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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第42話「あなたのもの」

リリスは、白い羽根を両手で包むようにして森へ戻っていった。


風にさらわれないように、折れてしまわないように。


足元へ視線を落としながら、それでも時々、手の中を確かめるように覗き込む。

菫色の長い髪が潮風に流れて、横顔を隠し、またほどいた。


ルシファーは、しばらくその背中を見送っていた。


海は今日も明るい。

岩に当たった波が白く砕け、足元まで届きそうになっては、また引いていく。

潮の匂いが羽を撫で、さっきまでリリスの指が触れていたあたりに、風が通る。

ルシファーは、自分の羽へ手を伸ばした。


抜けた場所を、指先でそっとなぞる。

痛くはない。

羽根が抜けることなど、珍しいことではなかった。

髪が抜けるのと同じようなものだと言った通りで、痛みもなければ傷にもならない。

けれど、指先に触れた羽の隙間には、妙な静けさが残っていた。


――痛くない?

――本当に?

――でも、あなたの……ルシファーの大切な一部だから

――もらっておいてもいい?


リリスの声が、波の音に混じって戻ってくる。

 

天界で、羽は大天使の姿の一部だった。

光を受け、視線を受け、その姿を示すものだった。

誰かが触れることももちろんあった。

乱れていれば整えられ、式服と同じように、清く、美しく、父上のそばに立つ者としてふさわしくあるために。

儀礼の前には羽の流れを正し、埃を払い、傷みがないかを見る。

そこには、敬意があった。

大切に扱われていたのだと思う。


けれど、リリスの手は違った。

彼女は、羽を大天使のものとも、神のそばに立つ者のしるしとしても見ていなかった。

ただ、ルシファーの身体の一部として見ていた。


だから、痛くないかを聞いた。

だから、勝手に触れなかった。

だから、抜けた一枚さえ、捨てるものとしてすぐには扱わなかった。


あなたの、ルシファーのもの。


リリスは、何も特別なことを言ったつもりはないのだろう。

それが分かるから、余計に困ってしまう。

ルシファーは羽から手を離した。


リリス、彼女は戻らない。

それだけは分かる。

けれど、なぜ戻らないのかを、自分はまだ知らない。


疲れているだけではないのだろう。

怒っているだけでもないのだろう。

誰かを困らせるために、あの入り江にいるようにも見えない。

けれど、それ以上を自分が勝手に言葉にするべきではない。

それだけは分かる。

だから、かわいそうだとも、正しいとも、強いとも、まだ呼べない。

呼ぶべきではない。


ルシファーは海を見た。

波は何も言わない。

寄せて、触れて、戻っていく。


リリスは、この水辺で何を見ていたのだろう。

何を聞いて、何を聞かれずに済んでいたのだろう。

今はまだ、分からないままでいるしかなかった。




 

その日の夕方、森の中には花の匂いが残っていた。


ルシファーが寝床の近くへ行くと、リリスは白い外套の上に膝をついて、花の向きを少しずつ直していた。


夕方の光は、森の葉に細く遮られている。

花びらに落ちる光も、昼間より淡い。

リリスの手元には、昨日選んだ菫色の花があった。

小さな花なのに、彼女は他の花よりも丁寧に触れている。


ルシファーは、寝床に近づきすぎない位置で足を止めた。


「リリス」


彼女が振り向く。


「昨日の花、見てもいいかな」


リリスは目を瞬いた。

それから、自分の寝床の周りを見て、またルシファーを見た。


「……見るだけなら」


「うん。見るだけ」


そう答えると、リリスは少し考えてから、身を引いた。

彼が立っていられる距離を、彼女なりに決めたのだろう。

ルシファーは、その境を越えない場所で足を止めた。


そこは、少し前までただ夜を越すためだけの場所だった。

けれど今、その小さな場所には花があった。


白い花。

淡い青の花。

細い茎の黄色い花。


リリスが選んだ菫色の花は、外套の上へ大切に添えられている。

近くには、朝まで光っていた草花の枯れた茎もあった。

そして、その隣に、白い羽根があった。

リリスがもらってもいいかと聞いた、あの一枚の抜け羽根。

ルシファーは、しばらく黙って見ていた。


豪華でも、安全でもない。

風が強ければ花は傾くだろうし、夜露で布は湿る。

森の暗さが消えるわけでもない。

それでも、そこにはリリスの手が入っていた。

彼女が草を選び、花を選び、布を使うと決め、羽根をそばに添えた場所だった。


「本当に、花を飾ってくれたんだね」


ルシファーが言うと、リリスは少し顎を上げた。


「ええ。だって、嬉しかったから」

 

ルシファーは目を細める。


「綺麗だ」


「そうでしょう?」


リリスはすぐに答えた。

自慢げ、というほどではない。

けれど、少し前までなら見せなかった顔だった。

誰かに褒められるためではなく、自分が整えたものを見てもらって、少し嬉しそうな顔。

それが、ルシファーには眩しかった。

彼は、菫色の花の隣へ視線を移す。


「羽根は、そこに置いてくれたんだね」


リリスの肩が小さく揺れた。


「飛んでいったら嫌だから」


少し早口だった。


「そこなら、花のそばだし、風もあまり当たらないと思って」


それから、急に不安そうに彼を見る。


「変かしら?」


「いや」


ルシファーはすぐに答えた。


「本当に?」


「本当に」


リリスはまだ少し疑っているような顔をしていた。

彼は、もう一度羽根を見る。


「大事にしてくれているんだね」


リリスは、ほんの少し目を伏せた。


「失くしたくないもの」


その一言で、ルシファーの返事は少し遅れた。


失くしたくない。


それだけ。

特別なものだと語ったわけではない、でもその言葉でもう十分だった。


抜けた羽根。

もう身体から離れたもの。

彼にとっては、捨てても構わない一枚。

それを、リリスは失くしたくないと言った。

ルシファーは、ゆっくり息を吐く。


「……そう」


「どうしたの?」


「いや」


彼は少し笑った。


「大事にしてくれて、ありがとう」


リリスは眉を寄せた。


「これって、お礼を言われるようなこと? 」


「うん。 少なくとも俺はそう感じてる」


「……これが嬉しかったということ?」


「そうだね、嬉しかった」


リリスは、また分からないという顔をした。

ルシファーは、それ以上は言わなかった。


嬉しい。

たぶん、そうなのだと思う。

けれどその中には、もう少し別のものも混じっていた。

上手く言葉にしようとすると、なにか余計なものを背負わせてしまう気がした。

だから、言わなかった。

リリスは彼を見ていたが、やがてふいと視線を外した。


「やっぱり、変な天使だわ」


「すっかり板についてしまったね」


「何度でも言えるわ」


「それは光栄だな」


「もう、褒めたんじゃないわ」


少しだけ、二人の間に笑いが落ちた。

森の中で、花を揺らす風より軽いくらいの笑いだった。


日が完全に傾き薄暗さが増していくと、森の奥で鳥が低く鳴いた。

ルシファーはリリスが忘れていった、夜に光草花と葉の包みを開いた。


「忘れものだよ」


「持ってきてくれてありがとう。すっかり忘れちゃって。 取りに行こうか迷っていたの」


「それならよかった。 さて、腹ごしらえしようか」

 

ルシファーは少しだけ笑うと、リリスの分の果実と木の実を葉の上へ分けた。

リリスも、自分の分を受け取とると、少しずつ食べる。

以前よりも、彼女の手の動きは迷わなくなっていた。

食べていいかどうか、受け取っていいかどうか。

それを確かめる時間が、短くなっている。

リリスが木の実をひとつ口に入れて、小さく頷いた。


「これ、昨日のより甘いわ」


「そう? じゃあ覚えておこう」


「また覚えるの?」


「君が好きそうなものは、覚えておいた方がいいだろう?」


リリスは口を開きかけて、止まった。


「……好きになるかどうか、まだ分からないわ」


「そうか」


ルシファーは穏やかに頷いた。


「じゃあ、また試そう」


その言い方が、リリスには少し不思議だった。

今決めなくていい、また試せばいい。

その余裕が、彼の言葉にはいつもある。

間違えないように急かされることも、正しい答えを求められることもない。

リリスは、手の中の木の実を見ながら小さく答える。


「そうね。 また、試すわ」



 

夜が近づいてくる。

光る草花が、花弁の奥から淡く光り始めた。

リリスの寝床のそばが、少しずつ青緑に照らされていく。

菫色の花と、白い羽根も、その光を受けてやわらかく姿を浮かびあがらせた。


ルシファーはその景色をもう一度見る。


彼女が、自分の手で少しずつ整えている小さな場所。

まだ弱く、まだ不安定で、けれど確かに彼女の気配がする場所。

今夜、リリスはここで眠る。

そのために、花があり、布があり、羽根がある。

今は、それでよかった。

自分が、この場所が何なのかを決める必要はどこにもない。


ルシファーは立ち上がった。


「そろそろ行くよ」


リリスは顔を上げて、少し不安そうな顔をした。


「もう……?」


そこまで言って、自分の声に驚いたように口を閉じた。

それは、引き止める言葉に近い気がして、リリスはすぐに視線を逸らした。


「……夜になるものね」


言い直した声は、少しだけ早かった。

そのことにルシファーは気づいたが、何も言わなかった。

からかわない。

問い返さない。

ただ、いつものようにやわらかく笑う。


「うん。君も休んだ方がいい」


「あなたは?」


聞いてから、リリスは目を伏せた。

どこで休むの、と、そう続けかけてやめた。

聞いていいことなのか、まだ分からなかった。

彼には、彼の事情があると最初にそう言っていた。

外縁から入ってきたのも、きっと理由がある。

ルシファーは、その沈黙を急かさなかった。


「俺も、どこかで休むよ」


「そう」


リリスは短く答えた。

どこか、というその言葉だけでは何も分からない。

けれど、今はそれ以上聞かなかった。

ルシファーは、森の奥へ向かう前に足を止めた。


「またね、リリス」


リリスは顔を上げた。


「また?」


「うん、また」


前にも聞いた言葉。

約束ではない。

明日とも、いつとも言わない。

ただ、また。

 

ルシファーは軽く手を振り、森の奥へ歩いていった。

白い式服の裾が夜の草に触れ、羽の先が葉をかすかに揺らす。

やがて、その姿は木々の影に紛れて見えなくなった。


もう見えない、なのにリリスは白が消えた先から目を離せずにいた。


――また。


その言葉だけが、森の中に残っている気がした。

 


寝床のそばでは、菫色の花と白い羽根が並んでいる。

リリスは外套の端をそっと撫でた。


次のまたは、いつかしら。


そう思ってから、今度は目を逸らさなかった。

ただ、胸の奥が少しだけ温かくなるのを、そのまま感じていた。

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