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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第56話「陽だまりの娘」

外縁の森は、朝と昼のあいだで静かに息をしていた。


庭の中心から届く白い光は、ここまで来ると葉の重なりにほどけ、細い筋になって草の上へ落ちる。

夜を照らしていた光る草花は、昼の中ではただの小さな草に見えたが、リリスはもう、根元に残る淡い色でそれを見分けられるようになっていた。


昨日より少し奥の茂みで膝をつき、青みを帯びた葉と細い茎のまわりの土を、リリスは指先でそっと分けていく。

夜になれば淡く光る小さな花を、傷つけないものだけ選んで摘む手つきは、少しずつ森のものに慣れ始めていた。


少し離れたところで、ルシファーが木の実を見上げている。


「あれは食べられるの?」


リリスが聞くと、ルシファーは実をひとつ手に取って、しばらく眺めた。


「たぶん」


「たぶん?」


「俺が先に食べて確かめるよ」


「変なところで勇敢なのね」


「変なところ、かな?」


「ええ。とても」


リリスは小さく笑った。


最近、自分が笑うことに驚かなくなってきた。

怖いことがなくなったわけではない。

昨日、彼が見られたかもしれないと聞いた時の指先の冷たさも不安もまだ消えてはいない。

それでも、その冷たさだけで一日が終わるわけではなかった。


ルシファーは、約束通り今日も来た。


時間も場所も少し選ぶようになった。

外縁でも、天使の巡回が薄い道を選び、開けた場所では長く留まらない。

それでも彼が来たというだけで、リリスは昨日より息がしやすかった。


「リリス」


木の枝に手を伸ばしていたルシファーが、ふと声を落とす。


「そこ、足元に気をつけて。根が出ている」


「あら」


言われて初めて、リリスは膝のすぐそばに太い根が浮いていることに気づいた。

足を引っかけたら、きっと盛大に転ぶ。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「でも、あなたも見上げたまま歩いたら危ないわ」


「俺?」


「ええ。昨日だって、枝に羽を引っかけそうだったでしょう」


「見ていたんだね」


「見えてたわ」


ルシファーは少しだけ困った顔をした。


その顔を見るのが、リリスは少し好きになっていた。

困らせたいわけではない。

ただ、彼が完璧な天使ではなくなる瞬間があると、なぜか安心した。


光る草花をいくつか摘み終え、リリスは立ち上がった。


その時、草の向こうで白く細いものが動いているのが見えた。


地面を滑るように進む白い身体と、赤い瞳。

足のない、あの生き物だった。


「……あ」


リリスは小さく声を漏らした。


その白い生き物はリリスたちの方へは来ず、花の根元を抜け木々の間へ向かっている。

導いているようにも見えたし、ただ自分の行きたい方へ進んでいるだけにも見えた。


そして、その後を追うように、森の中に明るい髪が揺れていた。


リリスの呼吸が止まる。


イヴだ。


柔らかい光を含んだ髪と、こちらを見つけても怖がるより先に確かめようとする顔。

生まれたばかりの二人目の女が、森の光の中をかけていた。


ルシファーも遅れて気づいたが、彼が動くより早くリリスの手が伸びた。


「あなたは見つかってはだめ」


声は小さかったが、切羽詰まったようにはっきりしていた。


リリスはルシファーの袖を掴み、枝葉の陰へ下がらせる。

乱暴に押したわけではない。

けれど、彼がそこから出てこないように、ほんの少しだけ力を込めた。


ルシファーの瞳がわずかに見開かれる。


リリスは彼を見なかった。

見たら、自分が何をしようとしているのか、急に怖くなりそうだった。


イヴと会うのは怖い。

自分が離れた席と、そこへ座った別の女を、目の前に置かれるのだから。

それでも、ルシファーが見つかってしまうことだけは避けたかった。

 

リリスは木の陰から一歩前へ出た。


森の光の中で、イヴが足を止める。

白い生き物は、草の奥へ消えていった。


イヴはそれを見送り、それからリリスを見た。


「……もしかして、あなたが、リリス様ですか?」


声は明るい。

けれど、騒がしくはなかった。


リリスは、指先を衣の端へ添えた。


「……ええ。あなたは、イヴね」


「はい」


イヴは素直に頷いた。


その動きに、敵意はない。

誇りも、勝ち誇るような色もない。

リリスを見つけたことを、ただ確認しているだけだった。


それが、かえって痛かった。


「私、リリス様にお会いしてみたかったのです」


イヴは少しだけ目を伏せる。


「昨夜、リリス様のことを考えていました」


「私のこと?」


「はい。アダムは、あなたがいなくなって、とても寂しかったのだと聞きました」


リリスの唇が、動かなくなる。


その言葉は、リリスを責めているわけでなかった。

責めていないから、逃げ場がなかった。


「私が来るまで、彼は孤独だったのだと」


イヴは続ける。


「今は、私がそばにいます」


その言い方は誇らしげではなかった。

ただ、自分がそこにいることで誰かが安心するなら、それはよいことなのだと信じている声だった。


「リリス様のそばには、誰かいますか?」


リリスの手が、衣の端を掴む。


「寂しくはありませんか?」


風が葉を揺らした。

その音が遠く聞こえる。


寂しい。


その言葉は、リリスの中でまだはっきりした形を持っていなかった。

一人でいることは怖かった。

でも、誰かの隣に戻されることも怖かった。

けれど今、自分のそばには毎日来てくれる人がいる。


まだ、何と呼べばいいのか分からない人がいる。


その人が隠れている森の奥へ意識が行きかけたが、それを押しとどめた。


イヴは、何も知らない。

知らないまま、アダムが寂しかったことも、自分がそばにいることも、それがよいことなのだと信じている。

そのまっすぐさに、リリスは目を逸らしたくなった。


「お一人なら」


イヴは少しだけ緊張したように言う。


「私たち、お友達になれませんか?」


リリスは、すぐには答えられなかった。


友達。


その言葉は、あまりに無防備に差し出された。


イヴは、まだ知らない。

リリスが何を怖がり、何から逃げ、何を失ってここにいるのかを知らない。

知らないまま手を差し出しているからこそ、リリスはその手を払えなかった。

けれど、受け取ることもできない。


「……イヴ」


「はい」


「あなたは、どうしてアダムの隣にいるの?」


イヴは、少しだけ目を瞬いた後、穏やかに答える。


「どうして? アダムは、私がそばにいると安心するようですから」


その答えは、よく整っていた。

誰かを安心させ、そばにいて、寂しさを埋めることは、たぶんイヴの中では正しいことなのだろう。

けれど、リリスはその答えをそのまま受け取れなかった。


「そうじゃないの……」


声が、少しだけ揺れた。


リリスは言葉を探す。

自分もまだ、うまく説明できない。

それでも、このままでは同じ場所へ戻ってしまう気がした。


「あなた自身は、そこにいたいと思っているの?」


イヴは止まった。


「私自身……?」


その言葉を、初めて手に取ったみたいに繰り返す。

リリスは、もう少しだけ踏み込んだ。


「それは、あなたが選んだこと?」


「選んだこと……ですか?」


イヴの声は、驚きよりも戸惑いに近かった。

まるで、そこに扉があったことを今初めて知ったような顔だった。


リリスの胸の奥が、少し冷える。


自分は何を言ったのだろう。

この子に何を渡してしまったのだろう。


けれど、言わずにはいられなかった。


「私にも、まだ上手く言えないわ」


リリスはゆっくり言った。


「でも、誰かが安心するから、だけで終わらせてはいけない気がするの」


イヴは黙っていた。


責められたとは思っていないようだった。

ただ、新しい言葉を受け取って、その置き場所が分からない顔をしている。


沈黙が落ちる。


イヴは目の前にいる。

ルシファーは、森の奥にいる。

リリスは、今ここで何を言えばいいのか分からなくなった。


視線が、ほんの少しだけ森の奥へ流れる。


呼んだわけではない。

助けを求めたわけでもない。

ただ、言葉の行き場を探すように、目だけがそちらへ逸れた。


イヴも、つられるようにその先を見た。


木々の奥には、誰もいないように見える。

けれど、何もないとは思えなかった。


白い天使のような気配が、木漏れ日の向こうに一瞬だけ触れた気がした。

顔は見えない。

羽も、髪も、確かめられない。

目を凝らすほど、細かなところは光の中へ遠ざかっていく。


ただ、リリスはその気配を怖がっていなかった。

それだけは、イヴにも分かった。


「リリス様」


イヴが小さく呼ぶ。

リリスは、森から目を戻した。


「あなたは、お一人ではないのですか?」


その問いに、リリスはすぐに答えられなかった。


一人ではない。

そう言い切りたかった。


けれど、それをイヴにどう伝えればいいのか分からない。

ルシファーの名を出すわけにはいかない。


だから、リリスは少しだけ首を振った。


「今は、答えられないわ」


「そうですか」


イヴは考え込むように頷いた。

その素直さが、リリスの胸を刺した。


「ねえ、イヴ」


「はい」


「もう戻った方がいいわ。探されるでしょう」


イヴは、はっとしたように庭の方角を見る。


「そうですね。アダムも天使様たちも心配するかもしれません」


その答えに、リリスの指がわずかに強ばった。

けれど、もう何も言わなかった。


イヴは少しだけ迷ってから、リリスを見る。


「また、お話できますか?」


リリスは、答えを探した。


また。


その言葉は、ルシファーと交わす時とは違う重さを持っていた。


「……分からないわ」


イヴの表情が、ほんの少しだけ揺れる。


リリスは続けた。


「でも、今日のことは、急いで答えにしなくていいと思う」


「急いで答えにしない……」


イヴはその言葉も、丁寧に受け取る。


「はい。覚えておきます」


リリスは、少しだけ目を伏せた。


覚えておく。


その言葉が、何かの始まりにならなければいいと思った。

同時に、もう始まってしまったのかもしれないとも思った。


イヴは礼をするように、軽く頭を下げた。

そして、庭の中心へ向かって歩いていく。

明るい髪が、木々の隙間で少しずつ遠ざかる。


リリスは、その背中が見えなくなるまで動けなかった。


白い生き物は、もうどこにもいない。

森の奥で葉が揺れ、枝葉の陰から出てきたルシファーは、すぐに距離を詰めず、まずリリスの顔を見た。


「……リリス、大丈夫かい?」


その声を聞いた途端、リリスはやっと息をした。


大丈夫。

そう答えられたらよかった。

けれど、喉の奥にあるものは、まだ形を持っていない。


「……わからないわ」


リリスは言った。

それから、うまく笑えないまま続ける。


「でも、あなたが見つからなくてよかった」


ルシファーの目が、わずかに揺れる。


イヴと会ったことは怖かった。

言葉を渡してしまったことも怖かった。

自分が何をしたのか、まだよく分からない。


それでも、ルシファーが見つからなかったことだけは、確かによかったと思えた。


「君は……」


ルシファーは低く言った。


「俺を守ろうとしてくれたんだね」


リリスは目をそらした。


「守れるなら、守りたいもの」


言ってから、自分で少し驚く。

守りたい。

そんな言葉を、自分が誰かに向ける日が来るとは思わなかった。


ルシファーは、しばらく何も言わなかった。


その沈黙に、責める色はない。

ただ、受け取ったものを軽く扱えずにいるようだった。


「ありがとう」


ようやく、彼はそう言った。

リリスは、少しだけ眉を下げる。


「私がしたくてやったことなのに? また変なところでお礼を言うのね」


「そうかな」


「そうよ」


「でも、言わせてほしい」


リリスは、何も返せなかった。


ルシファーは、彼女のそばへ一歩だけ近づく。

触れない距離。

でも、遠くはない距離。


リリスの肩が、少し動いた。


「……私、余計なことを言ったのかしら」


「余計かどうかは、今ここでは決められないと思う」


「そう」


「ただ、君は彼女を傷つけようとして言ったわけではないだろう」


リリスは、イヴが立っていた場所を見た。


自分が離れた席に座った、何も知らない女。

友達になれませんか、と言った声。

そして、私自身、と繰り返した顔。


「……ええ」


それだけ答えるのが、やっとだった。


ルシファーは頷いた。

答えを急がないその沈黙が、今はリリスの隣に残った。



 


庭へ戻る道で、イヴは何度も振り返りそうになった。

けれど、振り返ることはなかった。

 

白い生き物はもういない。

リリスの姿も、森の奥に隠れて見えない。

白い天使のような気配も、今では本当にあったのか分からない。


それでも、リリスはあの気配を怖がっていなかった。

そのことだけが、イヴの胸の中に残っていた。

 


庭の中心へ戻ると、すぐにアダムがイヴを見つけ、安堵した顔で近づいてきた。


「イヴ! どこにいたんだい?」


アダムは言った。


「君がいないと、不安になる……」


その声は優しかった。

自分が必要とされているのだと、少し前のイヴならすぐに思えたはずだった。


「すみません。 少し、庭の外れを歩いていました」


「外れ?」


アダムの表情に、小さな不安が差す。


「危ないところへは行かないで。君に何かあったら、僕はまた一人になってしまう」


また一人。

その言葉を聞いて、イヴは微笑もうとした。


はい。そばにいます。


そう言えば、アダムは安心する。


分かっている。

分かっているのに、今日は言葉が少し遅れた。


——あなた自身は、そこにいたいと思っているの?


——それは、あなたが選んだことなの?


リリスの声が、胸の中で小さく響く。


イヴは、アダムの隣に座った。


そこは、彼女のために用意された場所だった。

あたたかく、やわらかく、何も怖くない場所のはずだった。


それなのに、胸の中で、知らない言葉が消えなかった。


私自身。


選ぶ。


その二つは、知恵の木の実よりも先に、イヴの中へ落ちていた。

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