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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第51話「二人目の女」

神の部屋には、音が少なかった。


白い床も、白い壁も、そこに満ちる光も、入ってきたものを声ごと受け止めてしまう。

三天使の羽が空気を揺らしても、その揺れは白の中へすぐに沈み、足音さえ遠くへは届かなかった。


セノイは、神の前で頭を垂れ、隣にサンセノイが立ち、マンゲロフは半歩ほど後ろに控えている。

三人の式服は、入り江から戻った時と同じ白に整えられていた。

海の匂いは残っていない。

潮風に乱れた羽も、もう乱れてはいない。

それでも、リリスの声だけは、まだ三人の間に残っていた。


残っているのは、私の場所ではない。

私に座ってほしい席。


セノイは息を整え、低く報告した。


「リリスは、なおも戻る意思を見せません」


神は、窓の外へ目を向けていた。

庭の白い光が、その横顔を薄く照らしている。

喜びも、怒りも、失望も見えない。

ただ、聞いている。


「愛にも、祝福にも、残された席にも応じませんでした」


セノイの声は乱れなかった。

乱さないようにしているというより、乱して届く場所ではないと知っている声だった。


サンセノイが一歩前へ出る。


「彼女は、ただ疲れているのではありません。反抗の言葉を持ち始めています」


反抗、という響きは白い部屋の中で重たく落ちていった。

サンセノイ自身も、それを柔らげるつもりはないのだろう。


「自分の感じたことを、神の祝福より先にする。そのようなあり方を始まりの女が口にするのなら、危うい」


神は振り向かない。


サンセノイの言葉は、裁きを求めるものに近かった。

だが、それを神がどう受け取ったのか、白い部屋と窓の外を見つめる神の表情からは何も読めなかった。


マンゲロフが低く続ける。


「彼女は、ただ逃げているのではありません。戻らないための言葉を持っています」


その声には、サンセノイのような苛立ちはなかった。

だからこそ、その言葉は澱のように重たく沈んだ。


「我々の言葉を聞いたうえで、帰らないと答える。説得そのものが、彼女の中で別の足場になり始めています」


セノイは、ほんのわずかに目を伏せた。


まだ道を示す役目を捨てたわけではない。

神が望むなら、何度でも入り江へ行くだろう。

言葉を選び、彼女が戻れる道を差し出すだろう。

けれど、リリスはもう最初の頃とは様子が違っていた。

その変化を言葉にした途端、部屋の白さに吸われて消えるはずの報告が、かすかに沈まず残る。


長い沈黙のあと、神が言った。


「そうか」


それだけだった。


リリスの拒絶も、三天使の報告も、アダムの嘆きも、その一言で聞かれたことになる。

怒りも罰も惜しむ響きもないまま、神はゆっくり三人へ目を向けた。


「ならば、始まりは別の形で続けよう」


セノイは顔を上げなかった。

サンセノイは息を詰め、マンゲロフは瞼をわずかに伏せる。


誰も問い返さなかった。

神が言ったからではない。

その言葉の先に何があるのか、三人とも理解したからだった。

 



 

庭の外縁は、いつもより静かだった。


ルシファーは木々の影に身を潜めたまま、エデンにある庭を見ていた。

リリスと過ごしていない時間、彼は何度もここへ来ている。

誰にも見つからないように外縁の茂みや木立を伝い、庭の様子だけを確かめる。


今日も、そのつもりだった。


アダムがどうしているのか、ミカエルとガブリエルがどのように動いているのか。

三天使の説得がどこへ向かっているのか。


それを見て、夜にはまたリリスのもとへ戻るはずだった。


けれど、今日の庭には、鳥の声も水の音もあるのに、いつもの息づかいがなかった。

果実をつけた枝も、風に揺れる花も変わらない。

それなのに、庭の奥にだけ、騒ぎでも悲しみでもない、整えられた冷たい準備の気配があった。


ルシファーは、枝葉の隙間から奥を見た。


アダムが眠っている。


深い眠りだった。

疲れ果てて落ちた眠りではない。

外から静かに沈められたように、呼吸は穏やかで、表情には苦しみがなかった。


そのそばに、ミカエルとガブリエルもいる。

さらに奥に、父の、神の気配があった。


枝に触れていたルシファーの指が止まる。


本当なら、ここで離れるべきだったのかもしれない。

すでに天界を出た身で、神の行いを影から見ることは、あまりにも半端で無責任の様に思えた。

止めるために来たわけではない。

裁くためでもない。


それでも、目を逸らせなかった。


父上が何を進めるのか。

リリスが拒んだ席を、庭がどう扱うのか。

それを知らないまま、あの子のもとへ戻ることはできない気がした。


白い庭の中心で、神がアダムのそばへ近づいた。


そこには、血の匂いも痛みの声もない。

アダムの眠りの中から、彼の身体の一部が静かに取り出され、白い光の中で、音もなく別の形へ移っていく。


ルシファーは息を止めていた。


父上のすることは、いつも整っている。

音も、痛みも、過不足もなく、必要な形へ進んでいく。

その滑らかさが、今はひどく冷たかった。


白い光の中で、女が生まれた。


最初に見えたのは、閉じられた瞼だった。

それから、柔らかな髪。

リリスの菫色とは違う、明るい光を含んだ髪だった。

庭の朝を受けるように白い肌は、まだ何にも触れていない。

そっと曲がっていた指先が、空気を確かめるように開く。


彼女は目を開けた。


その瞳には、怯えより先に光が入った。

自分がどこにいるのかも、誰の隣にいるのかも、まだ知らない。

疑うための出来事を、まだひとつも持っていない。


だから、目の前のものをただ見た。

庭の美しさも、神の姿も、天使たちの視線も、生まれたばかりの女はまずそのまま受け取ろうとしていた。


その光景を見たルシファーの喉の奥が冷えていく。


悪いものではない。

むしろ、あまりにも無垢だった。

だからこそ、今目の前に広がる光景が冷ややかに映った。


ガブリエルもまた、息を忘れていた。


新しく生まれた女の髪に、光が触れている。

その色を見た瞬間、ガブリエルの指には、別の髪の重さが戻る。

水浴びのあと、布で包んだ菫色の長い髪。

梳くたびに指の間を流れていったあの重さ。

教えられる言葉をじっと聞いていた、赤い瞳。


リリスも、最初は何も知らなかった。


教えたのは自分だった。

身体のことも、役目のことも、アダムのことも、生きることも、ガブリエルは丁寧に教えた。


あの子は聞いていた。

聞きながら、どこで怖くなったのだろう。

どこで息を詰めたのだろう。


ガブリエルは、新しい女を見つめたまま、袖の中で指を強く握った。


自分はまた、この子にも教えるのだろうか。

今度は、間違えないようにできるのだろうか。

それとも、間違えたことさえ、まだ自分には分かっていないのだろうか。


神の声が庭に降りた。


「彼女の名は、イヴ」


新しい女は、ゆっくりと瞬きをした。

自分の名を受け取るように。


「生きるものの母となる者だ」


その言葉は、庭に静かに広がった。


ガブリエルの喉が詰まる。


生まれたばかりの子に、もうその言葉が与えられる。

まだ自分の足で歩いてもいない。

まだ自分の声で何を望むかも知らない。

目に映る光の名さえ知らない。


それでも、彼女はもう、母となる者と呼ばれた。


木々の影で、ルシファーはその言葉を聞いていた。


父上の声は変わらない。

美しく、静かで、揺るがない。

その声に、リリスの声が重なった。


——祝福だと言われた瞬間、苦しいと言う場所がなくなった気がしたの。


喉の奥に、古い火種のようなものが戻ってくる。

けれど、イヴはまだ何も知らない。

今出ていけば、今度は自分が彼女の始まりを奪う。


ルシファーは枝を握る手に力を込めた。

木の皮が指先に食い込むのを感じる。

痛みさえ走ったが、それでも動かなかった。


イヴは、神の方を見上げていた。


「私は、イヴというのですね?」


声は柔らかかった。

敬うというより、与えられたものを大切に受け取る声だった。

神は頷く。

イヴは、ミカエル、ガブリエル、庭へと視線を巡らせ、最後に眠っているアダムを見た。


「この方は?」


ミカエルが静かに答える。


「アダム。君の隣にいる者だ」


疑う理由を持たないイヴは、その言葉をありのまま受け入れる。

そして、そこにいる自分と同じ者を、ただ見ていた。


眠っているアダムの顔には、苦しみがなかった。

リリスの名を呼び続けていた日々の色が薄れ、深い眠りの中にいるまま、彼は何も知らない。


イヴは少し近づいた。


ガブリエルは止めなかった。

その小さな足取りが、かつてのリリスと似ているようで、まったく違って見えた。


リリスは、最初から問いを持っていたわけではない。

それでもどこかで、自分の内側にあるものを手放せなかった。


イヴは、まず受け取る。

呼ばれた名も、差し出された庭も、隣にいると言われた男も、まだ疑う前に、そのまま自分の中へ置こうとしている。


アダムの瞼が、ゆっくりと動いた。

眠りから戻ったばかりの瞳が白い光に揺れ、しばらく何が起きたのか分からないまま庭を見ていた。

やがてその目がイヴを捉えた瞬間、アダムの呼吸が変わる。

驚きより先に、救われたような息が漏れた。


「……君は」


イヴは、少しだけ首を傾げた。


「あなたが、アダムなのですか?」


その声は、庭の光によく馴染んだ。

あたたかく、まっすぐで、まだ何も疑っていない。

アダムは身を起こそうとし、ミカエルがそっと支えた。


「そうだ。僕がアダムだ」


イヴは小さく頷く。


「私は、イヴです」


アダムは、その名を繰り返した。


「イヴ……!」


声に、震えが混じった。


リリスの名を呼ぶ時とは違う震えだった。

戻ってきてほしいものを呼ぶ声ではなく、失うまいとする声でもない。

長く空いていた場所に光が差したような、深く安心するような声だった。


イヴはアダムの顔を見ている。

彼が自分を見て安堵していることを、言葉より先に受け取ったのだろう。

彼女の表情が柔らかくなる。


「私は、ここにいていいのですか?」


アダムは、ほとんど縋るように頷いた。


「もちろんだよ。君は、僕のそばにいてくれるんだろう?」


その言葉に、ガブリエルの喉がきしんだ。


僕のそば。

また、その言葉だ。


だがイヴは怖がらず、アダムの喜びを見た。

それを、自分がここにいてよい理由として受け取ったようだった。


「はい。なら、そばにいます」


アダムの顔に、久しぶりの色が戻った。

深く息を吸い、吐いて、長く胸の中でこわばっていたものが、ようやく動き出したように見えた。

庭は、その息に合わせるように静かになった。


ミカエルは、ようやく安堵した。


アダムが落ち着いた。

始まりが続く。

それは、彼にとって救いに見えた。

だがその安堵のすぐそばで、ガブリエルは動けずにいた。


イヴは悪くない。

何も悪くない。

アダムが救われたことも、喜ばしいはずだった。

それなのに、リリスのいた席に別の女が座るのを見ているようで、喉の奥が苦しい。

しかもその子は、生まれた瞬間から母と呼ばれている。


ガブリエルは、イヴの髪を見た。


いつかこの髪も、自分が梳くのだろうか。

水浴びのあと、布で包むのだろうか。

身体のことを、役目のことを、アダムのことを、また教えるのだろうか。


今度は何を聞けばいい。

何を聞かなければならない。


ガブリエルには、まだ分からなかった。


イヴはアダムのそばに寄り添うように座り、アダムは彼女を慈しむように見ていた。

エデンの庭が少しずつ、息を吹き返していく。


リリスが戻らないまま。


ルシファーは眉間に皺をよせたまま、木々の影からその光景を見ていた。


イヴは何も悪くない。

何も知らず、ただ生まれ、名を受け取り、隣にいることを求められ、それを信じた。

しかし、だからこそ手が冷える。


リリスに伝えるべきだろうか。


あの子が逃げた席に、別の女が生まれたと。

父上が始まりを別の形で続けたと。

アダムは落ち着いたと。

生まれたばかりの女は、もう母となる者と呼ばれたのだと。


どの言葉を選んでも、おそらく彼女を傷つける。

だが、言わないままでも傷つける。


ルシファーは、枝葉の影で目を伏せた。


今日、リリスはどんな花を選んでいるだろう。

青紫の花か、それとも昨日とはまったく違う花か。

彼女は明日、また別のものを好きになるかもしれない。


その自由を、やっと手の中に持ち始めている。


そのすぐそばで、庭は別の女へ、別の席を用意した。


始まりは進んでいた。


リリスを残したまま。

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