表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/68

第35話「何度来ても」

リリスは、入り江の近くで夜を越す場所を見つけた。


海辺では眠れなかった。


昼の海は眩しい。

波が光を砕き、青の上に白い筋を散らしていく。

見ているだけなら、どこまでも遠くへ行ける気がした。

時間さえ、波に紛れて薄くなる。


けれど夜になると、海は別のものになった。

黒く広がり、月を割り、岩の下で何かが息をしているような音を立てる。寄せては引くたびに、見えないものが近づいては去っていくようで、目を閉じてもその音だけが残った。


怖くないわけではない。

知らない場所にいること。

誰も来ないかもしれないこと。

また誰かが来るかもしれないこと。

どちらも、同じくらい怖かった。


だからリリスは、海から少し離れた森の中で夜を過ごすようになった。

そこに寝床があったわけではない。

エデンのように、柔らかな草が初めから整えられている場所など、どこにもなかった。

庭にあった光る草花もない。

夜になれば、森はただ暗い。

月と星の明かりが枝の間から細くこぼれ、風が吹くたびに葉の影が身体の上を動く。


最初の夜、リリスは木の根に身を寄せて、ただ朝を待った。

座っているのか、眠っているのかも分からない。

硬い根が背中に当たり、湿った土の匂いが髪に移る。

まぶたを閉じても、知らない虫の声が近づいてくる。

遠くでは海が鳴っている。

朝が来た時、身体は休まっていなかった。


けれど、二度目の夜を同じように過ごすのは嫌だった。

昼のうちに、リリスは花や草を集めた。

柔らかそうな葉を選び、匂いの強すぎる花は避けた。

土の上に少しずつ重ねていくと、白い小花と細い草の葉が月明かりを受けて、小さな花の床のように見えた。


見た目だけなら、きれいだった。

けれど、横になると、すぐに分かった。

下には根や小石があった。

夜露を吸った草は、しばらくすると肌に冷たい。

花びらは柔らかく見えても、身体を支えてはくれなかった。


それでも、最初の夜よりはましだった。

リリスは、草の端を指で整えた。


誰かが用意した場所ではない。

ここで休みなさいと差し出されたものでもない。

何もかも足りない。

けれど、自分の手で少しでも眠りやすくしようとした跡が、そこにはあった。


朝になると、入り江へ戻った。

砂の上に、大きな岩がひとつある。


庭の椅子のように滑らかではない。腰を下ろせば硬く、手をつけばざらりとした砂が指に残る。

けれど、その岩は海のすぐそばにあり、波が寄せるたびに足元を冷たく濡らした。


最初は、波が来るたびに足を引いた。


水が勝手に近づいてくることに慣れていなかった。

エデンの水は、流れていてもおとなしい。

こちらへ手を伸ばすように寄ってくることはなかった。

けれど、何度も繰り返すうちに、リリスは少しずつ足を引かなくなった。


波が来る。

足先が濡れる。

冷たい。

砂が少し流れる。

波が引く。


それだけだった。

海は彼女を掴まない。

連れていこうともしない。

ただ来て、触れて、戻っていく。


リリスは岩の上に座り、裾を少し持ち上げて、足を海に浸した。


潮風で髪が乱れる。

菫色の長い髪はすぐに絡まり、頬に張りついた。

喉はよく渇く。

食べられる実を探すのも、思ったより難しい。

庭にいた頃のように、少し手を伸ばせば熟れた果実があるわけではなかった。


不便だった。

身体は痛む。夜は心細い。

それでも、ここでは誰も、彼女に戻れと言わなかった。

そのことだけで、リリスはもう一日を越せた。



 

 

三天使は、再び来た。


最初に羽音を聞いた時、リリスは驚かなかった。

岩の上に座ったまま、波を見ていた。

足先は海に浸したまま。

風で乱れた髪も、そのままだった。


「……また来たのね」


振り向かずに言うと、背後で足音が止まった。


「言っただろう。また来ると」


セノイの声は穏やかだった。

サンセノイも、マンゲロフもいる。


三人は前と同じように、少し距離を保って立っていた。

初めて来た時のように、リリスを囲む位置にはいない。

逃げ場を塞がないようにしているのだろう。


それは分かった。

だからといって、彼らが示す道の先が変わるわけではなかった。


「リリス。神は、まだ君を見捨ててはおられない」


そこで、リリスはようやく振り返った。


「そう。でもね、私は見捨てられたから出てきたわけではないわ」


セノイは黙った。

リリスの声は、自分でも少しかすれて聞こえた。

昨日より疲れている。

喉も乾いている。

けれど、答えは昨日と変わっていなかった。


サンセノイが一歩前へ出る。


「ここでは長く暮らすことはできない」


彼の視線が、入り江を渡っていく。

岩場、森、川の流れ。

そこにあるものを順に確かめる目だった。


「食べ物も少なく、夜は冷える。現に君は昨日より疲れているように見える」


「そうね」


リリスは素直に頷いた。


「疲れているわ」


言葉にすると、身体の方が先にそれを認めた。

足はまだ痛い。

喉も乾きやすい。

夜は何度も目が覚める。

潮風で絡んだ髪は重く、肌には昨日よりも濃い疲れが残っていた。

否定する理由はなかった。


「なら、庭へ戻ればいい。水もある。食べ物もある。安全もある」


リリスは海から足を上げた。


濡れた足先から、砂の上へ水が落ちる。


「安全なのは知っているわ」


エデンは安全だった。

危険なものは遠ざけられ、食べ物はあり、水は澄み、誰かがいつも見ている。

眠る場所も、歩く場所も、花が咲く場所も、すべて美しく整えられている。


「でも、あそこに戻ると、私の声が私のものではなくなるの」


サンセノイの眉が、少しだけ動いた。


「君の声を、誰も奪ってはいない」


「そうね。誰も、奪おうとはしていないのだと思う」


リリスは、また海を見る。

波が寄せて、足元の砂を濡らす。

少し前まで怖かったその水音の方が、今は天使の言葉よりも近かった。


「でも、私が嫌だと言うと、まだ知らないだけだと言われる。怖いと言うと、慣れていないだけだと言われる。私が選んだものは、もっと良い場所へ移されて、私のためだと言われる」


波が寄せる。

足元の砂が、少し崩れた。


「それでも、私の声はあると言えるの?」


三天使は、すぐには答えなかった。

マンゲロフだけが、リリスを見ていた。

慰めも退けもしない。

ただ聞いている。

どこで何が切り替わるのかを、静かに見ているようだった。

セノイが言う。


「道は閉じていない」


「私は、その道を行かないわ」


「今はそう思っていても、時間が経てば……」


「どれだけ時間が経っても、同じよ」


リリスは言った。

声を荒げたわけではない。

それでも、その一言は波の音に紛れなかった。

セノイはまた言葉を探すように黙り、やがて昨日と同じように引くことを選んだ。


「……今日はここまでにしよう」


リリスは答えなかった。

 

三人の羽が広がり、白が海の光を受ける。

彼らが飛び立つと、入り江にはまた波の音だけが残った。


 

リリスは、しばらくその音を聞いていた。


 

 


その夜、森の寝床は前より少し上手くできた。


昼のうちに硬い石や小枝をどかし、草は少し厚めに重ねた。

昨日より、背中に当たる根は少ない。


けれど、やはり身体は痛かった。

 

夜風が枝を鳴らす。

月は雲に隠れ、森は昨日より暗い。

遠くで波の音がする、近くで知らない虫が鳴いている。時々、何かが葉の上を走る音がして、リリスは目を開けた。


心細い。


その言葉を、彼女は心の中で認めた。


心細くないわけでも、寂しくないわけでもない。

ましてや、怖くないわけでもない。


それでもエデンへ戻ることを考えると、胸の奥がぎゅっと詰まる。

安全な庭へ戻る想像の方が、暗い森より息苦しい。


リリスは、膝を少し抱えた。

あの天使たちは、戻る道を示しに明日も来るのだろう。


……来ても同じよ。


声には出さず、そう思った。



 




 


三度目に来た時、三天使は前回よりも長く話した。


日が高くなり、海が白く光る頃だった。

リリスはいつもの岩に座り、足を海に浸していた。

波の冷たさにも、少しずつ慣れてきたところだった。


いくつかの羽音がした。


「また来たのね」


セノイが頷く。


「ああ」


サンセノイの表情は、昨日より硬かった。


「庭の様子を見てきた。アダムは、まだ君を待っている」


その名を聞くと、リリスの胸は小さく痛んだ。


アダムは泣いているかもしれない。

探しているかもしれない。

自分が戻れば喜ぶかもしれないし、あの明るい顔で、もう一度「リリス」と呼ぶかもしれない。


庭を出る前の夕暮れに見せた笑顔が、胸の奥をかすめる。


――ありがとう、アダム。


別れのつもりで言った言葉が、彼にはきっと別のものに聞こえていたのだろう。

それでも、リリスは首を横に振った。


「待たれても、私は戻らないわ」


サンセノイが言う。


「彼は君を必要としている」


リリスは、濡れた足先を砂に下ろした。

砂が冷たく、足の裏が少し痛む。


「アダムが寂しいと思ってくれているのは分かるわ」


海を背にして、リリスは立った。


「アダムが悪い人ではないことも知っている。彼が待っているというのも、きっと本当なのでしょうね」


潮の匂いが、喉の奥へ入り込む。


「でも、その寂しさを埋めるために、私は戻らない」


サンセノイは言葉を止めた。

セノイも黙っている。

 

マンゲロフは、やはりリリスを見ていた。


リリスの足元は濡れ、髪は潮風に乱れ、顔には疲れが出ている。

眠りも足りていない。

庭へ戻れば、この疲れはすぐに癒やされるだろう。

水も、食べ物も、やわらかに整えられた寝床もある。


それでも、この女は戻らない。

その視線は、そんなふうにリリスを見ているようだった。


「何度来ても同じ。答えは変わらない」


その時、初めてマンゲロフが少しだけ目を伏せた。

それは同情ではなく、判断に近かった。


やがて三天使は、また空へ戻った。


入り江から離れ、海風の上を飛びながら、三人の間に沈黙が落ちる。

下では、海が光を返していた。

岩の上に座るリリスの姿は、もう小さい。

けれど、彼女の言葉はまだ耳に残っている。


――何度来ても同じよ。答えは変わらない。


マンゲロフが低く言った。


「説得は届いている」


サンセノイが顔を向ける。


「ならば」


「だが、戻る道としては受け取っていない」


セノイは黙った。


海の光が、三人の白い式服の端を照らしている。


「神は、道を示せと仰せだ」


セノイは前を向いたまま言った。


「少しずつでいい。示し続けよう」


マンゲロフは、それ以上何も言わなかった。





 


その頃、ルシフェルは黒の外側を歩いていた。


天界から初めて外へ踏み出した時に見た黒と、似ているようで少し違う。

あの時は、何も分からなかった。

足の向く先すら曖昧で、ただ、白の内側へは戻れないということだけを知っていた。


今も、道があるわけではない。


未記入の黒は、彼のために線を引いてくれない。

上も下も、距離も、時間も、天界で知っていたものとは違っている。羽を広げれば飛べるのかもしれない。

けれど、ここでは羽が何を掴むのか分からなかった。

それでも、今度はただ彷徨っているのではなかった。

彼には、辿るべき端がある。

 

天界にいた頃に読んだ、エデンの形。


神の言葉が地上に触れ、庭として囲われた場所。

安全と食料と幸福を備え、始まりのために整えられた箱庭。

その境界。

白い本文が世界に降り、ここから内側だと示した縁。


正面から戻るのではない。

天界の道を使うのでもない。

その庭が世界と接する端へ、外側から近づく。


ルシフェルは、記憶を手繰るように進んだ。


白い紙の控え。

伏せた文字。

神が世界へ記した言葉。


そこに描かれていた始まりは、美しかった。

最初の男と、その隣に添えられた女。

命を繋ぐものとして整えられた庭。

果実と水と光。

何も不足しない場所。


美しかった。

本当に、美しいものとして記されていた。


だからこそ、読み終えたあとに残った小さな引っかかりが消えなかった。


何が足りなかったのか。

何が一文にまとめられたのか。

何が、滑らかな言葉の下で声にならないまま沈んだのか。


彼はそれを、まだ知らない。


 

黒の中に、薄い光が差した。


ルシフェルは足を止める。


天界の白ではない。

名のない黄昏の赤でもない。


もっと湿っていて、もっと生き物に近い光だった。

草の匂いに混じって土の匂いがした。

遠くで水が流れている。


風が、頬に触れた。

その風は、天界の風のように清らかではない。

黄昏の古い沈黙とも違う。


青く、湿っていて、知らないものを含んでいる。


ルシフェルは、初めて地上の匂いを吸い込んだ。


紫を差した白い式服が、その風に揺れる。

六枚の羽根も、銀の髪も、紫紺の瞳も、まだ天界の形を残している。


けれど、そこへ触れた風だけは、天界のものではなかった。

ルシフェルは、ゆっくりと前を見る。


草の向こうで、川が流れている。

その水音は、庭の内側へ向かってはいなかった。


 

川は、入り江へと。

海へ向かっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ