表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/69

第45話「近いところ」

「……兄?」


リリスは、濡れた髪を抱えたまま動けなかった。

池のそばでは、白い衣と外套から水が落ちている。

枝に広げられた布の端から、雫がひとつ、またひとつと草の上へこぼれ、風が通るたびに白い布が重たげに揺れた。

けれど、リリスの意識はそこへ戻らない。


兄。


ミカエルとガブリエルの?

目の前にいるこの天使が?

羽に葉を絡ませて、木の上で眠って、式服を寝床にし、髪拭きにして、上着まで貸してくる、この変な天使が。

あのミカエルとガブリエルの兄。


リリスは、どう受け取ればいいのか分からないまま、もう一度首をかしげた。


「……二人のお兄さんということ?」


「そうだよ」


ルシファーは、濡れた外套の端を低い枝へ丁寧に広げながら答えた。


「俺が二人の兄であり、大天使としての師であり、親代わりみたいなものだった」


「……親代わり」


言葉の意味は分かる。

けれど、目の前のルシファーとうまく繋がらなかった。

ミカエルは正しく強い天使で、ガブリエルは優しく丁寧な天使だった。

リリスが見てきた二人は、神のそばにあり、役目を知り、それを疑わずに語ることができる者たちだった。

けれど、ルシファーは違う。

曖昧なことを言い、変なところで笑う。

不便な天使だと言われても否定しない。

それでいて、彼女の言葉を勝手に別のものへ変えない。

リリスは、しばらく彼を見ていた。


「……あなたは、ただの変な天使じゃなかったのね」


ルシファーは目を瞬かせたあと、困ったように笑った。


「やっと、俺にもまともな側面があるって分かってくれたかな?」


リリスはまじめに考えた。

羽にはまだ小さな葉がついている。

暗いグレーのシャツに紫のネクタイ、白いスラックス。

上着を脱いだ彼は、最初に会った時より天界の白から遠く見えた。

それでも姿勢はきれいで、言葉は柔らかく、どこか育ちのよさが残っている。

 

まとも、なのかもしれない。

けれど。


「それはまだ分からないわ」


「厳しいね」


「だって、木の上で眠る兄なんて、私は知らないもの」


「それは確かに、兄としての威厳に欠けるかもしれないね」


ルシファーは、外套の端を整えながら笑った。

その軽さに、リリスも口元を緩める。

踏み込んだことを聞いたはずなのに、空気は固まりきらない。

彼が置いた笑いの分だけ、リリスは呼吸を忘れずにいられた。


ルシファーは衣と外套を枝に広げ終えると、少し離れた場所へ腰を下ろした。

リリスの正面ではなく、かと言って完全に真後ろというわけでもない。

ただ、白い上着を羽織るリリスが落ち着いて座れるように、角度だけをずらしている。

リリスが膝を揃えると、長い袖が手元を隠し、内側の紫が、合わせ目からちらりと見える。

ルシファーは、今朝持ってきていた葉包みを開いた。

中には果実が少しと、木の実がいくつか入っている。


「乾くまで、少しかかりそうだね」


リリスは枝にかかった衣と外套を見た。

風が通っているのか、外套が揺れている。

陽も十分に届いているようだった。

ルシファーは果実を二つに分け、片方を葉の上に置いてリリスが手を伸ばせる場所へ寄せた。

リリスはそれを見てから、自然に手を伸ばした。

やはりもう、受け取るたびに長く迷わなくなっている。

そのことに自分で気づき、少し不思議な気持ちになった。


「ミカエルとガブリエルのお兄さんなら」


果実を手にしたまま、リリスはそっと聞いた。


「あなたは、何をしていた天使なの?」


ルシファーは目を伏せた。

池の水面が風で揺れる。

枝に広げた白い衣から、また雫が落ちた。


「父上の言葉を、最初に読む役目だった」


「お父様の言葉?」


「うん。世界がどこから始まり、どこへ向かうのか。天使たちは何を担うのか。父上が示したものを読んで、他の天使たちにも分かる形にして渡す。そういうことをしていた」


リリスは、その言葉をゆっくり聞いた。

お父様が示した言葉をルシファーが読み、そして、他の天使たちへ渡す。

見たことのない、整った言葉を思い浮かべる。

きっとそこには、間違いなく並べられたものがある。

天使たちの役目や、エデンの庭や、始まりの男女のことも、そこに含まれていたのだろうか。


「だから、エデンのことも知っていたの?」


「父上の言葉の中ではね」


ルシファーは答えた。


「庭の形も、アダムのことも、君のことも知っていた。でも、そこにいる君が何を感じるかまでは知らなかった」


リリスは、果実を持つ手を止めた。

 

彼は最初に会った時、自分の名を言い当てた。

けれど、なぜここにいるのかは知らないと言った。

戻れとも言わなかった。

疲れているだけだとも、反抗しているとも言わなかった。

ただ、知らないと。

そう言った。


「……だから、あなたは私のことを知っているのに、知らないみたいな顔をしていたのね」


「名前は知っていたよ。でも、君がここにいる理由は知らなかった。今も、まだ知らない」


リリスは隣より少しずれた位置に座るルシファーを肩越しに見る。

ルシファーの声は、いつも通り柔らかかった。

けれど、その言葉は曖昧ではなく、知らないものを知らないまま置くための、静かな線が引かれている。


「分かったふりを、しなかったのね」


「したくなかったんだと思う」


ルシファーはかすかに笑った。


「父上の言葉を読む役目だったからこそ、知らないことを知っているふりは、したくなかった」


その言い方は、自分を立派に見せるためのものではなかった。

正しいことを言おうとしているのでもない。

ただ、そうするしかなかったのだと認めている声として耳に届き、リリスは何も言えなかった。

けれどその言葉は、泉の水音と共に、胸の奥へ沈んでいった。


しばらく、二人は無言で果実を食んだ。

枝にかかった衣と外套が風に揺れている。

池の水面には、木漏れ日が細かく映っていた。

背中合わせに近い位置にいるルシファーの羽は、体の横から後ろへゆるく流れ、白い羽の先が時々風に揺れていた。

 

最初に触れたのは、足先だった。

ふ、と羽の端が、上着では隠しきれないリリスの足首をかすめる。

風がゆるく吹き抜けるたび、足のあたりを羽がかすめていく、くすぐったい感覚に自然と口元に笑みがこぼれた。

白い羽は思ったよりあたたかかった。

水浴びのあと、まだ冷えていた肌に、その温度が触れて、すぐ離れる。

何度か繰り返されるうちに、リリスは思わず笑った。


「ふふ。あたたかくて、くすぐったい」


ルシファーが肩を動かした。


「ごめん、触っていた?」


「大丈夫。嫌じゃなかったから」


「そう?」


「ええ」


リリスが少し振り返ると、彼の羽が、すぐそばにあった。

この前、葉を取った時にも触れた羽。

抜けた一枚をもらって、菫色の花のそばに添えた羽。

けれど今は、抜け羽ではなく、彼の背から続いているものだった。

リリスはゆっくりと、羽の方へ顔を寄せた。

触れた、というほどではない。

けれど折り重なった白い羽の内側に残る熱が、空気越しに頬へ届いた。


「あなたの羽、あたたかいわ」


「……そう」


少しだけ答えの遅れたルシファーの返事に、リリスは我に返った。

なぜ彼の返事が遅れたのかまでは分からない。

けれど、もしかして失礼なことだったかもしれないと思い直して、リリスは身体の向きを戻した。

ルシファーは背中合わせに近い姿勢のまま、彼女を急かさない。

羽だけが、まだ近くにある。

リリスは果実の欠片を手の中で転がしながら、もうひとつ聞いてみたくなった。


ルシファーのことを。

彼がどこから来たのか。

なぜ、そんなふうに何も決めつけずにいられるのか。

彼女はゆっくり口を開いた。

 

「ルシファーは、最初から、お父様の言葉を読む天使として造られたの?」


「そうだね」


ルシファーの声は静かだった。


「父上の言葉を、最初に読む者として造られた。俺は、最初の天使だったから」


最初の天使。

リリスは、その言葉を胸の内で繰り返した。

ミカエルとガブリエルの兄で、大天使たちの師で、お父様の言葉を最初に読む者。

どれも、入り江で会った彼とはすぐに繋がらない。

それでも、きっと全部が同じ人の中にある。


「……それは、あなたにとって苦しくはなかったの?」


リリスが聞くと、ルシファーは考えるように間を置いた。


「苦しくはなかったよ」


その返事は、思ったより穏やかだった。


「最初から生まれた理由や役目があって、その役目を果たすのが当たり前だった。天界は、そういう場所だったからね」


「……そう」


リリスは膝の上で、長い袖に隠れた指を曲げた。

天界はそういう場所だった。

エデンも、きっとそうだった。

生まれた時から、いる場所があった。

隣にいるべき相手がいた。

やるべきことがあった。

それは祝福と呼ばれ、疑うより先に差し出されていた。


ルシファーは続ける。


「ただ、記された通りには見えないものがあると気づいてからは違った。俺は、自分の役目も、父上の言葉も、前と同じようには渡せなくなった」


「記された通りには見えないもの?」


「うん」


ルシファーは、枝に広がる白い衣を見る。


「名前が記されていても、その者がその名でどう呼ばれたいかまでは分からない。場所が記されていても、そこがその者にとって息のできる場所かどうかは、言葉の中には残らない」


リリスは、何も言えなかった。

泉の水音だけが、二人の間を満たす。


「戻れば、きっと俺の席はある」


ルシファーは言った。


「でも、そこに座った俺は、もう前と同じ俺ではいられない。それでも父上は、そこに座れる形を用意するのだと思う」


席。

その言葉に、リリスの指先が強ばった。


――君の場所は、まだ残っている。


お父様の声が胸の奥で戻る。

リリスは白い上着の袖を、そっと握った。

ルシファーが今話したことは彼の天界での話であり、彼と神と、ミカエルやガブリエルたちの話だ。

自分の話ではない。

それなのに、違う言葉の奥で、同じ形をした何かが触れた気がした。


「ルシファーは……」


リリスは迷ってから、聞いた。


「お父様のことをどう思っているの?」


ルシファーは、ほんの少し笑った。


「どう思っているか、か。難しい質問だね」


「難しい?」


「うん」


彼は視線を落としたまま、すぐには答えなかった。

遠い空ではなく、自分の内側から言葉を探しているようだった。


「……嫌いになったわけではないと思う。父上に反逆したいわけでも、何かを壊したいわけでもない。ただ……」


「ただ?」


「同じ場所から、世界を見ることはできないと思った」


リリスは、返事をしようとしても言葉にならなかった。


お父様のいる場所、それは天使たちが見上げる場所。

すべてを知り、すべてを記し、正しい言葉で世界を包む場所。

ルシファーは、そこにはいられないと思ったのだ。


「だから、今ここにいる」


ルシファーの言葉を受けて、リリスは目を伏せた。

 

ミカエルも、ガブリエルも、セノイたちも、お父様の言葉の中からこちらを見ていた。

戻るべき場所、残された席、定められた役目。

けれどルシファーは、そこから離れ、今この場所にいる。

濡れた草のそばに座り、乾かない衣を風に任せながら、彼女の隣ではなく、少し後ろで話している。


リリスは、ルシファーの羽に視線を落とした。

また、小さな葉のかけらが奥に入り込んでいる。

思わず、口元が緩んだ。


「ねえ」


「うん?」


「羽に触れてもいい? また小さな葉のかけらが巻き込まれているの。取るついでに、少しだけ」


ルシファーは自分の羽を振り返ろうとして、途中でやめた。


「全部取ったつもりだったんだけどな。……君が触れたいなら、構わないよ」


君が触れたいなら。

リリスは、その言い方を聞いてから頷いた。


「ありがとう。痛くしないよう気をつけるから」


「うん」


リリスは、そっと羽へ指を伸ばした。

白い羽の間に、小さな葉が挟まっている。

折らないように、羽を傷めないように、ゆっくり葉だけをつまんだ。


この羽は、きっと天の一番高いところにあったものだ。

それが今は、こんなに近くにある。

葉を巻き込み、土の匂いを連れて、白い服も少しずつ汚れている。

ルシフェルと呼ばれていた彼自身も、まだ自分の呼び方を探している。


そのすべてを、リリスはまだ知らない。

けれど、彼が何も失わずにここへ来たわけではないことだけは、少し分かった。

葉を取り終えると、リリスは手を離した。


「取れたわ」


「ありがとう」


「また変なところでお礼を言うのね」


「君はいつも丁寧だからね」


「だって、乱暴にしたら痛いでしょう?」


「痛くない時もあるよ」


「でも、痛い時もあるのでしょう?」


ルシファーは黙った。

それから、静かに笑う。


「そうだね」


リリスは羽を見た。


あたたかくて、痛むかもしれないもの。

失えば何かが変わるもの。

大天使のしるしではなく、ルシファーのもの。

ルシファーの一部。

そのことが、前より少しだけ分かった気がした。





やがて、陽が傾き始めた。


枝に広げた衣と外套は、まだ完全には乾いていない。

けれど、少しずつ水は抜けてきているようだった。

風が通るたび、白い布がかすかに揺れた。

ルシファーが立ち上がる。


「今夜の食べ物と、光る草花を少し取ってくるよ」


リリスは顔を上げた。


「一人で大丈夫?」


自分で聞いてから、不思議な気持ちになった。

それは、彼女自身が聞かれていた言葉でもあった。

ルシファーは柔らかく頷く。


「うん。すぐ戻るよ」


リリスは少し考えてから言った。


「急がなくてもいいわ。あなたがちゃんと来てくれるの、知ってるもの」


ルシファーの目がわずかに揺れ、でもすぐにいつもの笑みが戻る。


「そうか。じゃあ、また後で」


「ええ。また後で」


また。

その言葉は、以前より少しだけ近かった。


森の中へ消えていく、ルシファーのその背中をリリスは見送った。

白い上着の袖が、手の甲を覆っている。

内側の紫が、手首のあたりで覗いていた。

泉のそばでは、彼女の白い衣と外套が風にゆらゆらと遊ばれている。

 


ルシファーが知りたかったものの近くに、自分はいるのかもしれない。

そう思うと、胸の奥が少し冷えた。


自分が何を嫌だと思ったのか、何が苦しかったのか。

なぜ戻らないのか。

それを話したら、どうなるのかしら。

ルシファーは、それを聞いたらどこかへ行ってしまうの?

知りたかったものを知ったら、もうここへ来なくなるの?


リリスは、白い上着の袖をそっと握った。


まだ、言えそうにないわ。


泉の水面が、夕方の光を受けて揺れている。

リリスはその光を見つめながら、ルシファーが戻ってくる方の森へ、耳を澄ませていた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。

ブックマークや評価も、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ