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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第52話「空いた席ではなく」

昨夜のルシファーは、いつもより遅く戻ってきた。

森の奥から草を踏む音がした時、寝床のそばに置いた光る草花は、もう夜を支えるには頼りないほど弱っていた。

リリスは白い外套の上で身を起こし、低い枝に掛けた花冠へ目を向ける。

 

昼には軽やかに揺れていた薄紫と白の花びらは、夜露を含んで少し伏せていた。

けれど、色はまだ残っている。

青紫の花も、白い羽のそばで小さく影を落としている。

昨日、森の中で選んだものたちは、夜になってもまだリリスの近くにあった。


だからこそ、帰ってきたルシファーの足音がいつもより重いことに気づいた時、枝に掛かった花冠まで、少し遠く見えた。


「今日は遅かったのね?」


責めるつもりはなかった。

けれど、出てきた声は思いのほか、無機質に響いた。


ルシファーは寝床から離れたところで足を止める。

手には果実と木の実、それから新しい光る草花があった。


「……ごめん。庭の方で、動きがあった」


庭。


その一語だけで、リリスの指が外套の端を掴んだ。


「……アダムのこと?」


「……アダムだけじゃない」


ルシファーは、そこで言葉を切った。


光る草花の青緑が、彼の指の間でかすかに揺れている。

リリスはその沈黙を見ていた。

彼は嘘を探しているのではない。

言わずに済ませるための道を探しているのでもない。

それでも、すぐに口にできないものがあるのだろう。

そのことが、かえって怖かった。


「今、聞いた方がいいこと?」


ルシファーの瞳が、ほんの短く揺れた。


「明日、話してもいいかな」


「今じゃなくて?」


「うん」


「どうして?」


彼は手元の光る草花へ視線を落とした。

摘まれた花は小さく灯っている。

夜の端を照らすには足りても、朝まで残る光ではない。


「今言えば、君が眠れなくなると思う」


リリスは何も言い返せなかった。


たぶん、本当のことなのだろう。

けれど、知らないまま目を閉じることが楽なのかどうかも、リリスには分からなかった。


ルシファーは果実を、いつものように彼女の手が届く場所へ置いた。

近すぎず、遠すぎない。

何度も繰り返されてきたその距離の向こうに、今夜は、まだ渡されていない言葉があった。


「……分かったわ」


分かったわけではなかった。

ただ、ルシファーが今、その言葉を飲み込んだことだけは分かった。



その夜、リリスは何度も目を開けた。

枝の花冠は暗がりの中で輪の形を保ち、寝床のそばには青紫の花と白い羽が並んでいる。

少し離れた木の上には、ルシファーの羽がある。

いつもなら、その気配だけで森の暗さは遠ざかった。

けれどその夜は、近くにいることが、かえって眠りの縁を浅くした。


——アダムだけではない。


彼の声が、何度も戻ってくる。

リリスは外套の端を握ったまま、弱っていく草花の光と一緒に長い夜を越した。



 


朝の入り江は、昨日より白く見えた。

空には雲がなく、やわらかな日差しが海の上で細かく砕けている。

波はいつもと同じように寄せ、岩に触れ、白い泡を残して引いていく。

その繰り返しを見ていると、自分だけが昨夜の中に置き去りにされたような気になった。


リリスは、いつもの岩に腰を下ろしていた。

今日は足を水に浸していない。

冷たさに触れる気になれなかった。



少しして、背後で三つの羽音がした。

もう聞き間違えたりはしない。


リリスは岩に手を置いたまま振り向いた。


「戻らないわ」


いつもの言葉を先に出した。


けれど今日は、その言葉の奥で別の不安が動いている。

彼らは何かを告げに来たのだと、聞く前からなんとなく分かっていた。

 

セノイは、いつもの距離を保って岩場へ降りた。

穏やかな顔をしている。

その穏やかさが、今日は遠い。


「リリス。今日は、戻る道を示しに来たのではない」


リリスの手のひらに、岩のざらつきが残った。


「……では、何をしに来たの」


セノイはすぐに答えなかった。

その沈黙だけで、息が浅くなる。


先に口を開いたのは、サンセノイだった。


「始まりは、別の形で続くことになった」


別の形。

まだ何も見えていない言葉なのに、身体の方が先にこわばる。


「……別の形?」


「アダムの隣に、新たな女が与えられた」


その言葉に、波の音が遠のいた。

聞こえているはずなのに、海だけが急に遠くなる。


新たな女。

アダムの隣。


その場所を、リリスは知っている。

戻りなさいと言われ、席は残っていると言われ、けれど息ができなかった場所。


そこに、新しい女がいる。


リリスは声を出そうとして、唇だけがわずかに動いた。


セノイが続ける。


「名は、イヴ」


イヴ。


知らない名だった。

それでも、神が与えた名なのだろうと分かった。

白い場所で、静かに告げられたのだろう。

リリスが、かつてリリスと呼ばれたように。


「生きるものの母となる者だ」


その瞬間、岩に触れていた指先から熱が引いた。


母となる者。


その言葉は、リリスが逃げた場所の奥にあったものだった。

知識として教えられ、祝福として差し出され、身体へ近づいてきたもの。


それは消えたのではなかった。

消えずに、別の女の上へ置かれた。

リリスは、白く眩しすぎる水面へ目を向けた。


「その子は……」


声が、自分のものではないようにぎこちなく聞こえた。


「その子は、望んだの?」


三天使の間に、短い沈黙が落ち、サンセノイの顔が硬くなる。


「彼女は、そのために創られた」


リリスは、ゆっくりと彼を見た。


「それは、望んだことにはならないわ」


言った瞬間、空気が変わった。

セノイは目を伏せ、マンゲロフはリリスから視線を逸らさなかった。

サンセノイの羽だけが、かすかに揺れる。


「君は、まだそれを言うのか」


「何度でも言うわ」


声は大きくなかった。

けれど、波に消されることもなかった。


「その子が何も知らないまま、そうあるために創られたのなら、なおさらよ」


サンセノイが一歩進みかけ、セノイが視線だけで止めた。

セノイは静かにリリスへ向き直る。


「リリス。君の今後については、まだ神から新たな言葉はない」


今後。

自分のこれからのことのはずなのに、その言葉はまた、神から示されるものとして語られていた。


リリスは岩の上に座っている。

海の匂いも、濡れた風も、手の下のざらつきもそこにある。

それなのに、自分の身体だけが少し遠くなる。


サンセノイが低く続けた。

 

「ただ、戻る席がなくなったからといって、君が好きにしてよいことにはならない」


息が止まった。


戻る席はもうない。

けれど、好きにしてよいわけでもない。


その二つの言葉の間で、入り江の光が急に冷えた。


「これ以上、神の示す道を拒み続ければ、君に残されるものは少なくなる」


サンセノイの声は鋭かった。

脅しなのか、忠告なのか、リリスには分からない。

どちらでも同じだった。

言葉は、岩を伝う水のように冷たく身体の中へ入ってくる。


リリスは、しばらく何も言えなかった。


怒ればよかったのかもしれない。

そんなことを言わないで、と叫べばよかったのかもしれない。

でも、怒りはうまく形にならなかった。


……イヴ。


まだ顔も知らない女。

何も知らないまま、アダムの隣に生まれた女。

 

その子に怒ることなんてできない、怒る理由も、権利もない。

アダムを責めればいいのか、神を憎めばいいのか、目の前の天使たちを拒めばいいのか。


どれも喉元まで来て、そこで止まった。


「……もう帰って」


ようやく出た声は、それだけだった。


セノイは静かに頷いた。


「……わかった」


サンセノイは不満げだったが、何も言わなかった。

マンゲロフだけが、最後までリリスを見ていた。


憐れみではない。

怒りでもない。

ただ、彼女が今どこまで崩れずにいられるのかを測るような目だった。


三つの羽音が、入り江を離れていく。

リリスはすぐには動けなかった。


波が来る。

引いていく。

また来る。


その音だけが、世界でひとつだけ変わらないもののように聞こえていた。



 


森へ戻る道は、昨日より長く感じられた。

同じ道のはずなのに、草が裾に触れるたび、足が止まりそうになる。

いつもの場所へ帰るのだと思っても、その言葉はもう、昨日と同じ形では持てなかった。


近くの木にルシファーがいて、白い外套があり、花冠が枝に掛かっていて、青紫の花が白い羽のそばにある。

それらは確かに、リリスのそばに置かれている。

けれど、それを置いた森ごと、神の空の下にあった。


自分が選んだと思っていた場所さえ、神の世界の外ではない。

そう気づくと、胸ではなく足元から力が抜けていくようだった。


寝床の近くまで戻ると、ルシファーは木の下にいた。

今日は木の上ではない。

最初から、そこで待っていたのだろう。


リリスが足を止めても、ルシファーは近づかなかった。


けれど、顔を見れば分かる。

彼は知っている。


そのことがひどく痛かった。


「……知っていたの?」


声は、思ったより静かに出た。


責めたいのか、確かめたいのか、自分でも分からない。

ルシファーはすぐには答えなかった。

短い沈黙のあと、彼は逃げずに言った。


「昨日、見た」


「……昨日」


リリスはその言葉を口の中で繰り返した。


昨日。


ルシファーはいつもより遅く戻ってきた。

庭で動きがあったと言った。

明日、話してもいいかと聞いた。

あの時にはもう知っていたのだ。

イヴという名の女が生まれたことも、その子がアダムの隣にいることも、生きるものの母となる者と呼ばれたことも。


「言おうとした?」


「うん」


「でも、言わなかったのね」


「うん」


「どうして?」


ルシファーは目を伏せた。


「どの言葉を選んでも、君を傷つけると思った」


リリスの指先が震えた。


「言わなくても、傷つくわ……」


「そうだね」


その返事は、胸の奥を静かに刺した。

言い訳をしてくれたら、怒れたかもしれない。

君のためだったと押しつけられたら、突き返せたかもしれない。

けれどルシファーは、リリスが傷ついたことを否定しなかった。

自分が言わなかったことも、それで彼女が傷ついたことも、どちらもそこへ置いたまま逃げなかった。


「……あなたは、私に傷ついてほしくなかったのよね」


「うん」


「でも、傷ついたわ」


「……うん」


「…………ずるいわ」


「……ごめん」


「謝ってほしいわけじゃないの……」


声が震えた。


「でも、心が痛いの」


ルシファーは何も言わなかった。


答えを差し出してしまえば、リリスの痛みを別のものへ変えてしまう。

そう知っている距離で、彼は黙っていた。

 

リリスは、寝床のそばにある青紫の花を見た。

昨日選んだ花だった。


それは昨日の夜まで、その花はリリスの小さな灯りだった。

今も、変わらず綺麗だ。

綺麗なのに、そのそばで別の痛みが動いている。


「……イヴ」


リリスは、知らない名を口にした。


「その子は、何も悪くない」


「うん」


「何も知らない」


「……うん」


リリスは青紫の花を見たまま、両手を握った。


「……イヴを責めたいわけじゃないの」


声は細かった。

けれど、消えなかった。


「何も知らない子を、そこへ座らせたことが嫌なの」


ルシファーは何も言わない。

リリスは続けた。


「私が怖かったものは、消えたわけじゃなかった……」


アダムの隣。

母となる者。

命を繋ぐための身体。

それらはリリスが離れたことで終わったのではなく、別の女の上へ、静かに置かれただけだった。


「私は、戻りたいわけじゃない」


その言葉だけは、はっきりしていた。


「あそこには戻りたくない。今でもそうよ」


自分の声でそう言えたことに、少しだけ息が通る。

けれど、その先が続かない。


「……でも、戻らない私がこれからどうなるのかは、誰も言わないの」


三天使の声が戻ってくる。


——君の今後については、まだ神から新たな言葉はない。

——戻る席がなくなったからといって、君が好きにしてよいことにはならない。


リリスは小さく息を吸った。


「……ここも、お父様の世界なのでしょう?」


ルシファーは答えない。


それだけで十分だった。

リリスは笑おうとして、できずに目を伏せた。


「なら……私はどこへ行けばいいの?」


誰に向けた問いなのか、分からなかった。


神に向けたのか。

天使たちに向けたのか。

ルシファーに向けたのか。

それとも、自分自身に向けたのか。


風が吹き、低い枝に掛けた花冠が揺れる。

昨日はあんなに嬉しかったものが、今は落ちてしまいそうで怖かった。

ルシファーは、しばらくその花冠を見ていた。


そして、ゆっくり言った。


「俺も、天界には戻らない」


リリスは彼を見る。


「ここに、いつまでもいられるとも思っていない」


「……なら、あなたはどこへ行くの?」


ルシファーは、またすぐには答えなかった。


森の奥へ視線を向ける。

そこには何も見えない。

エデンの光が届ききらない、深い木々の影があるだけだった。


「……まだ、君に話していない場所がある」


「場所?」


「うん」


「あなたは、そこへ行くの?」


「……いずれは」


リリスは外套の端を握った。


いずれ。


今ではない。

けれど、いつかルシファーもここを離れる。

その時、自分はどこにいるのだろう。


一緒に行けるのかと聞きたかった。

けれど、その言葉は喉の奥につっかえた様に出てこない。


ルシファーも言わなかった。

彼はきっと、リリスの行き先を、先に決めたりはしない。

 

今はその沈黙が、森の影よりも深く見えた。

青紫の花が、白い羽のそばで揺れている。

低い枝の花冠は、風を受けてかすかに傾いたままだった。


その夜、リリスは初めて自分が戻る場所ではなく、これから行く場所のことを考えた。

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