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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第54話「名のない蛇」

朝の食事を終えても、リリスはしばらく低い枝に掛かった花冠を見ていた。

いくつかの花びらはすでに草の上へ落ち、残った薄紫と白も、昼まで形を保てるか分からないほどくたびれている。

昨日あんなに嬉しかったものが、今日には少し違う顔をしている。

それが寂しくないわけではなかったが、嫌だと思うのとも違っていた。


ルシファーは、葉の上に残った木の実や果実の皮を、森の小さな生き物たちの邪魔にならない場所へ寄せていた。


リリスは、その手を目で追ってしまう。

さっきまで自分の手と重なっていた手だった。

あたたかくて、大きくて、少し硬い手。


もう離れているのに、手のひらの内側にはまだ、その温度の名残があった。


「ルシファー」


呼ぶと、彼は顔を上げた。


「なんだい?」


「あなたは今日も、これから庭を見に行くの?」


尋ねてから、リリスは自分で息を止めた。

昨日までは、彼が庭へ行くことをただ聞いていた。


今は違う。

 

庭で何かが起きれば、それは自分にも届く。

知らないままでいることは、もう楽ではなかった。


ルシファーは、少し考えた。


「いや。今日は庭の中心には向かわないつもりだよ」


「じゃあ、どこに行くの?」


「別の場所を見に行こうと思っている」


「別の場所?」


リリスが首を傾げると、ルシファーは森の向こうへ目を向けた。

エデンの光がかすかに届く方角だった。

庭の奥ではなく、その少し外れ。

リリスが何度か、遠くから眺めただけの場所。


「庭の近くに、父上が置いた二本の木があるだろう」


リリスの指が、外套の端をそっと握った。


「知恵の木と、生命の木のことね」


「うん」


「アダムに、近づいてはいけないと言われていたわ。実を食べたら死んでしまうから、って」


口にすると、その響きが戻ってくる。

近づくな、食べるな、死んでしまう。

アダムの声に悪意はなかった。

けれど、その言葉はいつも、リリスの前に見えない柵を作った。

向こう側に何があるのかを知らないまま、ここから先は駄目だと知らされる。


「そこに行くの?」


「うん」


「どうして?」


ルシファーはすぐには答えなかった。

今朝の沈黙は、昨日のものとは違っていた。

隠しているのではなく、どこから話せばいいのかを探しているようだった。


「イヴが生まれたばかりだから、庭の中心はしばらく大きく動かないと思う。アダムとイヴにはミカエルとガブリエルがついている」


イヴ。


その名を聞いても、昨日ほど息は詰まらなかった。

痛みが消えたわけではない。

それでも、リリスは手の中の外套を握り潰さずにいられた。


ルシファーは続ける。


「今、俺が気になっているのは、庭そのものより、境目の方なんだ」


「境目?」


「触れてはいけない、近づいてはいけないと呼ばれている場所に、父上が何を残したのかを見ておきたい」


リリスは、その言葉をゆっくり受け取った。


昨日、自分は触れていい手を知ったばかりだ。

嫌なら嫌と言っていいことを知ったばかりだ。

なのに庭には、どうしていけないのかを知らされないまま遠ざけられるものがある。


「それを見れば、何か分かるの?」


「すべてが分かるわけではないと思う」


ルシファーは正直に言った。


「でも、君は好きにしていいわけではないと言われた。君のこれからは、まだ父上の言葉を待つものとして扱われている」


リリスの肩が、小さく動く。


「……そうね」


「だから、父上が何を禁じ、何を許しているのかを、今のうちに見ておきたい」


声は静かだった。


三天使が告げた言葉が、リリスの中に戻ってくる。

戻る席がなくなったからといって、好きにしてよいことにはならない。

あの冷たい言葉の先を、ルシファーは見ようとしている。


「……あの子がいるかもしれないわ」


自分でも思いがけず、その言葉が出た。

ルシファーがこちらを見る。


「あの子?」


「白くて長い生き物よ」


リリスは、少しだけ表情を和らげた。

思い出すと、胸の奥に残っていた重さがほんの少し薄くなる。


「足がないのに歩けて、草の間をするりと進むの。赤い目をしていて、光に当たるととても綺麗なの」


「そんな生き物が」


「アダムが、よくその木の近くにいると言っていたわ。名前は、まだ思い浮かばないんですって」


「そうか。名前がないんだね」


「ええ」


リリスは、森の向こうを見た。


あの白い身体。

花の根元を静かに進んでいく姿。

誰からも名前を与えられないまま、庭の中央近くで生きていた小さな存在。


「できるのなら、あの子が元気かどうか確かめたい」


言ってから、リリスはルシファーを見た。


「私も行くわ」


ルシファーは、驚いた顔をしなかった。

けれど、すぐに頷きもしなかった。


「いいの? あそこは庭に近い場所だよ」


「怖くないわけじゃないわ」


リリスは少しだけ息を吸う。


「ただ、見ておきたいの。それに、知らないままでいる方が、今は怖いの」


ルシファーは、その言葉を静かに聞いていた。

それから、やわらかく頷く。


「分かった。なら、一緒に行こう」





森の道は、昨日の花畑へ向かった道よりも少し入り組んでいた。

エデンの中央に近い場所は、草も木もよく整っている。

けれど外縁へ寄る道は、ところどころ根が浮き、湿った土が足元を滑らせた。

リリスは裾を少し持ち上げながら歩く。


昨日までは、一人で歩く時、足元ばかり見ていた。

今は、すぐ隣ではなくても、必要なら手を伸ばせる場所にルシファーがいる。

それだけで、同じ木陰の暗さも少し違って見えた。


太い根を越えようとした時、ルシファーが立ち止まった。


「……手を繋ぐ?」


リリスは視線を上げた。

 

言われた言葉を、少し遅れて理解する。

先ほどとは違う。

さっきはリリスが試したいと言い、ルシファーがそれに応じてくれた。


今は、彼の方から言ってくれている。

その事に、妙に心の奥がこそばゆくなる。


「今度はあなたから言ってくれるの?」


「さっき君が嫌ではないと教えてくれたからね」


リリスは、ほんの少し首を傾げる。


「これは、ルシファーが、私と手を繋ぎたいと思ってくれたの?」


ルシファーは、すぐには答えなかった。


その間が、今は少し分かる。

困っていて、少しだけ照れている。


「……そうかもしれない」


「かも? そこも曖昧にするの?」


「困ったな」


「困ること? 私は嫌じゃないって言ったのに」


ルシファーは軽く息を吐いた。

負けを認めるような、少しやわらかい息だった。


「俺が、君と手を繋ぎたいと思った」


リリスは、目を瞬いた。


その言葉は、思ったよりまっすぐ胸へ届いた。


ルシファーはいつも、リリスに選ばせる。

嫌ならしない。

怖いなら言っていい。

話したくないなら待つ。

けれど今の言葉は、ただの確認ではなかった。


彼自身が、そうしたいと言った。

 

リリスは自分の手を見た。

彼の手を知った手。

もう、まったく知らないものではなくなった手。

それから、差し出されたルシファーの手を見る。


「よろこんで」


そう言って、リリスは彼の手を取った。


ルシファーの指が、先ほどより少し自然にリリスの指を受け止める。

それでも、強く握りすぎることはない。

逃げられる余地を残しているのに、離れてほしくないことも伝わる手だった。


リリスは手元を見たまま、少し笑う。


「手まで不便な天使みたいだわ」


「手まで?」


「優しいのに、ちゃんと離したくなさそう」


今度は、ルシファーが言葉を失った。

リリスはそれを見て、ほんの少し得意になる。


「当たった?」


「……君は、だんだん手強くなるね」


「あなたがそうさせたの」


ルシファーは困ったように笑った。


その顔を見て、リリスの中に小さな明るさが戻る。

二人は手を繋いだまま、森の奥へ進んだ。


 


木々の気配が変わったのは、少し開けた場所へ出る手前だった。


風が静かになる。

水音も遠い。

鳥の声はあるはずなのに、ここでは少し響き方が違って聞こえる。

庭の他の場所よりも、何かが深く根を下ろしているようだった。


リリスは足を止める。


目の前に、二本の木があった。

ひとつは、枝を広げて実をつけている。

葉の色は深く、実は光を含むように艶やかだった。

赤とも金とも言えない色が、見るたびに少し変わる。

見つめていると、自分がまだ知らないことを、向こうから見つめ返されているような気がした。


もうひとつは、さらに大きかった。

幹は静かで、葉は濃い。

実があるのかどうか、すぐには分からない。

木そのものが、長い息を土の下へ沈めているようだった。


リリスは声を落とした。

 

「これが……知恵の木と、生命の木」


「うん。この二本だ」


ルシファーの声は、先ほどまでより低かった。


柔らかさは消えていない。

けれど、森を歩いていた時の軽さはもうなかった。


彼は二本の木を見ている。

木そのものだけではなく、この場所にこの二本があることを読んでいるようだった。


リリスは艶やかな実を見た。


「アダムは、食べたら死んでしまうと言っていたわ」


「父上がそう言ったんだろうね」


「食べたら本当に死んでしまうの?」


ルシファーはすぐに答えなかった。

その沈黙は迷いではなく、言葉を雑にしないための間だった。


「……その場で命が終わる、という話だけではないと思う」


「だけではない?」


「うん」


ルシファーは知恵の木を見上げた。


「この実を食べれば、何も知らないまま庭にいられる状態は終わる。知らなかった頃には戻れない。父上は、それを死と呼んだのかもしれない」


リリスは、実から目を離せなかった。


死ぬ。

その言葉は、アダムから聞いた時より少し違って響いた。

身体が倒れて動かなくなることではなく、戻れなくなること。

知らなかった自分には戻れなくなること。


「じゃあ、どうしてここにあるの? 食べてはいけないなら、遠くへ隠せばいいのに」


「そうだね」


ルシファーは静かに頷く。


「そこが気になっていた」


リリスは彼を見た。


「父上は、この二本を隠していない。人が届く場所に残している」


「それは、選べるように?」


「おそらく」


ルシファーの指が、繋いだ手の中で少しだけ動いた。


「でも、選んだ後の居場所までは約束していない」


リリスの手が、わずかに強ばる。

戻る席がなくなったからといって、好きにしてよいことにはならない。

三天使の言葉が戻ってくる。


「……私のことと似てる」


リリスの声は小さかった。


「私は、あの席を選ばなかった。でも、だからといって好きにしていいわけではないと言われた」


ルシファーはリリスを見た。


「そうだね、似ている部分はある」


その声に、ごまかしはなかった。


「だから見ておきたかった。父上が禁じたものが、どんな形でここにあるのか。届くのか。届かないのか。届いた時、何が終わるのか」


リリスは、二本の木を見た。

知恵の木の実は美しく、生命の木は静かだった。


どちらも、そこにある。

手を伸ばせば届く場所に。


「……私は、この木には触れないわ」


「うん」


「でも、どうして触れてはいけないのかは知りたい」


ルシファーは、少しだけリリスを見た。

その目は、どこか嬉しそうだった。


「それは、君自身の言葉だね」


「ええ」


リリスは、繋いだ手を少しだけ握り返した。


「私の言葉」

 


その時、草の根元がかすかに動いた。

リリスの視線がそちらへ吸い寄せられる。


「いたわ!」


ルシファーは、リリスの視線を追った。


木の根元から、白い蛇が姿を見せる。

低い草のあいだを、細い身体が静かに進んでくる。

光を受けた体はつややかで、白い線が緑の上を流れているようだった。

赤い瞳が一度、リリスを見る。

細い舌が、空気を確かめるように揺れた。


「この子よ!」


リリスの声が、少し弾む。


「不思議でしょう。足がないのに、ちゃんと進めるの」


「本当だね」


ルシファーはしゃがみこまないまま、少しだけ身をかがめた。


白い生き物が驚かない距離を保っている。


「やあ。君と俺は、お揃いの色をしているね」


リリスは目を瞬いた。


「……そこなの?」


「ほかに先に言うべきことがあったかな?」


「やっぱり変な天使だわ」


「久しぶりだね、それ」


ルシファーは少し笑った。


白い生き物は二人の会話に興味があるのかないのか、ゆっくりと近づいてくる。

リリスの足元から少し離れた場所で止まり、白い頭をわずかに持ち上げた。


リリスは手を伸ばさなかった。


触れたい気もした。

けれど、名前のないこの子が触れてほしいのかどうかは分からない。

だから、ただ見ていた。

白い身体は草の上でなめらかに曲がり、足も羽もないまま、自分の進む先を選んでいる。


リリスは、その姿を見つめながら言った。


「名前がないままでも、ちゃんとここにいるのね」


「うん。いるね」


白い生き物を見ていたルシファーの返事は短かった。


けれど、リリスには十分だった。


白い生き物はしばらく二人のそばにいた。

それから、またするりと身体を動かし、二本の木の方へ戻っていく。

白い線が、草の中へ溶けるように遠ざかる。

リリスはその背を見送った。


「あなたが元気そうでよかったわ」


白い生き物は答えなかった。

ただ、身体を木の影へ滑らせて、そのまま見えなくなった。


 


帰り道、森の光は少し傾き始めていた。

リリスは途中で、光る草花の小さな群れを見つけた。


夜には助かる。

昨日より弱っている花冠のかわりに、寝床の近くへ持って帰りたかった。


「少し摘んでいくわ」


「うん。俺はあちらで木の実を見てくるよ」


「……遠くへ行かないでね?」


言ってから、リリスは自分で少し驚いた。

ルシファーも、ほんの少し目を丸くする。


「行かないよ」


「ならいいわ」


そう答えてから、リリスは光る草の方へ歩いた。


草花は、根元から離れれば一晩だけ光を残す。

リリスはなるべく痛めないように、必要な分だけを選んだ。

指先に淡い光が触れるたび、さっき繋いでいた手の温度を思い出す。


少し離れた場所で、ルシファーは木の実を見上げていた。

空の高いところを羽音が通ったのは、その時だった。

光る草の茎を折らないよう手元に集中していたリリスは気づかない。

ルシファーだけが顔を上げ、上空を行く天使の影を認めると、木々の陰へ半身を入れた。


隠れたというほど大きな動きではない。

けれど、白い式服の裾が、枝葉の向こうで一瞬だけ揺れた。


天使の視線が落ちる。


銀の髪。

白い式服。

六枚の羽。

 

そう見えたのかもしれない。

目を向けた時には、もう枝が重なり、輪郭は曖昧になっていた。

そこに誰かがいたのか、いなかったのか、確かめるには遅すぎる。


 

ルシファーは、しばらく空を見ていた。


「ルシファー?」


リリスが光草花を手に戻ってきた。

淡い明かりが、彼女の指を青緑に照らしていた。


「どうしたの?」


ルシファーは少しだけ間を置いた。


「鳥にしては、少し目が鋭かった気がしてね」


リリスは眉を寄せる。


「どういうこと?」


「たぶん、ただの見回りだよ」


「見回り?」


「うん。外縁を通った天使がいた」


リリスの顔から、少し色が引いた。


「……見られたの?」


「君は見られていないと思う」


ルシファーは、空の方へ一度だけ目を戻した。


「俺のことも、はっきり見えたかは分からない。でも、今後は少し気をつけた方がいい」


リリスは頷いた。

怖くないわけではない。

けれど、何を怖がればいいのかが分かる。


「……分かったわ」


それから、少しだけ迷って、自分から彼の手を取った。

ルシファーは何も言わず、その手を受け止めた。




 

その日の夕方、エデンの中央に近い草原で一人の天使が立ち止まっていた。


見回りを終えたばかりの若い天使で、羽にはまだ外縁の風が残っている。

彼は何度か口を開きかけ、結局、ガブリエルの前で深く頭を下げた。


ガブリエルは、イヴのために用意した清水の入った水差しを手にしていた。

生まれたばかりの彼女は、何もかもを丁寧に受け取る。

水を飲むことさえ、ひとつずつ確かめるようにしていた。


「どうした?」


ガブリエルの声はいつも通りだった。

若い天使は、迷いながらおずおずと答えた。


「……それが、外縁で、高位の天使らしき姿を見た気がして」


「高位?」


ガブリエルの手が、水差しの取っ手に少しだけ力を込める。


「はい。六枚の羽が見えた気がしたのです。ですが、はっきりとは……」


「名は? 姿は?」


「分かりません。すぐに見失いました。ただ……」


若い天使は、そこで言葉を詰まらせた。

ガブリエルの目が、わずかに細くなる。


「ただ?」


「ルシフェル様に、似ていたような……」


水差しが、ほんの少し傾いた。

水はこぼれなかった。


けれど、ガブリエルの顔から色が失せていた。

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