第35話「何度来ても」
リリスは、入り江の近くで夜を越す場所を見つけた。
海辺では眠れなかった。
昼の海は眩しい。
波が光を砕き、青の上に白い筋を散らしていく。
見ているだけなら、どこまでも遠くへ行ける気がした。
時間さえ、波に紛れて薄くなる。
けれど夜になると、海は別のものになった。
黒く広がり、月を割り、岩の下で何かが息をしているような音を立てる。寄せては引くたびに、見えないものが近づいては去っていくようで、目を閉じてもその音だけが残った。
怖くないわけではない。
知らない場所にいること。
誰も来ないかもしれないこと。
また誰かが来るかもしれないこと。
どちらも、同じくらい怖かった。
だからリリスは、海から少し離れた森の中で夜を過ごすようになった。
そこに寝床があったわけではない。
エデンのように、柔らかな草が初めから整えられている場所など、どこにもなかった。
庭にあった光る草花もない。
夜になれば、森はただ暗い。
月と星の明かりが枝の間から細くこぼれ、風が吹くたびに葉の影が身体の上を動く。
最初の夜、リリスは木の根に身を寄せて、ただ朝を待った。
座っているのか、眠っているのかも分からない。
硬い根が背中に当たり、湿った土の匂いが髪に移る。
まぶたを閉じても、知らない虫の声が近づいてくる。
遠くでは海が鳴っている。
朝が来た時、身体は休まっていなかった。
けれど、二度目の夜を同じように過ごすのは嫌だった。
昼のうちに、リリスは花や草を集めた。
柔らかそうな葉を選び、匂いの強すぎる花は避けた。
土の上に少しずつ重ねていくと、白い小花と細い草の葉が月明かりを受けて、小さな花の床のように見えた。
見た目だけなら、きれいだった。
けれど、横になると、すぐに分かった。
下には根や小石があった。
夜露を吸った草は、しばらくすると肌に冷たい。
花びらは柔らかく見えても、身体を支えてはくれなかった。
それでも、最初の夜よりはましだった。
リリスは、草の端を指で整えた。
誰かが用意した場所ではない。
ここで休みなさいと差し出されたものでもない。
何もかも足りない。
けれど、自分の手で少しでも眠りやすくしようとした跡が、そこにはあった。
朝になると、入り江へ戻った。
砂の上に、大きな岩がひとつある。
庭の椅子のように滑らかではない。腰を下ろせば硬く、手をつけばざらりとした砂が指に残る。
けれど、その岩は海のすぐそばにあり、波が寄せるたびに足元を冷たく濡らした。
最初は、波が来るたびに足を引いた。
水が勝手に近づいてくることに慣れていなかった。
エデンの水は、流れていてもおとなしい。
こちらへ手を伸ばすように寄ってくることはなかった。
けれど、何度も繰り返すうちに、リリスは少しずつ足を引かなくなった。
波が来る。
足先が濡れる。
冷たい。
砂が少し流れる。
波が引く。
それだけだった。
海は彼女を掴まない。
連れていこうともしない。
ただ来て、触れて、戻っていく。
リリスは岩の上に座り、裾を少し持ち上げて、足を海に浸した。
潮風で髪が乱れる。
菫色の長い髪はすぐに絡まり、頬に張りついた。
喉はよく渇く。
食べられる実を探すのも、思ったより難しい。
庭にいた頃のように、少し手を伸ばせば熟れた果実があるわけではなかった。
不便だった。
身体は痛む。夜は心細い。
それでも、ここでは誰も、彼女に戻れと言わなかった。
そのことだけで、リリスはもう一日を越せた。
◇
三天使は、再び来た。
最初に羽音を聞いた時、リリスは驚かなかった。
岩の上に座ったまま、波を見ていた。
足先は海に浸したまま。
風で乱れた髪も、そのままだった。
「……また来たのね」
振り向かずに言うと、背後で足音が止まった。
「言っただろう。また来ると」
セノイの声は穏やかだった。
サンセノイも、マンゲロフもいる。
三人は前と同じように、少し距離を保って立っていた。
初めて来た時のように、リリスを囲む位置にはいない。
逃げ場を塞がないようにしているのだろう。
それは分かった。
だからといって、彼らが示す道の先が変わるわけではなかった。
「リリス。神は、まだ君を見捨ててはおられない」
そこで、リリスはようやく振り返った。
「そう。でもね、私は見捨てられたから出てきたわけではないわ」
セノイは黙った。
リリスの声は、自分でも少しかすれて聞こえた。
昨日より疲れている。
喉も乾いている。
けれど、答えは昨日と変わっていなかった。
サンセノイが一歩前へ出る。
「ここでは長く暮らすことはできない」
彼の視線が、入り江を渡っていく。
岩場、森、川の流れ。
そこにあるものを順に確かめる目だった。
「食べ物も少なく、夜は冷える。現に君は昨日より疲れているように見える」
「そうね」
リリスは素直に頷いた。
「疲れているわ」
言葉にすると、身体の方が先にそれを認めた。
足はまだ痛い。
喉も乾きやすい。
夜は何度も目が覚める。
潮風で絡んだ髪は重く、肌には昨日よりも濃い疲れが残っていた。
否定する理由はなかった。
「なら、庭へ戻ればいい。水もある。食べ物もある。安全もある」
リリスは海から足を上げた。
濡れた足先から、砂の上へ水が落ちる。
「安全なのは知っているわ」
エデンは安全だった。
危険なものは遠ざけられ、食べ物はあり、水は澄み、誰かがいつも見ている。
眠る場所も、歩く場所も、花が咲く場所も、すべて美しく整えられている。
「でも、あそこに戻ると、私の声が私のものではなくなるの」
サンセノイの眉が、少しだけ動いた。
「君の声を、誰も奪ってはいない」
「そうね。誰も、奪おうとはしていないのだと思う」
リリスは、また海を見る。
波が寄せて、足元の砂を濡らす。
少し前まで怖かったその水音の方が、今は天使の言葉よりも近かった。
「でも、私が嫌だと言うと、まだ知らないだけだと言われる。怖いと言うと、慣れていないだけだと言われる。私が選んだものは、もっと良い場所へ移されて、私のためだと言われる」
波が寄せる。
足元の砂が、少し崩れた。
「それでも、私の声はあると言えるの?」
三天使は、すぐには答えなかった。
マンゲロフだけが、リリスを見ていた。
慰めも退けもしない。
ただ聞いている。
どこで何が切り替わるのかを、静かに見ているようだった。
セノイが言う。
「道は閉じていない」
「私は、その道を行かないわ」
「今はそう思っていても、時間が経てば……」
「どれだけ時間が経っても、同じよ」
リリスは言った。
声を荒げたわけではない。
それでも、その一言は波の音に紛れなかった。
セノイはまた言葉を探すように黙り、やがて昨日と同じように引くことを選んだ。
「……今日はここまでにしよう」
リリスは答えなかった。
三人の羽が広がり、白が海の光を受ける。
彼らが飛び立つと、入り江にはまた波の音だけが残った。
リリスは、しばらくその音を聞いていた。
その夜、森の寝床は前より少し上手くできた。
昼のうちに硬い石や小枝をどかし、草は少し厚めに重ねた。
昨日より、背中に当たる根は少ない。
けれど、やはり身体は痛かった。
夜風が枝を鳴らす。
月は雲に隠れ、森は昨日より暗い。
遠くで波の音がする、近くで知らない虫が鳴いている。時々、何かが葉の上を走る音がして、リリスは目を開けた。
心細い。
その言葉を、彼女は心の中で認めた。
心細くないわけでも、寂しくないわけでもない。
ましてや、怖くないわけでもない。
それでもエデンへ戻ることを考えると、胸の奥がぎゅっと詰まる。
安全な庭へ戻る想像の方が、暗い森より息苦しい。
リリスは、膝を少し抱えた。
あの天使たちは、戻る道を示しに明日も来るのだろう。
……来ても同じよ。
声には出さず、そう思った。
◇
三度目に来た時、三天使は前回よりも長く話した。
日が高くなり、海が白く光る頃だった。
リリスはいつもの岩に座り、足を海に浸していた。
波の冷たさにも、少しずつ慣れてきたところだった。
いくつかの羽音がした。
「また来たのね」
セノイが頷く。
「ああ」
サンセノイの表情は、昨日より硬かった。
「庭の様子を見てきた。アダムは、まだ君を待っている」
その名を聞くと、リリスの胸は小さく痛んだ。
アダムは泣いているかもしれない。
探しているかもしれない。
自分が戻れば喜ぶかもしれないし、あの明るい顔で、もう一度「リリス」と呼ぶかもしれない。
庭を出る前の夕暮れに見せた笑顔が、胸の奥をかすめる。
――ありがとう、アダム。
別れのつもりで言った言葉が、彼にはきっと別のものに聞こえていたのだろう。
それでも、リリスは首を横に振った。
「待たれても、私は戻らないわ」
サンセノイが言う。
「彼は君を必要としている」
リリスは、濡れた足先を砂に下ろした。
砂が冷たく、足の裏が少し痛む。
「アダムが寂しいと思ってくれているのは分かるわ」
海を背にして、リリスは立った。
「アダムが悪い人ではないことも知っている。彼が待っているというのも、きっと本当なのでしょうね」
潮の匂いが、喉の奥へ入り込む。
「でも、その寂しさを埋めるために、私は戻らない」
サンセノイは言葉を止めた。
セノイも黙っている。
マンゲロフは、やはりリリスを見ていた。
リリスの足元は濡れ、髪は潮風に乱れ、顔には疲れが出ている。
眠りも足りていない。
庭へ戻れば、この疲れはすぐに癒やされるだろう。
水も、食べ物も、やわらかに整えられた寝床もある。
それでも、この女は戻らない。
その視線は、そんなふうにリリスを見ているようだった。
「何度来ても同じ。答えは変わらない」
その時、初めてマンゲロフが少しだけ目を伏せた。
それは同情ではなく、判断に近かった。
やがて三天使は、また空へ戻った。
入り江から離れ、海風の上を飛びながら、三人の間に沈黙が落ちる。
下では、海が光を返していた。
岩の上に座るリリスの姿は、もう小さい。
けれど、彼女の言葉はまだ耳に残っている。
――何度来ても同じよ。答えは変わらない。
マンゲロフが低く言った。
「説得は届いている」
サンセノイが顔を向ける。
「ならば」
「だが、戻る道としては受け取っていない」
セノイは黙った。
海の光が、三人の白い式服の端を照らしている。
「神は、道を示せと仰せだ」
セノイは前を向いたまま言った。
「少しずつでいい。示し続けよう」
マンゲロフは、それ以上何も言わなかった。
◇
その頃、ルシフェルは黒の外側を歩いていた。
天界から初めて外へ踏み出した時に見た黒と、似ているようで少し違う。
あの時は、何も分からなかった。
足の向く先すら曖昧で、ただ、白の内側へは戻れないということだけを知っていた。
今も、道があるわけではない。
未記入の黒は、彼のために線を引いてくれない。
上も下も、距離も、時間も、天界で知っていたものとは違っている。羽を広げれば飛べるのかもしれない。
けれど、ここでは羽が何を掴むのか分からなかった。
それでも、今度はただ彷徨っているのではなかった。
彼には、辿るべき端がある。
天界にいた頃に読んだ、エデンの形。
神の言葉が地上に触れ、庭として囲われた場所。
安全と食料と幸福を備え、始まりのために整えられた箱庭。
その境界。
白い本文が世界に降り、ここから内側だと示した縁。
正面から戻るのではない。
天界の道を使うのでもない。
その庭が世界と接する端へ、外側から近づく。
ルシフェルは、記憶を手繰るように進んだ。
白い紙の控え。
伏せた文字。
神が世界へ記した言葉。
そこに描かれていた始まりは、美しかった。
最初の男と、その隣に添えられた女。
命を繋ぐものとして整えられた庭。
果実と水と光。
何も不足しない場所。
美しかった。
本当に、美しいものとして記されていた。
だからこそ、読み終えたあとに残った小さな引っかかりが消えなかった。
何が足りなかったのか。
何が一文にまとめられたのか。
何が、滑らかな言葉の下で声にならないまま沈んだのか。
彼はそれを、まだ知らない。
黒の中に、薄い光が差した。
ルシフェルは足を止める。
天界の白ではない。
名のない黄昏の赤でもない。
もっと湿っていて、もっと生き物に近い光だった。
草の匂いに混じって土の匂いがした。
遠くで水が流れている。
風が、頬に触れた。
その風は、天界の風のように清らかではない。
黄昏の古い沈黙とも違う。
青く、湿っていて、知らないものを含んでいる。
ルシフェルは、初めて地上の匂いを吸い込んだ。
紫を差した白い式服が、その風に揺れる。
六枚の羽根も、銀の髪も、紫紺の瞳も、まだ天界の形を残している。
けれど、そこへ触れた風だけは、天界のものではなかった。
ルシフェルは、ゆっくりと前を見る。
草の向こうで、川が流れている。
その水音は、庭の内側へ向かってはいなかった。
川は、入り江へと。
海へ向かっていた。




