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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第49話「残された席」

入り江には、朝の光が低く差していた。


波はまだ静かで、岩の縁を濡らしては、白い泡を残して引いていく。

何度も見たはずの海なのに、リリスはそのたびに違うものを見る。

昨日より明るい、昨日より冷たい、昨日より遠くまで続いている。

同じものなのに、同じではない。

そのことを知ってから、リリスは少しだけ海を見るのが好きになっていた。


けれど今日は、足を水へ浸す前に羽音がした。


三つ。


もう、聞き間違えたりはしない。

セノイ、サンセノイ、マンゲロフ。

リリスは座った岩の上で、ゆっくり振り返った。

以前なら、身体の方が先にこわばっていた。

今も怖くないわけではない。

話をするときは喉の奥は重くなるし、指先にも力が入る。

それでも、すぐに逃げ道を探すことはなくなっていた。


セノイが、少し離れた岩場へ降り、サンセノイはその後ろに立ち、マンゲロフはいつものように黙って周囲を見た。


「リリス」


セノイの声は穏やかだった。


「今日も話をしに来た」


「戻らないわ」


リリスは海を背にして答えた。

自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。

その言葉を聞くたび、三天使の顔が少しずつ変わっていくことに、リリスは気づいていた。

初めの頃、彼らはリリスを、疲れているだけだと思っていたのだろう。

知らない場所で怯えているだけで、時間をかけ道を示せば、きっと戻るのだと思っていた。

けれど今は違う。

彼らの視線には、警戒が混じり始めている。

リリスが戻らないからではない。

戻らない理由を、明確に言葉にし始めているからに他ならなかった。


セノイはいつもの通りにゆったりと告げた。


「神は、なおも君の場所を残しておられる」


また、その言葉。

リリスの指が、岩の上で軽く曲がった。

君の場所は残っている。

庭で聞いた時、その言葉は一見、優しく響いた。

追い出されていない、消されていない、戻ることはできる。

そう言われているようだった。

けれど、その先にあるものは、リリスが息をできなかった場所と同じだった。


「君が戻る道は、閉ざされていない」


セノイは続ける。


「始まりの女としての席は、まだ失われていない」


その言葉を、リリスはゆっくり受け止めた。

そこに座るために用意されたもの。

座れば安心だと、残されていることを慈悲だと言われるもの。


けれど、リリスはもう知っている。

席が残っていることと、そこに座りたいことは同じではない。


「残っているのは、私の場所ではないわ」


風が、菫色の髪を揺らす。

セノイの瞳が動き、サンセノイが眉を寄せる。


「では、何だというのだ」


リリスは、すぐには答えられなかった。


言葉はある。

けれど、それを外へ出すには力がいる。

出した瞬間、また何かを拒む女にされるかもしれない。

反抗的だと言われるかもしれない。

神の慈悲を理解しない者だと言われるかもしれない。


それでも、今日は飲み込まなかった。

ルシファーが待っている。

ふと、そう思った。

彼が聞いているわけでも、ここにいるわけでもない。

けれどリリスの中には、彼の声が残っていた。


——急いだら、君の言葉じゃなくなるだろう?


だから、これは急がない。

急ぐ必要なんてない。

自分の言葉で伝える。


「私に座ってほしい席でしょう?」


三天使が黙った。

波が岩に当たり、足元近くまで水が寄せる。


リリスは続けた。


「あそこに戻れば、私はまた始まりの女になる。アダムの隣にいる者になる。祝福を受けた者になる」


その一つ一つは、エデンの中では美しい言葉だっただろう。

けれど、リリスの中にはもう、その光だけでは届かない。


「でも、私がそこで息をできるかどうかを、誰も聞かないわ」


サンセノイの声が硬くなる。


「君の感じ方だけで、神の祝福を拒むつもりか?」


「感じ方だけ、なの?」


リリスはサンセノイを真っすぐに見つめた。

強く睨んだわけではない。

ただ、目を逸らさなかった。


「私が怖かったことも、苦しかったことも、息ができなかったことも、全部、私の感じ方だけで終わるの?」


サンセノイが言葉に詰まったのを察して、セノイが、穏やかな声で割って入る。


「君の苦しさを軽んじているわけではない。ただ、戻る道があるなら、そこへ帰ることが最も安全だと言っている」


「安全な場所で、私は笑えなくなったわ」


リリスの声は小さかった。

けれど、波の音には消されなかった。


マンゲロフが、じっとリリスを見ていた。

その目は冷たく、でも、今日も一言も聞き漏らさずに聞いている。

リリスはそう思った。


「……これ以上、離すことなんてないわ」


セノイは目を伏せた。


「……分かった。今日はここまでにしよう」


サンセノイは何か言いたげだったが、セノイに視線で制される。

広がった三対の白い羽が、入り江の青の中でひどく明るく羽ばたいた。

リリスは、それを見上げずに、羽音が遠ざかるまでただ波を見ていた。


こわばっていた肩から力が抜けると、いっきに疲れが流れ込んできた。

指先には、まだ力が残っている。

けれど以前のように、自分がなにか悪いものになっていく感じはしなかった。

 

言えた。


残っているのは、私の場所ではない。

私に座ってほしい席だ。


そう言えた。


それだけで、足元の砂が少しだけ固くなった気がした。



 

森へ戻ると、ルシファーは寝床の近くにある木陰にいた。


今日は木の上ではなく、幹に軽く背を預けている。

羽は小さく畳まれているが、やはり枝に擦れたらしく、白い羽の先に葉のかけらがついていた。

リリスが近づくと、彼は顔を上げる。


「おかえり」


リリスは足を止めた。

その言葉は、昨日よりも自然に聞こえた。


帰る場所。

そう言っていいのかは、まだ分からない。

けれど入り江から戻ってきて、その声が聞こえた時、指先に残っていた力が抜けていった。


「……ただいま、でいいのかしら?」


「君がそう言いたいなら」


「また曖昧?」


「でも、嫌ではないよ」


ルシファーは小さく笑った。

その声に、リリスの息が戻る。


ルシファーは、三天使が何を言ったのかを急いで聞かなかった。

リリスの顔を見て、疲れていることは分かっているはずなのに、すぐに理由を求めない。

それが今はありがたかった。


リリスは白い外套の上へ腰を下ろした。

しおれた菫色の花と、白い羽がそばにある。

光る草花はまだ夜を待っていて、今はただ薄い青緑を内側に抱えていた。


ルシファーも、少し離れた隣に腰を下ろす。

近すぎない、けれど、遠くもない。

いつもの距離。


「……また、場所は残っていると言われたわ」


リリスは言った。


「うん」


「残っているのは、私の場所じゃないと思ったの」


ルシファーは何も言わずに聞いている。


「そこへ戻れば、食べ物もある。水もある。柔らかい寝床もある。アダムもいる」


リリスは、足元の草を見た。

自分で選んだ草。

毎晩少しずつ増やし、硬い小石や土を避け、外套を敷いて、どうにか眠れるようにした場所。

エデンの寝床より、ずっと不便だ。

けれど。


「あそこに戻ったら、私はまた同じ席に座らなければならない」


言葉にすると、喉の奥が少し痛んだ。


「戻れる場所があることは、優しいことなのかもしれない。でも、戻ったらまた同じ私に戻らなければいけないなら、それは怖いわ」


ルシファーは、ゆっくり息を吐いた。


「……俺にも、戻れば席はあるのだと思う」


リリスは顔を上げた。


「天界に?」


「うん。父上は、きっと用意する」


その声に怒りも諦めもない。

ただ、神という存在をよく知っている者の、静かな確信があった。


「父上は、俺を消そうとはしないだろう。戻るなら、戻った後の俺にも、何らかの形を用意すると思う」


「でも、戻らないの?」


ルシファーは目を伏せた。


「戻れば、父上の言葉を読む者としての席はある」


森の葉が、小さく鳴る。


「でも、そこに座った俺は、もう前と同じ俺ではいられない」


その言葉は、リリスの中に深く沈んだ。


同じではない。

戻れる場所はある。

でも、戻ったら、自分でなくなってしまう。


リリスがエデンの席に戻れば、また始まりの女になる。

アダムの隣にいる者になる。

祝福を受け取る者になる。

そこには、苦しかった自分や怖かった自分は入れない。

ルシファーも、天界に戻れば、父上の言葉を読む者になる。

でも、今ここでリリスの話を聞いている彼は、もうそのままでは戻れない。


「少し、似ているのね、私たち」


ルシファーはすぐには答えなかった。

その沈黙が、今は怖くない。

彼が言葉を探しているのだと、もう知っている。


「そうかもしれないね」


「また曖昧なのね」


「でも、嘘ではないよ」


いつも通りの返し方が、今日は少し違って聞こえた。

少し、似ていいるけれど、同じではない。

それでも、互いの中にある痛みの形が、どこかでかすかに重なる。


リリスは、菫色の花を見た。

花びらも弱りきっている。

けれど、その色はまだ確かに残っていた。


「ルシファーは……」


リリスは、ふと聞いてみたくなった。

心の澱を打ち明けたあとでも、やっぱり彼はここにいる。

なら、別のことも聞いていい気がした。


「天界では、どんなふうに過ごしていたの?」


ルシファーは少し意外そうに瞬いた。


「俺?」


「ええ」


「そうだね。本を読んで、父上の言葉を読んで、天使たちに教えて、紅茶を飲んでいたかな?」


「また紅茶?」


「うん、また紅茶」


ルシファーは小さく笑う。


「紅茶って、そんなに大事なものなの?」


「俺にはかなり大事だったね」


「飲み物が?」


「落ち着くんだよ」


「天使も落ち着くために何か飲むの?」


「少なくとも俺は飲んでいた」


「……天界にいた頃から変だったのかもしれないわね」


「それは困ったな」


困ったと言いながら、ルシファーは少し楽しそうだった。

その顔を見ると、リリスも少し楽になる。


天界。

白く、遠く、整っていて、自分の苦しさが祝福と呼ばれた場所。

その場所にいたルシファーの話を、リリスは聞いている。

怖いだけの場所ではないのかもしれない。

少なくとも、彼が紅茶を飲み、本を読み、誰かに教えていた場所でもある。


「ミカエルとガブリエルには、どんなお兄さんだったの?」


ルシファーは考えた。


「どうだろうね。よく面倒は見ていたと思うよ?」


「優しいお兄さんだった?」


「たぶん。少し甘かったかもしれない」


「少し?」


リリスがじっと見ると、ルシファーは目を逸らした。


「……かなり、かもしれない」


「やっぱり」


「なぜ納得したんだい?」


「だって、今もそうだもの」


リリスは素直に言った。

ルシファーは返事に困ったような顔をした。


「俺は、君に甘いのかな?」


「違うの?」


「……自覚はあまりないんだけど」


「それなら、なおさら問題だわ」


「手厳しいな」


言いながら、ルシファーのその穏やかな声をリリスは聞いていた。


彼が差し出してきたものを、思い出す。

使うかどうかを聞いた布。

好きかどうかを選ばせた花。

話せるまで待つと言った声。

近づきすぎない隣。

そういうものが、少しずつ積み重なっている。


「他に親しい天使はいた?」


リリスが聞くと、ルシファーの表情がわずかに変わった。


懐かしむような、痛むような。


「いたよ。ベルゼブブという天使がいた。友達だった」


「その天使も、あなたを変な天使って言った?」


ルシファーは笑った。


「たぶん、もっと遠慮なく言っただろうね」


「友達なのに?」


「友達だから、かな」


リリスはその言葉を考えた。


友達。


ガブリエルは教育係だった。

ミカエルはエデンを守る天使だった。

アダムは伴侶として与えられた男だった。

お父様は自分を生み出した、神と呼ばれる存在だった。

みんな、名前より先に役目があった。


友達、というのは、どういうものなのだろう。


「友達って、どういうもの?」


ルシファーはすぐには答えなかった。

今日の彼は、よく言葉を探す。

でも、リリスは待てるようになっていた。


「……難しいな」


ルシファーは言った。


「一緒にいても、相手を決めつけなくていい相手、かな?」


「決めつけなくていい相手」


リリスは繰り返した。

その言い方が、手の中に置かれた小さな石のように残る。


「……私とルシファーは、友達?」


言ってから、恥ずかしくなり、視線が落ちる。

でも、取り消さなかった。


ルシファーがリリスを見るその目は、穏やかだった。


「君がそう呼びたいなら、そうかもしれないね」


「また曖昧なのね」


「急いで名前をつけなくてもいいと思って」


リリスは口をつぐんだ。

名前をつける。

神は、ものに名を与える。天

使にも、役目にも、庭にも、始まりにも。

名前がつくと、安心することもあるのだろう。

でも、名前がつくことで、その中に閉じ込められることもあるのかもしれない。


友達。

変な天使。

ルシファー。

どれも、まだ少しずつ手触りが違う。


急がなくていい。

そう言われると、その言葉をしばらく持っていられる気がした。


 


やがて、森に夕方の匂いが混じり始めた。

光る草花が、ほんのり灯り出し、夜が近づく合図をする。

いつもなら、ルシファーが離れた場所へ去っていく頃合いだということを、リリスは知っていた。

彼が毎晩、寝床から離れた木の上や、森の別の場所で休んでいることも。


毎日来る。

毎日、戻る。

そしてまた、別の場所へ行く。

急に、それがひどく不便に思えた。


「あのね、ルシファー」


「なんだい?」


リリスは、ふと思ったままを口にした。


「毎日来るなら、私の寝床の近くの木で眠ればいいじゃない?」


ルシファーの動きが止まった。


「……いいの?」


リリスは、なぜそんなに驚くのだろうと思った。


「だって、毎日ここまで来て、また別の場所へ行くのは不便でしょう?」


「それは、そうかもしれないけど……」


「と、隣とか、真上とか、近すぎるのは困るわ」


「うん」


彼の返事は早かった。


「君が眠れる距離にする」


そういうところだ。

リリスは、そう思った。

ルシファーはいつも、当たり前のように少し離れる。

最初に近づかないでと言ったからだろうか。

怖がらせないようにしているのだろうか。

でも今、自分は寝床の近くの木にいてもいいと言った。


毎日来ることも、嫌ではない。

羽に触れることも、嫌ではない。

嫌ではない。

まだ、そこから先は分からない。

分からないけれど、もう遠くにいてほしいとは思っていない。

 

ルシファーは、少し離れた木を見上げた。

枝ぶりがよく、寝床からも見える。

近すぎず、声をかければ届く距離だった。


「じゃあ、今日はあの木にしようかな」


「ええ」


「本当にいい?」


「いいって言ったのは私よ?」


「ごめん」


「でも、確認してくれるのは嫌じゃないわ」


ルシファーは笑った。


「覚えておくよ」

 


夜が来る。


リリスは外套の上へ横になった。


弱った菫色の花は、明日には土へ返した方がいいかもしれない。

白い羽は、その隣で小さく光を受けていた。

少し離れた木の上で、ルシファーが羽を畳む音がした。


本当に、そこにいる。

リリスは寝床の上で目を開けたまま、その気配を聞いていた。


「じゃあ」


木の上から、ルシファーの声がする。


「おやすみ、リリス」


リリスは動きを止めた。


おやすみ。

庭にいた頃にも、聞いたことはある言葉だったかもしれない。

けれど今のそれは、眠るように命じる声ではなかった。

同じ夜の中で、少し離れて休むための言葉だった。


リリスは外套の端を握った。

光る草花が、寝床のそばで淡く灯っている。

木の上にはルシファーがいる。

遠くない。

近すぎもしない。


「……おやすみ、ルシファー」


思ったより柔らかく発せられた自分の声に驚いて、リリスは慌てて目を閉じる。


森の夜は、今日も暗い。

けれど、すぐ近くの木に羽の気配がある。

それだけで、夜の暗さは少しだけ遠くなっていた。

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