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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第38話「ルシファー」

エデンは夜も美しい。


ルシフェルは、木々の影に身を寄せて歩いていた。

外縁の荒れた草地を抜けるにつれ、足元は少しずつ柔らかくなっていく。

伸び放題だった枝は間を取りはじめ、水の音は澄み、花の香りは薄暗い空気の中で淡く甘くなっていった。


夜の庭には、天界とは違う光があった。

白く整った光ではなく、月が葉の上に落ち、星が水に揺れ、ところどころで小さな草花が淡く光っている。

青にも緑にも見える細い光が、花弁の奥から漏れて、地面に散った星のかけらのようだった。

ルシフェルは、その前で足を止めた。


「夜に光るのか」


指先で触れると、花は小さく揺れた。

弱い光が指の影に隠れ、またゆっくり戻る。

摘んでも、光はすぐには消えなかった。

根から離れても、花はしばらく自分の中に灯りを保っているらしい。


これは朝までは持つだろうか。

 

そう考えた時、ルシフェルの脳裏に、あの入り江が思い浮かんだ。

月と星だけの暗がりと、波の音が聞こえる、あの海。

あの場所には、この光はなかった。

リリスは、あそこで夜を越しているのだろうか。

彼女がどんなふうに眠っているのか、ルシフェルはまだ知らない。

知らないからこそ、足元の小さな光が急に気になった。

いくつかの光る草花をそっと摘んでいく。


夜のエデンは静かだったが、眠ってはいなかった。

遠くに天使たちの気配が感じられる、おそらく見回りの者たちだろう。

羽音が時折、枝葉の向こうを横切った。

その音は懐かしいほどよく知っているのに、今は胸の奥を軽く撫でて通りすぎる。

ルシフェルは顔を上げた。


正面から行けば、すぐに見つかってしまうし、今の自分が、彼らに何と見えるのかは正直分からなかった。

ルシフェル様、と以前の様に呼ばれるのか、それとも、別の何かとして扱われるのか。

あるいは、見えていても、うまく言葉にできないのか。

確かめたい気もしたが、今はまだその時ではない。

見回りの天使たちの目に触れぬよう、気をつけながら木々の下を選んで進んでいく。

中心へ近づくにつれて、エデンはますます美しくなっていった。


水は細い水路となって庭を巡っているようだった。

果実は枝に豊かに実り、夜の草花は足元を淡く照らしている。

神の言葉で読んだ通り、食べるものがあり、水があり、眠る場所があり、守る者たちがいる。


欠けるもののない庭。

始まりのために整えられた場所。

ルシフェルは、その美しさを否定できなかった。

 

父上は、随分美しいものを作ったのだな。


それは皮肉ではなく、本心からのものだった。

だからこそ、胸の奥に残った小さな引っかかりは消えない。


こんなにも美しい場所から、あの娘は、リリスなぜ離れた?



 


朝になる頃、エデンの中心に位置する人の住む庭にたどり着いた。

ルシフェルは中心に近い木立の陰へ身を潜め、庭の様子を伺っていた。


開けた場所に、アダムがいた。

神の言葉の中で読んだ、最初の男。

若く、美しく、健やかで、よく庭に馴染んでいた。

歩き方にも、空を見上げる仕草にも、ここが自分の場所であるという疑いのなさがあった。


けれど、その顔は晴れていない。

アダムは、何度もどこかを見ては肩を落としていた。

手には果実を持っていたが、ほとんど口をつけていない。

食べるためというより、何かを持っていなければ落ち着かないようにも見えた。


少し離れたところに、ガブリエルがいた。

ルシフェルは、息をひそめる。


ガブリエルがアダムの肩に手を添えている。

声までは届かない。

けれど、二人の様子から、ガブリエルが言葉を選びながら、アダムに何かを話をしている事は分かった。

明るくしようとして、明るくなりきれない横顔だった。


さらに離れた場所では、ミカエルが天使たちに指示を出している。

彼もまた、いつも通りに見えた。

背筋はまっすぐで、声は乱れていない。

判断も早い。

務めを果たす者として、少しも崩れてはいない。


けれど、ルシフェルには分かってしまった。

ガブリエルも、ミカエルも、疲れている。

その疲れは、エデンの件だけではないのだろう。

おそらく、自分が天界を去ったことも、そこに混じっている。


胸の奥が、静かに痛んだ。


――頼んだよ


あの日、自分は確かにそう言った。

それがどれほど重く残るかも考えずに。


ミカエルもガブリエルも役目を果たそうと、父上に、自分の言葉に報いるためにそこに立っている。

けれど二人の内側には、きっとまだ自分の不在があり、更には今、リリスの不在が重なっている。


近づけば、何か言えるだろうか。

兄上、と呼ばれるだろうか。

兄さま、と責められるだろうか。

それとも、互いに何も言えなくなるだろうか。


ルシフェルは、木の陰から動かなかった。

今、彼らに会うべきではない。

少なくとも、ここで見つかるべきではない。


ルシフェルは、言葉が喉につかえるような痛みを無理やり飲み込み、庭の様子を見続けた。


その後の観察から、アダムがリリスを探している様であり、アダムの悲しみは本物であること。

天使たちがまだ彼女を戻そうとしていることがわかった。

ミカエルもガブリエルもリリスの不在に痛みを抱え、不測の事態に焦りを募らせていることもわかってきた。


けれど、分からないものが残った。


リリス自身が、なぜこの場所を拒んだのか。

 

それは、庭の様子を遠巻きに見ているだけでは分からなかった。

アダムの様子を見ても、漏れ聞こえる天使たちの言葉を拾っても、神の言葉を思い出しても、決定的なところには届かない。

全てが憶測となってしまう。


彼女に聞くほかない。

教えてくれるかどうかは、また別として。

 

ルシフェルは、静かにその場を離れた。


戻るなら、何か持っていこう。


自分も、来る途中で木の実を少し食べ、川の水を飲んだきりだった。

空腹は、天界にいた頃よりずっと素直に身体へ出るものらしい。

庭の中心に近い木々には、果実も作物も豊かにあった。


彼は手の届く枝から果実をひとつ、ふたつと取っていった。

それから、近くになっていた木苺を摘み、いくつかの木の実も取る。

抱えきれなくなって、持っていた外套のマントを広げ、そこへ包んでいく。

天界の式服の外套が、果実の包みになるおかしさに、ルシフェルは自分でも少し笑ってしまう。


 ここに来るまでは、枝に引っかかったりと厄介だったけれど、こうして見ると、案外役に立つ布だ。


包みになった外套を小脇に抱えながら、近くの枝から取った木の実を、指先で軽く払って口に入れる。


……甘い、これは少し渋い。

ルシフェルは、噛みながら小さく笑った。

木から取ったものを、その場で口に入れるなんて天界にいた頃なら、ミカエルかガブリエルあたりが眉をひそめただろう。

ラファエルは体に悪いものではないかと心配し、ウリエルは洗って食べるべきだと言ったかもしれない。

ベルなら、黙って見てから一言だけこう言うだろう。


「行儀が悪いな」


そう言ってルシフェルは、目を伏せた。

随分と、行儀の悪いことができるようになったものだ。

ミカエルとガブリエルの姿を庭で見たせいだろうか。

ラファエルの顔、ウリエルの声が浮かぶ。

ベルゼブブの静かな目も、天界の天使たちの顔も、遠く白い光の中から次々と過ぎていった。


皆、元気だろうか。

もう会うことはできないだろうけれど、案じることくらいは、許されるかな。


その感傷は、長くは続かなかった。

ルシフェルは外套を抱え直し、空を見た。


帰り道は遠い、歩けばそれなりの時間がかかる。

入り江へ戻る頃には、かなり暗くなるだろう。


「飛べるか、試してみようかな」


それは、軽い気持ちだった。

羽は六枚とも、まだここにある。

高く飛ぶつもりはない。

低く、木々の近くを行けば、空を飛ぶ天使たちにも見つかりにくいはず。


そう安易に考えていた。






結果から言えば、まだ飛ぶことはできた。


飛べはする。

だが、低い位置で、木々の枝を避け、外套に包んだ果実を抱えたまま進むのは、思った以上に難しかった。


羽が枝に当たり、小枝が羽の間に絡む。

葉が髪に入り、草木に触れないように高度を変えようとすれば、今度は外套の中の果実がずれる。

翼をたたみすぎると姿勢が崩れて、広げれば、また枝に触れる。


「やれやれ……」

 

ルシフェルは、何度か地面に降りた。

羽から葉を雑に取り払い、また飛ぶ。


また引っかかる。

 

やがて、低空で地上を飛ぶことは、天界の空を飛ぶことよりも、ずっと難しいのだと理解した。



 

 

 


夕暮れを過ぎ、森の暗さが濃くなりはじめた頃。

リリスは入り江から森へ戻ろうとしていた。


浜辺にそのままにしていた果実は、翌朝にはなくなっていた。

波に流されたのかもしれない。鳥や生き物が食べたのかもしれない。

どちらにしても、そこにはもう何もなかった。

 

アダムへの罪悪感が、胸の奥にまだ残っている。

せっかく届けてくれたものを、受け取らず、食べもせず、浜辺へ残してしまった。

きっとこれも、反抗と呼ばれるのだろう。

そう思うと、喉の奥が苦しくなった。


森へ入ると、入り江の明るさはすぐに遠くなっていく。

エデンの中心とは違い、このあたりには光る草花がない。

月と星だけでは、木々の奥はすぐに暗く沈んでしまう。


寝床へ向かおうとした時、暗がりの向こうに、ゆらゆらとした明かりが見えて、リリスは足を止めた。


ひとつではない。

小さな光がいくつか、揺れながら近づいてくる。

リリスは息を止めた。


何かしら……。

見たことのない獣?

それとも、三天使とは別の天使たちが、今度は庭の方から探しにきた?


夜の森では、どちらも怖かった。

咄嗟に、近くの木の影へ身を隠す。

手が震えて、木の幹を強く掴む。

指先に樹皮が食い込み、ぱり、と小さな音がして、リリスはその音にさえ肩を揺らした。


がさがさと草を分ける音と、明かりが近づき、恐怖でキュッと目を閉じた。


そして――


「リリス?」


聞き覚えのある声がして、リリスは木の陰から恐る恐る顔を出した。


そこにいたのは、あの時の銀髪の変な天使だった。


小脇には、何かを包んで膨らんだ白い布を抱え、銀の髪は少し乱れて羽には葉や小枝が絡まっていた。

白い式服にも、草の色や土の薄い跡がついている。

昨日、入り江で見た時よりも、ずいぶん森に揉まれたような姿だった。


「……あの時の変な天使?」


天使は、彼女の様子を見て少し瞬いた。


「どうしたんだい? こんなところで木にしがみついたりなんかして」


リリスは自分がまだ木の幹を掴んでいる事に気づき、慌てて手を離す。


「これは……好きでしがみついていたんじゃないのよ? 寝床に帰ろうとしたら、光が見えたから驚いて、それで…」


「それは悪いことをしたね。 まさか君が森にいるとは思わなくて」


天使は素直に言った。


「でもちょうどよかった。ここは暗いから、使えるかなと思って取ってきたんだ」


彼が差し出したのは、エデンに咲いていた淡く光る草花だった。

夜になると内側から光る、小さな花と細い草。

摘まれても、まだ青緑の光を保っている。


リリスは目を丸くした。


「寝床まで行くなら、持っていくかい?」


「……くれるの?」


目の前に差し出された草花を見たあと、リリスはルシフェルの瞳の奥をじっと探るように見つめた。

 

「多めに摘んできたから。もっとも、朝になったら摘んだものは枯れるみたいだけどね」


「知ってるわ」


「そっか。君の方が詳しいね」


当たり前のように言われて、リリスは少し黙った。

この天使は、自分が知らないことを隠さず、リリスが知っていることを軽く扱わなかった。

それもまた、リリスには少し変だと思えた。

それに、今は変なところがもう一つ。


「それより、どうして羽にそんなにいろんなものをつけているの?」


ルシフェルは、自分の羽を一度振り返った。

葉に小枝、細い蔓の切れ端が、羽の間にいくつも絡まっている。


「これには深い事情があって……」


彼は疲れたようにため息をついた。


「エデンの庭へ行ったはいいものの、意外と距離があったから、戻るのも大変だなと思ってね。まだ飛べるかの確認も含めて、低い位置を飛んで帰ろうと思ったんだ」


「それで?」


「まだ飛べた」


「そう」


「だから、他の天使たちに見つからないように、木のそばを飛んだんだけど……」


「だけど?」


「木や草と羽がすぐぶつかって。低空で地上を飛ぶのは、とても難しかったんだ」


彼は、自分の羽を指さした。


「だから、こうなった」


リリスはしばらくその羽を見ていた。

整っているはずの六枚羽に、葉が絡まっている。

高位の天使にしか見えない姿なのに、妙に不器用で、妙にくたびれている。


「……やっぱり不便な天使ね」


「俺もそう思ったよ」


困ったように笑う天使を見て、リリスは小さく息を吐いた。

どうしてこの天使は、困っているのにこんなに呑気でいられるのかしら?

そう思うと、怖さは少し遠ざかっていた。

天使は外套を少し持ち上げた。


「もう寝る?」


「そのつもりだったわ」


「そうか。お土産を持ってきたんだけど、明日の方がいいかな?」


「お土産?」


天使が外套を広げると、そこには、いくつもの果実と、木苺と、木の実が包まれていた。

赤いもの、黄色いもの、丸いもの、小さな粒の集まり。

甘い匂いが、夜の森の湿った空気に混じる。


リリスは、アダムの果実を思い出し、一瞬だけ息が詰まった。

大きな葉に包まれて、砂浜に残されたもの。

受け取れなかったもの。

食べる気になれなかったもの。


これは、違う。

そう思いたいのに、すぐには手が伸びなかった。


「お腹が空いていたら食べて」


天使は言った。


「俺も腹ぺこだから、いくつかもらうね」


「あなたも?」


「うん。俺もあまり食べていなくて」


リリスは果実を見た。

甘い匂い。

空っぽの胃が、先に反応した。


くう、と小さな音が鳴る。


「……あ」


リリスが反射的にお腹を押さえると、天使は、小さく笑った。

けれど、それは馬鹿にする笑いではなかった。


「少しだけ食べようか」


彼は光る草花をそばに残した。

森の暗がりが、少しだけ明るくなる。

昼のようになるわけではない。

ただ、小さな光が花弁の奥に宿り、草の先を淡く照らしている。

月と星と、摘まれた花の光。

森の中に、ほんの小さな場所が生まれた。


二人は、少し距離を保って腰を下ろした。

天使は大きな葉を広げ、皿の代わりにして果実を並べた。

それから、自分の分とリリスの分を分ける。

押しつけるでもなく、彼女の前に少し寄せるだけだった。

リリスは、しばらく迷ってから小さな木苺をひとつ摘んで口に入れる。

――甘い。

思っていたより、ずっと甘かった。

少しだけ酸味があって、舌の上でやわらかく潰れ、甘い余韻が広がる。

久しぶりに、身体が食べ物を喜んでいるのが分かった。

空腹の底へ、甘さがゆっくり落ちていく。


リリスはすぐに、もうひとつ摘まんで食べる。

エデンにいた時、同じような果実は何度も口にしたはずだった。


甘い。

おいしい。

お腹がふくれる。

そのくらいにしか思っていなかった気がする。


でも今は、少し違った。

果実を食べているだけなのに、強ばっていた胸のあたりまで少し楽になる。

これは、戻ることを理由に置かれた果実でない、好意を受け取れと迫る果実でもない。


ただ、自分も目の前の相手もお腹が空いているから、分けて食べている。

それだけのことが、こんなに静かに身体へ届くのだと、リリスは初めて知った。


天使も果実を食べては、ひとつひとつ味わって、満足そうに頷く。


「ここの果実はどれも甘いね。タルトに合いそうだ。合わせる紅茶はアッサムやニルギリかな」


リリスは顔を上げた。


「たると? こーちゃ? なんの話なの?」


天使は少し笑った。


「ごめんね。俺の好きなものの話だよ」


「好きなもの……」


リリスは、その言葉を自分の中で繰り返した。


好きなもの。


不思議な響きだった。

役目ではない、命令でもない。

戻る道でもない。誰かのために正しくあるための話でもない。


ただ、その人が好きなもの。


「それは、食べ物なの?」


「うん。俺は甘いものと、お茶が好きでね」


「天使も、好きなものがあるの?」


「あるよ。少なくとも俺には」


「……そうなの」


リリスは、手元の木苺を見た。


私にも、好きなものはあるのかしら?

 

花は好きだったかもしれない。

水辺を眺めるのも嫌いではなかった。

夜空を見るのも、流星を思い出すのも、海を見るのも。


でもそれを、好きなもの、と呼んだことはなかった。


そういうものを、私も『好き』と呼んでいいのかしら?


そんなことを考えていると、昨日の三天使の言葉がふいに戻ってきた。


反抗。


甘さが、少しだけ喉につかえて、リリスは果実を持つ手を下ろした。


「……私は、悪い子なのかしら」


その言葉がふいに自分の口からこぼれ落ちたことに、自分で驚いた。


聞くつもりはなかった。

けれど、夜の森の小さな光と、果実の甘さと、目の前の天使のよく分からない穏やかさが、胸の奥に刺さっていた言葉を外へ出してしまった。


天使は、すぐには答えずリリスを見る。

責めるような目ではなく、慰める目でもない。


「君が?」


「私以外に誰がいるの?」


リリスは少しむきになって言った。

それから、自分の声が子どもっぽく聞こえて、唇を噛みかける。


「……私は、お父様が用意したエデンの庭を出たの。始まりの二人として、あそこに居なきゃいけないはずだった。でも、アダムの隣も離れた。戻る道を示されても、いやだと言ったの」


言葉が続く。

溢れ出したように、止まらなかった。


「それを、反抗だと言われたわ」


光る草花が、二人の間で淡く揺れている。

天使は、手元の果実を葉の上に戻した。


「それなら」


彼は静かに言った。


「俺も悪い子ということになるね」


リリスは目を見開いた。


「あなたも?」


「うん」


天使は少しだけ空を見上げた。

木々の隙間から、星が見える。


「俺も、父上のそばを離れたから」


リリスは、何も言えなかった。

 

天使が、神のそばを離れた?

自分と同じように、離れた?

そんなことが、あるのかしら?


「あなたは……戻らないの?」


「今のところは」


「また曖昧?」


「困ったことに」


天使は苦笑する。

リリスは、じっと彼を見た。

 

この天使が、庭にいた天使とは違いすぎていて、リリスにはよく分からなかった。

戻れと言わない、近づかないでと言えば止まる。

こうやって、果実を一緒に食べて、タルトと紅茶という、聞いたこともない好きなものの話をする。

そして、自分も悪い子かもしれないと言う。

そんな天使、今までいなかった。

 

リリスは、ふと大事な事を思い出す。


「そういえば……あなたの名前を聞いていなかったわ」


そう言うと、天使は、少しだけ黙った。

それは今までの沈黙とは違い、自分のことをどう話すか、選んでいるような間だった。


「……ルシフェル、と呼ばれていたよ」


リリスは、その言い方に引っかかった。


「…呼ばれていた? じゃあ今は? 今はルシフェルじゃないということ?」


「そのあたりが、俺にもよく分からないんだ。 父上の側を離れた俺は、まだルシフェルなのかどうか……」


まただ。

また、この天使は曖昧なことを言う。

けれど今度は、この天使の言っていることが、リリスには少しだけ分かる気がした。


銀の髪、紫紺の瞳。

白い式服に六枚の羽根。

どう見ても天使で、どう見ても神の側の存在。

けれど彼は、父上のそばを離れたと言った。

それなら。


「あのね、私、前に庭で習ったの」


リリスは、ゆっくりと言った。


「天使の名前の『エル』は、お父様にもっとも近い天使の証なんだって。だから、きっとあなたもそうなのよね」


ルシフェルが目を伏せた。

否定しない彼の姿を確認して、リリスは続ける。


「あなたは、お父様のそばにいた大天使だったのでしょう?」


それを聞いて薄く開いたルシフェルの瞳が、わずかに揺れた。


「……そうだね」


「それなら…」


リリスは、光る草花の灯りの中で彼を正面から見据えた。


「もう、お父様のそばにいないなら、『ルシファー』ね」


リリスは、目の前の天使だった存在を見て、そう見えたものをそのまま呼んだ。


ルシフェルは、呼吸の仕方を忘れ、しばらく何も言えずにいた。

 

小さな森の中で、波の音が遠く響いている。 

光る草花が、彼の白い袖を淡く照らしている。

銀の髪に、森の小さな灯りが触れている。

彼はそこに座ったまま、しばらくリリスを見ていた。


『ルシファー』


その音は、夜の森の小さな光の中で、静かに息をし始め、かつて『ルシフェル』だった天使の胸の奥の、ひどく深いところへ届いた。


その言葉がまるで、自分の世界のすべてを塗り替えていくようだった。

胸元の徽章は、もうない。

光を運ぶ者、父上の言葉をもっとも正しく読み伝える者。


そのすべてを、この子は、リリスは知らない。

知らないまま、目の前の自分を見て、そして、ただ当たり前のように呼んだ。


『ルシファー』と。


長い沈黙を押し流すように、深い吐息が漏れた。


「……そうか」


声は、とても静かだった。


「俺は、ルシファーか」


リリスは少し首を傾げる。


「……嫌だった?」


ルシファーは、ゆっくり首を振った。


「いや」


光る草花が、また少し揺れる。


「ありがとう」

 

そう言って、彼は微笑んだ。

それは、この天使のいつもの穏やかな笑みだった。

けれど、リリスには、その奥に知らない静けさがあるように見えた。

リリスは、ますます分からなくなる。


「どうしてお礼を言うの?」


ルシフェルは答えなかった。

答えられなかったのかもしれない。

ただ、夜の森の小さな光の中で、彼はもう一度、その名を心の中で受け取っていた。


『ルシファー』


それは、天界から引き連れてきた名ではなかった。

 

目の前の彼女が、今の自分を見えたままに、呼んだ名だった。

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