第46話「まだ、言えない」
リリスは、白い上着の袖を握ったまま、しばらく動けなかった。
ルシファーは戻ってくる。
そう思えるくらいには、彼の「また」を信じていた。
それなのに、一人になると別のものが静かに顔を出す。
彼に話すこと。
自分が、何に苦しみ、なぜ戻らないのか。
それを話すことが、今の自分にできることなのかもしれない。
けれど、それなら。
リリスは上着の袖を握る指に力を込めた。
もし、自分が話したら。
もし、ルシファーが知りたかったものが、そこにあったら。
外套を貸してくれたことも、光る草花を持ってきたことも、果実や木の実を分けてくれたことも、花を選ばせてくれたことも、全部、そのためだったのだろうか。
そう思った瞬間、濡れてもいない背筋が冷えた。
違うわ。
そんなはずはない……きっと。
リリスはすぐに打ち消そうとした。
ルシファーは、戻れと言わなかった。
何も急かさなかった。
見ないと言えば、本当にそうしたし、触れる時は聞いた。
物を渡してくれるときも、使うかどうかは君が決めて、と、そう言ってくれた。
それでも、身体に残った警戒は簡単にはほどけない。
優しさの先に別の何かがあったことを、リリスは知っている。
ガブリエルの手は優しかった。
けれど、その手は役目を教える声と同じ場所にあった。
セノイの言葉も穏やかだった。
けれど、その穏やかさの先には、いつも戻る道があった。
アダムの好意も、彼女を案じる声も、彼の隣へ戻ることと繋がっていた。
誰かの優しさが、そのまま優しさだけで終わるとは、まだ信じきれない。
リリスは泉の方を見た。
水面は何も答えない。
ただ光を受け、風に揺れている。
戻ってきた彼に何を聞けばいいのか、リリスにはまだ分からなかった。
しばらくして、森の奥で枝が鳴る。
今度は羽音ではなく、草を踏む足音と、葉に触れる白い羽の音だった。
リリスが外套や衣の乾きを見ていると、木々の間から、ルシファーが戻ってくるのが見えた。
片手に光る草花を少し、もう片方に葉で包んだ果実と木の実を抱えている。
羽には、やはり小さな葉が増えていた。
「戻ったよ」
ルシファーはそう言って、少しだけ首を傾げた。
「ただいま、で合ってるかな」
リリスは瞬いた。
「……ここは、あなたの帰る場所じゃないでしょう?」
「そうだね」
彼は笑う。
「じゃあ、戻ったよ」
「それなら、合ってると思うわ」
そう答えた途端、袖を握っていた指が少しだけゆるんだ。
ルシファーは濡れた衣と外套を見た。
「乾き具合はどう?」
「まだ少し湿っているところもあるけど、だいぶ乾いたみたい」
「よかった」
彼は光る草花を差し出した。
まだ夜には早いが、日が傾き始めればすぐに必要になる。
次に、葉包み。
また、果実と木の実がいくつか入っている。
リリスはそれを受け取った。
「少しだけだけど」
「ありがとう」
手は迷わなかった。
けれど、喉の奥にはまだ冷たいものが残っている。
ルシファーはそれに気づいたのか、何も急かさず、少し離れた場所に腰を下ろした。
リリスの正面ではなく、彼女の上着の合わせ目や濡れた髪へ視線が留まらない場所。
それが、またリリスを困らせる。
そんなふうに、いつも先に距離を取り、いつもこちらが息をしやすいように配慮する。
それは、何のためなのだろう。
リリスは、枝から外した外套を膝の上で抱え直した。
四隅には湿った感触が残っていて、きっとまだ完全には乾ききっていない。
水の匂いと、森と潮と果実の甘さが、洗う前より薄くなっている。
リリスはその白い布を胸に抱いたまま、小さな声で話し始めた。
「ルシファー」
「ん?」
彼はいつも通りに返した。
それだけで、言葉が喉の奥に引っかかりそうになる。
でも、聞かなければ、この胸の冷たさは消えない気がした。
「あなたは……私から話を聞きたいから、ここへ来ているの?」
ルシファーの表情が、わずかに静まり、リリスは外套を握る指に力を込める。
「外套を貸してくれたのも、食べ物を持ってきてくれるのも、花をくれたのも」
声が細くなる。
「私が話すまで、待っているから?」
泉の水音が、急に遠くなった気がした。
責めたいわけではなかった。
違うと、言ってほしかったのかもしれない。
でも、ただ否定されても信じられるかは分からなかった。
知りたいことなんてないよ、と言われたら、それは嘘のように聞こえただろう。
彼は、父上の言葉に記されていなかったものを確かめに来たのだから。
リリスは外套に指を沈めるように握った。
ルシファーは、言葉を選ぶように沈黙して、すぐには答えてくれない。
やがて彼は、静かに言った。
「知りたいことは、あるよ」
リリスの息が止まる。
胸のひやりとした冷たさが増していく。
「それは本当だ。俺は、父上の言葉に記されていなかったものを確かめに来た。君がここにいる理由も、いつか君が話したいと思うなら、聞きたいと思っている」
リリスは唇を結んだ。
嘘ではない。
だから、余計に怖かった。
ルシファーは目を伏せる。
「でも、外套も、食べ物も、花も、そのために持ってきているんじゃない」
リリスは顔を上げた。
「君が寒そうだったから、外套を残した。暗そうだったから、光る草花を持ってきた。お腹が空いていそうだったから、食べ物を分けた。君に選んでほしかったから花を持ってきた」
彼の声は、いつもより少し低かった。
「君が話さなくても、それは変わらない」
リリスは何も言えなかった。
外套も。
食べ物も。
花も。
そのための代わりではない。
言葉を聞いても、冷えたものがすぐに溶けていくわけではなかった。
けれど、握りしめていた指の痛みを、そこで初めて意識した。
ルシファーは、さらに続けた。
「でも、もし俺がそう思わせたなら、悪かった」
リリスの指が止まる。
「君を傷つけるつもりはなかった。けれど、俺がここに来ることで君が怖くなるなら」
少しだけ間が空いた。
「君には近づかない」
その一言は、深く刺さった。
近づかない。
来ない。
考えるより先に、声が出た。
「……違うわ」
ルシファーは黙っている。
「近づかないでほしいわけじゃない、来ないでほしいわけじゃないの」
言ってから、リリスは自分の言葉に息を止めた。
来ないでほしくない。
それは、待っていたと認めることに近かった。
朝から何度も森を見たこと、羽音に顔を上げてしまったこと、昨日より海が広く感じたこと。
全部が、内側で小さく音を立てる。
リリスは目を伏せた。
「ただ、怖かっただけ」
その声は、思ったより小さかった。
ルシファーは、そう、とだけ言った。
怖がる必要はないとも、安心していいとも言わない。
ただ、その短い返事のあとで続けた。
「怖いなら、怖いと言っていいよ」
リリスは、ゆっくり息を吸った。
この人の前では、言っていい。
怖い、嫌、戻らない、分からない。
まだ話せないと、言っていい。
「今日は、話せないと思う」
「うん」
「でも……いつか、話せるかもしれない」
「その時に聞くよ」
リリスは彼を見た。
「……すぐじゃなくていいの?」
ルシファーは、少しだけ首を傾げる。
「急いだら、君の言葉じゃなくなるだろう?」
その瞬間、言葉が出なくなった。
目の奥が熱くなる。
リリスは反射的に、抱えていた外套へ顔を押しつけた。
まだ少し湿りを残した布が、頬に冷たい。
水の匂いと、わずかに残った彼の匂いが混じっていた。
泣きそうな顔を見られたくなかった。
「リリス?」
「顔を見ないで」
「わかった、見ないよ。というか見えない」
「見えなくていい」
「ごめんね、何か嫌なことを言ったかい?」
「違うわ……」
「そう?」
「ええ」
ルシファーの声は、困っているようで、でもどこか少しだけ柔らかかった。
リリスは外套へ顔を押しつけたまま、しばらく息を整えた。
涙はこぼれなかった。
けれど、目元は熱い。
湿った布の冷たさだけが、頬に残っている。
「ルシファー」
「なんだい?」
リリスは外套から少しだけ顔を上げた。
まだ、彼の方は見られない。
「私ね、話さなきゃと思っているの」
「うん」
「でも、今はまだ怖いの。それに、上手く話せる自信もなくて……」
声がまた揺れた。
けれど、今度は止めなかった。
「だから、話せるまで、待っててくれる?」
ルシファーは、少しも迷わなかった。
「もちろん」
それだけだった。
軽すぎるくらい、自然な返事。
でもリリスには、それで十分だった。
ようやく顔を上げて指先で目元に触れる。
熱くて、きっと少し赤くなっているとわかる。
ルシファーは何も言わなかった。
泣いたの、とも、大丈夫か、とも聞かなかった。
ただ、彼女が顔を上げるまで待っていた。
リリスは外套を抱えたまま、息を吐く。
視線の先の水面が、夕方の光を受けて揺れている。
枝にかけた衣に触れると、もう着られるくらいには乾いていた。
「着替えるなら、俺は向こうを見ているよ」
ルシファーが言った。
リリスは目元を手の甲で押さえてから、頷いた。
「言わなくても分かっているわ」
「そう?」
「ええ。あなたは黙って見たりしないもの」
ルシファーは一瞬だけ黙った。
それから、笑った。
「信用されているなら、よかった」
「……少しだけ」
「少しでも十分だよ」
彼は背を向けた。
リリスは白い衣を手に取り、布の冷たさを確かめた。
ほんの少しの湿りは残っているような気がしたけれど、かまわず衣に袖を通すと、肌に触れる布から、池の水と森の風の匂いがした。
リリスはルシファーの上着を枝から外し、少し迷ってから彼に差し出した。
「ありがとう。借りていたわ」
「役に立ったならよかった」
リリスは視線を落とした。
「……あたたかかったわ」
「そう」
ルシファーの手が、上着の布の上でわずかに止まり、それだけ返して、彼は上着を腕にかけた。
「外套は……もう少し、借りていてもいい?」
「もちろん」
「汚れも少しは落ちたと思うわ」
ルシファーは外套を見る。
「君が使うものだから、君が気持ちがいいと思う方がいい」
リリスは、また外套を抱え直した。
彼の式服の一部だったのに、今は、リリスの夜を支えるものとして見てくれている。
誰かが眠るための布、寒さを避けるための布、顔を隠しても許される布。
ケープも枝から外そうとすると、ルシファーが言った。
「それも、よければ使って。夜はまだ冷えるだろうから」
「これも?」
「うん。掛けて眠れば、少しは温かいと思う」
「でも……」
「俺はまだ困らないよ」
リリスは目を細めた。
「また、まだって言ったわ」
「便利な言葉だからね」
「ずるい言葉」
「そうかもしれないね」
ルシファーが否定しないので、結局、リリスはケープも受け取った。
白い外套に白いケープ、そして白い羽。
ルシファーの一部だったものが、またひとつリリスの元に増えた。
二人は泉を離れ、森の寝床へ戻った。
夕方の森は、朝とは違う匂いがした。
水で洗った衣は少し冷たかったが、歩いているうちに肌になじんでいく。
リリスは外套とケープを抱え、ルシファーは光る草花と葉包みを持っていた。
寝床に着く頃には、空の色が暗くなり始めていた。
リリスはさっそく洗った外套を草花の上に広げ始める。
その上に手を滑らせると、布が夜露を吸う前の冷たさを返した。
リリスはそこに、避けておいた菫色の花と白い羽をそっと添えた。
菫色の花は、花びらの端が弱くなり茎も少し傾いて、少ししおれてきている。
最初に選んだ花。
ルシファーが覚えておくと言った花。
いつまでもそのままではいられないのだと分かっていても、名残惜しかった。
ルシファーは、少し離れた場所で葉包みを差し出した。
「食べてから眠る?」
「少しだけ」
二人で果実を分けて食べる。
今度は大きな会話はなかった。
けれど沈黙は重くなく、先ほどの言葉が、まだ二人の間に残っている。
――話せるまで、待ってて。
――もちろん。
リリスは果実を少しずつ食べながら、その短い返事を何度も思い出した。
やがて、夜が近づくと、ルシファーは立ち上がった。
「そろそろ行くよ」
リリスは顔を上げ、ルシファーを見上げた。
「……明日も来る?」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなり肩が強張った。
でも、今度は言い直さなくてもいいと思えた。
ルシファーは柔らかく笑った。
「来るよ。来てほしくないわけじゃないって聞いたからね」
「もう」
「冗談だよ」
彼は少しだけ手を上げた。
「また明日ね、リリス」
リリスは、外套の端を握りながら答えた。
「また明日」
また、明日。
その二つが、初めてひとつの言葉になった。
ルシファーは森の奥へ歩いていく。
白い上着を腕にかけ、暗いグレーのシャツの背に六枚の羽を揺らして。羽の先には、まだ小さな葉が一枚だけついていた。
リリスはその背中を、見えなくなるまで見送ってから寝床へ戻る。
敷き直した外套の上で、ケープを肩のあたりに掛けられるようそばへ引いた。
菫色の花と白い羽は、頭の近くにある。光る草花は、夜の中で淡く灯り始めていた。
横になると、外套から洗ったばかりの水の匂いがした。
ケープには、まだ少しだけルシファーの気配が残っている。
菫色の花はしおれかけて、白い羽は、その隣で静かに光を受けている。
明日も来る。
その言葉を抱えたまま、リリスはゆっくりと目を閉じる。
波の音も、森の暗さも、遠くで鳴る知らない虫の声も、怖くない。
白い外套とケープの中で、久しぶりに深く眠った。




