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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第36話「変な天使」

空が明るくなる前、海はまだ夜を抱えていた。

青というより灰に近い水が、岩の影をゆっくりと洗っていく。

日が昇るにつれて、そこへ薄い青が広がり、やがて波の上で光が細かく砕けた。


リリスは、入り江の岩の上に座っていた。

それは、砂浜から海へ突き出した大きな岩だった。

庭にあった椅子のように滑らかではなく、手をつけばざらつき、長く座れば腰も痛くなる。

それでも、いつの間にかリリスはそこへ座るようになっていた。


裾を少しだけ持ち上げ、足先を海に浸す。

波が寄せて冷たい水が、足首のあたりまで触れる。

何度も触れられるうちに、リリスは逃げなくなった。


波は来る。

触れる。

戻っていく。

それだけだった。


海は、彼女を掴まない。

リリスは足先についた砂を見た。

波が引くたび、細かな砂粒が肌の上を滑っていく。

すぐ落ちるものもあれば、濡れたまま残るものもある。


指先で払おうとして、やめた。

どうせ、また濡れる。


潮風で髪が乱れていく。

菫色の長い髪は、夜の森で眠るたびに葉や小枝を絡め、朝の海でさらに風を含む。

エデンにいた頃なら、ガブリエルがやさしく整えてくれたかもしれない。

けれど今は、自分の手で梳くしかなく、指が髪に引っかかるたび、少し痛かった。

絡んだ細い枝を見つけては、折らないように抜く。

うまく抜けた時、ほんの少しだけ得意になる。

これも、少しずつ覚えてきた。


森の寝床も、最初よりはましになってきていた。

柔らかそうな草を選ぶこと、匂いの強すぎる花は避けること。

横になる前には、手で小石を払うこと。

夜露を吸った草は、思ったよりずっと冷えること。



全部、エデンでは知らなかったことだった。

知りたいと思って知ったわけではない。

知らなければ夜を越せなかっただけだ。


必要に迫られて覚えたことの方が多く、まだ不便は多い。

それでも、リリスは戻る気にはならなかった。





 

三天使は何度も来た。


その度に、戻る道は残されており、神は彼女のための席をまだ残していると言った。

アダムが待っていると言った。

庭は安全だと言った。

そのどれも、嘘でない、知っている。


庭には食べるものがある、安心して眠れるところがある。

水も、光も、花もある。

それに、アダムはきっと本当に悲しんでいる。

けれど、その全部が、リリスを戻す理由にはならなかった。


リリスは海を見た。

今日の海は、透き通っていてどこまでも青い。


まだ朝と昼のあいだだった。


光は高くなりきっていない。

波の向こうに白い筋が走り、遠くで水面が眩しく瞬いている。

風は昨日より少し強く、髪を何度も頬へ運んだ。

 

その光景と風が、気持ちいいとさえ感じ、瞳を閉じかけた。

その時、背後の草が鳴った。


リリスは振り向かずにそのまま目を閉じた。

 

また来たのだと思った。


三天使か、それとも、別の天使か。


どちらでもよかった。

何度来ても答えは変わらない。

自分はもう、その言葉を口にできるのだから。


リリスは、静かに言った。


「戻らないわ」


少し間があった。

ザッという音と共に波が寄せる。

足先を濡らし、すぐに引いていく。


それから、背後の相手が答えた。


「戻れとは言っていないよ」


その予想もしなかった言葉に驚いて

リリスは目を開け、そこではじめて振り向いた。


そこにいたのは、三天使ではなかった。


銀の髪が、朝の光を受けて白く光っている。

紫紺の瞳に、紫を差した白の式服。

背には、六枚の羽根。


どう見ても天使だった。

しかも、ただの天使ではない。

ミカエルやガブリエルと同じ、あるいはそれ以上に高位の者に見えた。

姿は整っていて、立ち方も穏やかで、けれど入り江の砂浜にはあまりにも不釣り合いだった。

海風が、その白い式服の裾を揺らしている。


リリスの身体は、すぐに硬直した。

 

また、お父様が遣わした天使が来たのかしら。

三天使では足りないから、もっと上の天使を寄越したのかしら。


けれど、この天使は言った。


『戻れとは言っていない』と。


リリスは目を細めた。


「……なら、何をしに来たの?」


銀髪の天使は、少し考えた。

本当に、答えを迷っているように見えた。

あらかじめ用意してきた答えを口にする者なら、そこで迷わない。

少なくとも、リリスの知っている天使たちはそうだった。


「……俺にも、まだ分からない」


リリスは眉を寄せる。


「分からない?」


「うん」


その返事は、あまりにも自然なものだった。

命じられて来た者の声ではなかった。

こちらを説得しようと整えられた言葉でもない。

ただ、自分でも分からないものを、そのまま差し出したような声だった。

だから余計に、分からなかった。


「あなた、なに?」


天使は困ったように笑った。


「さあ、なんだろうね。俺にもよく分からなくて」


リリスは、今度こそはっきり眉をひそめた。


「あなたは天使でしょう?」


「そう見えるのなら、まだそうかもね」


「まだ?」


「うん。俺も、それを確かめているところなんだ」


リリスは何も言えなくなった。

目の前にいるのは、どう見ても天使だ。


銀の髪も、白い式服も、六枚の羽根も、神の側にいる者の証しか見えない。

なのにこの天使は、自分が天使かどうかさえわからないのだと、曖昧にしている。


ミカエルは、そんな言い方をしなかった。

ガブリエルも、三天使もこんなふうには話さなかった。


彼らの言葉はいつも、はっきりしている。

正しくて、整っていて、行くべき先を示すような口ぶりだった。

この天使の言葉は、その誰とも違っていた。


リリスは、少しだけ顔をしかめるしかなかった。


「……よく分からないわ」


「そうだね」


「あなたって、変な天使だわ。私の知っている天使たちは、そんな曖昧なことを言わないもの」


天使は、少し目を丸くした。

それから、静かに笑う。


「困ったな。少し前までは、俺もそう言えたんだけど」


リリスは、さらに分からなくなった。


「……本当に何を言っているの?」


「すまない。俺もまだ、言い方を探していて」


「わからないことばかりなのね」


「そうかもしれない」


否定しなかった。

そのことも、リリスには奇妙に感じられた。

リリスは、濡れた足先を少し引いた。

砂が肌に残る。

海の水が岩の下で砕けて、白い泡を作った。


「じゃあ、変な天使のあなたは、私を連れ戻しに来たわけではないのね?」


「連れ戻しには来ていないよ」


リリスは、そう言った天使を見た。

白い羽根が、風に少しだけ揺れていた。

けれど彼は、その羽で距離を詰めることも、彼女を覆う様なこともしなかった。


「そうだな、もし、君が戻りたいと言ったら、道を探すくらいはするかもしれない」


「言わないわ」


「なら、しないよ」


すぐだった。

迷いも、訂正も、説得もなかった。

リリスは言葉を失った。


戻りたいと言ったら、道を探す。

言わないなら、しない。

それだけ。


どうして、と問われなかった。

今は疲れているだけだとも言われなかった。

アダムが待っているとも、神がまだ君を見ているとも言われなかった。


リリスが言ったことが、そのまま受け取られた。


海が、変わらず彼女の足元を濡らしている。

天使が、一歩動く気配がして、リリスの身体が先に反応した。


「近づかないで…!」


声は鋭く出た。

その声を聞いた天使はすぐさま止まった。


「わかった」


また、それだけだった。

言い訳もない。

怖がらなくていいとも言わない。

話を聞いてほしいとも言わない。

 

彼は、その場で本当に止まった。

ただそれだけ。


それだけのことなのに。


リリスは、少し息を止めていたことに気づく。

天使は、自分が座る岩へ近づくことはしなかった。

少し離れた、海辺の別の岩場へ視線を向ける。


「その辺りなら、どうかな?」


「……そこならいいわ」


言ってから、リリスは自分で少し驚いた。

いい、と言ってしまった。

許したつもりはない。

ただ、そこなら近くないと思っただけだ。

自分のそばへ踏み込まれない距離だったから、そう答えた。


天使は頷き、離れた岩へ腰を下ろした。

羽を少しだけ整え、海の方を向くと、リリスと同じ方を見た。


正面から詰め寄ったり、見下ろしたりはしない。

隣に座るほど近くもない。

けれど、去りもしなかった。


本当に、変な天使だった。


 

リリスは、横目で彼を見た。


「あなた……私のことを知らないの?」


天使は海を見たまま、少しだけ首を傾げる。


「名前のことなら、多分わかるよ。リリスだろう?」


リリスの胸に、小さな落胆が落ちた。


「……やっぱり知っているのね」


結局、同じなのかもしれない。

自分の名を知っている。

ここに来る者は、みな自分を知っている。

始まりの女。

アダムの隣に添えられた者。

戻るべき席から離れた者。


リリスが海へ視線を戻そうとしたとき、天使が続ける。


「でも、君がなぜここにいるのかは知らない」


リリスの動きがとまった。


風が髪を大きく揺らし、足元に、泡を乗せた波が寄せた。


「……そう」


それだけが零れ落ちた。


この天使は、自分の名を知っている。

けれど、自分がなぜここにいるのかは知らない。

連れ戻しに来たわけでもない。

戻れとも言わない。

近づかないでと言えば、そうした。


リリスは、砂粒のついた足元に視線を落とす。

濡れた肌の上で、細かな砂が光っている。

波がまた寄せて、少しだけそれを洗っていった。


 

「……変な天使だわ」


「そうかもしれないね」


「否定しないの?」


「今のところ、否定できる材料が少ないからね」


リリスはまた何も言えなくなる。


波が、変わらず彼女の足元を濡らしていた。

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