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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第40話「好きな花」

リリスは、木々の隙間から降りそそぐ、薄い光の中で目を覚ました。

朝の森は、昨夜より少しだけやわらかかった。

薄く目を開けてみると、頭上では木々の葉が朝風に揺れている。


枝の隙間から差し込む光はまだ弱く、夜の名残を含んでいるようだった。

その傍ら、寝床のそばに置いた光る草花も、すっかり色を失いかけている。

夜の間だけ抱えていた青緑の明かりは、花びらの奥で細くなり今にも消えそうだった。


身体はいつもより楽で、なにより背中が痛くない。

少なくとも、昨日までのように、土の硬さで何度も目を覚ますことはなかった。

肩も冷えておらず、夜露の湿り気もいつもより気にならなかった。

それに気づいた瞬間、リリスは少しだけ目を瞬いた。


ちゃんと眠れてしまった。

その事実に、なぜか落ち着かなくなる。

 

彼の、ルシファーの外套の上で、ぐっすりと眠ってしまった。

そう思った途端、昨夜の匂いが戻ってきた。

果実の甘さと森の湿り、海風。

そして、その奥にある、リリスの知らない白い匂い。


リリスはゆっくり身体を起こした。

白い外套は草花の上に広がって、夜露を少し含んではいたが、泥に汚れているわけではない。


彼は、使うかどうかは君が決めて、と言った。

だから、これはリリスが選んだことだった。

自分で使った、分かっている。

それでも、その布の上で深く眠れてしまったことが、どうしても少し恥ずかしく感じて、リリスは外套の端を指先でつまんだ。


返さなくちゃ。

思えば、彼に対してまだ警戒心だけが先だって、外套を貸してくれたことにも、果実や草花を分けてくれたことにも、まだお礼を言えていない。


これは彼のものだ。

天使のもの。

大切なものかもしれない。

外套がなくても大丈夫だと彼は言っていたけれど、「たぶん」とも言っていた。

その「たぶん」を、リリスはまだどこまで信用していいのか分からない。


リリスは外套を丁寧に畳んだ。

畳みながら、昨夜の言葉がまた戻ってくる。


――またね、リリス。


また。

それはいつなのかしら?

今日かもしれないし、明日かもしれない。

……もう来ないかもしれない。


リリスは畳んだ外套を膝に乗せた。


待ってるんじゃないわ。

返すものがあるだけ。


そう自分に言い聞かせてから、なぜそんな言い訳をしたのか分からなくなって、考えを振り払うように頭を振った。

畳んだ白い外套に、菫色の髪がぱさぱさと散らばった。



 



森の向こうから、鳥の声が聞こえる。



ルシファーは木の上で目を覚ました。


幹に背を預け、長い足を太い枝へ伸ばし、羽を少しだけ身体へ寄せ、夜風を避けるようにして眠っていた。

天界の寝台とは比べものにならない場所だったが、地上で眠るというのは、どうやらこういうものらしい。

完全に眠れたかと言えば、そうでもなかった。

枝は硬く、風は冷えて、たまに小さな虫が近くを通る。

羽の位置を少し誤ると、すぐ枝に当たる。

天界で眠っていた頃には、考えもしなかった出来事ばかりだった。

それでも、目覚めは悪くなかった。


近くの枝に、小さな茶色い小鳥が止まっていた。

首を傾げ、ルシファーを見ている。

ここに白い式服の天使が寝ていることを、不思議に思っているのかもしれない。


ルシファーは目を細めた。


「やあ、おはよう」


小鳥は短く鳴いた。

彼が指を差し出すと、小鳥は逃げなかった。

指先で頭を撫でると、羽毛は驚くほど軽く、あたたかい。


「君は、ここで眠るのが上手そうだね」


小鳥はまた鳴く。

答えたのかどうかは分からない。

ルシファーは少し笑った。


 

その時、胸の奥で、昨夜の声がよみがえった。


――ルシファー。


リリスの声だった。

あの名は、音は、朝になっても消えていない。

まだ、自分の名だと言い切るには不思議だった。

天界から持ってきた名ではない。

父上から与えられた役目の名でもない。

けれど、リリスの声で呼ばれたその音は、夜が明けても胸の底に残っている。


ルシファー、か。

  

心の中でその名をもう一度確かめた。


小鳥が枝を跳ねる。

ルシファーはゆっくり身体を起こした。

羽を広げすぎて枝に引っかからないように気をつけながら、木から降りる。


外套のマントがないぶん、昨日より身軽だった。

裾には土がつき、袖にも少し草の色が移っている。

天界にいた頃なら、すぐに整えただろう。

けれど今は、軽く払うだけで済ませた。


リリスは、外套を使っただろうか。

眠れただろうか。

そう考えてから、彼は足元の花に目を止めた。


朝の光の中で、いくつもの花が咲いている。

白い花、青い花。

薄い桃色の花。

小さな黄色の花。

葉の影に隠れるように咲く、菫色の花。


ルシファーは、その場にしゃがんだ。


リリスは昨夜、自分を呼んでくれた。

ルシファー、と。

彼女に、そんなつもりではなかっただろう。

きっと、ただ彼女が思うままに、見えたままに呼んだだけだ。

彼女からすれば、礼を言われることですらない、小さなことだったのだろう。

それでも、自分には大きなことだった。


それでも、何か礼をしたい思った。

けれど、言葉にすれば、彼女にとっては重荷になりかねない気がした。



ルシファーは花を選び始めた。


リリスに似合う花なら、いくつか選べる気がした。

菫色の髪に映える白い花。

深緋の瞳に合いそうな赤みのある花。

森の中で明るく見える淡い黄色。

夜のそばにあれば静かに映るであろう青。


けれど、手を伸ばしてから止まる。

似合う花は選べる。

けれど、きっと自分はまだ何かを選びすぎる。


ルシファーは、いくつもの花を摘んでいく。


大きな花、小さな花、それに香りの強いものや、ほとんど香らないもの。

色も形も少しずつ違う花が、腕の中に増えていく。

やがて片手では足りなくなり、花を傷めないように優しく腕に抱え直した。

片腕では足りなくなったころ、ルシファーは歩き出した。



 ◇

 


リリスは、畳んだ外套を抱えたまま、入り江の近くにいた。


海は朝の光を受けて青く揺れている。

けれど今日は、いつもの岩に座る前に、森の方を何度か見ていた。


待ってるわけじゃない、返すものがあるだけ。


でも、その言い訳は、もう少し弱くなってる。

自分でもわかっていた。


 

その時、草の向こうで、がさりと音がして、リリスはとっさに顔を上げる。

少しだけ身軽な白い姿が、木々の間から現れたと思えば、両腕いっぱいの花を抱えている。

リリスは目を丸くした。


「……それ、どうしたの?」


ルシファーは、花を少し抱え直した。


「君に、と思って」


「私に?」


ルシファーは少し笑った。


「君の他に誰がいるんだい?」


リリスは言葉に詰まった。

私以外に誰がいるの、そう、前に自分が言った言葉に、似ていた気がした。

彼は覚えていたのだろうか。

それとも、ただ自然に言っただけなのだろうか。

どちらにしても、胸の奥がますます落ち着かなくなった。


リリスは花を見た。

白、青、黄色、薄桃、淡い紫。小さな花も大きめの花もあって、どれも綺麗だった。

けれど、こんなにたくさん差し出されては、どうしていいか分からない。

リリスが驚きと戸惑いで立ち尽くしていると、ルシファーが笑った。


「選んでほしいんだ」


「……え?」


「似合いそうな花は選べたんだけど…」


ルシファーは、両腕の花を見る。


「けれど、俺の選んだ花が、君の好きな花かどうかは分からない。どの花が好きかは、君にしか分からないだろう?」


「……」


「君の好きな花を知りたいから、選んでほしい」


そう言って、ルシファーは両手いっぱいの花をリリスの方へ差し出した。

 

その言葉を聞いた瞬間、リリスは指先から力が抜けていくのを感じていた。


好きかどうかは、君にしか分からない。

そんなことを、誰かに言われたのは初めてだった。

どれを選んでもいいと言われている。

けれど、その「いい」が、リリスには分からなかった。


選べると言われているのに、なかなか手が動かない。

選んだ瞬間、何かが決まってしまう気がする。

間違えたらどうなるのだろう。

リリスの喉が、細く詰まった。


「……選んで……いいの?」


絞り出した声は、かすれた。

ルシファーは少しだけ不思議そうに、けれど迷わず答えた。


「当たり前だろう?」


その一言が、遅れて胸に届いた。

選んでいいことが、当たり前。

リリスにとって、当たり前ではなかったもの。


ずっと、誰かが先に決めていたもの。

正しい言葉で包まれていたもの。

祝福と呼ばれていたもの。

反抗と呼ばれてしまったもの。


その向こうから、ただ一輪の花を選んでいいと言われた。

ただ、好きかどうか。

それだけを聞かれている。


それだけなのに、リリスはすぐに答えられなかった。


花の色が揺れて、リリスの目から、一筋の涙がこぼれた。


最初の一粒が落ちたあと、それはもう止まらなくなった。

声を上げたわけではなかった、泣きたかったわけでもない。

ただ、目元が熱くなり、喉が詰まり、胸の奥で押しとどめていたものが勝手に溢れてきた。


花が滲む。

海の光も、ルシファーの白い姿も、涙でぼやけていく。

リリスは慌てて片手で目元を拭う。

けれど、拭っても拭っても、涙はまた落ちた。

ルシファーが驚いて少し身を乗り出しかけて、その場で止まる。


「リリス?」


声には、はっきり驚きがあった。


「ごめんね。泣かせるつもりはなかったんだけど……」


彼は花を抱えたまま、不用意に近づいたりはしなかった。

ただ、伸びかけた手が、花の下で止まる。

触れれば、泣いている彼女を慰められるのかもしれない。

けれど、それはきっと、リリスが望んでいる事ではない気がして、ルシファーは、花を抱え直した。


「俺は君に、何か嫌なことをしてしまったかな」


リリスは首を横に振った。

涙が頬を伝う。


「……違うの」


「うん」


「そうじゃないの」


「うん」


「ただっ……」


そこで声が止まった。


何を言えばいいのか分からない。

嬉しいのか、苦しいのか、安心したのか、痛かったのか、どれかひとつにできなかった。

ただ、選んでいいと言われた途端、身体が、心が勝手に崩れてしまった。


「分からないけど、」


「うん」


「こうなっちゃうの……」


ルシファーは、静かに頷いた。


「そうか」


リリスは涙を拭いながら、小さく頷く。


「ええ……」


「急がなくていいよ」


彼は、それ以上何もしなかった。

頭を撫でることも、背をさすることも、抱き寄せることもしない。

ただ、花を抱えたまま、少し離れたところで待っている。

リリスは泣きながら、そのことに気づいていた。

触れられない、でも、ひとりにされてもいない。

その距離感が、今のリリスにはまた涙を誘いそうで困った。


しばらくして、涙は少しずつ落ち着いた。


リリスは目元を拭い、まだ少し震える息を整えた。

顔が熱い、きっと目元も赤い、恥ずかしかった。

けれど、ルシファーはそのことには何も言わなかった。


「花、見る?」


そう聞いたルシファーの声に、リリスは小さく頷いた。

 

色とりどりの花が、朝の光の中で並ぶ。

大きな花は華やかで、小さな花は草の中に隠れるように咲いている。

すっきりとした香りのものもあれば、甘い香りの漂うものもあった。

リリスは、しばらく選べなかった。


どれも綺麗で、どれもいい香りがする。

なのに、自分がどれが好きなのか、よく分からない。

好きなものを選ぶということを、今までしてこなかったのだと、あらためて知る。


ルシファーはその様子を見て言った。


「急がなくていいよ」


リリスは花を見たまま、指先をぎゅっと握る。


「今決めなくてもいい」


その言葉に、少しだけ力が抜けた。

けれど、リリスはそのまま花を見続けた。

選ばなくてもいいと言われると、かえって選んでみたい気がした。

変なことだと思う。

早く決めなさいと言われたわけでもない。

正しいものを選びなさいとも言われていない。

それなのに、選ばなくてもいいと言われた途端、自分の目で探せる気がした。


やがて、大きな花の枝葉の影に半分隠れていた小さな花に目が止まった。


菫色の花だった。

 

大きくはない。

遠くから見れば、他の花に紛れてしまう。

けれど近くで見ると、花弁の色は思ったより深く、光の当たり方で青にも紫にも見えた。

中心には、ごく薄い白がある。

リリスは、その花をそっと摘み上げた。


「これがいいわ、これが好き」


ルシファーはその花を見て、そして頷いた。


「そう。 覚えておくよ」

 

それだけ言って、少し柔らかく笑う。

リリスは胸の前で持った花を見つめていた。

小さな花だったけれど、手の中にあると、不思議とそこだけが大事なもののように感じられた。


覚えておく。

ルシファーは、そう言ってくれた。

この小さな花を、自分がいいと、好きだと言ったことを。


そんなものを覚えて、どうするのだろう。

分からないのに、胸の奥が少しあたたかくなった。

リリスは顔を上げる。

涙でまだ目元は熱く、頬も濡れている。

けれど、胸の奥に残っていた痛みが、少しだけ別のものに変わっていた。


「ありがとう、ルシファー」


涙で濡れた瞳が、柔らかく細められ、リリスが笑って言った。


「花をくれた事も、果実をくれたことも、外套を貸してくれたことも、全部。ありがとう」


まだ不安も警戒も消えていない。

けれど、その笑顔は確かにそこにあった。


あまりに無防備で慈愛に満ちた笑みを前に、一瞬、息を忘れかける。

『ルシファー』

その名で呼ばれたて、昨夜とはまた違うものが胸の奥へ光を灯す。

夜の森で初めて受け取った名が、今度は彼女の笑顔と一緒に届いた。

まだ、自分の名だと言い切るには不思議だった。

けれど、リリスにそう呼ばれるたび、その音は少しずつ彼の内側へ馴染んでいくようだった。


 

リリスが、抱えられたままの花を見る。


「それはどうするの?」


ルシファーも花を見下ろした。


「……どうしようね?」


本当に困ったように、彼は笑った。


「君がどんな花を選ぶか知りたかったから、たくさん持ってきた方がいいと思ったんだけど、その後どうするかは考えていなかったな」


リリスは少し呆れて、それから困ったように笑った。


「やっぱり、ルシファーは変な天使だわ」


「君の前では、すっかり変な天使が板についてしまったね」


「そうね」


二人ほぼ同時に、ふっと息を漏らして笑った。

大きな声ではない、笑いと共に吹き出す息に肩を震わせながらくすくすと笑いあった。

それは、リリスにとってひどく珍しいことだった。

緊張感に強張っていた表情は、嘘のように穏やかな笑みに変わっていた。


「ねえ」


リリスは、花を見ながら言った。


「せっかくだから、そのお花、全部くれない?」


「もちろん。 君にと思って摘んできたものだしね」


「ありがとう。どれも綺麗だから、寝床に飾りたいの」


「そうか。今夜は寝床が華やかになりそうだね」


「そうね」


リリスは胸の前の菫色の花を見た。


「いい場所になると思うわ」


いい場所と、そう自分で言ってから少し驚く。

昨日までは、ただ夜を越すためだけの場所だった。

けれど今は、どこにどの花を置こうかと考えている。


リリスは、はたと思い出したように、持っていた白い外套を差し出した。


「そうだ。これ、返すわ」


「必要なら、まだ持っていていいよ」


「でも、あなたのものだし……」


「うん。でも、今は君の方が使い道がある」


リリスは、外套を見る。


昨日の夜、草だけの寝床より、ずっと楽だった。

背中が痛くなかった、寒さも少し遠かった。


「……じゃあ、また借りてもいい?」


「もちろん」


ルシファーは、そう言って頷いた。




それから、ルシファーはまた出かけていった。

今度はエデンの中心まで行かずに、食べられる実と、夜に光る草花を少し探すだけだと言っていた。


一方、リリスはもらった花を飾り、森の寝床を整えていた。

外套を敷き直す。昨夜より少し平らになるように、下の草をならしてから、もらった花を寝床の周りに飾っていく。


白い花と黄色い花は束ねて枕もとの方へ。

淡い青の花や赤い花は、寝床を囲む周りの草花に間に挿して飾っていく。

菫色の小さな花は、外套の上に置いて特別にそばへ添えた。

自分で選んだ花。

それを見るたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。



薄暗くなってきた頃、リリスが昨日ルシファーと果実を食べた場所の近くまで行くと、そこに彼がいた。

白い式服は今日も少しだけ汚れている。

羽には、やはり葉と小枝が刺さっていて、もしかしたら完全に取りきることを諦めたのかもしれないと思った。

片手には光る草花、もう片方には、いくつかの木の実と小さな果実を包んだ葉。

リリスは足を止めた。


「ルシファー?」


ルシファーは顔を上げる。


「リリス。 少ないけど、食べられるものを確保してきた」


「あなた、また羽に葉っぱがついてるわ」


ルシファーは自分の羽を見た。


「どうやら、低いところを飛ぶとこうなるらしい」


「歩いた方がいいんじゃない?」


「俺も少しそう思い始めている」


リリスは思わず笑うと、つられてルシファーも笑った。

それから、彼は葉に包んだ果実と光る草花を差し出した。


「これは君の分だよ」


リリスは差し出されたものを受け取った。

今度は、前より迷わなかった。


「ありがとう」


そう言うと、ルシファーは少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「またね、リリス」


「ええ。また……」


その言葉だけを残し、彼は森の奥へ歩いていく。


――また。


リリスは、その背中を見送った。



◇ 

 


その夜、寝床はいつもと違っていた。


淡い光に照らされた、色とりどりの花があった。

光る草花は、昨日より少なかったけれど、ぼんやりと森の小さな場所を照らしている。

リリスは白い外套が引かれた寝床に横になった。


そばには、選んだ菫色の花がある。

近くで見ると、やはり綺麗だった。

目立ちはしないけれど、光を受けると花びらの奥に青と紫が揺れる。


ルシファーは、この花を覚えておくと言った。

そして、今日も「また」と言った。


次のまたは、いつかしら。


リリスは、菫色の花を見つめたまま、今日もまたしばらく眠れなかった。

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