第39話「白い外套」
ルシファー。
その名を口にしたあと、リリスはしばらく黙っていた。
自分が何か大きなことを言ったという感覚は、あまりなかった。
目の前の天使がもうお父様のそばにいないのなら、呼び方も少し変わるのだろうと思った。
ただ、それだけだったのに、彼はすぐには何も言わなかった。
光る草花の淡い明かりの中で、白い袖がかすかに揺れて、銀の髪には、青緑の光が触れていた。
いつもの柔らかな笑みは残っているのに、その奥だけが、さっきより少し静かに見えた。
リリスには、その理由が分からない。
怒ったわけではなさそうだった。
困っているようにも見えない。
けれど、何か大きなものを受け取ってしまった様子だった。
自分が彼に何を渡したのか、リリスにはどうしても分からずにいた。
「ねえ……本当に、嫌じゃなかった?」
もう一度聞くと、彼はゆっくりと首を振った。
「嫌ではなかったよ」
「でも…あなた、少し黙ったわ」
「そうだね」
「どうして?」
彼はまた考えているようだった。
まただ、とリリスは思った。
この天使は、すぐに整った答えを返さない。
聞かれたことに、正しい形をつけて差し出すでもない。
自分の中で確かめてから、まだ途中のものをそのまま言葉にする。
彼はようやく口を開いた。
「たぶん、少し驚いたんだと思う」
「名前を呼ばれたから?」
「うん」
リリスはますます分からなくなった。
天使たちは、名前を呼ばれることに慣れているのではないのだろうか。ミカエルも、ガブリエルも、セノイたちも、名を持っていた。
その名で呼ばれることに、彼らは何も迷っていないように見えた。
「変な天使だわ」
思わず言うと、彼は小さく笑った。
「それ、もう何度目だろうね」
「だって本当にそうなんだもの」
「否定する材料は、やっぱり増えていないな」
そう言って、彼は葉の上に残った果実をひとつ摘まんだ。
リリスも、つられて手元を見ると、木苺はもう少ししか残っていない。
果実の甘い匂いも、夜の森の湿った匂いに少しずつ紛れていた。
光る草花はまだ柔らかく光っているが、先ほどよりも灯りが小さくなっている。
夜は深くなっていた。
遠くで波の音がする。
森の奥では、知らない虫の声が鳴っている。
風が吹くたび、草の先が揺れ、摘まれた花の光も細かく揺れる。
食べていたものは、少しだけ残った。
丸い果実が二つと、木の実がいくつか。
光る草花も、まだ淡い明かりを保っている。
ルシファーはそれを見てから、リリスへ視線を戻した。
「寝床は、ここから遠いの?」
「少し行ったところ」
「なら、そこまで持っていこうか」
リリスは少しだけ眉を寄せる。
「持っていく?」
「ここに食べ物を残しておくと、夜のうちに何かに食べられるかもしれない。光る草花も、寝床のそばにあった方が明るいだろうし」
そう言われて、リリスは葉の上の果実を見た。
受け取った、というより、分けたもの。
戻るために食べなさいと差し出されたのではなく、一緒に食べたもの。
それでも、この天使に持ってもらうことには少し迷った。
けれど、光る草花があると森の暗さが少し和らぐことも、残った果実をここへ置いていくには惜しいことも分かっていた。
「……じゃあ、お願い」
「うん」
ルシファーは大きな葉ごと包み直し、光る草花を片手に持った。
二人は、少し距離を保ったまま森の奥へ歩いた。
ルシファーは、彼女のすぐ隣へ並ぶことはしなかった。
リリスが振り返れば見えるくらいの距離を保って、光る草花だけが二人の足元を淡く照らしていた。
夜の森は暗い。
枝の影は深く、草の先は光を吸うように黒い。
けれど彼が持つ小さな明かりがあるだけで、足元の根や小石が見えた。
リリスは、その光の範囲から出すぎないように歩いている自分に気づき、少しだけ唇を結んだ。
頼っているわけじゃない。
ただ、暗いから。
そう言い聞かせても、光が近くにあることは、少しだけ心細さを遠ざけた。
リリスの寝床は、森の中の少し開けた場所にある。
草と花を敷き詰めた、小さな場所。
根や小石を避けて、昼のうちに集めたものを重ね、少しでも柔らかくなるように整えた、それだけの場所だった。
ルシファーはしばらくそれを見てから、静かに聞いた。
「ここで眠っているの?」
「ええ。昨日より上手にできたわ」
リリスは少しだけ胸を張った。
「そうだね。よくできている」
その言葉に、ほんの少しだけ口元が緩みかけた。
けれどルシファーの視線は、草花の表面ではなく、その下にあるものまで見ているようだった。
根が伸びている場所、小石が残っていそうなところ。
夜露を吸った葉の冷たさに、横になった時に肩が当たりそうな硬い土。
彼は否定も責めることもしなかった。
そんな場所で眠ってはいけないとも、庭へ戻れば柔らかな寝床があるとも言わなかった。
ただ、さっきまで果実を包んでいた、自分の外套を見ていた。
大天使のために織られた、白くきめ細やかな上等の布だった。
果実を包んだせいで少し甘い匂いも移っている。
それでも、リリスが敷いた草花よりずっとなめらかで、厚みもあった。
ルシファーはそれを手に取り、軽く払った。
「果実を包むのに使ってしまったもので悪いけど」
そう前置きしてから、彼は外套を畳んだ。
「嫌でなければ、これを敷くといい」
リリスは目を見開いた。
「え? あなたのものでしょう?」
「そうだね」
「……なら、どうして?」
「今は、君の背中の方が困っている」
あまりにも自然に言われて、リリスは返す言葉を失った。
ただ、今の寝床では身体がつらいだろうという、それだけ。
そっちより、こっちの方がいい。
君は知らないだけだから。
庭で言われてきたそんな言葉が返ってくるんじゃないかと、どこかで身構えていた胸の奥が、少しだけ行き場を失った。
ルシファーは、寝床へ勝手に敷くことも、肩にかけることもしない。
ただ、畳んだ外套を、リリスの手が届く少し手前に残した。
「ここに置いておくから、嫌じゃなければ使って」
リリスは置かれた白い外套を見た。
「使うかどうかは、君が決めていい」
その言葉が、夜の中で静かに落ちた。
すぐには手を伸ばせなかった。
これを使っても、どこかへ戻されたりはしない。
ただ、今夜の身体が少し楽になるだけ。
きっと、それだけ。
それだけのはずなのに、迷ってしまう。
「……あなたは?」
「俺?」
「これがなかったら、あなたが困るでしょう」
ルシファーは、自分の白い式服を少し見下ろした。
外套の長いマントを外した今、彼の姿は昨日より少し身軽に見えた。
少なくとも、木の枝に引っかかったりはしない。
「俺は大丈夫だよ」
「本当に?」
「たぶん」
「……またたぶん?」
「でも、特別困ることはないよ。それは嘘ではないよ」
リリスはじっと彼を見る。
たぶん。
大丈夫。
嘘ではない。
この天使の言葉はいつも、どこか中途半端だ。
けれど、その途中のまま差し出される言葉の方が、なぜか整いすぎた言葉よりも息がしやすい。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
ルシファーのその言葉に、リリスは思わず顔を上げた。
「行くの?」
「うん。君も眠るだろう?」
「……そのつもりだけれど」
「なら、俺がここにいたら休めない」
そう言って、彼は少し笑った。
その笑顔にリリスはどうしたらいいのかわからず、何も返せなかった。
たしかに、彼がここにいれば眠れない。
外套を使うかどうかも、彼の目の前では決めにくい。
少なくとも、彼はそれ以上踏み込まなかった。
リリスにはまだルシファーのことが、よく分からなかった。
「またね、リリス」
その言葉に、リリスは小さく眉を寄せた。
「また?」
「うん、また、だ」
前にも聞いた言い方だった。
約束のようで、約束ではない。
明日とは言わない。
いつとも言わない。
ただ、また。
彼は軽く手を振った。
光る草花の小さな明かりを残し、白い外套を残し、夜の森の奥へ歩いていく。
羽にはまだ少し葉が絡まっていて、白い式服の裾には薄く土がついている。
その後ろ姿は、最初に入り江で見た時よりも、ほんの少しだけ森に馴染んでいる気がした。
それでも、まだ不釣り合いだけど。
リリスは彼の背中を見送った。
やがて、草を踏む音が遠ざかり、森の闇が彼の白い姿を隠していった。
リリスは、その場からしばらく動けなかった。
目の前には、畳まれた彼の白い外套がある。
使わないつもりだった。
少なくとも、すぐには。
けれど、夜は冷えていた。
草花を敷いた寝床は、見た目よりも硬い。
昼間は平気だと思っていても、横になれば細かな石や砂が背に当たる。
肩も冷えて、昨日も何度も目が覚める。
リリスは一度、草の寝床へ腰を下ろした。
すぐに、硬い根の感触が衣服の布越しに伝わってくる。
……やっぱり痛い。
少しだけ。
そう思った。
少し試すだけなら、いいかもしれない。
リリスは外套に手を伸ばした。
布は、思ったよりも重みがあった。
なめらかで、柔らかくて、けれど薄すぎない。
天界のものは、こんなに上等なのだと初めて知った。
敷き詰めた草花の上へ丁寧に広げると、白い外套が森の小さな寝床を覆った。
リリスは、その見慣れない光景を、しばらく見ていた。
まずは撫でて確かめる、それから、そっと横になった。
背中が、痛くない。
少なくとも、草だけの時よりずっとましだった。
土の硬さがやわらぎ、夜露を含んだ冷たさも、布の下で少し遮られている。
肩を丸めなくても、身体がこわばらない。
思ったよりもずっと楽なことに、思わずリリスは息を吐いた。
悔しいけれど、よかった。
身体がそう言っている。
少し横を向いたその瞬間、頬の近くでふと匂いがした。
花とも、果実の甘さとも違う。
天界の白い空気に、少しだけ潮風と森の匂いが混じったような、知らない匂い。
リリスは身じろぐのをやめた。
そうだ、これはあの人のものだったのだ。
そう思った途端、外套の柔らかさが急に近くなった気がした。
使うと決めたのは自分。
彼はここへ残していっただけ。
分かっているのに、なぜか落ち着かなかった。
嫌じゃない。
けれど、落ち着かない。
リリスは少しだけ身体を起こそうとして、背中が楽なことを思い出し、また横になった。
光る草花が、寝床のそばで淡く光っているのを、リリスはぼんやりと眺める。
まだはっきりと光を放っているものもあれば、少しずつ弱くなっているものもある。
朝にはきっとぜんぶ枯れてしまう。
リリスは、瞼を閉じながら、外套の端に指先で触れた。
ルシファー。
ルシフェルと呼ばれていた天使。
その名前が、胸の中で小さく転がる。
変な天使で、不便な天使。
悪い子かもしれない天使。
自分の名前さえ、よくわからなくなっていた天使。
また、と言って去っていった。
また、っていつかしら?
明日?
明日も来るのかしら?
そう思ってから、リリスは目を開けた。
どうしてそんなことを考えたのか、自分でも分からなかった。
光る草花が少しずつ弱くなっていく。
白い外套は、夜露の冷たさを遠ざけていた。
背中も、身体もだいぶ楽なはずだった。
けれど、リリスはその上で、なかなか目を閉じられなかった。




