第50話「今日の花」
朝は、いつも森の冷たさから始まっていた。
夜露を吸った草が、白い外套の端を濡らしている。
光る草花はもう光を失い、花びらの奥に青緑の名残だけを沈めていた。
近くでは、まだ名前を知らない鳥が、短く朝を告げている。
リリスは目を開けたまま、しばらく動かなかった。
少し離れた木の上に、羽の気配がある。
昨夜、自分が言ったのだ。
毎日来るなら、私の寝床の近くの木で眠ればいいじゃない。
口にした時は、本当にただ不便だからだと思っていた。
ここまで来て、また別の場所へ行って、朝になればまた来る。
そんなことを繰り返すくらいなら、近くの木で休んだ方がいい。
本当に、ただそう思っただけだった。
けれど朝になってみると、その理由だけでは足りない気がした。
同じ夜の中にいて、朝になっても、まだそこにいる。
外套の上で丸めていた肩から、知らないうちに力が抜けていた。
今朝は、夜の端が遠ざかっていく感覚が、今昨日までと違っていた。
リリスはやっと身を起こした。
木の枝の上で、ルシファーが小鳥を見ている。
白い羽の端に一羽。
銀の髪の上に、もう一羽。
本人は困ったような顔をしているのに、追い払う気配はない。
羽を少し動かせば逃げるだろうに、それもしない。
「やあ、おはよう。そこは俺の髪だよ」
小鳥は答えない。
「羽の方が止まりやすいと思うんだけどね」
それでも小鳥は、銀の髪の上で首をかしげている。
リリスは、思わず笑った。
朝の静寂に包まれた森では、その声が届くのに十分だったらしく、ルシファーがこちらを見る。
「おはよう、リリス」
昨夜の「おやすみ」と同じ声だった。
低すぎず、高すぎず、押しつけるもののない声。
リリスは、外套の端を指先で握った。
「……本当にいたのね」
「君がいていいと言ったからね」
「そうだったわ」
「おはよう」
彼はもう一度言った。
おはよう。
それは、庭でも聞いたことのある言葉だったはずだ。
けれど今のそれは、起きなさいと促す声もなく、決められた場所へ戻りなさい、という声でもない。
同じ夜を越えた相手へ渡される、ただの朝の言葉だった。
「……おはよう、ルシファー」
自分の声が、思ったよりやわらかく出て、ルシファーは笑い、小鳥たちへ視線を戻す。
「そろそろ退いてくれると助かるんだけど」
小鳥たちは、しばらく彼を見ていた。
やがて一羽が羽ばたき、もう一羽もそれにつられるように枝葉の向こうへ飛んでいった。
銀の髪に、細かな羽毛がひとつ残っている。
リリスはそれを見て、また笑った。
「今度は髪に何かついているわ」
「本当?」
「ええ」
「今日は朝から忙しいな」
「人気者なのね」
「鳥に?」
「そう、鳥に。 羽もあるから仲間だと思われたのかも」
「それは光栄だね」
ルシファーは困ったように笑う。
その顔を見ていると、森の朝が前より明るく見えた。
リリスは寝床のそばへ視線を落とした。
白い羽の隣の、菫色の花は、もうすっかり弱っていた。
花びらの端は細く丸まり、茎は力を失っている。
昨日まではまだ色を残していたのに、今朝はその色も薄い。
リリスは、そっと手に取った。
枯れていくものを見るのは、少し寂しい。
それでも、嫌ではなかった。
この花は、確かに綺麗で、自分が好きだと思ったもの。
ルシファーが覚えておくと言ったもの。
その時間まで、花びらと一緒に弱っていくわけではない。
リリスは、木から降りてきたルシファーを見る。
「この花を土に返したいの」
ルシファーは、花を見てから頷いた。
「うん」
「綺麗だったから、ただ捨ててしまうのは嫌なの」
「そうだね」
彼は、それ以上何も足さなかった。
捨ててもいいとも、残しておけばいいとも言わない。
ただ、リリスがそうしたいと言ったことを、そのまま聞いている。
リリスは寝床から少し離れた、草の少ないやわらかな土の前にしゃがんだ。
指先で土をすくうと湿った土は冷たく、爪の間に入り込む。
エデンであれば、そんなところに埋めるよりもふさわしい場所があると、別の場所を用意されたかもしれない。
けれど今は、誰も止めなかった。
小さなくぼみに、菫色の花をそっと入れる。
花びらが土に触れる。
それを見た時、喉の奥が詰まった。
泣くほどではないけれど、昨日までそばにあったものが、今日から違う形でそこにいるのだと思うと、すぐには指を動かせなかった。
「……ありがとう」
声は小さかった。
それでも、言いたかった。
完全に土で隠してしまうのは惜しくて、最後の一枚だけ、花びらの色が見えるように指先で整える。
ルシファーは、何も言わなかず、最後の色が土の上に残るまで、ただ見ていた。
「新しい花を探しに行きたいわ」
リリスが顔を上げた。
朝の光が、菫色の髪の上に細くかかる。
「同じ花じゃなくてもいいの?」
ルシファーが聞くと、リリスは少し考えた。
「同じ花が見つかったら、それも嬉しいと思うわ。でも、今日は違う花を選ぶかもしれない」
「うん」
「それでもいい?」
「もちろんだよ」
ルシファーは笑った。
「今日の花を探しに行こうか」
その言い方が気に入ったのか、リリスは目を細めた。
「……今日の花」
胸の前に手を置いて、言葉を確かめるように繰り返す。
それから彼女は立ち上がった。
◇
森の奥には、まだリリスの知らない場所がいくつもあった。
入り江に近い場所では、潮の匂いが強く、少し奥へ進むと湿った土の匂いが濃くなり、草の背も高くなる。
はじめは足元ばかり気にしていたリリスも、だんだんと顔を上げるようになった。
木の間から差し込む光に目を細め、見たことのない葉の形に足を止める。
小さな実をつけた蔓の前でしゃがみ込み、薄い黄色の花、白く丸い花、青い花びらの奥に銀色の筋がある花を見つけるたび、リリスの視線は忙しく動いた。
「これは何?」
「たぶん、夜に少し光る花と同じものだね」
「こっちは?」
「その花は、香りが強い花だよ」
リリスは花へ顔を近づけ、すぐに顔をしかめた。
「本当だわ。いい香りだけどちょっと花の奥がツンとする……」
「寝るときに傍に置くには向かないかもね」
「あ! 実がなってるわ」
彼女が赤い実を指差した瞬間、ルシファーは眉を上げた。
「リリス、それは食べない方がいい」
「食べたことあるの?」
「あるよ。 この間、食べられるかなと思ってかじってみたんだけど、かなり渋かった」
「そうなのね。こんなに美味しそうなのに……」
「赤い実はおいしそうに見えるよね」
「そうね。全部が美味しい実とは限らないのね」
リリスは少しむくれた。
「森って少し不便ね」
「そうだね」
「でも、面白いわ!」
その言葉には、弾むような高揚感が宿っていた。
ルシファーは、そんなリリスの横顔を見ていた。
知らないものを、怖がるだけではない。
見て、聞いて、確かめようとする。
アダムの隣で笑えなくなっていたという彼女の中に、こんなにも快活な明るさがあった。
それが今、少しずつ表へ出てきていることを、ルシファーは嬉しく感じる反面、その言葉が自分の中にあると気づいて、少しだけ困っていた。
けれど、目を逸らしたいとは思わなかった。
やがて、森の奥に小さな花畑が見えた。
花畑と呼ぶには、あまり整っておらず、庭のように区切られてもいない。
色も高さもばらばらで、草の間から好きなように花が伸びている場所。
そこに、薄紫、白、淡い黄色、青、赤に近い小さな花々が頭を覗かせていた。
リリスは息をのむ。
「……こんな場所があったのね」
「庭の中心からは離れているから、あまり整えられていないのかもしれない」
「整っていない方が、いろいろあって素敵だわ!」
そう言って、リリスは花の前にしゃがみ込んだ。
あれも、これも、と視線が動き、指先で花びらに触れかけて、途中で止める。
触っていい花かどうか分からないのだろう。
ルシファーは隣へしゃがみ、細い茎を一本手に取った。
「何をするの?」
「花冠を作ろうと思って」
「はな、かんむり?」
リリスは聞き慣れない言葉を、ゆっくり繰り返した。
「花をつないで、輪にするんだ。頭にのせて遊ぶんだよ」
「そんなことができるの?」
「うん」
ルシファーは細い茎を選び、花と花を絡めるように編み始めた。
手つきは慣れていて、力を入れすぎず、茎を折らず、花の向きが外へ出るように整えていく。
リリスは、その手元をじっと見つめていた。
「ルシファーは、こういうこともできるのね」
「昔、よく作ってあげていたからね」
「誰に?」
「ミカエルやガブリエルたち兄妹に。まだあの子たちが小さかった頃だよ」
「小さかった頃?」
リリスは不思議そうに首を傾げる。
ミカエルもガブリエルも、リリスの知る限り、最初から整った天使だった。
強く、正しく、優しく、少し怖いほど揺るがない。
彼らが小さかった頃など、想像したことがない。
「うん。今よりずっと素直だった」
「今は素直じゃないの?」
「……それは本人たちに聞かない方がいいかもしれない」
リリスは笑った。
ルシファーの手元では、花が少しずつ輪になっていく。
「お友達の、ベルゼブブ? にも作ってあげていた?」
その名前を聞いた瞬間、ルシファーの指が止まった。
ほんの短い間だった。
それから、彼は堪えきれないように笑った。
声を立てすぎないようにしているのに、肩が少し揺れている。
リリスは目を丸くした。
「私、そんなにおかしいことを聞いた?」
「いやっ……」
ルシファーは笑いを抑えながら、花の茎を編み直した。
「俺がベルに花冠なんて渡したら、本気で『どういうつもりだ』って怒るだろうな、って」
「本当!?」
リリスは心底驚いた顔をした。
「花をもらって怒る人もいるのね!? 不思議だわ!」
「ベルは、花より食べ物の方が喜ぶかもね」
「そうなの」
リリスはしばらく考え込んだ。
「……私も、ルシファーみたいに『ベル』って呼んだら怒られる?」
「大丈夫だよ、ベルはそっけない態度をとるけど、根は優しいからね」
「そう……会ってみたいわ、ベル」
ルシファーの指が、また止まる。
ベル。
天界に残してきた友。
自分が出ていく時、何も言わずに来た相手。
彼が今どうしているのか、ルシファーには分からない。
けれどリリスの口から会ってみたいと言われると、喉の奥に小さな痛みが戻ってきた。
それでも、嫌な痛みではなかった。
「いつか会えるといいね」
それは約束ではない。
けれど、完全に遠ざける言葉でもなかった。
リリスは嬉しそうに頷いた。
「ええ。花冠を渡したら怒るかどうか、見てみたいもの」
ルシファーが、また小さく吹き出す。
「フッ…君には怒りきれないだろうけど……どうなるかな」
「それなら、食べ物も用意するわ!」
「君は賢いね」
「この前もそう言ってくれたわね」
「本当のことだからね」
リリスが嬉しそうに口元を緩めるその顔に、ルシファーの返事がまた一拍遅れる。
ルシファーが編んだ花冠は、やがて小さな輪になった。
薄紫と白と、少しだけ黄色が混じっている。
整えられた庭の冠とは違い、野の花をそのままつないだ、不揃いでやわらかな輪だった。
「できたよ」
リリスは目を輝かせた。
「綺麗……」
「のせてみる?」
「え、私に?」
「君に似合うと思って作ったからね」
リリスは少し目を丸くした。
それから、慎重に頷く。
「……じゃあ、お願い」
ルシファーは花冠を持ったまま、すぐには近づかなかった。
「少し近づいてもいい? 髪には触れないようにする」
「……ええ」
「嫌だったら言って」
「分かってるわ」
リリスは少しだけ笑った。
その笑みが、緊張をすべて消したわけではないことを、ルシファーは知っている。
それでも、彼女が自分で頷いたことも分かっている。
だから、ゆっくり近づき花冠を菫色の髪の上に軽くのせる。
ルシファーの指先が、すぐそばを通る。
けれど、リリスは息を止めなかった。
近い。
でも……怖くない。
花冠をのせ終えると、ルシファーは一歩離れた。
リリスは両手でそっと花冠に触れる。
「……どう?」
ルシファーは、答えるまでに少し遅れた。
花の色は、リリスの髪によく映えていた。
薄紫も白も、彼女の深い瞳の赤を邪魔しない。
庭で作られた花冠なら、もっと整っていたかもしれない。
けれど今の彼女には、この不揃いな花の方が似合っているように見えた。
「……似合っているよ」
「本当?」
「うん」
「少し遅かったわ」
「……見てた」
「そう」
リリスは、花冠に触れたまま笑った。
その笑顔は、昨日までのどの笑顔とも違ってルシファーの瞳の奥に焼きついた。
明日、彼女が何を選び、何に出会い、どんな顔を見せてくれるのか。
それを見たいと思ってしまったことに気づいて、ルシファーは目を伏せる。
その思いは、まだ名前を持っていない。
どうやら、また言葉を探す必要がありそうだった。
◇
エデンの庭の一画に、三天使は集まっていた。
天使たちの間にある空気は、以前より重々しかった。
マンゲロフが言った。
「彼女は、明確に戻らない理由を持っている」
サンセノイは腕を組む。
「それだけではない。言葉にできるようになっている。自分の感じたことを、神の祝福より先にしている」
マンゲロフの声は低かった。
「……始まりの女がそれを口にすることを、これ以上軽視することはできない」
サンセノイの表情が険しくなる。
「危うい」
セノイはしばらく黙っていた。
彼は、リリスを罰したいわけではない。
連れ戻す道があるなら、まだ示したいと思っている。
神がそう望むなら、なおさらだ。
けれど、リリスの言葉はもう、単なる拒否ではなかった。
戻らない、怖かった、祝福ではなかった。
私に座ってほしい席。
「神へ報告しよう。 判断は、我々が下すものではない」
セノイは言った。
三つの白い姿が、神の部屋へ向かって動き出した。
◇
花畑では、リリスが新しい花を選んでいた。
花冠をのせたまま、あちらこちらへ視線を動かしている。
候補が多すぎるのか、ひとつ選んではやめ、別の花へ手を伸ばしては考え込む。
その様子を、ルシファーは少し離れて見ていた。
手伝おうかとは言わない。
選ぶのはリリスだ。
やがて、彼女は小さな青紫の花の前で止まった。
前の菫色の花に少し似ている。
けれど同じではない。
花びらは前より細く、色は淡い。
近づくと、かすかに甘い匂いがする。
目立つ花ではないが、光の中で見ると、内側に小さな銀色が混じっていた。
リリスはそれを指先でそっと摘まんだ。
「今日は、これが好きだわ」
ルシファーは静かに頷く。
「覚えておくよ」
リリスは花を見たまま、少しだけ首を傾げた。
「明日は違う花を好きになるかもしれないわ」
「それも覚えておく」
「全部?」
「できる限り」
リリスは黙った。
今日好きだった花。
明日好きになるかもしれない花。
それを選んだ自分。
そのどれも、急いで同じ形にしなくていいのだと、彼は言っているようだった。
「ルシファーは、変なものをたくさん覚えるのね」
「そうかな?」
「ええ。でも、いいと思うわ」
「それならよかった」
リリスは、青紫の花を大切そうに胸の前に持った。
帰り道、ルシファーは、リリスの少し後ろを歩いた。
花冠をのせたまま、森の中を歩く彼女は、昨日より軽やかに見えた。
時々、花冠が落ちないか確かめるように手を添え、花びらが髪の上で揺れる。
振り返ったリリスが、ルシファーの姿を確かめては、安心したように目を細めて笑った。
寝床へ戻る頃には、夕方の色が森に混じり始めていた。
リリスは今日選んだ青紫の花を、白い羽のそばに添えた。
昨日まで菫色の花があった場所に、新しい花が揺れている。
少し寂しい。
けれど、嫌な寂しさではなかった。
土に返した花のことも、今日選んだ花のことも、どちらもリリスの中に残っている。
花冠は、寝床の近くの低い枝にそっと掛けた。
朝になったら、しおれてしまうかもしれない。
それでも、今日の間だけでもそこにあればいい。
今日の好きなもの、嬉しかったものとして。
◇
夜が来ると、ルシファーは、羽音と共に寝床から少し離れた木へと移り腰を落ち着けた。
それが、リリスには少しおかしな光景として映る。
木の上から手をふるルシファーの姿に、やっぱり鳥に仲間と思われても仕方がなさそうだと思い、困ったように笑って手を振り返した。
「おやすみ、リリス」
木の上から声が降りてきた声を聞きながら、リリスは白い外套の上に横になる。
傍に置いた青紫の花と白い羽に手を添えながら言った。
「おやすみ、ルシファー」
光る草花が、淡く灯っている。
寝床のそばには今日の花と、近くの枝には花冠。
少し離れた木の上には、ルシファーがいる。
リリスはひとつひとつを思いながら目を閉じた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。
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