第43話「明日は、早く」
朝になっても、「また」は消えていなかった。
リリスは白い外套の上で目を覚ます。
森の光はまだ薄く、枝葉の隙間から落ちてくる朝は海辺の光よりやわらかく、花びらの縁だけを淡く浮かび上がらせている。
昨夜そばに添えた光る草花は、もう色を失いかけていた。
青緑の明かりは花の奥で細くなり、朝の匂いに紛れていく。
菫色の花は、まだそこにあった。
その隣に、白い羽。
起き上がる前に、リリスはしばらくそれを見ていた。
羽は夜のあいだに風にさらわれもせず、花のそばで朝を迎えていた。
リリスは手を伸ばし、羽の端にそっと指で触れた。
すぐに飛ばされてしまいそうなほどに軽い。
だからこそ、失くしたくないと思った。
その気持ちに、リリスはまだ名前をつけられない。
宝物、と呼ぶには少し早い気がする。
けれど、ただの羽ではなかった。
ルシファーの羽だったもの。
彼は抜け羽だから捨てていいと言っていた。
けれど、リリスにはいらない物の様には思えなかった。
綺麗だったし、なにより彼の身体から離れたものを、何の気なしに風へ渡してどこかへやってしまうのは嫌だった。
だから、花の隣に添えた。
それだけのことなのに、朝になっても、胸の奥に小さな温度が残っている。
リリスは白い外套の端を撫でた。
もう、この布の感触にも慣れてしまった。
最初は落ち着かなかった、知らない匂い。
柔らかさが近すぎて、何度も目覚めた夜。
けれど今は、背中が痛くないこと、夜露の冷たさが少し遠くなることも、身体が覚えている。
眠る前に、花と羽を確かめることも。
いつの間にか、それらはここで眠る支度の中に混じっていた。
――またね、リリス。
昨夜の声が、耳の奥に戻ってくる。
リリスは外套から手を離した。
来るかしら。
そう思ったあとで、すぐに目を伏せる。
待っているわけじゃないわ。
彼がまたと言ったから、その言葉がどうなるのか気になっただけ。
昨日も来たし、おとといも来た。
なら今日も来るのかしらと、少し考えただけ。
それだけ。
そう言い聞かせた分だけ、胸の奥で何かが小さく身じろぎする。
リリスはそれ以上考えないようにして、入り江へ向かおうと立ち上がった。
朝の海は、まだ明るくなりきっていなかった。
波は灰色を抱えた青色で、岩に触れるたび白い泡を作る。
リリスはいつもの岩に腰を下ろし、足先を水に浸した。
朝の水は冷たい。
けれど、もう怖くはない。
波は来て、触れて、戻っていく。
リリスは海を眺める。
しばらくは、それでよかった。
けれど少し時間が経つと、森の方へ耳が向いた。
草を踏む音がしたような気がして、振り向いても、何もない。
今度は、鳥が枝から飛び立つ音に顔を上げる。
白い羽ではない。
次は、風が木々を揺らす音に、耳を澄ませる。
ルシファーの声はしない。
リリスは海へ視線を戻した。
ただ、森の音が少し気になるだけよ。
昼が近づいて、光が強くなった。
海は青さを増し、波の上で細かな光が跳ねる。
リリスは岩の上で手で髪を梳き始めた。
潮風のせいで、指が何度も途中で止まる。
長い髪の奥で絡んだ砂や葉を見つけるたび、小さく眉を寄せた。
上手くいかない。
けれど、嫌ではなかった。
誰かに整えられるのを待つのではなく、自分の指で少しずつ扱い方を覚えていく。
面倒で、時間がかかって、思ったようにはいかない。
けれどその不器用さは、今のリリスには自分が自分であるという証に思えた。
それでも、やはり大変だった。
髪は長く、小さな水辺で少し濡らすだけでは奥まで洗えないし、海の水に浸せばベタついてしまった。
小さな川では身体を清めるにも足りず、髪を濯ぐにはもっと足りない。
リリスは指に絡まった髪を見て、息を吐いた。
何か、考えないと。
そう思った時、また森の方を見ていた。
ルシファーは、まだ来ない。
やがて、昼を過ぎて風の向きが変わる。
岩に当たる波の音が、少し低くなる。
リリスは持ってきていた果実を少し食べ、入り江に流れ込む川辺の、まだ塩辛くない水を飲んだ。
森の方を見る回数は、自分で思っているよりずっと増えていた。
来ないのかしら。
そう思ってしまってから、リリスは唇を結んだ。
来ないなら来ないで、別にいい。
そう思おうとする。
けれど、そう思おうとすると、なぜか昨日より海が少し広く感じて自然と俯いていた。
風が強くなったと思った瞬間、羽音がした。
リリスは顔を上げた。
一瞬、胸が軽くなる。
けれど、すぐに違うと分かった。
羽音は三つ。
降りてきたのは、セノイ、サンセノイ、マンゲロフだった。
リリスは岩の上で背筋を伸ばした。
数日ぶりに入り江へ降り立った三天使の中から、セノイがいつものように前へ出る。
サンセノイは少し後ろに控え、マンゲロフは黙ったままリリスを見ている。
セノイの視線が、リリスの顔を確かめるように動いた。
「リリス」
リリスは答えなかった。
セノイは少しだけ表情を和らげる。
「以前より、顔色がよくなった様に見える」
リリスは、ほんの少し目を細めた。
「そうかしら」
「少し時間を空けた方がいいと思ったのだ。落ち着く時間も必要だろうからね」
「アダムからの果実のおかげだろうか」
リリスは何も言わなかった。
なぜなら、あの果実は食べていない。
浜辺に残したまま、翌朝にはなくなっていた。
波にさらわれたのか、鳥が食べたのか、それも分からない。
顔色がよくなったのは、きっと別の理由だった。
ルシファーが持ってきた、果実や木の実、光る草花。
彼の白い外套、選んだ花と抜け羽根。
それから、変で不便な天使の、ルシファーの声。
けれど、それを言うつもりはなかった。
ルシファーは最初に言っていた。
わけあって、中心から堂々と入るわけにはいかない。
だから外縁から歩いてきたのだ、と。
なら、彼には他の天使たちに知られたくない事情があるのかもしれない。
まだ詳しいことは分からない。
でも、分からないものを勝手にこの三天使に差し出してはいけない気がした。
彼がまだ話していないことは、彼のものだ。
リリスは海から足を上げた。
濡れた足先から、砂の上へ水が落ちる。
「私は、戻らないわ」
セノイが静かに彼女を見る。
「今日も同じ。だから帰って。そして、お父様に伝えて」
声は大きくない。
けれど、以前のようには揺れていなかった。
サンセノイが前へ出た。
「どうあっても意見は変わらないというのか」
彼の声には、前より厳しさが混じっていた。
「この期に及んでも、慈悲深き神はまだ君の戻るべき場所を示しておられるというのに」
リリスは、サンセノイを見た。
戻るべき場所。
慈悲。
また、その言葉。
お父様が残している私の席。
アダムの隣。
始まりの女としての庭。
その席が空いていることを、この天使たちは慈悲と呼ぶ。
でも。
リリスは、ゆっくりと言った。
「その席が空いていても、私がそこに座りたいかどうかを、どうしてお父様もあなた達も私に聞こうとしないの?」
サンセノイの目が、わずかに動いた。
リリスはかまわず続けた。
「どうして、私がそこに座ることが前提として、いつも先にあるの?」
ざっという激しい音と共に波が岩に当たる。
白い泡が弾けて、すぐに消えていった。
少しの沈黙のあと、サンセノイは答えた。
「それは定められたことだからだ」
リリスは、息を止めた。
怒りではなかった。
驚きでもなかった。
ああ…、と、ただそれだけを思った。
この人たちは、聞こうとしないんじゃない。
聞く必要がないと思っているんだわ。
そこには、リリスがどうしたいかより先に、決まっているものがある。
始まりの女として、アダムの隣にいること、命を繋ぐこと、庭に戻ること。
彼らにとってそれは、話し合って決めるようなことではなく、最初からそこに置かれている正しい事実にすぎなかった。
「……そうなの」
サンセノイの言葉を聞いて、リリスの中で別の声が胸の奥でよみがえる。
――似合いそうな花は選んだよ。
――けれど、好きかどうかは君にしか分からないだろう?
ルシファーの声。
あの菫色の小さな花。
選んでいいのかと聞いた時、当たり前だろうと返した声。
リリスは胸の前でぎゅっと手を握った。
同じ天使なのに。
同じ白い羽を持っているのに。
どうして、こんなに違うの?
急に、あの声が聞きたくなる。
変で、不便で、曖昧で、でも自分の言葉を勝手に別のものへ変えない天使の声。
セノイが口を開く。
「リリス。君はやはり考えすぎているのかもしれない。神は君を責めてはおられない。戻れば、まだ――」
「帰って」
先ほどより低く静かに、リリスがセノイの言葉を遮る。
「お父様には、戻らないと伝えて」
三天使は、しばらく彼女を見ていた。
マンゲロフの目が、いつもより深くリリスを捉えている。
セノイは静かに息を吐いた。
「今日は、これ以上は話さないでおこう」
サンセノイは不満そうだったが、何も言わなかった。
三人の白い羽が、青い海の光を受けたて羽ばたいた。
リリスはそれを見上げず、足元の砂を見ていた。
三つの羽音が遠ざかる。
入り江から離れた空で、しばらく三天使は黙っていた。
最初に口を開いたのは、サンセノイだった。
「以前より、言葉がはっきりしている」
セノイは前を向いたまま答える。
「考える時間を与えたせいだろう」
マンゲロフが低く言った。
「それだけではないと思う」
セノイが少し振り返る。
「どういうことだ?」
マンゲロフは、遠ざかる入り江を見た。
「戻らない、という言葉の形が変わっている様だった」
サンセノイは眉を寄せる。
「それが何だというのだ」
マンゲロフは答えなかった。
セノイも、すぐには言葉を返せなかった。
三人の白い羽は、エデンの方へ戻っていく。
入り江に残ったリリスは、三天使の姿が完全に消えてから、ようやく岩を降りた。
砂の上を歩き、森へ向かう。
昨日ルシファーがいた、少し開けた場所の近くを通っても、誰もいない。
それでもリリスは足を止めた。
光る草花もない。
葉に包まれた果実もない。
白い式服も、銀の髪も、羽に絡まった葉もない。
ただ、木々の影が落ちているだけだった。
……いない。
思っていたより胸が沈んでいることに、リリスは自分で驚いていた。
待っていたわけじゃないわ。
そう思おうとして、でも足はしばらく動かなかった。
寝床へ戻ると、白い外套が草花の上に広がっている。
菫色の花は少ししおれかけていたが、まだ綺麗だった。
白い羽は、その隣にある。
夜のために昨日添えた光る草花は、もう色をなくしていた。
リリスは外套の端へ手を伸ばし、指先でそっと撫でる。
なめらかな布。
少しだけ森の匂いが移って、海風も混じっている。
最初は落ち着かなかったそれが、今はないと困るものになっていた。
外套の上に横になって身体を横たえると、背中の痛みが少ないことにすぐ気づく。
昨日も、その前もそうだった。
もう、緑のにおいのする草だけの寝床には戻れない気がした。
遠くで海が鳴って、森の中に夕暮れが沈んでいく。
リリスは目を閉じた。
今日は、来なかったわ。
その言葉が、胸の奥で小さく浮かんだ。
来ると約束したわけではない。
また、と言っただけ。
だから、来ない日があっても不思議ではない。
それでも、瞼の裏に白い式服がちらつく。
葉だらけの羽、困ったように笑う顔。
――君が好きそうなものは、覚えておいた方がいいだろう?
リリスは、外套の端を軽く握った。
眠るつもりはなかった。
けれど、森の暗さと波の音が重なりに、意識が少しずつ遠のいていく。
その時だった。
がさ、と葉の揺れる音がして、リリスは目を開けた。
次に、いつもより静かなあの声が聞こえた。
「……リリス、起きてるかい?」
寝床から少し離れたところから聞こえたその声に、リリスはすぐさま身体を起こした。
「ルシファー!?」
自分の声が思ったより明るく出て、リリスは少し恥ずかしくなる。
森の影の向こうに、ルシファーがいた。
白い式服は、昨日よりさらに森に揉まれている。
袖には草の色がつき、裾には土の跡があった。
羽には葉と小枝がいくつも絡まり、少しだけぼさぼさに見える。
片手には、光る草花と、木の実を包んだ葉。
彼は少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、起こしたかな?」
「だっ、大丈夫よ!」
リリスは、すぐに答えた。
「それより、どうしたの? いつもより遅いのね」
言ってから、胸が跳ねる。
いつもより遅いだなんて、まるで、待っていたみたい。
リリスは気恥ずかしさに少しだけ目を伏せた。
ルシファーは、気づいたのか気づかなかったのか、穏やかに答えた。
「今日は、庭の行ったことのない方へ行っていたんだ。それで遅くなってしまって。これでも急いだんだけどね」
リリスは彼の羽を見た。
「だから今日は、羽がそんな状態なのね」
「うん」
ルシファーは自分の羽を少し振り返る。
葉が一枚、ぱらりと落ちた。
「まあ、なんとかなるよ」
そう言って、彼は羽を少し縮める。
まるで隠そうとしているようにも見えた。
その仕草が妙におかしくて、リリスは少しだけ笑った。
「隠せてないわ」
「そうか。残念だな」
「本当に不便な天使ね」
「今日は特にそうだね」
ルシファーは、光る草花を少し掲げた。
「これ、使う?」
「ええ。ありがとう」
リリスは素直に受け取る。
彼は寝床には近づきすぎないまま、葉に包んだ木の実と果実も差し出した。
リリスはそれも迷いなく受け取った。
光る草花が、少しずつ明るくなり始めて、小さな青緑の光がリリスの手元とルシファーの白い袖を淡く照らした。
リリスは、ふと口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「あなたは、私と会っていない時、どこにいるの?」
聞いてから、胸が少し緊張した。
踏み込みすぎただろうか。
多分、彼には彼の事情がある。
他の天使に知られてはいけないことがあるのかもしれない。
けれど、聞いてみたかった。
ルシファーは少し考えていたが、嫌そうなそぶりはしなかった。
「そうだね。日中は主に庭の方を見に行っているよ。夜はここに来て、眠る時は木の上かな」
リリスは瞬いた。
「木の上?」
「うん」
「木の上で寝ているの?」
「最近、やっと上手く眠れるようになってきたんだよ」
リリスは、しばらく彼を見た。
お父様に近い大天使が、木の上で眠るの?
「なぁに、それ。 ふふっ、 本当に鳥みたい!」
思わず笑い声が漏れた。
「ルシファーって、本当に変な天使なのね」
ルシファーは少し笑った。
「否定できないな」
リリスも、つられて更に笑う。
笑ったあと、胸の中の重さが少しだけほどけていく。
彼にも、帰る場所がないのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
けれどルシファーは、それを悲しいことのようには言わなかった。
木の上で眠るのが上手くなったと、むしろ少し誇らしげに言う。
だからリリスも、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、リリスは外套の端を指先で握った。
言うべきかどうか迷う。
けれど、言わなければ明日はまた分からない。
「……明日は?」
ルシファーが首を傾げる。
「ん?」
リリスは視線を少し横へ逃がした。
「あしたは……もっと早く、来る?」
言ってしまった。
リリスは、すぐに言葉を足した。
「エデンに行く用事があるならいいの。ルシファーは、あちらですることがあるんでしょう?」
「することがある、というより、状況確認みたいなものだよ」
ルシファーは、からかわなかった。
ただ、いつものように静かに答える。
「君がここに来てもいいと言うなら、来させてもらうよ」
胸の奥が、ほっとして、リリスは少しだけ息を吸った。
そのことにも、少し驚く。
「なら」
「明日、水辺に行かない?」
「水辺?」
「ええ。できれば、小川のようなところじゃなくて、大きな川や泉のようなところ」
ルシファーは少し考えた。
「大きな水辺か……少し歩くけど、澄んだ泉ならあったよ。そこで構わないなら」
「なら、そこでいいわ」
「水を汲むのかな? 道具はいる?」
「目的は別なの」
「と言うと?」
リリスは、少し言いにくそうに視線を落とした。
「あのね……水浴びがしたいの」
ルシファーが一瞬止まった。
本当に一瞬、全部の動きが止まった。
「みず、あび?」
「ええ」
リリスは少しだけ首を傾げる。
「今まで、この近くにある小川で身体を清めていたの。でも、あまりに小さいから入ることもできないし、髪もよく洗えなくて」
「なるほど」
ルシファーは真面目な顔で頷いた。
その顔がいつになく真面目すぎて、リリスはかえって少し不思議になった。
ルシファーはリリスの髪を見る。
長い菫色の髪は、確かに少しごわついている様に見えた。
これほど長い髪を小川で洗うのは、大変だろう。
「服も汚れてきているし」
リリスは続けた。
「使わせてもらっているあなたの布も、洗った方がいいかなって」
「いろいろと考えてくれたんだね」
「だって、借りているものだもの」
「あれは自由にしてくれていいよ」
「でも、洗うわ」
「うん」
ルシファーは少し笑った。
「それじゃあ、明日は君のやりたいことに付き合うよ」
リリスは頷いた。
「ええ、お願い」
その言葉が、自分の口から思ったより自然に出たことに、リリスは少し遅れて気づいた。
ルシファーは、それを当たり前のように受け取った。
夜の森で、光る草花がゆっくり明るくなっていく。
明日は、少し早く来る。
そのことを思うと、リリスはなぜか、眠るのが少し惜しくなった。




