第47話「最初のひとつ」
エデンの朝は、何も失われていないような顔をしてそこにあった。
水は澄み、花は光を受け、草の葉には露が残っている。
木々は変わらず豊かに実をつけ、鳥たちは枝から枝へ移り、空は白く整っていた。
けれど、庭の中心にいる男だけが、その光の中で少しずつ色を失っていくようだった。
アダムは、近頃あまり笑わなくなった。
初めのうちは、リリスの名を何度も呼んでいた。
庭の奥へ、川辺へ、花の多い場所へ。
彼女が行きそうなところへ歩いては戻り、また歩いた。
今は、探す足取りにも疲れが滲んでいる。
木の根元に腰を下ろし、目の前にある果実を見ても、手を伸ばさない。
誰かが声をかければ顔を上げるが、返事は短く、視線はすぐ別の場所へ落ちた。
「アダム」
ミカエルがそばに立つと、アダムはゆっくり顔を上げた。
「……ミカエル」
「少し食べた方がいい」
ミカエルの声は厳しくなかった。けれど、どこか命令に近い真面目さが残っていて、アダムは頷いたものの、果実には触れなかった。
少し離れたところで、ガブリエルがその様子を見ていた。
彼女の手には、整えられた布と水差しがある。けれど、それをどう使えばいいのか分からないように、しばらく立ち尽くしていた。
リリスの髪を梳き、白い衣の裾を直した手。
水浴びのあと、長い髪を丁寧に拭いた手。
その手は今、誰にも届かず、宙に迷っている。
「ガブリエル」
ミカエルに呼ばれ、ガブリエルは顔を上げた。
「……ああ」
返事は、わずかに遅れた。
「大丈夫か」
「私が大丈夫かどうかなど、今はどうでもいい」
そう言ってから、ガブリエルは視線を伏せた。
「……だが、私は教育係として失格だったのだろうな」
ミカエルは黙った。
「もっと話を聞いてやるべきだった。リリスは、何度も何かを言おうとしていたのかもしれない。私は教えることばかり考えていた。何を知るべきか。何を理解すべきか。どうすれば庭で困らずにいられるか」
ガブリエルの指が、水差しの取っ手を強く握る。
「私が、あの子の言葉をもっとよく聞いていれば……」
ミカエルは、そっとガブリエルの肩に手を置いた。
「君だけの責任ではない」
「では、誰の責任だ」
ガブリエルの声は小さかった。
怒っているのではない。ただ、どこへ向ければいいのか分からない痛みが、そこにあった。
「……兄さんなら、もっと上手くやれたのだろうな」
その一言に、ミカエルの手がわずかに止まった。
ルシフェル。
その名を、口に出す者はもう少ない。
神が告げた出来事を、天界の者たちはまだ飲み込めていない。
けれど、エデンは朝を迎え、果実は熟れ、アダムは沈み、リリスは戻らない。
兄はいない。
その事実だけが、庭のどこにいても深く残っている。
ミカエルは、ガブリエルの肩を抱いた。
「兄上でも、同じだったとは限らない」
「……分かっている」
ガブリエルは目を閉じる。
「分かっている。だが、そう思わなければ、今は……息ができない」
その時、三対の羽音が庭の外から近づいた。
セノイ、サンセノイ、マンゲロフだった。
三天使は神の命を受け、リリスのいる入り江へ何度も向かっている。
今日の報告を聞くため、ミカエルとガブリエルはアダムから少し離れた。
セノイが静かに礼を取る。
「今日も、まだ戻る意思は見られません」
ミカエルの表情が硬くなる。
「説得は?」
「続けています。ですが、言葉は以前よりもはっきりしています。戻らない、という答えだけではなく、なぜ戻らないのかを、自分の中で持ち始めているようにも見えます」
そう言ったのはマンゲロフだった。
普段あまり口を開かない彼の言葉に、ミカエルとガブリエルはそちらを見る。
「戻らない理由?」
ガブリエルが聞き返す。
マンゲロフは頷いた。
「ただ感情で拒んでいるのではありません。疲れているからでも、拗ねているからでもない。彼女は、自分がなぜそこへ戻らないのかを、明確に言葉にし始めている」
サンセノイは眉をひそめた。
「それが厄介なのだ。昨日は入り江にも現れなかった。話す気を失ったか、別の場所へ移った可能性もある」
「入り江にいなかった?」
ミカエルが言った。
「はい」
セノイが答える。
「昨日も今朝も、いつもの入り江の岩場には姿が見えませんでした。これから改めて居場所を探すつもりです」
ガブリエルの顔色が変わった。
「どこかで倒れているのでは」
「その可能性も含めて確認します」
セノイの声は穏やかだった。
「神は、なおも彼女に道を示せと仰せです。力づくで連れ戻すのではなく、彼女が戻るための道を、と」
ガブリエルは唇を噛んだ。
その言葉は優しい。
けれど、その先にある場所をリリスが望んでいないのなら。
そこまで考えて、ガブリエルは自分の思考を止めた。
人を導くはずの天使である自分が迷えば、アダムはどうなる。
庭はどうなる。
始まりはどうなる。
けれど、別の声が小さく残った。
リリス。
私は、お前の何を聞き逃したのだろう。
◇
入り江へ向かう道は、朝の光で白く見えた。
ルシファーは、森の外縁から入り江を見下ろしていた。
今朝はまだ、リリスの姿は見えない。
昨日は泉へ行ったのだから、疲れて眠っているのかもしれない。
まだ寝床にいるのだろうか。
そう思い、森へ戻ろうとした時だった。
天使の羽音が近づいた。
ルシファーはすぐに身を潜める。
木々の影へ入り、白い式服の残りを枝葉の陰へ隠した。
以前よりずいぶん白は減ったが、それでも天使の目には目立つだろう。
羽を小さく畳み、息を抑えた。
入り江の岩場に、セノイたちが降り立った。
あの三人がリリスの説得役だということは、エデンの偵察で知っていた。
何度か、彼らが庭へ戻る姿も見ている。
セノイが入り江を見渡す。
「いないな」
「やはり今日も同じだ。昨日も幾度も見にきたが、結局姿を現さなかった」
サンセノイが、苛立ちを隠しきれない声で言った。
今日も。
ルシファーの眉がわずかに動いた。
昨日、自分とリリスが泉へ行っていた間にも来ていたのか。
サンセノイは腕を組む。
「もう、あの娘は我々の話を聞くつもりがないのだ」
「この場所に来なくなったのなら、どこにいるのか探す必要がある」
セノイは落ち着いていた。
「神は、道を示せと仰せだ。あの娘に始まりの女として祝福を与え、深く愛しておられる。我々もその御心に叶う行いをしなければならない」
マンゲロフが、静かに口を開いた。
「神の御心が尊いのは分かる。だが、ミカエル様たちに報告した通り、彼女は戻らない理由を持ち始めている可能性がある」
セノイは目を細める。
「……その時は神にご報告して、対処を検討せねばなるまいね。だが、先のことは今はいい。今日は娘の居場所を探すとしよう」
ルシファーはそれ以上聞かず、踵を返した。
森の内側へ、なるべく音を立てずに急ぐ。
リリスの寝床は、まだ朝の静けさを帯びていた。
白い外套とケープが重なり、光る草花は昨夜の名残を薄く失いかけている。
菫色の花はしおれ、白い羽はその隣で朝の光を受けていた。
リリスはまだ眠っていた。
いつもより深く眠れたのだろう。
肩の力が抜け、ぐっすりと眠っている様子に、起こすのが忍びないほどだった。
だが、迷っている時間はなかった。
ルシファーは寝床に近づきすぎない距離で膝をつく。
「リリス」
返事はない。
少しだけ声を強める。
「リリス、起きて」
リリスの睫毛が揺れた。
「ん……」
ゆっくり目を開く。
「ルシファー……?」
「起こしてごめん。でも聞いて。セノイたち三天使が君を探している。こちら側に来る可能性がある」
リリスの眠気が、一瞬で消えた。
「え……どうして」
「昨日も入り江に来ていたらしい。今日も姿が見えないから、探す、と」
リリスが身体を起こすと、かけていたケープが肩から滑り落ちた。彼女はそれを掴んだまま、入り江の方角を見る。
「……ここを知られたくないわ」
「そうだね」
ここは、彼女の場所だった。
誰かが示した道の先でも、戻るための途中でもない。
草を選び、外套を敷き、花を飾り、羽を添えて、リリスが少しずつ夜を越してきた場所だ。
そこへ三天使が来ることを、ルシファーも望まなかった。
リリスは立ち上がった。
「私、行くわ」
「大丈夫?」
「ええ」
まだ寝起きの声だった。
けれど、目ははっきりしていた。
「これは、私の問題だもの。自分でなんとかしなくちゃ」
彼女は外套を寝床へ戻し、白い衣の裾を整えた。
「あなたは、見つからないようにしていて」
ルシファーは目を見開く。
「え?」
「事情があるのでしょう? それくらいは、私にも分かるわ」
その言葉は、彼の中で深く沈んだ。
リリスは、彼が何もかも話していないことを知っている。
エデンの中心から堂々と入れない理由があることも、天使たちに知られない方がいいことも、彼女なりに見ていた。
昨日、優しさの理由を疑った時も。
怖がりながら、それでも聞いた。
疑えるということは、ただ信じないということではない。
差し出されたものを、与えられた言葉を、目の前にある前提を、そのまま飲み込まないということだ。
ルシファーは目を伏せ、淡く笑った。
「そうか。君は強いし、賢いね」
リリスは一瞬きょとんとしたあと、表情をゆるめる。
「ふふ。戻ったら、もっと聞くわ」
「うん。待っているよ」
その言葉を聞くと、リリスは急いだ足取りで入り江の方へ向かった。
白い衣の裾が草をかすめ、髪が肩で揺れる。
まだ少し寝起きの乱れを残したまま、それでも彼女の背筋はまっすぐだった。
ルシファーは、その背中を見送った。
リリスは、これからどうするのだろう。
天界は、彼女をどうするつもりなのだろう。
そして、自分は――。
父上の本文からこぼれたものを確かめに来た。
リリスは、その一部を知っているのかもしれない。
では、その一片を受け取った時、自分はどうなるのか。
すべてが腑に落ちるのだろうか。
天界にいた頃から胸に残っている問いも、あの古い場所で投げられた「うるさい」という声も、静かになるのだろうか。
答えを探すより先に、森の葉が揺れる。
今はただ、彼女が戻るのを待つだけだった。
◇
リリスが入り江へ着くと、三天使はすでに岩場から森の方へ向かおうとしていた。
「待って」
三人が振り向く。
セノイの表情が和らいだ。
「リリス。よかった。無事だったんだね」
「ええ」
リリスは海を背にして立った。
昨日までなら、天使たちを正面から見据えるのが怖くて、すぐに岩へ腰掛けていたかもしれない。
相変わらず、三天使は岩場に立ち、自分を見下ろしている。
見上げることになっても、今日は立っていたかった。
サンセノイが一歩前へ出る。
「昨日は入り江にいなかった。どこへ行っていた」
「あなたたちに話すことではないわ」
サンセノイの眉が動く。
セノイが軽く手を上げ、彼を制した。
「無事ならいい。心配していたんだ。アダムも、君のことを案じている」
その名前に、リリスの指先が強ばった。
「彼は今も君を探している。君がいなくなってから、ひどく落ち込んでいる」
セノイの声は穏やかだった。
「アダムは君を本当に愛していた。今もそうだ」
愛。
その言葉は、波より重くリリスに触れた。
すぐには答えられなかった。
アダムが悪い人ではなかったことは、知っている。彼が自分を探していることも、悲しんでいることも、きっと本当なのだろう。
彼は彼なりに、リリスを大切にしたかったのだと思う。
けれど。
サンセノイが続けた。
「君は、その愛に報いたいとは思わないのか。君が戻れば、アダムも安らぐ」
リリスは、ゆっくり顔を上げた。
「報いる、って何に?」
声は小さかったが、波の音に消されはしなかった。
セノイが静かに答える。
「彼の隣へ戻ることだ。君は彼の伴侶として創られた。彼は君を必要としている」
「それは、私がそこへ戻りたいこととは違うわ」
サンセノイの声が硬くなる。
「愛されているのだ、リリス」
リリスは唇を結んだ。
愛されている。
大切に思われている。
必要とされている。
それらの言葉は、きっと美しいものなのだろう。エデンの中では、神の祝福に近い光を帯びるのだろう。
でも、リリスの中に残っているものは違った。
「愛されていたら……」
声は震えていた。
それでも、戻さなかった。
「怖くても戻らなければいけないの?」
三天使が黙る。
波が岩に当たり、鈍い音を立てた。白い泡が足元近くまで来て、引いていく。
リリスは、指先が震えていることに気づいた。
「私は、アダムが嫌いだったわけではないわ」
その言葉が、三天使に向けたものなのか、自分に向けたものなのか、リリスにも分からなかった。
「でも、怖かったの」
サンセノイが口を開きかける。
リリスはその前に続けた。
「私が嫌だと言っても、私の怖さはいつも別の言葉に変わってしまった。まだ知らないだけ。慣れていないだけ。伴侶なのだから。愛し合えるはずだから」
息が浅くなる。
それでも、続けた。
「だから、私が怖かったものを、愛だなんて呼ばないで」
セノイの顔から、穏やかさが少しだけ消えた。
サンセノイは明らかに言葉を失っていた。
マンゲロフだけが、黙ってリリスを見ている。その目は冷たい。けれど、聞いていない目ではなかった。
セノイが静かに言う。
「リリス。君の受け止め方が間違っていたとは言わない。だが、アダムに悪意はない。神も君を罰しようとはしていない。戻れば、まだ」
「帰って」
リリスは言った。
声は強くなかった。むしろ、疲れていた。
「今日はもう、話したくないわ」
三天使は動かなかった。
リリスは海を背にして立つ。足元の砂は湿り、潮風が髪を乱す。心臓が速く打ち、膝も指先も震えている。
それでも、退かなかった。
「これ以上、話すことはないわ」
やがて、セノイが息を吐いた。
「わかった。今日は帰ろう」
サンセノイは納得していない顔をしていたが、何も言わなかった。
マンゲロフは、最後までリリスから目を離さなかった。
三対の白い羽が広がり、三天使は空へ上がっていった。
リリスはその姿を見上げなかった。
羽音が完全に遠ざかってから、ようやく肩から力が抜ける。
指先も膝も、まだ震えていた。
でも、倒れなかった。
帰らなければ。
ただ、そう思った。
あの寝床へ。
ルシファーが待っている場所へ。
◇
森へ戻ると、ルシファーは本当に木の上にいた。
枝に腰をかけ、片足を少し下げ、羽を枝葉にかからないよう小さく畳んでいる。
見つからないようにしていたと言われれば確かにそうなのだろうが、どう見ても木の上で眠ることに慣れ始めた天使の姿だった。
リリスが近づくと、彼はすぐに地面へ降りた。
音もなく、軽やかに。
「おかえり」
その言葉に、リリスは瞬いた。
おかえり。
そう呼ばれる場所が、ここにあった。
「本当に木の上にいるのね」
「見つからないようにしていただけだよ」
「本当にそうかしら」
「たぶん」
「また曖昧」
「でも、嘘ではないよ」
いつもの返しに、リリスは笑いかけた。けれど、うまく続けられなかった。
その様子に、ルシファーはすぐ表情を変えた。
「大丈夫?」
「……ええ。なんとか、こちらへ来る前に帰ってもらったわ」
「疲れた?」
「……少し」
本当は、かなり疲れていた。
けれど、そう言ってしまうと膝から力が抜けそうだった。
ルシファーは考えるように視線を落とす。
「なら、休んだ方がいい。その間、俺はまた食べ物を取ってくる」
「……いいの」
リリスは首を振った。
「ここにいて」
ルシファーの目がわずかに揺れる。
「でも」
彼は途中で言葉を止めた。
それから、頷く。
「いや。君がそうしてほしいなら、ここにいる」
「そうして」
リリスが寝床に腰を下ろすと、ルシファーも、距離を置いた隣へ腰を下ろした。
リリスは、そっと菫色の花を手に取った。
最初の日、ルシファーが両手いっぱいに花を持ってきて、その中からリリスが選んだ花。近くで見ると綺麗だった、小さな菫色の花。
今は、花びらの端が弱り、茎も少し曲がっている。
リリスはそれを手のひらに乗せ、ルシファーへ見せた。
「もらった花、萎れちゃった」
周りに飾っていた花も、いくつかは頭を下げている。光る草花も朝には枯れる。
花がいつまでも同じ形ではいられないことは分かっている。
それでも、少し寂しかった。
「また探そうか」
「同じ花を選ばないかもしれないけど、いい?」
「もちろん」
ルシファーは穏やかに答えた。
「明日の君が同じ花を選ぶかどうかは、明日の君にしか分からないからね」
リリスは、手のひらの花を見たまま、薄く笑った。
同じものを選べなくても、責められない。
その小さなことが、今日はひどく息をしやすかった。
リリスは、しおれた花を見つめながら言った。
「……さっきね」
「うん」
「セノイたちに、アダムは私のことを本当に愛していた、今もそうだって言われたわ」
ルシファーの表情は変わらなかった。
「……そう」
「だから、アダムの愛に報いるべきだって。私も、その愛に報いたいとは思わないのかって」
ルシファーは何も言わず、ただ聞いていた。
その沈黙があったから、リリスは続きを口にできた。
「私ね、アダムが嫌いだったわけではないの」
「……うん」
「アダムは、悪い人ではなかったわ。きっと、私を大切にしてくれていたと思う。私がいれば、一人じゃない。私が隣にいれば、これから先も大丈夫だって、彼はそう思っていたのかもしれない」
手の中の花が、かすかに揺れる。
「でも、私が何を言っても、最後にはいつも同じところへ戻ってしまうの」
リリスは目を伏せた。
「お父様がそう仰ったから。私たちは伴侶だから。僕たちは愛し合えるはずだから。僕が決めた方がいいから。君はまだ分かっていないだけだから……」
言葉にするたび、古い息苦しさが戻ってくる。
けれど、ここにはルシファーがいた。
急がない人。
怖いなら怖いと言っていいと言った人。
リリスは、少しずつ続けた。
「花を植える場所を選びたかっただけなのに、私の考えはあとでいいと言われたわ。話したいと思っても、アダムは自分が正しいっていつも疑ってなかったの」
ルシファーは黙っていた。
「私が何を思っているか、どうしたいかより先に、いつも彼の考えや意見が先にあったの」
声が震える。
「私には、それがとても苦しかったの」
潮風のない森の中で、リリスは浅く息を吸った。
「それから……」
指が、花の茎を折らないように添えられる。
「触れられることも、怖かった」
リリスの見ていないところで、ルシファーの手が膝の上で止まった。
何を、どのように、と聞いて確かめることもできた。
けれど、それは今、彼女が自分へ渡そうとしている言葉ではない。
ルシファーは息をひとつ抑え、続きを待った。
「アダムは、当然のように私に触れた。伴侶なのだから、愛し合えるはずだから、いつか分かるから」
声が小さくなる。
「抱きしめられた時、怖かった。でもその怖さも、慣れていないだけだと言われた。知らないだけだと。私が間違って受け取っているだけみたいに……」
リリスは花を見つめた。
「アダムの『愛している』は、私にはよく分からなかった」
森の奥で、鳥が一度鳴いた。
「彼は、“私”を見ていたのかしら……」
リリスは、ほとんど独り言のように言った。
「それとも、“隣にいるべき私”を見ていたのかしら」
その問いに、ルシファーは答えなかった。
答えられることではなかった。
「だから……だからね」
リリスは、ゆっくり息を吐く。
「彼の愛に報いることなんて、できないわ」
手の中の菫色の花が、少し傾いた。
「アダムが私を大切に思っていたとしても、私はその気持ちに応えるために、自分が怖かったことを、なかったことにはできないもの」
ルシファーは、静かに聞いていた。
父上の言葉の中では、それらは美しく並んでいた。
男と女。
伴侶。
愛。
命を繋ぐ始まり。
けれど、その下で彼女の息ができなくなっていたことは、どこにも書かれていなかった。
少なくとも、自分が読んでいたものの中にはなかった。
アダムには、微塵の悪意もなかっただろう。
だが、悪意がなかったからといって、リリスが感じていた恐怖が無かった事になるわけではない。
リリスが怖かったものは、怖かったもののままだ。
愛と呼び直されても、祝福であると飾られても、その痛みが傷が消えるわけではない。
ルシファーの手が、膝の上で強く握られる。
彼女の話を、自分の怒りで奪わないために。
リリスは、まだ手の中の花を見ていた。
「……今日は、ここまででもいい?」
その声には疲れが滲んでいた。
けれど、逃げている声ではなかった。
だから、ルシファーはすぐに答えた。
「もちろん」
リリスは、目を閉じた。
それから、
「……また聞いてくれる?」
「君が話したいなら」
静かに返した声に、リリスは小さく頷いた。
手の中の菫色の花を白い羽のそばへ戻し、リリスは息を吐く。
それを目で追ったルシファーの拳は、まだ強く握られたままだった。




