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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第48話「祝福ではないもの」

三天使が庭へ戻った時、エデンには午後の光が満ちていた。

水は澄み渡り、花は光を受け、木々は変わらず実をつけている。

高い枝では鳥たちが羽を休め、草の葉には、朝の露の名残がまだ細く光っていた。


何ひとつ欠けていない。

そう見えるほど、庭は今日も美しく整っていた。

けれど、その美しさは、ガブリエルの中へ少しも入ってこなかった。


アダムは庭の奥にいる。

少し前までは、リリスの名を呼びながら庭を歩き回っていた。

川辺へ行き、花の多い場所へ行き、木陰を覗き、彼女が通りそうな場所を何度も見に行った。

今は、動くことさえ少なくなっている。


果実を差し出されれば受け取る。

声をかけられれば顔を上げる。

けれど、その目はすぐに別の場所へ沈んでいく。

リリスがいない場所へ。

 

ガブリエルは、その姿を見るたびに喉の奥で言葉が詰まった。


アダムのことだけではない。

リリスのこと。


自分の手は、あの子の髪を何度も梳いた。

白い衣の裾を整え、水浴びのあと、長い髪を布で包んで拭いた。

まだ何も知らなかったリリスに、庭での過ごし方を教えた。

食べ物のことや、眠る場所のこと。

身体のこと、アダムのこと。


教えた。

自分が教えたのだ。

そのことが、今になって、水差しを握る指の奥へ棘のように残っていた。


「今日も、まだ戻る意思は見られませんでした」


セノイの声は、相変わらず穏やかだった。

穏やかすぎて、ガブリエルは目を伏せる。

ミカエルは隣で黙っていたが、肩越しに伝わる気配は張り詰めていた。

責めているのではない。

ただ、事態が悪い方へ動いていることを、彼も感じていた。

セノイが言葉を継いだ。


「ただ、拒む理由は、以前よりもはっきりしています」


理由。

その言葉がガブリエルの深いところに落ちて、持っていた水差しの取っ手を握りこむ。

 

それは本来、喜ぶべきことだったのかもしれない。

あの子がただ怯えているだけではなく、自分の口で何かを言おうとしているということだからだ。

だが、その理由が庭へ戻るためのものではないのなら。

祝福を受け入れるためのものではないのなら。

それを、ガブリエルは、どう受け取ればいいのか分からなかった。


サンセノイが、不快げに眉を寄せた。


「アダムの愛を告げても、戻ろうとはしなかった」


「愛を……?」


ガブリエルの声は、自分でも分かるほど掠れていた。


「彼は彼女を愛している。今も深く落胆している。その愛に報いるべきではないかと伝えた」

サンセノイは、正しいことを述べるように言った。


「だが、彼女はそれさえ拒んだ」


その言葉は、庭の明るさの中でひどく冷たく聞こえた。

 

リリスは拒んだのだろうか。

それとも、拒むしかなかったのだろうか。

ガブリエルは唇を結んだ。


「彼女は、アダムを嫌っていたわけではないと言った。それから、怖かった、と」


マンゲロフのその声は低く、乾いていた。

 

ガブリエルの息が止まった。


怖かった。

リリスが。

あの子が。

 

水浴びのあと、膝を揃えて座っていた時も。

髪を梳かれながら、じっと手元を見ていた時も。

アダムの話を聞いて、視線を逸らした時も。

あの子は怖かったのだろうか。


自分は、その怖さを見なかった。

見れていなかったのか。


ガブリエルは、ようやく声を出した。

 

「……リリスは、そのようなことを、今まで誰にも言えずにいたのか」


誰もすぐには答えなかった。

ミカエルの手が、そっとガブリエルの肩へ触れる。

いつものように真っ直ぐな、安心させようとする手。

けれど今、その温かささえ届かなかった。


セノイが静かに言った。


「彼女は、一時の感情だけで拒んでいるのではないようです。自分の中で、戻らない理由を持ち始めています」


「理由ではない、反抗に言葉を与えているだけだ」


 サンセノイの声がこわばる。


サンセノイを見たマンゲロフが口を開く。


「我々がどう呼ぶかと、彼女がそこから動かないことは別だ。ならば、なおさら放ってはおけない」


サンセノイの羽が、わずかに揺れ、セノイも肩を揺らした。


「始まりの女が、愛も祝福も退け、自分の感じたことを先にするなら、それは危うい」


マンゲロフのその言葉に、場には重い静けさだけが満ちた。


セノイはすぐには答えない。

彼もまた、分かっていた。

リリスは、ただ庭に帰りたくないだけではない。

戻らないための言葉を、少しずつ手にし始めている。

それは、説得に応じない娘というだけでは済まない。


神が与えた席の外で、自分の感じたことを先にする娘。

その事実が、白く整った庭の中で、ゆっくり影を濃くしていった。



 



 

翌日、ルシファーはいつも通りに来た。

草を踏む音がして、リリスは顔を上げる。


朝というには少し遅く、昼にはまだ遠い。

森の影はやわらかく、昨夜の光る草花は色を失い、花びらの奥に残っていた青緑も朝の空気に溶けていた。


「おはよう、と言っていい時間かな」


ルシファーは少し首を傾げた。

今日の羽にも、小さな葉がひとつついている。


リリスはそれに気づいた。

いつもなら、すぐに言ったかもしれない。

けれど今日は、言葉が別のところで止まっていた。


昨日の話が、まだ残っている。

 

アダムのこと。

愛と呼ばれたもの。

怖かったもの。

それを話したあと、ルシファーは怒らなかった。

責めも慰めもせず、大丈夫だとも言わなかった。


ただ聞いていて、そして、黙っていた。

その沈黙の奥に何があったのか、リリスにはまだ分からない。


「たぶん、まだいいんじゃないかしら」


そう答えると、ルシファーは笑った。


「よかった」


彼は果実と木の実を持っていた。

いつものように、葉の上へ分けていく。

近すぎず、遠すぎず、リリスの手が届く距離。

何度も繰り返されてきたその距離が、今は少しだけ息をしやすくしてくれた。


リリスは、果実を見つめた。

受け取ることには、もう躊躇いはない。

けれど今日は、別のことを聞かなければ、喉の奥につかえたままになりそうだった。


「昨日のこと……」


「うん」


「聞いて、嫌だった?」


ルシファーはすぐに答えなかった。

リリスの指が、白い外套の端をつまむ。


その一拍が、怖い。


やはり、聞きたくなかったのかもしれない。

嫌な話だったかもしれない。

自分の中にあったものを渡してしまったことで、彼の目に自分が別のものとして映ったのかもしれない。

そんな考えが揺れた時、ルシファーは静かに言った。


「嫌ではなかったよ」


「でも、黙っていたでしょう?」


「うん」


否定しない。

いつもそうだ。

彼は、リリスの見たものを安易に否定しない。


「君の話を、俺の言葉で塞ぎたくなかったんだ」


リリスは瞬いた。


「塞ぐ?」


「俺がすぐに何かを言えば、君が渡してくれたものの上に、俺の感じたことが重なってしまう気がした」


ルシファーは、自分の手元を見た。


「君が、ようやく自分の言葉で話してくれたから」


リリスは、外套の端を指で撫でた。


自分の言葉。

昨日の言葉は、きっと綺麗なものではではなかった。

途切れそうで、何度も喉の奥へ戻りかけた。

怖い、と言うだけで、息が詰まりそうだった。

それでも、誰かが用意した言葉ではなく、自分自身が紡いだ言葉だった。

だからルシファーは、すぐに返さなかったのだろうか。

自分の言葉で、覆ってしまわないために。


「……もう少し」


リリスは小さな声で言った。

でも、昨日より少しだけ、出し方に困らなかった。


「もう少し、話してもいい?」


ルシファーは急がなかった。

驚いた顔もしなかった。


「君が話したいなら」


リリスは膝の上で手を握り、一度息を吐いてから話し始めた。


「私は、お父様に聞きに行ったの」


ルシファーの気配が、わずかに静まる。


「アダムの隣にいることが、どうして当たり前なのか。私が嫌だと思うことを、どうして受け入れなければならないのか。私の言葉は、どうしていつも後になるのか」


あの庭での出来事を思い出す。

神は、静かで乱れがなく、何も間違っていないように見えた。

あの時のリリスはまだ、話せば何かが変わるかもしれないと思っていた。

聞けば、分かってもらえるのではないか。

苦しいと言えば、苦しさを祝福ではない名前で受け取ってもらえるのではないか。

怖いと言えば、その怖さを見てもらえるのではないか。


「お父様は怒らなかった。 罰しようともしなかった。私の言葉を、途中で遮りもしなかった」


「うん」


「お父様は、私が苦しいことも、怖いことも、自分のいる場所を見つけられずにいることも、たぶん全部分かっているみたいだった」


神は、分からなかったのではない。

少なくとも、リリスにはそう思えた。

聞いていなかったのでも、見ていなかったのでもない。

静かに受け取り、そのうえで、神は言葉を返した。


「それでも……」


リリスの声が細くなる。


「それでも、お父様は、それを祝福だと言ったの」


森の葉が、かすかに鳴った。

ルシファーは動かず、リリスの言葉が落ちるのをただ待っているようだった。

リリスは、膝の上で両手を重ねる。


「始まりの女として創られたこと。アダムの隣にいること。命を繋ぐこと。私の身体も、私の役目も、全部、お父様の言葉の中では祝福だった」


祝福。

その言葉はあまりに明るすぎた。

苦しいと言っているものに、その光を当てられると、苦しさの方が置き場を失ってしまう。

怖いと感じる自分だけが、祝福を受け取れない悪いもののように思えてしまう。


「祝福だと言われた瞬間……」


リリスは息を吸った。

あの時の白い静けさが、膝に重ねた手の上へ戻ってくる。


「苦しいと言う場所が、なくなった気がしたの」


ルシファーの瞳の奥が、わずかに深くなる。

表情は大きく変わらない。

けれど、確かに聞いてくれている。

リリスはそれを感じながら続けた。


「私が怖いと思ったものも、お父様から見れば祝福だった。なら、私は何を怖がっているのかしらと思ったわ。私の感じ方が間違っているのかしらって」


唇が震えた。


「でも、間違っていると言われた方が、まだ分かりやすかったかもしれない」


神は、そうは言わなかった。

間違っているとも、愚かだとも、わがままだとも言わなかった。

ただ、世界が進むための言葉を返し、リリスという女に与えられた席を祝福として示した。


「お父様は、私の場所は残っているとも言ったわ」


リリスは白い外套を見た。

草花の上に広げられた布。

夜の冷えから身体を守ってくれた布。

顔を隠すことも許してくれた布。

ここにある寝床は、神が残した場所ではない。

草を選び、花を飾り、白い羽を添え、ルシファーの外套を借りて、リリスが手探りで夜を越してきた場所だ。

神が言った場所とは違う。

 

戻れば、食べ物も水もある。

眠る場所もある。

アダムもいる。

神の言葉の中で、リリスの席はまだ残っている。

でも。


「でも、そこに戻ったら、私はまた同じ席に座るだけ」


声は静かだった。


「お父様の言う場所は、私のための場所ではなくて、私に座ってほしい場所なの」


ルシファーは、長い沈黙のあとで言った。


「……父上らしい言葉だ」


リリスは彼を見る。


「あなたは、お父様を悪い方だとは言わないのね」


「うん」


「どうして?」


「父上は、たぶん嘘を言っていないから」


リリスは眉を寄せた。


「嘘を言っていない?」


「君の場所を残していることも、君に与えたものを祝福と呼んでいることも、父上の中では本当だと思う」


ルシファーの声は穏やかだった。

神をかばう響きではない。

けれど、憎しみもない。


「父上は、世界が続く形を見ている。その形の中で、君の席はあった。君の役目もあった。それを祝福と呼んだ」


リリスは黙って聞いた。

反論したいわけではなかった。

でも、苦しさが消えたわけでもなかった。

ルシファーは、そこで初めて彼女をまっすぐ見た。


「でも、父上が嘘を言っていないことと、君が苦しくなかったことは同じではない」


リリスの指が、膝の上で止まった。

ルシファーは続ける。


「父上が祝福と呼んだものを、君が祝福として受け取れなかったなら、君の中では、それは祝福ではなかったんだろう」


リリスは、何も言えなかった。

神の言葉を否定してほしかったわけではない。

お父様が間違っていると、誰かに言ってほしかったわけでもない。

ただ、自分の苦しさを、なかったことにしないでほしかった。


祝福と言われても苦しかった。

愛と言われても怖かった。

そのことを、そのまま聞いてほしかった。


ルシファーは、神の言葉を知っている。

その重さも、整った美しさも、誰より近くで読んできた。

そのルシファーが、リリスの苦しさを消さなかった。


リリスは、重ねていた両手をほどき、深く息を吸った。

なくなったわけではない。

けれど、固く閉じていた場所に、ほんの少し空気が通った気がした。



しばらく、二人は何も言わなかった。


静かな森の遠くの方で、鳥が鳴き、近くの草の間を小さな虫が動く。

昨日よりしおれた菫色の花が、外套の上で弱く首を傾けている。


リリスは、その花を見ていた。

思いを吐き出したあとは、身体が疲れる。

けれど今日は、疲れだけではなかった。

自分の中にあったものを少し外へ出したことで、その分だけ、別のものが入る場所ができたような気がした。


ふと、前に聞いた言葉を思い出す。


「ねえ」


「うん?」


「前に言っていたでしょう。たると、って何?」


ルシファーは、少しだけ瞬いた。


「タルト?」


「そう。それから、こーちゃ」


「紅茶だね」


「紅茶……」


「うん」


リリスがあまりに真面目に言うので、ルシファーは小さく笑った。

その笑い方に、リリスの指先の強ばりがゆるむ。

こんな話をしたあとでも、彼は笑う。

笑ってくれる。

それが、今はありがたかった。


「タルトは、甘い菓子だよ」


「甘い果実とは違うの?」


「違うね。果実そのままのせたり、焼いたり、クリームを合わせたりする」


リリスは目を丸くした。


「焼くの?」


「うん」


「果実を?」


「果実を」


リリスは少し考えた。

木からもいだ果実は、そのまま食べるものだと思っていた。

洗ったり、切ったりすることはあっても、火にかけるなんて考えたことがない。

甘い果実を、さらに別の食べ物にする。

エデンには果実がたくさんあったのに、そんなことを誰も教えなかった。

それとも、自分が知らなかっただけなのだろうか。


「……果実を焼くなんて、不思議だわ」


「食べたら意見が変わるかもしれない」


「おいしい?」


「俺は好きだよ」


「ルシファーが好きなものなのね」


「そうだね」


リリスは、少しだけ前のめりになる。

知らないものを聞きたい。

知りたい。

怖い話ではなく、ただ知らない話を。


「それは、紅茶と一緒に食べるもの?」


「合うものもあるよ。果実の種類にもよるけれど、甘いタルトなら渋みのある紅茶が合うことが多い」


「しぶみ?」


「苦いとは少し違う。口の中が引き締まる感じかな」


リリスは眉を寄せた。


「甘いものを食べるのに、どうしてそんなものを飲むの?」


「甘さがよく分かるようになる」


「わざわざ?」


「わざわざ」


ルシファーは真面目に頷いた。

リリスはしばらく考え、それから言った。


「やっぱり不思議だわ」


「否定できないな」


「でも」


リリスは、手元の果実を見た。


焼いた果実の甘い食べ物

クリームという謎のもの。

それから、紅茶。


まだ知らないものばかりだった。

知らないものは、少し怖いこともある。

けれど、これは怖くなかった。


「食べてみたいわ」


その言葉は、思ったより自然に出た。

ルシファーは、返事が少し遅れた。


「作れる場所があればね」


「ここでは作れないの?」


「道具が足りないかな。火も、粉も、器もいる」


「粉?」


「生地を作るんだ」


「生地?」


「そこからか」


ルシファーは困ったように笑った。

リリスも、つられて笑う。


「だって知らないんだもの」


「そうだね。じゃあ、いつか一つずつ話そう」


「いつか食べられる?」


「作れる場所があれば、きっと」


約束ではない。

けれど、未来のどこかに置かれた小さな皿のような言葉だった。


リリスは、手元の果実を一口かじった。

いつもの甘さが広がる。

けれど今日は、その甘さの向こうに、まだ知らないタルトというものがある。

リリスは果実をもう一口食べた。


「紅茶も、飲んでみたいわ」


「うん」


「ルシファーが好きなもの、私も知りたい」


ルシファーは、また少しだけ返事が遅れた。


「……そう」


「それだけ?」


「今、言葉を探している」


「また?」


「うん。今のは少し難しい」


リリスは不思議そうに彼を見た。

ルシファーは、視線をそっと森の方へ逃がした。

白い羽の先に、朝からついていた小さな葉がまだ残っている。

リリスはそれに気づいて、笑った。


「ルシファー」


「うん」


「羽に葉っぱがついているわ」


「本当?」


「ええ。あとで取ってあげる」


「ありがとう」


「また変なところでお礼を言うのね」


「君はいつも丁寧だからね」


その返しに、リリスは口元を緩めた。

森の光が、二人の間に落ちている。


ここには果実があり、まだ知らない菓子の話があり、羽についた葉を取る約束がある。

リリスは果実を手の中で転がしながら、柔らかく息を吐いた。

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