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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第37話「不便な天使」

変な天使は、しばらくそこにいた。

リリスも変わらず岩の上に座ったまま、足先を海に浸していた。

今まで関わってきた天使と違い、戻る道を語ることもなく、ただ同じ海を見ていた。


リリスは、ちらりと横目で彼を見る。


白い式服は、入り江の光の中でやはり不釣り合いだった。

海風に裾が揺れるたび、その白だけが景色に馴染まず、どこか遠い場所から迷い込んできたもののように見えた。


戻れと言わない。

理由を聞き出そうとしない。

慰めもしない。


そうされると、リリスの方がなぜか落ち着かなかった。

今まで通りに、戻れと言われれば、戻らないと返せばいい。

説得されれば、違うと言えばいい。

アダムの名を出されれば、胸は痛んでも、それとこれは同じではないと言える。

けれど、何も求められないと、何を言えばいいのか分からない。


「……あなた、本当に何もしないの?」


思わず聞くと、天使は海から視線を戻した。


「しないよ。君が近づかないでと言ったしね」


「それは、近づかないで、という意味で……」


「うん。だから、近づかないよ」


あまりにも当然のように言われて、リリスは口をつぐんだ。


間違ってはいない。

間違ってはいないけれど、そういうことなのかしら?と言いたくなる。

自分でも、もう何を言いたいのかよく分からなかった。


天使は少し首を傾げる。


「何か俺に聞きたいことがあるなら、答えられる範囲で答えるよ」


「答えられる範囲って?」


「答えられないことも多いから」


「……あなた、本当に天使なの?」


「うーん。それは、まだ確認中かな」


リリスは深く息を吐いた。


「……やっぱり変な天使だわ」


「さっきも聞いた気がするね」


「だって本当に変なんだもの」


「そうか」


天使は少し笑った。

怒らないし、否定しない。

変だと言われて、困ったように笑うだけ。


その様子を見ていると、リリスの胸の中にあった、冷たく硬い澱のようなものが、ほんの少しだけほどけていくようだった。

消えたわけではない。

ただ、同じ形のまま握りしめていることが、少しだけ難しくなっていく。

リリスは海へ視線を戻した。


「あなたは、お父様に言われてここへ来たのではないの?」


「言われていないよ」


「本当に?」


「うん。少なくとも、父上に『あの子を迎えに行きなさい』と言われた覚えはない」


父上。

やはり高位の天使なのだ、とリリスは思った。

神をそう呼ぶ者は、エデンでは限られている。

ミカエルも、ガブリエルもそうだった。

この天使も、神に近いところにいたのだろう。


それなのに、神の命令では来ていないと言う。

ますます分からない。


「じゃあ、どうしてここにいるの?」


天使は少しだけ空を見た。

海の向こうではなく、庭の方でもなく、もっと遠いどこかを思い出すような目だった。


「この庭を見に来たんだ」


「庭?」


「父上の言葉で読んだだけでは、残るものがあってね」


リリスには、やはりよく分からなかった。

庭を読むとは何なのか。

父上の言葉とは、何を指すのか。

天使たちは、いつも自分の知らないところで、自分たちのことを知っているように話す。

そういう時、リリスは少しだけ身体が冷える。


けれど、この天使の言い方には、三天使のような滑らかさがなかった。

知っているから来た、というより、本当に知らないものを見に来た者のような言い方だった。

リリスが眉を寄せていると、天使は続けた。


「だから、エデンの中心を目指している。訳あって、中心から堂々と入るわけにはいかなくてね。外縁から、こうして歩いて入ってきたんだ」


リリスは、彼の背中の羽を見た。


六枚ある。

どう見ても飾りではない。

高いところにあり、遠くへ行けるもの。

自分の足で、泥も砂も踏まずに進めるもの。

白く、整っていて、光を受けるたびに薄く光る。

ミカエルやガブリエルの羽も見たことはある。

けれど、この天使の羽は、どこか違って見えた。



「普通の天使なら、空を飛べるでしょう?」


「そうだね」


「歩いて行くの?」


「今のところは」


リリスは、少し呆れた。


「あなた、変な天使なうえに、不便な天使でもあるのね」


天使は一瞬きょとんとした。

それから、屈託なく笑った。


「はははっ、そうだね」


明るい笑い方だった。

押しつける明るさでも、人を安心させるために作った笑顔でもない。

ただ、今の言葉をおかしいと思って、そのまま笑ったような顔。


リリスは少しだけ目を瞬いた。


こんなふうに笑う天使は初めてだった。 

それに、リリスから見れば、自分で自分を不便な天使だと認めてしまえるところが、本当に変だった。


しばらく二人は海を見ていた。

近くはない。

遠すぎもしない。

波は、二人の間にある砂を濡らして、また海へ戻っていく。


やがて天使が腰を上げた。

白い式服の裾についた砂を軽く払う。

潮風を受けて、外套がぱたぱたと音を立てた。

入り江の荒い岩場と、海に濡れた砂の上では、その装いはやはり場違いだった。


「そろそろ行くよ」


「……そう」


リリスは短く答えた。


引き止める理由はない。

この天使がどこから来たのかも、どこへ行くのかも、自分には関係のないことのはずだった。

そう思ったのに、彼がもう行くのだと分かると、波の音が少し大きく聞こえた。


天使は少しだけ彼女を見た。


「君は、しばらくここにいる?」


「……たぶん」


「そう」


彼は頷く。


「じゃあ、またね、リリス」


リリスは顔を上げた。


「また?」


「また、だ」


天使は軽く手を振った。

それから、入り江を離れ、草木の生い茂る方へ歩き出す。

白い外套が海風に揺れ、銀の髪が光を受けて細くきらめいた。

砂浜、岩、青い海。

その中で彼の姿は、どこまで行ってもやっぱり不釣り合いだった。


でも、リリスは、その不釣り合いな背中を目で追っていた。


また……。


その言葉だけが、波の音の中で少し残る。


 

天使には、あんな人もいるのかしら?

私が知らないだけ?

それとも、あの人が特別変なのかしら?


答えは出ない。


やがて彼の姿が木々の向こうへ消えかけた頃、空から羽音が聞こえた。


リリスは一瞬、顔を上げかけた。


『また。』


その言葉を思い出しかけて、すぐに違うと分かった。

羽音は三つ。


先ほどの変な天使ではない。

セノイ、サンセノイ、マンゲロフだった。


リリスが岩の上で背を向けると、三天使は、少し離れた砂浜に羽音と主に降り立った。

大きな葉に包まれたものを抱えたセノイが前に出た。


「リリス」


呼び声に、リリスは振り向かなかった。


「アダムから、君に届けてほしいと頼まれた」


その名を聞いて、リリスの胸がかすかに痛む。

セノイが、ゆっくりと葉の包みを砂浜の上へ広げた。


「果実だ。あまり食べていないのだろう?」


サンセノイが続けた。


「このままでは身体を壊す。少しでも食べなさい。一度、庭へ戻って身体を休めた方がいい」


やっぱり言っていることは、正しかった。

リリスにも、それは分かっていた。

ここには食べ物が少ない。

食べられる木の実を探すことにも慣れていない。

森の寝床は硬く、夜は冷える。

まだ足は痛むし、疲れも抜けない。

困っていないかと言われれば、困っている。

それでも、それは、やはり戻る理由にはならなかった。


リリスは、砂浜に残された葉の包みを見た。

エデンの庭で育った熟れた果実がいくつも置かれている。

きっと甘い。

潮風に混じって、なつかしい匂いがして、空っぽの胃が、小さく縮む。


アダムは、まだ自分の身を案じている。

そのことが、リリスの胸をまた痛ませたが、手は伸びなかった。


「受け取れないわ」


セノイが眉を寄せる。


「なぜ」


リリスは、果実を見たまま言った。

 

「私は戻らないと決めているもの。受け取れば、アダムに期待させてしまうわ」


「君を案じているだけだ」


「それは、分かっているわ」


「なら」


「だから、受け取れないの」


言葉にすると、喉の奥が少し痛んだ。

アダムを傷つけたいわけじゃない、彼を憎んでいるわけでもない。

むしろ、優しくされるほど苦しくなる。

自分が戻らないと決めたことが、誰かの好意を拒む形になっていくことが苦しかった。


サンセノイの声が、少しこわばる。


「君は、神の祝福も慈悲も拒否している。そのうえ、アダムの好意さえ拒むのか?」


祝福。

慈悲。

好意。


ひとつひとつの言葉が、胸に落ちていく。

どれも幸福で柔らかいはずの言葉が、リリスにはただ痛くて苦しかった。

リリスは、ゆっくり顔を上げた。

 

「……私には、その祝福も、慈悲も、好意も苦しいの」


セノイが何か言いかけ前に、リリスは続けた。


「私のことを、私の知らないところで勝手に決めないで。何度言ったら、それが分かってもらえるの?」


声が少しだけ揺れた。

怒りなのか、疲れなのか、自分でも分からなかった。

サンセノイはリリスを見た。

そして、低く言う。


「……君のそれは、もはや拒絶ではなく反抗だ」


その瞬間リリスの中で、何かが止まった。

その言葉は、今まで言われたどの言葉よりも冷たく聞こえた。


「はん…こう…?」


リリスは小さく繰り返す。


「私が、私のままでいたいと思うことは……反抗、なの?」


サンセノイはすぐには答えなかったが、その沈黙がかえって答えのようにも思えた。

マンゲロフは、相変わらず黙ってリリスを見ている。

その目は、何かを記憶するように、リリスの声、表情、拒否の形、反抗という言葉が向けられた瞬間の彼女の揺れを見ていた。

セノイは、二人の間に落ちた言葉を見て、すぐには続きを話す事ができずにいた。


大きな波が寄せ、果実の包みの端を湿った砂が濡らしていく。

やがてセノイは、静かに言った。


「ひとまず、果実はここに残して帰ります。痛まないうちにお食べなさい」


三天使は羽を広げると、高く空へ上がっていった。


リリスは、見送らなかった。

リリスと、波の音だけがその場に残る。

砂浜の上には、大きな葉に包まれた果実が置かれたまま。


とても手を伸ばす気にはなれなかった。


リリスは俯いたまま、いつの間にか岩に置いた手を握っていた。

やっぱり天使は、こうなのだと思った。

 

彼らは悪意で言っているわけではない。

セノイも、サンセノイも、きっと役目を果たしているだけ。

アダムも、ただ心配しているのだろう。

神の祝福も、慈悲も、好意も、彼らにとっては良いものなのだろう。

けれど、それが苦しいと言っても、言葉は別の形に変えられてしまう。


祝福を退けている、慈悲を拒んでいる、好意を踏みにじっている。

彼らから見れば、それは反抗なのだろう。

でも、その役目は、自分が選んで受け取ったものではなかった。

最初から当たり前のようにそこにあって、神が与え、天使が整え、アダムが隣にいることを疑わず、自分の身体も、未来も、すでに決まったものとして差し出されていた。


嫌だと伝えようとした。

怖いと伝えようとした。

でも、言葉はいつも、別のものへ変えられてしまう。

だから逃げのに、それが反抗と呼ばれる。


リリスは、座っていた岩から離れ、波の方へ歩いた。

足元に海水が寄せて砂が崩れていくのを、冷たくなってきた海風に攫われた髪の隙間から見ていた。

 

ほどけかけた胸の内の冷たい澱が、また硬くなっていくようだった。

 

果実の包みは、そのまま砂浜に残っていた。




 


 

夜、リリスは森の寝床に横になっていた。


昼のうちに敷いた草は、昨日より厚くできた。

けれど、やはり根や小石の硬さまでは消えてくれない。

背中に小さな痛みが残る。

花は月明かりを受けて淡く見えたが、エデンの光る花とは違う。

森は暗く、葉の影がゆっくり揺れている。


 

リリスは、木々の隙間から光輝く星々を見た。

 

あの日見た流星のことを、また少し思い出していた。

空から離れて、暗い場所へ落ちた星。

今、どこにいるのだろう。


 

ふと、今日会った銀色の髪の天使のことを思い出した。


変な天使。

不便な天使。


自分が天使かどうかさえ曖昧にしていた天使。


またね、と言って去っていった、あの天使。

 


――また。


本当に、また来るのかしら? 

あの…

 

その時、名前を聞いていなかったことに、リリスはようやく気がついた。


知らなくても困らないはずだった。

あの天使が何者でも、自分の答えは変わらない。

それなのに、少しだけ気になった。


名前くらい、聞いておけばよかったかしら。


そう思ってから、リリスは自分でも不思議になった。

 

森の葉が風に鳴り、ごうごうと遠くで、海が寄せて返す音が聞こえた。

リリスは怖いと思う前に、小さく身を縮め瞳を閉じた。





 

 


その頃、ルシフェルはエデンの中心へ向かって歩いていた。


……思っていたより、遠い。


外縁から中心へ近づくにつれて、景色は少しずつ整っていった。

草は柔らかくなり、木々の枝ぶりも穏やかになる。

水の音は軽やかで、花は明るい色を増した。

神が作り上げた庭は、中心へ向かうほど美しくなっていく。


美しい。

それは確かだった。


だが、外縁から歩いて入るには、道はまだ荒れていた。

枝が伸び、草が裾に触れ、足元には見えにくい根がある。

天界の廊下を歩くための式服は、ここでは役に立たなかった。


外套から繋がる丈の長いマントが、枝に引っかかり、ルシフェルは足を止める。

布をそっと外し、枝を折らないように抜く。


「なるほど。この服は、ここでは不便だね」


小さく呟いたあと、思い出す。


――普通の天使なら空を飛べるのに、歩いて行くの?

――あなた、変な天使な上に、不便な天使でもあるのね。


ルシフェルは苦笑した。


「本当に、不便な天使だな」


外套のマントを外し、小脇に抱える。

それでも、白を基調とした式服はまだこの景色に馴染まなかった。

紫を差した布も、整った袖も、砂と草の中では場違いだった。

銀の髪も、六枚の羽根も、まだ天界の名残を抱えている。


飛べたら楽だろうな、と一瞬思う。

それから少し考えて、そもそも今の自分はまだ飛べるのだろうか、という問いにぶつかった。


羽はある。

けれど、天界を出る前と同じように空を掴めるのかは分からない。

分からないことばかりだ。


ルシフェルは、外套を抱え直して歩き出した。

 

最初の男と、その隣に添えられた女は、エデンの中心にいたはずだった。

それがなぜ、片方は荒れた道を越え、何もない海にいたのか。

なぜあれほど警戒し、弱りきっていたのか。

彼女は、戻らないと言った。

きっと、あそこに来る天使たちに、何度も言ってきたのだろう。

そして、誰もまだ、その言葉をそのまま受け取っていないように見えた。

だから、確かめたかった。

父上の言葉ではなく、ここにあるものを、そのまま見たかった。


緑の匂いが鼻に抜ける。

黄昏の場所から数えれば、随分と歩いている気がした。


天界であれば、一息つきたいときには、いつも紅茶があった。

小さく添えられた焼き菓子に、温かい茶器と整えられた卓。

読みかけの書面と窓の外の白い光。

そばで咲き誇る、白く美しい花々と芳しい香り。


ルシフェルは息を吐く。


「そろそろ紅茶が飲みたいな」


誰に向けたわけでもない声は、木々の間に消えた。

空を見上げると、遠くに天使が飛ぶ気配がある。

見つからない方がいいだろう。


少なくとも入り江に居たリリスには、天使に見えていた様だが、実のところ、今の自分が何に見えるのかルシフェル自身にもまだよく分からない。

 

木の下を選び、枝の影を歩いていく。


目指すエデンの中心は、まだ遠かった。


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