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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第55話「兄上の影」

傾きかけた水差しの水面がゆっくりと戻っていく。

それでも、ガブリエルの水差しの取っ手を握る指だけが、白く強ばっていた。


ルシフェル様に、似ていたような。


目の前の若い天使の曖昧な言葉が、白い回廊の中で妙に長く残っている。

見た、と言い切れるほど確かではない。

いた、と断じるには遠すぎる。

それでも、その名を消してしまうには、あまりにも近い。


ガブリエルは息を整えた。


「顔は見たのか?」


声は、大天使のものだった。

少なくとも、そう聞こえるように整えた。


若い天使は、さらに深く頭を下げる。


「いいえ。木々の影が重なっていて、はっきりとは……」


「声は?」


「聞いておりません」


「羽は?」


「六枚に、見えました」


ガブリエルの指に、また少し力が入る。

水差しの中で、落ち着きかけていた水面がかすかに揺れた。


「……髪は」


「銀色に見えました。ですが、光の反射だったのかもしれません。白い式服のようにも見えましたが、それも……」


若い天使は、そこで言葉を詰まらせた。

自分の見たものに、自信が持てないのだろう。


六枚の羽と銀の髪、白い式服。

その三つを聞けば、天界の者なら誰でも同じ名を思い浮かべる。

けれど、その名を事実として口にするには、目撃はあまりにも頼りなかった。


見たはずなのに、掴めない。

いたはずなのに、残らない。


兄さまなら、見間違えるはずがない。

そう思いたかった。

同時に、兄さまなら、なぜ見間違いのようにしか残らないのか、とも思った。


「場所はどこだ」


「外縁の木立です。知恵の木と生命の木のある方角から、少し離れたあたりを巡っていた時に」


ガブリエルは、短く息を吸った。

知恵の木と生命の木、その外縁という言葉が、温かな庭の中に冷たい影を落とす。


「この件は、まだ広めるな」


「はい」


「ミカエルへ伝える。君は通常の巡回へ戻れ。ただし、同じものを見た者がいれば、すぐに報告させるんだ」


「承知しました」


若い天使が去っていく。


羽音が遠ざかっても、ガブリエルはしばらく動けなかった。

水差しは、まだ手の中にある。


イヴのための清水だった。

生まれたばかりの彼女は、水を飲むことさえ、両手で器を持って丁寧に受け取る。

ひとつひとつ、この庭にあるものを覚えていくように。


ガブリエルは、水面に映る自分の顔を見た。

崩れてはいない。

だが、血の気は薄い。


「……兄さま」


声に出してはいけない名が、唇の裏側で滲んだ。


呼べば届くのなら、どれほど簡単だっただろう。

けれど、呼んで届く距離にいるのなら、そもそも彼は自分たちの前に姿を見せるはずだ。

 


ミカエルは、庭の巡りを確認していた。


アダムとイヴの生活は、まだ始まったばかりだった。

過剰に見守れば息が詰まる。

離れすぎれば、不安が増える。

その加減を測るために、ミカエルは配置を見直していた。


ガブリエルが近づいた時、彼は振り返らなかった。

けれど、先に言った。


「何があった」


問いというより、もう何かがあると分かっている声だった。


ガブリエルは足を止める。


「……外縁で、兄さまに似た者を見たという報告があった」


ミカエルの肩が、ほんのわずかに止まった。

白い翼は揺れず、表情も変わらない。

それでもガブリエルには分かった。

いま、一瞬だけ、彼も呼吸を忘れた。


「……似た者」


「六枚羽、銀髪、白い式服。顔は見えていない。声も聞いていない。報告した者自身も、確証はないと言っている」


ミカエルは、ようやくこちらを向いた。


青い瞳は落ち着いている。

落ち着いているように、している。


「……兄上が、エデンの外縁に?」


その呼び方が出た瞬間、ガブリエルの胸の奥が痛んだ。

ミカエルの口にある"兄上"と、自分の内側で滲んだ"兄さま"は、同じ人を呼んでいるはずなのに、どちらも庭の中で頼りなく響いた。


「……断定はできない」


ガブリエルは言った。


「だが、六枚羽と銀髪の報告は無視できない」


「そうだな……」


ミカエルは視線を外縁の方角へ向ける。

そこには木々が続いているだけだった。

庭の中央からは、外縁はいつも少し暗く見える。

光が届かないのではない。

むしろ、過不足なく届いている。

けれど中央から離れるほど、光は何かを照らしきれなくなる。


「大きく騒がせるな」


ミカエルは言った。


「イヴが生まれたばかりだ。アダムも、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。今、根拠の薄い捜索で庭を混乱にさらすわけにはいかない」


「分かっている」


「外縁の巡回を少し増やす。だが、兄上の名は出すな」


ガブリエルが頷くと、ミカエルは少しだけ目を伏せた。


「……見間違いなら、それでいい」


その言葉は、仕事の判断としては正しかった。

だからこそ、ガブリエルは何も返せない。


「……セノイたちを呼ぶ」


ミカエルの声が戻る。


「リリスを担当している者たちなら、外縁の様子も多少は見ているだろう」


その名が出た時、ガブリエルの手がわずかに動いた。


リリス。


イヴのことは、彼女にも伝えられたと聞いている。

その時、リリスはどう受け取ったのだろう。

自分が髪を梳き、衣を整え、身体のことを教えた少女は、今どこで何を思っているのだろう。


「ガブリエル、大丈夫か」


ミカエルが呼んだ。


「問題ない」


早く答えすぎた。

それでも、ミカエルはそれ以上問わなかった。


 


セノイ、サンセノイ、マンゲロフは、ほどなく呼び出された。


三人は報告のための姿勢で並び、いつも通り穏やかなセノイの隣で、サンセノイは硬い顔をしている。

マンゲロフだけは表情を大きく動かさないまま、わずかに目を伏せていた。

ミカエルは、余計な前置きはしなかった。


「外縁で、見慣れない高位天使らしき姿を見たという報告があった。君たちは何か見ていないか」


問いが落ちると、セノイが目を伏せ、サンセノイは硬い顔のまま首を横に振った。


「直接は、見ておりません」


「我々の前に、そのような者が現れたことはありません」


少し遅れて、マンゲロフが答える。


「少なくとも、確認できる形では」


その言い方に、ミカエルの視線が向いた。


「待て、どういうことだ?」


「外縁は庭の中心よりも気配が乱れます。生き物も多く、木立も深い。見たものが何であったか、断定しにくい場所です」


マンゲロフの言葉は淡々としている。

ガブリエルは、その声を聞きながら、白い式服の裾が木々の向こうで揺れる様子を想像してしまった。


兄さまが、そこに。

いや、違う。

まだ、そうと決まったわけではない。


ミカエルは続ける。


「リリスの様子は?」


セノイが答える。


「以前より、言葉がはっきりしています」


「戻る意思は?」


サンセノイが、わずかに眉を寄せた。


「さらに薄れているように見えます。こちらが何を告げても、ただ拒むだけではなくなってきました」


「ただ拒むだけではない?」


「戻らない理由を持ち始めています」


その言葉に、ガブリエルの中で何かが鈍く動いた。


戻らない理由。

 

かつてリリスは、戻れと言えば震え、拒み、泣きそうな顔をした。

言葉はあった。

けれどまだ、形になりきっていなかった。

 

今は違うのか。


マンゲロフが静かに続ける。


「自分一人で辿り着いたにしては、その理由が明確になってきています」


サンセノイが鋭く見る。


「誰かがいると言いたいのか」


「そこまでは言っていない」


マンゲロフは表情を変えない。


「ただ、以前よりも彼女の言葉は揺れません。何かを考え続けた結果なのか、誰かの言葉を受けたのか、判断はできません」


ミカエルはしばらく黙っていた。


庭は静かだった。

遠くで、イヴの笑う声がかすかに聞こえたような気がした。

アダムの声も重なる。

まだぎこちないが、そこには少しずつ暮らしの形が生まれ始めている。


その一方で、外縁には戻らない女がいる。

兄上に似た影も、そこにあるかもしれない。


「外縁の巡回を増やす」


ミカエルは言った。


「ただし、リリスを無用に刺激するな。今はまだ、断定できるものが少なすぎる」


サンセノイは不満げだったが、頷いた。

セノイは静かに頭を下げる。

マンゲロフだけが、一瞬、ガブリエルの方を見た。


その視線に何かを言われた気がして、ガブリエルは目を逸らさなかった。

命令なら出せる。

けれど外縁で何が動いているのかは、まだ誰の手にも掴めない。




 


夜の森には、光る草花がいくつも灯っていた。


リリスが夕方に摘んできたものだった。

根を離れても一晩だけ光を残す草花を、彼女は寝床の周りにひとつずつ差していく。

花の向きを少し直すたび、青緑の光が白い外套の端を照らした。


昨日よりも、寝床の周りは明るい。

けれどリリスは、その明るさの外側にある闇の方が気になっていた。


ルシファーは、いつもの木のそばにいた。

今日は枝に上がらず、少し離れた地面から空を見ている。


「……今日の天使」


リリスは、光る草を手にしたまま言った。


「やっぱり気になる?」


ルシファーは、すぐにこちらを見なかった。

けれど、逃げているわけではない。

リリスには、それが分かるようになっていた。


彼は答えた。

 

「……うん。見られた可能性がある」


リリスの指が、光る草の茎を持ったまま止まる。

青緑の光が、指の間で揺れた。


「私のところへも、天使たちが来る?」


「……来るかもしれない」


こんな時、ルシファーは曖昧にはしてくれない。

そのことが怖くもあったが、でも、曖昧にされるよりよかった。


「しばらく来ない方がいいなら、俺は来ない」


その言葉が終わる前に、リリスの指が動いていた。


気づいた時には、ルシファーの袖を掴んでいる。

強く引いたわけではない。

けれど、離したくないと思ったことだけは、自分でも分かった。


「……それはいや」


声は小さかった。

けれど、迷う前に出ていた。

 

ルシファーがこちらを見る。

紫紺の瞳が、青緑の光を少しだけ含んでいる。


「……嫌なの?」


「嫌よ」


今度は、少しだけ強く言えた。


袖を掴んだ指に、力が入る。


今まで、自分から誰かを引き止めたことがあっただろうか。

拒む言葉なら知っていた。

戻りたくない、近づかないで、放っておいて。

けれど、行かないで、は知らなかった。


知らなかった言葉なのに、今はこんなに簡単に指先へ出てしまう。


「危なくても?」


ルシファーの声は低い。


リリスは、すぐには答えられなかった。

天使たちが来るのも、また何かを告げられるのも、どこかへ連れて行かれるかもしれないのも怖い。

けれど、袖を掴んだ指は離れなかった。


「……怖いわ。 でも、あなたが来なくなる方がもっと怖い。嫌よ」


リリスの正直な言葉に、ルシファーは何も言わなかった。

言葉が彼の中へ届いたのが分かった。

少し遅れて、彼のまつげが伏せられる。


「俺も……」


その声は、いつもの柔らかさより少し近かった。


「君に会えなくなるのは嫌だ」


リリスは、息を止めた。


光る草の明かりが、やけに近く感じる。

森の音が遠くなる。


危ないと言ったのは、彼だ。

来ない方がいいなら来ないと言ったのも、彼だ。


それなのに。


「……危ないって、自分で言ったのに?」


ようやく出た声は、少し拗ねたように聞こえた。

ルシファーは袖を掴むリリスの指を見た。


「君を危ない目に遭わせたくないのは本当だよ」


それから、静かに続ける。


「でも、俺が君に会いたくないわけじゃない」


その言葉は、袖を掴んでいる手の上に降ってきた。


リリスは顔を上げられなかった。

見たら、きっと何かがこぼれてしまう。

怖いのか、嬉しいのか、まだ名前を知らないものなのか、自分でも分からない。


ルシファーの指が、袖口に触れた。

リリスの指を外すためではなく、袖を掴んだままのリリスの指に、そっと触れる。


手のひらを合わせるのではない。

袖口の上で、指先だけが絡む。

逃げようと思えば、すぐ離れられる。

それでも、リリスは離さなかった。


「今までより、気をつけるよ」


ルシファーは言った。


「来る場所も、時間も、考える」


「……毎日は?」


聞いてから、リリスは自分で頬が熱くなるのを感じた。


なんてことを聞いたのだろう。

でも、もう遅い。


ルシファーの指が、袖口の上で少しだけ止まる。


「君が望むなら」


「望むわ」


考えるより先に声が出て、慌ててリリスは唇を結ぶ。

ルシファーは、困ったように、けれど少し嬉しそうに笑った。


「分かった。できるだけ、毎日来る」


「……できるだけ、なの?」


「絶対と言うと、嘘になるかもしれない」


「そこは正直なのね」


「君に嘘はつけないからね」


「そうね」


リリスは、袖を掴んだまま少しだけ笑った。


なんてことのない会話の形をしているのに、指先は離れない。

近づかれることが怖かった身体が、いまは離れられることに痛んでいる。

それはまだ上手く名付けられない感覚だったが、不快なものではなかった。


光る草花が、二人の足元で静かに灯っている。

白い外套のそばで、青紫の花は少し頭を下げていた。

低い枝の花冠は、もうほとんど輪だけになっている。


それでもリリスは、今夜の森を寂しいとは思わなかった。



 


庭の水辺のそばで、ガブリエルはイヴの髪を梳いていた。


イヴの髪はリリスのものとは違い、光を含んだやわらかな色をしていた。

櫛を通すたび、朝の草原のように素直に流れ、癖も少なく絡まりもほとんどない。

何もかもが始まったばかりの髪だった。


イヴは座ったまま背筋をぴんと伸ばして、動かないようにしているのが分かった。

言われたことをきちんと守ろうとする、まっすぐな子だった。


「ガブリエル様は、髪を梳くのがお上手なのですね」


イヴが明るく言った。

褒めようとしているというより、見たままを素直に口にしている声だった。


ガブリエルの手が、一度だけ止まりかける。


菫色の髪が、記憶の中で揺れる。

長く、重く、何も知らなかった頃のリリスの髪。

水浴びのあと、布で包んで乾かした、絡まないように少しずつ梳いた。

身体のことも、衣のことも、庭で暮らすための多くのことを教えた。


優しくしたつもりだった。

丁寧にしたつもりだった。


けれど、何を教えるべきで、何を聞くべきだったのか。

今になると、その問いが櫛の歯の間に残る。


「……前にも、長い髪の子の世話をしていたからな」


ガブリエルは、なるべく穏やかに答えた。

イヴが振り返りそうになる。


「動かない」


「あ、はい」


イヴは慌てて前を向いた。

その素直さが、少し痛い。


「その方が、リリス様ですか?」


ガブリエルの手が止まった。

今度は、はっきり止まった。


「……そうだ」


イヴは少しだけ考えるように黙った。


彼女は、リリスのことを知っている。

先に女があった。

彼女はリリスと呼ばれた。

彼女はアダムの隣を離れた。

始まりは、君を通して続く。


神が告げた言葉を、イヴはそのまま受け取っている。

そこに痛みがあることを、まだ知らない。

痛みとして受け取るための傷も、経験も、彼女にはまだない。


だからこそ、次の問いはまっすぐだった。


「リリス様にも、私のことは伝えられたのでしょうか?」


ガブリエルは、櫛を持つ手に少し力を込めた。


「……おそらく」


「そうですか」


イヴは、小さく頷いた。


「リリス様は、今、寂しくはないのでしょうか」


ガブリエルは答えられなかった。


リリスは寂しいのだろうか。

怖いのだろうか。

怒っているのだろうか。

それとも、もう自分たちには分からない場所で、何かを見つけ始めているのだろうか。


イヴは続ける。


「アダムは、私が来るまで寂しかったのだと聞きました。 今は、私がそばにいます」


それは、ただ聞いたことを大切に持っているだけの声だった。

ガブリエルは、イヴの髪を少しずつ梳き直す。

櫛の歯が、やわらかい髪を通っていく。


「では、リリス様のそばには、誰がいてくれるのでしょう?」


その問いで、ガブリエルの手がまた止まった。


兄さまに似た影。

外縁。

リリス。


それらはまだ、ひとつの答えになっていない。

結びつけるには早すぎる。

そう分かっている。


それでも、イヴの問いは、白い庭の奥で静かに反響した。

リリスのそばには、誰がいるのか。


「ガブリエル様?」


イヴが不安そうに呼んだ。

ガブリエルは、ようやく手を動かす。


「すまない、痛かっただろうか?」


「いいえ。少し、手が止まっていたので」


「考えごとをしていた」


「リリス様のことですか?」


ガブリエルは少し笑おうとして、笑えずそのまま目を伏せた。


「……そうだな」


イヴは、また少し考えた様子をみせる。


「お会いできたら、話してみたいです」


ガブリエルの指が、櫛の柄を押さえる。


「どうして?」


「アダムが寂しくなくなったように、リリス様も寂しくない方がよいと思うのです」


イヴは本気でそう言っているのだろう。

何も知らないその明るさは、ガブリエルの前で白く光っている。

眩しいのに、責めることはできなかった。


ガブリエルは、櫛をゆっくり下ろした。


「……そうか」


それ以上はなにも言えなかった。


夜が深くなっても、ガブリエルはしばらく外縁の方角を見ていた。


エデンの庭は、どこまでも整っている。

アダムの隣にはイヴがいる。

始まりは、別の形で続こうとしている。


けれど、イヴの問いも、兄の影も、リリスの行き先も、外縁へ沈んだまま戻ってこなかった。


外縁は月明かりの端で、ただ静かに沈んでいた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。

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