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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第41話「抜け羽」

朝の森には、花の香りがまだ残っている。

リリスは、白い外套の上で目を覚ました。


頭のそばでは、昨日選んだ菫色の花が少しだけ首を傾げている。

花びらの色はまだきれいで、淡い紫の奥に、青が沈んでいる。

枝の隙間から朝の光が落ちるたび、花の縁がふわりと明るくなった。


リリスは、しばらくそれを見ていた。


自分で選んだ花。

ルシファーが、覚えておくと言った花。

昨日、花を選んでいいと言われた時に泣いてしまったことを思い出して、また顔が熱くなる。


あんなふうに泣くつもりはなかったのに。


泣いても、ルシファーは困った顔をするだけで、急かさなかった。

触れもせず、余計な言葉もかけず、ただ、待ってくれていた。

そのことを思い出すと、恥ずかしさとは別のものが胸に残った。

リリスは指先で、菫色の花にそっと触れた。

花びらは薄く、朝の冷たさを少し含んでいた。

庭にいた頃、白に赤、黄色も青も、花はたくさんあった。

けれど、その中から自分の好きな花を選ぶなんて、考えたこともなかった。


それが今は、自分のそばにある。

自分で選んだから、ここにある。


リリスはゆっくりと外套の上で身を起こした。

見渡せば、白い花、淡い青の花、小さな黄色の花。

寝床は昨日より華やかで、ルシファーが両腕いっぱいに抱えてきた花たちが、森の小さな寝床の周りで朝の光を受けている。


少し前まで、ここは夜を越すための場所でしかなかった。

草を敷いて、小石や硬い土を避けて、寒さをしのぐための場所。

けれど今は、違う。


――良い場所になると思うわ。

 

自分でそう言ったことを思い出して、リリスは目を伏せた。

いい場所、と、そんなふうに呼べるものが、自分の手で少しずつできている。

それは不思議で、少し怖くて、でも嫌ではなかった。


遠くで波が寄せて、返す海の音がする。

リリスは白い外套を撫でながら、今日こそ返すべきかしら、と考える。


けれど昨日、ルシファーはまだ持っていていいと言った。

使うかどうかは自分が決めていい、と。

だから、これも自分が選んでいることなのだろう。


そう思うと、また落ち着かなくなる。

彼のものを、自分が選んで使っている。

リリスは立ち上がり、外套と花を整えた。


白い花は風で倒れかけていたので、草の間へそっと差し直す。

黄色い花は、光る草花の枯れた茎の近くに寄せた。

菫色の花は、そのまま頭のそばに添えておく。


それから、いつもの入り江へ向かった。


朝の海はきらきらと光って明るい。

波が岩へ寄せ、白い泡を作っている。

リリスはいつもの岩に腰を下ろし、足先を水に浸した。

冷たい水が触れても、もう最初ほど驚かなくなっていた。


海は来て、触れて、戻っていく。

掴まないし、決めつけない。

だから、リリスはそこにいられる。


昼が近づく頃、背後の森で枝が鳴った。

リリスが振り返ると、白い姿が木々の間から見えた。


ルシファーだった。

今日は両腕いっぱいの花ではなく、片手には小さな果実と木の実を包んだ葉、もう片方には朝まで光りそうな草花を少しだけ持っていた。

そして、羽にはまた葉が絡まっていた。


昨日よりは少ない。

けれど、ちゃんとついている。


リリスは思わず、彼の羽を見た。


「またついてるわ」


ルシファーは自分の羽を振り返る。


「今日はかなり気をつけたつもりだったんだけどね」


「気をつけて、それなの?」


「残念ながら」


あまりにも真面目に答えるので、リリスは少し呆れて笑った。


「ふふっ、本当に不便な天使ね」


「俺も、そろそろ反論できなくなってきた」


ルシファーは困ったように笑った。

その笑い方にも、リリスは慣れてきた。

否定せず、怒らず、少し困って、それでもやわらかく笑う。

最初は調子が狂った。

今もよく分からない。

けれど、怖くはない。


ルシファーは近くまでは来なかった。

いつものように少し距離を保ち、岩場の近くに立つ。


「少しだけ果実を持ってきたよ。あと、夜用の花も」


「ありがとう」


リリスが近寄って受け取る。

今日は、前より自然に手が出た。

自分でも自然に受け取ったことに気づいて、リリスは一瞬だけ自分の手を見た。

これは戻るためのものではなく、一緒に食べるためのもので、夜を少し明るくするためのもの。

それが、前よりは分かっている。

ルシファーはその様子を見て、ほんの少し目を細めた。


「昨日より、寝床は華やかになった?」


「ええ」


リリスは少し胸を張る。


「ちゃんと飾ったわ。あなたが持ってきた花も、私が選んだ花も」


「そう。それは見てみたいな」


「見てもいいけど、あまり近づきすぎないでね。恥ずかしいから」


「分かっているよ」


その答えに、リリスは少しだけ口元を緩めた。


ルシファーの羽の中で、細い小枝が揺れ、自然と視線が、またそちらへ戻った。

また、白い羽の間に、小さな葉と枝が入り込んでいる。

外側ならまだ取れそうだが、奥の方にも絡んでいるようだった。

ルシファーが少し動くたびに葉が擦れ、羽の白の中で緑が妙に目立つ。


それがなんだか、気になってしまう。

いや、とても気になる。


リリスがしばらく黙って見ていると、ルシファーが不思議そうに首を傾げる。


「どうかした?」


「……羽についているもの」


「ああ」


彼はまた振り返る。


「取ったつもりだったんだけどね」


「自分では取りにくいの?」


「場所によるかな」


リリスは、少し迷った。


羽、天使の羽。


ガブリエルの羽も、ミカエルの羽も、近くで見たことはある。

けれど、触れたいと思ったことはなかった。触れていいものだとも思っていなかった。


それに、自分は触れられることを怖がってきた。

誰かが当然のように近づくこと、身体へ踏み込まれることが、怖かった。


けれど今は、自分が気になっている。

この葉を取ってあげたいと、触れたい、と思っている。

そのことに気づいて、リリスは少し驚いた。


「……取ってあげましょうか」


ルシファーの目が、わずかに丸くなった。


「え?」


「羽についているもの。自分では取りにくいでしょう?」


ルシファーはすぐには答えなかった。

その沈黙に、リリスは少し不安になる。


もしかして、羽に触れるのは失礼なのかしら?

高位の天使に対して、軽々しく言ってはいけないことだった?


そう思いかけて、リリスは急いで言葉を継いだ。


「ごめんなさい、駄目なことだったらいいの……」


「駄目ではないよ」


ルシファーの返事は穏やかだったけれど、少しだけ遅かった。

それが気になって、リリスは彼を見た。


「本当に?」


「うん。ただ、少し驚いた」


「驚いた?」


「君は、時々俺を驚かせるね」


「私そんな驚くようなことしてる?」


「良い意味で」


「……よく分からないわ」


「俺も、まだうまく言えないな」


また曖昧なことを言う。

けれど、リリスはその曖昧さにも少し慣れてきていた。

 

それでも、ここはきちんと聞かなければならない気がした。

リリスは彼の羽を見て、それからルシファーの顔を見る。


「じゃあ、羽に触れてもいい?」


ルシファーは、今度こそ少し黙った。


風が通り、海の音が遠くなる。

リリスは、ルシファーが迷っているのを見た。

嫌だからではないように見える。

どう答えるべきか、慎重に探しているような顔。

やがて、ルシファーは言った。


「君が嫌でなければ」


リリスは眉を寄せた。


「私から触ってもいいかって聞いたのよ? 嫌なわけないわ」


ルシファーは、あっけに取られたように瞬いた。

それから、小さく笑う。


「そうだったね。いいよ」


リリスは、少しだけ息を吸った。


「じゃあ、動かないでね?」


「分かった」


ルシファーは近くの岩に腰を下ろした。

正面から背中を向けるのではなく、少し横を向く。

リリスが近づきすぎずに羽へ手を伸ばせる角度だった。彼は片方の羽をゆっくり広げる。


間近で見る羽は、思っていたより大きい。

近くで見ると、白一色ではなかった。

羽の根元にはごく淡い銀の影があり、光を受けると、表面がわずかに色を変える。

一本一本は細く、やわらかそうなのに、羽全体にはしなやかな力があった。


リリスはゆっくりと手を伸ばし、指先で最初の一枚に触れた。


温かかった。

羽なのに。

そこには確かな体温があった。

本当に、ルシファーの身体の一部なのだと、触れてから初めて分かった。

リリスは思わず指を引きかけた。


「い、痛くない?」


「強く引っ張ったりしなければ大丈夫だよ」


「そんなことしないわ」


彼女は真剣に言った。

ルシファーは少し笑った。


「うん。分かっている」


その言い方が少しだけ優しくて、リリスは余計に慎重になった。

小さな葉を一枚そっと外し、近くに絡んだ枝を見つけて、また羽の間からゆっくり抜く。

ルシファーは動かない。

ただ、ときおり羽の先がかすかに震えた。


「ごめんなさい、もしかして痛かった?」


「大丈夫だよ」


「本当に?」


「本当に」


「たぶん、じゃなくて?」


「本当に」


今度は曖昧にされず、リリスは少しだけ安心する。

それでも、指先には力を入れないように慎重に。

羽を折らないように、絡んだ葉だけを摘まむ。

前に自分の髪に絡んだ枝を抜いた時よりもずっと慎重だった。


ルシファーは黙っている。

その沈黙が、いつもより少し違う気がした。


海を見ている時の沈黙でも、考えている時の沈黙でもなく、何かをじっと受けているような静けさだった。

 


天界にいた頃、儀礼の前に羽を整えられることはあった。

式服を整える時と同じように、羽もまた大天使の姿の一部だった。

清く、正しく、美しくあるためのもの。

けれど、今は違った。


リリスは、自分を大天使として整えているのではない。

羽に絡まった葉を、ただ取っているだけだ。

痛くないか聞きながら、傷つけないように、慎重に、丁寧に。

それだけのことなのに、妙に落ち着かなかった。

嫌ではない。

むしろ、嫌ではないことに戸惑っている自分に気づいて、ルシファーは少しだけ視線を伏せかけた。


「あと、ここ」


リリスの声で、意識が戻る。


「この細い葉、奥に入ってるみたい」


「取れそう?」


「ええ、動かないで」


「……はい」


その返事が素直すぎて、リリスは一瞬だけ手を止めて笑う。


「変なところで従順なのね?」


「君が真剣だからね」


「当然だわ。羽を傷つけたり、壊してしまったら大変だもの」


「壊れるほど弱くはないよ」


「でも、あなたの……ルシファーの大切な一部だから」


その一言が、妙に深く届いて、ルシファーは何も返せなかった。

きっと、リリスは気づいていない。

彼女はただ、羽を大切に扱う理由として言っただけに違いない。

 

大天使の、ルシフェルのものではない。

『ルシファーの大切な一部』。そう言われたことに、たとえようのない驚きと、奥底に触れるものがあった。


リリスが最後の細い葉を取ろうと、羽の間へ指を入れたその時、ふわりと白いものが浮く感覚があった。

一枚の羽根が、リリスの指先に触れた瞬間、柔らかく抜けて、風に流される前に彼女の手のひらへ落ちた。

リリスは手のひらの白を見て、息を止める。


「……っ!」


次の瞬間、顔から血の気が引いた。


「ルシファーッ! 羽が……羽が取れちゃったわ!」


ルシファーは振り返りかけて、急に動くと彼女を驚かせると思ったのか、その場で止まった。


「大丈夫。抜けただけだよ」


「抜けただけ?」


「うん」


「……痛くない?」


「痛くない。髪が抜けるようなものかな」


「ほ、本当に?」


「本当に」


リリスは、両手でその羽根を持った。

驚くほど軽くて柔らかかった。

手のひらにのせると、白い羽根は朝の光を受けて、ほんの少し銀色に見えた。

羽軸は細く、強く持てば折れてしまいそうだった。

さっきまで、ルシファーの一部だったものが、今はリリスの手の中にある。

リリスはそれをじっと見つめていた。


「捨てていいよ」


ルシファーの一言に、リリスは顔を上げる。


「……捨てるの?」


「抜け羽だからね」


「でも、綺麗だわ」


「そうかな?」


「そうよ」


リリスは、もう一度羽根を見る。

それから少し迷って、そっと聞いた。


「……捨てるのなら、もらっておいてもいい?」


ルシファーは少しだけ目を見開いた。


「これを?」


「ええ。綺麗だから」


リリスは羽根を大切に両手で包んだ。


「さっきまで、あなたの一部だった羽根だもの」


その言葉に、ルシファーはすぐには返せなかった。


彼女は、当然それを大天使の羽根として見ていない。

父上に与えられた光としてでもない、誰かの前に立ち、見せるための姿としてでもない。

ただ、ルシファーのものだったから、綺麗だからと言っている。

リリスは、深い意味を持って言っているつもりはないのだろう。

それが分かるから、余計に困った。

ルシファーは、少しだけ息を吐いた。


「……君がそうしたいなら」


リリスの顔が、ほっと明るくなった。


「ありがとう」


その笑顔は小さかった。

昨日、花を選んだ時のように涙で濡れてはいない。

けれど、手の中の羽根を大事そうにしているのが伝わる笑顔だった。

ルシファーは目を逸らすほどではなかったが、少しだけ海の方を見た。


「……どういたしまして」


声が、いつもよりわずかに遅れてしまった。

それにリリスは気づかない。

リリスは、この綺麗な羽根をなくさないように、どう寝床へ持っていこうかという考えで頭がいっぱいになっていた。


「ねえ、ルシファー。この羽根、失くしたくないから寝床に置いてきてもいい?」


「構わないよ。 俺もあとで寝床を見に行ってもいいかな?」


「ええ。 じゃあ待ってるわ」


白い羽根を両手で包み、いつもより早い足取りで森へ戻って行った。

ルシファーは、その足取りが軽いことに気づいて少しだけ笑った。

 

 

リリスは、手の中の羽根が気になって、何度も確かめてしまう。

風に飛ばされないように、髪に絡まないように、折れないように。


森の寝床へ戻ると、花たちが朝より少ししおれていた。

それでも、寝床は昨日よりずっと自分のものに見えた。

白い外套を敷いた寝床があり、花があり、光る草花の枯れた茎があり、頭のそばには菫色の小さな花がある。


リリスは、羽根をどこに添えるか悩んだが、少し考えて、菫色の花の隣へそっと並べた。

白い羽根と、菫色の花。

色は違うのに、並ぶと不思議ときれいだった。

どちらも自分で手を伸ばし、選んだもの。

そう思った途端、胸の奥がふわりと軽くなる。

 


夕暮れが近づき、森が薄暗くなってきた頃。

リリスは、羽根に夢中になって、ルシファーが持ってきてくれた、光る草花を入り江へ忘れてきたことに今更気づいた。

戻るべきかと一瞬立ち上がる。


でも、ルシファーがあとで見に来ると言っていた。

持ってきてくれるかしら?

いいえ、そんな都合のいいこと考えちゃ駄目。

でも……いつくるかしら?

そろそろかしら?


 

そわそわしている自分に気づいて、ふっと息を吐く。

それから、改めて寝床を見てみる。

敷き詰めた草と花の上に、白い外套を敷いただけの寝床。

それが、花と白い羽根のおかげで、リリスには随分と違って見える気がした。

リリスはしばらく眺めてから、指先でそっと羽軸に触れた。

軽くて柔らかい。

ルシファーの羽に触れた時の温かさを思い出す。


痛くない?

本当に?


自分から言ったのに、緊張して何度も確認したことを思い出して、少しだけ口元が緩んだ。


……まだかしら?


そう思ってしまってから、リリスは慌てて葉の間に挿した花の向きを直し始めた。


待っているわけじゃないわ。

ただ、花を綺麗に飾れたことや、羽根のことを、もう一度話してもいいかもしれないと思っただけ。


そう言い聞かせても、胸の奥は少しだけ温かかった。

森の外では、海が寄せては返している。

白い抜け羽は、菫色の花の隣で淡い光を受けていた。

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