第45話「近いところ」
「……兄?」
リリスは、濡れた髪を抱えたまま動けなかった。
池のそばでは、白い衣と外套から水が落ちている。
枝に広げられた布の端から、雫がひとつ、またひとつと草の上へこぼれ、風が通るたびに白い布が重たげに揺れた。
けれど、リリスの意識はそこへ戻らない。
兄。
ミカエルとガブリエルの?
目の前にいるこの天使が?
羽に葉を絡ませて、木の上で眠って、式服を寝床にし、髪拭きにして、上着まで貸してくる、この変な天使が。
あのミカエルとガブリエルの兄。
リリスは、どう受け取ればいいのか分からないまま、もう一度首をかしげた。
「……二人のお兄さんということ?」
「そうだよ」
ルシファーは、濡れた外套の端を低い枝へ丁寧に広げながら答えた。
「俺が二人の兄であり、大天使としての師であり、親代わりみたいなものだった」
「……親代わり」
言葉の意味は分かる。
けれど、目の前のルシファーとうまく繋がらなかった。
ミカエルは正しく強い天使で、ガブリエルは優しく丁寧な天使だった。
リリスが見てきた二人は、神のそばにあり、役目を知り、それを疑わずに語ることができる者たちだった。
けれど、ルシファーは違う。
曖昧なことを言い、変なところで笑う。
不便な天使だと言われても否定しない。
それでいて、彼女の言葉を勝手に別のものへ変えない。
リリスは、しばらく彼を見ていた。
「……あなたは、ただの変な天使じゃなかったのね」
ルシファーは目を瞬かせたあと、困ったように笑った。
「やっと、俺にもまともな側面があるって分かってくれたかな?」
リリスはまじめに考えた。
羽にはまだ小さな葉がついている。
暗いグレーのシャツに紫のネクタイ、白いスラックス。
上着を脱いだ彼は、最初に会った時より天界の白から遠く見えた。
それでも姿勢はきれいで、言葉は柔らかく、どこか育ちのよさが残っている。
まとも、なのかもしれない。
けれど。
「それはまだ分からないわ」
「厳しいね」
「だって、木の上で眠る兄なんて、私は知らないもの」
「それは確かに、兄としての威厳に欠けるかもしれないね」
ルシファーは、外套の端を整えながら笑った。
その軽さに、リリスも口元を緩める。
踏み込んだことを聞いたはずなのに、空気は固まりきらない。
彼が置いた笑いの分だけ、リリスは呼吸を忘れずにいられた。
ルシファーは衣と外套を枝に広げ終えると、少し離れた場所へ腰を下ろした。
リリスの正面ではなく、かと言って完全に真後ろというわけでもない。
ただ、白い上着を羽織るリリスが落ち着いて座れるように、角度だけをずらしている。
リリスが膝を揃えると、長い袖が手元を隠し、内側の紫が、合わせ目からちらりと見える。
ルシファーは、今朝持ってきていた葉包みを開いた。
中には果実が少しと、木の実がいくつか入っている。
「乾くまで、少しかかりそうだね」
リリスは枝にかかった衣と外套を見た。
風が通っているのか、外套が揺れている。
陽も十分に届いているようだった。
ルシファーは果実を二つに分け、片方を葉の上に置いてリリスが手を伸ばせる場所へ寄せた。
リリスはそれを見てから、自然に手を伸ばした。
やはりもう、受け取るたびに長く迷わなくなっている。
そのことに自分で気づき、少し不思議な気持ちになった。
「ミカエルとガブリエルのお兄さんなら」
果実を手にしたまま、リリスはそっと聞いた。
「あなたは、何をしていた天使なの?」
ルシファーは目を伏せた。
池の水面が風で揺れる。
枝に広げた白い衣から、また雫が落ちた。
「父上の言葉を、最初に読む役目だった」
「お父様の言葉?」
「うん。世界がどこから始まり、どこへ向かうのか。天使たちは何を担うのか。父上が示したものを読んで、他の天使たちにも分かる形にして渡す。そういうことをしていた」
リリスは、その言葉をゆっくり聞いた。
お父様が示した言葉をルシファーが読み、そして、他の天使たちへ渡す。
見たことのない、整った言葉を思い浮かべる。
きっとそこには、間違いなく並べられたものがある。
天使たちの役目や、エデンの庭や、始まりの男女のことも、そこに含まれていたのだろうか。
「だから、エデンのことも知っていたの?」
「父上の言葉の中ではね」
ルシファーは答えた。
「庭の形も、アダムのことも、君のことも知っていた。でも、そこにいる君が何を感じるかまでは知らなかった」
リリスは、果実を持つ手を止めた。
彼は最初に会った時、自分の名を言い当てた。
けれど、なぜここにいるのかは知らないと言った。
戻れとも言わなかった。
疲れているだけだとも、反抗しているとも言わなかった。
ただ、知らないと。
そう言った。
「……だから、あなたは私のことを知っているのに、知らないみたいな顔をしていたのね」
「名前は知っていたよ。でも、君がここにいる理由は知らなかった。今も、まだ知らない」
リリスは隣より少しずれた位置に座るルシファーを肩越しに見る。
ルシファーの声は、いつも通り柔らかかった。
けれど、その言葉は曖昧ではなく、知らないものを知らないまま置くための、静かな線が引かれている。
「分かったふりを、しなかったのね」
「したくなかったんだと思う」
ルシファーはかすかに笑った。
「父上の言葉を読む役目だったからこそ、知らないことを知っているふりは、したくなかった」
その言い方は、自分を立派に見せるためのものではなかった。
正しいことを言おうとしているのでもない。
ただ、そうするしかなかったのだと認めている声として耳に届き、リリスは何も言えなかった。
けれどその言葉は、泉の水音と共に、胸の奥へ沈んでいった。
しばらく、二人は無言で果実を食んだ。
枝にかかった衣と外套が風に揺れている。
池の水面には、木漏れ日が細かく映っていた。
背中合わせに近い位置にいるルシファーの羽は、体の横から後ろへゆるく流れ、白い羽の先が時々風に揺れていた。
最初に触れたのは、足先だった。
ふ、と羽の端が、上着では隠しきれないリリスの足首をかすめる。
風がゆるく吹き抜けるたび、足のあたりを羽がかすめていく、くすぐったい感覚に自然と口元に笑みがこぼれた。
白い羽は思ったよりあたたかかった。
水浴びのあと、まだ冷えていた肌に、その温度が触れて、すぐ離れる。
何度か繰り返されるうちに、リリスは思わず笑った。
「ふふ。あたたかくて、くすぐったい」
ルシファーが肩を動かした。
「ごめん、触っていた?」
「大丈夫。嫌じゃなかったから」
「そう?」
「ええ」
リリスが少し振り返ると、彼の羽が、すぐそばにあった。
この前、葉を取った時にも触れた羽。
抜けた一枚をもらって、菫色の花のそばに添えた羽。
けれど今は、抜け羽ではなく、彼の背から続いているものだった。
リリスはゆっくりと、羽の方へ顔を寄せた。
触れた、というほどではない。
けれど折り重なった白い羽の内側に残る熱が、空気越しに頬へ届いた。
「あなたの羽、あたたかいわ」
「……そう」
少しだけ答えの遅れたルシファーの返事に、リリスは我に返った。
なぜ彼の返事が遅れたのかまでは分からない。
けれど、もしかして失礼なことだったかもしれないと思い直して、リリスは身体の向きを戻した。
ルシファーは背中合わせに近い姿勢のまま、彼女を急かさない。
羽だけが、まだ近くにある。
リリスは果実の欠片を手の中で転がしながら、もうひとつ聞いてみたくなった。
ルシファーのことを。
彼がどこから来たのか。
なぜ、そんなふうに何も決めつけずにいられるのか。
彼女はゆっくり口を開いた。
「ルシファーは、最初から、お父様の言葉を読む天使として造られたの?」
「そうだね」
ルシファーの声は静かだった。
「父上の言葉を、最初に読む者として造られた。俺は、最初の天使だったから」
最初の天使。
リリスは、その言葉を胸の内で繰り返した。
ミカエルとガブリエルの兄で、大天使たちの師で、お父様の言葉を最初に読む者。
どれも、入り江で会った彼とはすぐに繋がらない。
それでも、きっと全部が同じ人の中にある。
「……それは、あなたにとって苦しくはなかったの?」
リリスが聞くと、ルシファーは考えるように間を置いた。
「苦しくはなかったよ」
その返事は、思ったより穏やかだった。
「最初から生まれた理由や役目があって、その役目を果たすのが当たり前だった。天界は、そういう場所だったからね」
「……そう」
リリスは膝の上で、長い袖に隠れた指を曲げた。
天界はそういう場所だった。
エデンも、きっとそうだった。
生まれた時から、いる場所があった。
隣にいるべき相手がいた。
やるべきことがあった。
それは祝福と呼ばれ、疑うより先に差し出されていた。
ルシファーは続ける。
「ただ、記された通りには見えないものがあると気づいてからは違った。俺は、自分の役目も、父上の言葉も、前と同じようには渡せなくなった」
「記された通りには見えないもの?」
「うん」
ルシファーは、枝に広がる白い衣を見る。
「名前が記されていても、その者がその名でどう呼ばれたいかまでは分からない。場所が記されていても、そこがその者にとって息のできる場所かどうかは、言葉の中には残らない」
リリスは、何も言えなかった。
泉の水音だけが、二人の間を満たす。
「戻れば、きっと俺の席はある」
ルシファーは言った。
「でも、そこに座った俺は、もう前と同じ俺ではいられない。それでも父上は、そこに座れる形を用意するのだと思う」
席。
その言葉に、リリスの指先が強ばった。
――君の場所は、まだ残っている。
お父様の声が胸の奥で戻る。
リリスは白い上着の袖を、そっと握った。
ルシファーが今話したことは彼の天界での話であり、彼と神と、ミカエルやガブリエルたちの話だ。
自分の話ではない。
それなのに、違う言葉の奥で、同じ形をした何かが触れた気がした。
「ルシファーは……」
リリスは迷ってから、聞いた。
「お父様のことをどう思っているの?」
ルシファーは、ほんの少し笑った。
「どう思っているか、か。難しい質問だね」
「難しい?」
「うん」
彼は視線を落としたまま、すぐには答えなかった。
遠い空ではなく、自分の内側から言葉を探しているようだった。
「……嫌いになったわけではないと思う。父上に反逆したいわけでも、何かを壊したいわけでもない。ただ……」
「ただ?」
「同じ場所から、世界を見ることはできないと思った」
リリスは、返事をしようとしても言葉にならなかった。
お父様のいる場所、それは天使たちが見上げる場所。
すべてを知り、すべてを記し、正しい言葉で世界を包む場所。
ルシファーは、そこにはいられないと思ったのだ。
「だから、今ここにいる」
ルシファーの言葉を受けて、リリスは目を伏せた。
ミカエルも、ガブリエルも、セノイたちも、お父様の言葉の中からこちらを見ていた。
戻るべき場所、残された席、定められた役目。
けれどルシファーは、そこから離れ、今この場所にいる。
濡れた草のそばに座り、乾かない衣を風に任せながら、彼女の隣ではなく、少し後ろで話している。
リリスは、ルシファーの羽に視線を落とした。
また、小さな葉のかけらが奥に入り込んでいる。
思わず、口元が緩んだ。
「ねえ」
「うん?」
「羽に触れてもいい? また小さな葉のかけらが巻き込まれているの。取るついでに、少しだけ」
ルシファーは自分の羽を振り返ろうとして、途中でやめた。
「全部取ったつもりだったんだけどな。……君が触れたいなら、構わないよ」
君が触れたいなら。
リリスは、その言い方を聞いてから頷いた。
「ありがとう。痛くしないよう気をつけるから」
「うん」
リリスは、そっと羽へ指を伸ばした。
白い羽の間に、小さな葉が挟まっている。
折らないように、羽を傷めないように、ゆっくり葉だけをつまんだ。
この羽は、きっと天の一番高いところにあったものだ。
それが今は、こんなに近くにある。
葉を巻き込み、土の匂いを連れて、白い服も少しずつ汚れている。
ルシフェルと呼ばれていた彼自身も、まだ自分の呼び方を探している。
そのすべてを、リリスはまだ知らない。
けれど、彼が何も失わずにここへ来たわけではないことだけは、少し分かった。
葉を取り終えると、リリスは手を離した。
「取れたわ」
「ありがとう」
「また変なところでお礼を言うのね」
「君はいつも丁寧だからね」
「だって、乱暴にしたら痛いでしょう?」
「痛くない時もあるよ」
「でも、痛い時もあるのでしょう?」
ルシファーは黙った。
それから、静かに笑う。
「そうだね」
リリスは羽を見た。
あたたかくて、痛むかもしれないもの。
失えば何かが変わるもの。
大天使のしるしではなく、ルシファーのもの。
ルシファーの一部。
そのことが、前より少しだけ分かった気がした。
◇
やがて、陽が傾き始めた。
枝に広げた衣と外套は、まだ完全には乾いていない。
けれど、少しずつ水は抜けてきているようだった。
風が通るたび、白い布がかすかに揺れた。
ルシファーが立ち上がる。
「今夜の食べ物と、光る草花を少し取ってくるよ」
リリスは顔を上げた。
「一人で大丈夫?」
自分で聞いてから、不思議な気持ちになった。
それは、彼女自身が聞かれていた言葉でもあった。
ルシファーは柔らかく頷く。
「うん。すぐ戻るよ」
リリスは少し考えてから言った。
「急がなくてもいいわ。あなたがちゃんと来てくれるの、知ってるもの」
ルシファーの目がわずかに揺れ、でもすぐにいつもの笑みが戻る。
「そうか。じゃあ、また後で」
「ええ。また後で」
また。
その言葉は、以前より少しだけ近かった。
森の中へ消えていく、ルシファーのその背中をリリスは見送った。
白い上着の袖が、手の甲を覆っている。
内側の紫が、手首のあたりで覗いていた。
泉のそばでは、彼女の白い衣と外套が風にゆらゆらと遊ばれている。
ルシファーが知りたかったものの近くに、自分はいるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し冷えた。
自分が何を嫌だと思ったのか、何が苦しかったのか。
なぜ戻らないのか。
それを話したら、どうなるのかしら。
ルシファーは、それを聞いたらどこかへ行ってしまうの?
知りたかったものを知ったら、もうここへ来なくなるの?
リリスは、白い上着の袖をそっと握った。
まだ、言えそうにないわ。
泉の水面が、夕方の光を受けて揺れている。
リリスはその光を見つめながら、ルシファーが戻ってくる方の森へ、耳を澄ませていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。
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