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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第57話「行き場のない夜」

夜になっても、森は完全な闇にはならなかった。


リリスが摘んできた光る草花が、寝床のまわりで淡く灯っている。

青みを帯びた小さな光は白い外套の端を照らし、草の上では、昨日から残してある花冠の輪がぼんやり浮かんでいた。


花冠は、もう形だけを残している。


花びらは落ち、細い茎は乾き始めていた。

それでもリリスは、まだ捨てられなかった。

あの時、自分で花を選んだことまで消えてしまうようで、手を伸ばすたびに指が止まる。


今日の光る草花のそばに、昨日の花冠がある。

白い外套の端には、抜け羽がひとつ残っている。

最初からここにあったものではないものが、寝床のまわりに少しずつ増えていた。


ルシファーは、声が届くほど近く、手を伸ばしても届かないほど離れた場所に座っていた。


リリスが話したくなれば聞こえる。

黙っていたければ、そのままでいられる。

彼はその距離を、ほとんど間違えない。


リリスは膝の上に手を重ね、光る草花を見つめていた。


イヴの声が、まだ耳に残っている。


——リリス様のそばには、誰かいますか。


——寂しくはありませんか。


——お一人なら、私たち、お友達にはなれませんか。


その声は、責めていなかった。

だからこそ、どこにも逃げられなかった。


「リリス」


ルシファーの声がした。


急かす声ではない。

ただ、そこにいることを知らせるような声だった。


リリスは顔を上げる。


「なあに?」


「今日は、あまり食べていない」


「え?」


言われて、初めて気づいた。


目の前には、ルシファーが用意した木の実と果実がある。

少し前に、彼が食べられるかどうか確かめたものだ。

赤く熟した果実の皮に、光る草の色が淡く映っている。


リリスはそれを手にしたまま、口へ運ぶことも忘れていたらしい。


「ぼんやりしていたわ。今は、そんなに食べたくないみたい」


そう伝えると、ルシファーは小さく笑った。

その笑い方を、リリスはいつの間にか覚えていた。


最初は、変な天使だと思った。

天界の者たちはもっと整っていた。

正しい場所に正しい顔で立ち、正しい言葉を正しい順で口にした。


けれど彼は、少し違った。


ふわりと笑い、困ったように目を細め、ときどき何でもないことのように、胸の奥へ届く言葉を言う。

その軽さにリリスは何度も調子を崩された。

でも今は、その軽さに肩の力を抜かれることがある。


「食べられる時でいいよ」


ルシファーはそう言って、果実を差し出しはしなかった。

リリスが手を伸ばせば届く場所に、そのまま置いておく。


食べてもいい。

食べなくてもいい。

ただ、そこにある。


リリスはそれを見て、小さく息を吐いた。


「そういうところ……」


「ん?」


「なんでもないわ」


「気になるな」


「気にしていて」


ルシファーがまた困ったように笑う。

その笑みを見ていたら、言葉は思ったより静かに出た。


「……あなたが見つからなくて、本当によかった」


ルシファーの笑みが、そこで止まる。


森の音が少し遠くなり、光る草花だけが足元で揺れている。


リリスは果実を見下ろしたまま続けた。


「イヴに会うのは、怖かったわ」


「うん」


「何を言えばいいのか分からなかった。あの子を見た時、自分が離れた席のことを思い出したの。あの子が何も知らずにそこにいて、アダムが安心していることも」


果実の皮に、爪が少し食い込む。


「でもね、イヴにあなたを見られたらだめだと思ったの。怖かったことより、それが先だった」


ルシファーは何も言わない。

リリスは、その沈黙が少し怖かったけれど、言葉を止めることはしなかった。


「気づいたら、あなたを木陰へ下がらせていたの」


「君は、俺を守ろうとした」


低い声だった。


責めてはいない。

驚いているようでも、喜んでいるだけでもない。

ただ、その事実を軽く扱えずにいる声だった。


リリスは、果実から目を上げる。


「守れるものなら、守りたかったの。それ以外にできること、なかったから」


また、言ってしまった。

けれどその言葉は、先ほどよりもはっきりしていた。

ルシファーの瞳が、わずかに揺れる。

紫紺の奥で何かが灯り、それでも表へは出てこない。


「……ありがとう」


「また?」


「これは、言わせてほしいんだ」


リリスは、返す言葉をなくした。

ルシファーは真面目な顔をしている。


彼のそういう顔を見るたび、リリスは少し困る。

ふわふわしていて、軽い冗談も言うのに、時々どうしようもなくまっすぐになる。

そのまっすぐさを向けられると、こちらの中で曖昧だったものまで、光の当たる場所へ出てきてしまう。


リリスは果実を膝の上へ戻した。


「ねえ、ルシファー」


「ん?」


「……私、あなたに話せることを、もうほとんど話したと思うの」


ルシファーは、わずかに息を止めた。


リリスにも分かった。

彼は驚いたのではない。

その問いが来ることを、どこかで待っていたのかもしれない。


「アダムのこと。お父様のこと。祝福と言われたこと。イヴのこと。怖かったこと。触れられること」


ひとつひとつ口にすると、それらはもう、ただの傷ではなくなっているように感じた。

痛みはまだある。

けれど、言葉にしたことで、リリスの中で少しずつ形を変えていた。


「あなたが知りたかったことは、分かった?」


聞いた瞬間、喉の奥が冷たくなる。


もし、分かったと言われたら。

もう十分だと言われたら。


彼はここにいる理由を失うのではないか。

自分は、この人が去るのを見送ることになるのではないか。

考えたくないのに、考えてしまう。


ルシファーは、すぐには答えず、けれど目をそらさなかった。


「……分かったことはある」


声は静かだった。


「俺が見に来たものは、見たと思う」


リリスは、瞬きを忘れた。


「見に来たもの……」


「父上の言葉からこぼれていたもの」


ルシファーは、足元の光る草花を見る。


「庭は巡っている。始まりは続いている。父上の言葉だけを読めば、それは間違いではなかったのだと思う」


その声に怒りはなかったが、冷えてもいなかった。


「でも、その下で、君が息を詰めていたことは分かった」


リリスの指先が、膝の上で動く。


「君の言葉を聞かなければ、俺はそれを紙の上の揺れとして読んでいたかもしれない。戸惑い、未熟さ、始まりの不安。そういう言葉で、通り過ぎていたかもしれない」


ルシファーの視線が、リリスへ戻る。


「でも、そうではなかった」


リリスは何も言えなかった。

ルシファーは続ける。


「父上の言葉が間違っていた、と言いたいわけではない」


「……ええ」


「けれど、君の怖さを聞いた以上、もう読んで戻るだけではいられない」


読んで戻る。


その言葉に、リリスは初めて、彼がどれほど長くそうしてきたのかを思った。


神の言葉を読む。

正しく読む。

誰かへ渡す。

整えられた白い場所で、誰よりも正しく在る。


その彼が今、森の中で、光る草花のそばに座っている。

リリスの言葉を聞き、戻れなくなっている。


「なら……あなたは、これからどうするの?」


思ったよりも声が細くなった。


ルシファーは、森の奥へ目を向けた。

その先には、エデンの光が届ききらない暗がりがある。

以前、彼が少しだけ話した場所。

その入口のような闇。


リリスは、もうその沈黙を知らないものとして受け取れなかった。


「前に話した場所へは、いずれ行くと思う」


「そこが、あなたの行き先?」


「行き先ではある」


言葉を選ぶ間があった。


「でも、まだ居場所とは呼べない」


「居場所……」


「うん。まして、君の行き先として俺が決めていい場所でもない」


リリスは、白い外套の端を握った。


その返事が優しさだということは、分かっている。


彼は、自分に「一緒に来ればいい」とは言わない。

そうやって、どこかへ押し込むことをしない。

選ぶ前に、答えを渡さない。


それが彼の優しさで、今は少しだけ残酷だった。


「……あなたって、本当に不便な天使ね」


「そうだね」


「否定しないの?」


「今日は、あまり否定できる材料がない」


リリスは少し笑った。

笑ってから、その笑みはすぐに消えた。


行き先はある。

でも、居場所ではない。

それはルシファーのことでもあり、自分のことでもあった。


エデンには戻れない。

けれど、外縁にいつまでもいられるとも限らない。


待っているだけなら、きっとまた、お父様の言葉が自分の前に来る。

戻れないならどうするのか。

役目を果たさなかった女をどこへ向かわせるのか。

リリスの答えより先に、白く整った言葉が差し出される。


それは、もう嫌だった。


イヴに聞いた言葉が、自分の中へ戻ってくる。


——あなた自身は、そこにいたいと思ったの?


——それは、あなたが選んだことなの?


なら、私は?

私は、誰の隣にいたいの?


リリスは、そっとルシファーを見た。


彼は答えを言わなかった。

いつも通り、言わない。

けれど、そこにいる。


光る草花の淡い色が、彼の白い式服に映っている。

まだ天界の名残をまとった姿。

けれど、リリスが最初に見た時の、近づかないでと叫びたくなる白さとは、もう違って見えた。


彼は、こちらを急かさない。

黙っていても、置いていかない。


笑う時は柔らかく、困った時は本当に困った顔をする。

軽い口で、リリスを笑わせる。

知らない果実を先に食べると言い、紅茶やタルトや、本の話を少しだけしてくれる。


何を見てきたのか、何が好きなのか。

まだ知らないことがたくさんある。


そのことを、知りたいと思う。

彼が遠くを見る時、その視線の先に何があるのか、見てみたい。


この人の隣で。


その言葉は、まだ口にはできなかった。

でも、リリスの中で静かに輪郭を持ち始めていた。


ルシファーは、リリスの視線を受けて、ほんの少し目を和らげた。


それだけだった。


何も聞かない。

何も決めない。

けれど、その表情だけで、リリスはまた少し息が楽になる。


一方で、ルシファーもまた、リリスを見ていた。


最初に会った時、彼女は全身でこちらを拒んでいた。

銀の髪も、白い式服も、六枚の羽も、彼女にとっては警戒すべきものだった。


それもリリスだった。


けれど今、彼女は光る草花を選び、自分の寝床のまわりに小さな灯りを増やしている。

怖いものを怖いと言い、知らないものへ目を向け、イヴの前では震えながらも自分の言葉を渡した。


そして今日、己より先に自分を隠した。

小さな身体で、怖さを抱えたまま前へ出た。


ルシファーは、その明日を見たいと思った。


リリスが明日、何を見つけるのか。

何に目を輝かせ、何に眉を寄せ、何を選ぶのか。


その隣で見たいと思った。


救いたい、とは少し違う。

守りたい、だけでもなかった。

彼女の明日を、彼女のものとして見ていたかった。


「ルシファー」


リリスが呼ぶ。


「なんだい?」


「明日も、会いたいわ」


リリスはもう、自分が驚くようなことを言っても、引っ込めようとは思わなかった。


ルシファーは、しばらく何も言わなかった。

その沈黙が怖くなる前に、彼は静かに笑った。


いつもの柔らかい笑み。

でも、少しだけ違う。


「俺も、君に会いたい」


声が、夜に落ちる。


その言葉を聞いて、リリスは瞬きをした。


胸の前で、いつの間にか両手を握っていた。

嬉しいのか、安心したのか、まだ分からない。

ただ、もう少しその言葉のそばにいたかった。


「リリス? どうかした?」


「……少しびっくりしたの」


「言わない方がよかったかな」


「いいえ」


リリスが首を振ると、長い菫の髪が肩の上で揺れた。


「聞けてよかったわ」


ルシファーの瞳が、また少し柔らかくなる。


 

夜は深い。


行き先は、まだ誰の言葉にもなってはいない。

戻る席も、進む道も、誰も教えてはくれない。


それでも、明日この人に会いたい。


その気持ちだけは、リリスの中で、もう誰の言葉でもなかった。

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