリエルの胸の奥が、またひどく軋んでいく。

痛みを、通り越していく。


「なぜ、彼女のそばにはいるのですか」


兄は、すぐには答えなかった。

その沈黙の中に、ガブリエルは一瞬、別の答えを恐れた。

けれど、そ声は、恋でも、所有でも、甘い逃げ道でもなかった。


「彼女の声が、父上の言葉の下に埋もれていたからだ」


ガブリエルは動けなかった。


「リリスは怖がっていたし、傷ついていた」


ルシファーの声は低い。


「でもそれは、父上の本文では戸惑いとして、君たちの言葉では導きの範囲内として、そして祝福として収まっていた」


導きの範囲内。

その言葉が、過去の庭から戻ってくる。

 

小さな問いがあったと聞いた。


問いはあった。

だが拒絶ではない。

混乱も破綻もない。

庭の運営を乱すものでもない。

だから現段階では、導きの内にあると見てよい、と。


自分が言った。

自分の声で、兄に報告した。

ガブリエルの指先が震える。


「……あの時から」


声が、ほとんど息になって漏れた。


「……兄さまは、そんなことを考えていたのですか?」


ルシファーは否定しなかった。


「答えと呼べるものは、あの時の俺にもなかった」


「……でも、見ていた、見ようとしていた」


ガブリエルは、目を伏せる。


あの時、自分は何を見ていたのだろう。

リリスの小さな問いを、役目の違いとして答えた。

秩序だと伝えた。

導きの範囲内として報告した。


間違っていなかったのかもしれない。

けれど、足りなかった。


その足りなさが、今になって喉を塞ぐ。


「父上や君たちの言葉が、ただ間違っていたとは思わない」


ルシファーは言った。


「でも俺は、君たちと同じ場所にはいられない」


ガブリエルは、やっと顔を上げた。


「……リリスは」


声が震える。


「私を、恨んでいましたか」


ルシファーは静かに首を横へ振った。


「いいや。君には多くを教えてもらったと言っていたよ」


「……そうですか」


その返事は、救いにはならなかった。


恨まれていた方が、まだ何かを返せたかもしれない。

責められていた方が、自分の痛みの矛先を掴めたかもしれない。

けれどリリスは、誰かを責めるために外縁にいるのではない。


それが、ガブリエルをさらに苦しくさせた。


「兄さま」


声が崩れる。


「私は、どこで間違えたのでしょう?」


ルシファーは何も言わなかった。


「リリスがいなくなってから、ずっと考えている。でも、答えが見つからない。もっと聞いてやればよかった。もっと気にかけてやればよかった」


喉の奥がじりじりと痛む。


「あるのは、そんな後悔ばかりです」


視界が滲む。


「彼女の苦しみを何ひとつ分かってあげられない自分が、情けない」


ルシファーは、慰めなかった。

近づきもしなかった。

それがまた、彼が変わってしまったことを教えてくる。


「……君に渡すべき答えを、俺は持っていない」


静かな声だった。


「リリスは、誰も責めていない。ただ、自分の言葉で生きようとしているだけだ」


自分の言葉で。


ガブリエルは、その言葉を胸の中で繰り返した。

イヴのことが頭をよぎる。


「……イヴが」


ガブリエルは声を整えようとした。

うまくいかなかった。


「イヴが、リリスの言葉に影響を受けています……」


ルシファーの目が、わずかに変わる。


「リリスは、イヴに答えを渡してはいないよ」


「でも、問いを渡した」


「問いを持つことまで、禁じるのかい?」


その声は、初めて少しだけ鋭く届いて、ガブリエルは息を呑む。


「リリスの言葉を、庭の都合に戻さないでほしい」


好きだから。

守りたいから。

自分のそばにいるから。


そういう言葉ではなかった。

だから、ガブリエルは反論できなかった。

 

胸の奥で、マンゲロフの声が蘇る。


——神より、リリスの処遇について神勅が下りました。

 

——リリスを始まりの系譜より外れたものとして扱い、庭と外の境界へ留めるように、と。

 


「……兄さまがそれをよしとしても」


ガブリエルの声は、震えていた。


「天界が……父上が、それをよしとしなかった」


ルシファーの表情が変わった。

ほんの一瞬で、柔らかさが消える。


「……どういうことだい?」


ガブリエルは答えようとして、声が出なかった。


三天使の俯いた顔。

境界へ留めるという言葉。

神勅です、というマンゲロフの声。


「私だってっ……!」


ガブリエルは、そこまで言って、膝に力が入らなくなった。

近くの木に手をつく。


「こんなことになる前に、彼女を助けたかった……」


ルシファーは、それ以上聞かなかった。


聞く必要がなかった。


白い六枚の羽が開き、外縁の光を裂く。


ガブリエルが息を呑んだ時には、ルシファーの体はもう入り江の方角へ向かっていた。


「兄さまっ!!」


呼んだ声は、届かなかった。


いや、届いたのかもしれない。

それでも、彼は振り返らなかった。


羽ばたきが空気を大きく揺らし、枝葉の隙間からこぼれた光が草の上で跳ねる。

ルシファーは猛速で遠ざかっていった。


リリスの方へ。


ガブリエルは追えなかった。


翼はある。

飛ぼうと思えば、飛べるはずだった。

それなのに、身体が動かない。


兄はいた。

確かにそこにいて、自分の名を呼んだ。


ガブリエル、と。


それなのに、もう彼の最初の一歩は、自分たちの方へ向かなかった。


「兄さまのことだって、私は……」


声が落ちる。


その先は、言葉にならなかった。


何度も整え、隠し、呼び名の奥へしまい込んできたものが、喉元まで上がって、そこで消えた。

届かないまま、彼はリリスの方へ飛んでいった。


ガブリエルは木の幹に手をついたまま、長いあいだ動けなかった。


庭の外縁で、兄の残した風だけが、まだ枝葉を震わせていた。

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